【10】二〇二一年 一月

 どこかから鳴き声が聞こえる。篠田は神社に続く坂道を見上げた。実際には、一匹も見なかった。斎藤から届いた返信は、その内容は篠田を神社に向かわせるのに十分なものだった。

『社の中を見に来てください、大変なことになってます』

 斎藤は何もかも、焦った頭で解釈する。そうやって生きてきたのだから、少し前のめりな姿勢は全ての行動に受け継がれている。しかし、その文面から篠田はトレードマークの『焦り』を感じなかった。焦っている余裕がないというのは矛盾した言葉だが、それが斎藤の返信から唯一感じ取れたことだった。

「斎藤ちゃん、トラブル引き寄せまくりだな……」

 所々凍っている水たまりを器用に避けながら早足で歩き、篠田は一度振り返った。玲香は宿にひとり。その状態は短い方がいいと、直感が伝えていた。今までずっと、玲香が接する現実世界との緩衝材になってきたつもりだった。今回のこともそうだが、ひとりで受け止めさせたくはない。仕事柄、綺麗な世界を見せることはできない。しかし、汚い部分を覆い隠したり、少しだけ表現を和らげて伝えるぐらいなら、自分にもできる。篠田は深呼吸をして、坂を上がりきった。しんと冷えた空気の中、本殿が聳えている。

「斎藤ちゃーん、います?」

 大きな声で呼びかけると、木の間に隠れていた鳥が数羽飛び立った。その羽音が聞こえなくなったとき、ずっと聞こえていた鳴き声が近くなって、篠田は笑った。

「あー神社の猫ね、はいはい」

 ひとり言を言いながら本殿の角を回り込んだとき、待ち構えていたように目の前に立つ万世の口が大きく開き、か細い猫のような声が漏れた。篠田は後ろに飛びのいて尻餅をついた。

「万世さん! ビビったよマジで」

 立ち上がって体から砂利を払ったとき、ふらりと隣に立った斎藤が言った。

「篠田さん」

 呼ばれるままに篠田が顔を向けると、少し体を引いた斎藤は言った。

「あの、すみませんけど、これ」

 そう言った斎藤はシャベルを振りかぶり、全身の力を込めて横向きに薙いだ。先端が篠田の側頭部に突き刺さり、真横に倒れた篠田に引きずられて、斎藤は前のめりに倒れた。まだ空気が揺れ動く中、万世と彩乃がその傍について、体をゆっくり引き起こした。万世は、シャベルが頭に突き刺さったまま死んだ篠田の顔を見下ろしながら、呟いた。

「火つけ」

 その横顔を見て、彩乃は二十五年前の騒ぎを思い出していた。長池親子が死んで、次の二十五年が経つころにはどうなるのだろうと、子供から大人になるまでの間ずっと恐れていた。長池家は外との接点で、罪人を引き込む役目を果たしていた。親切で、困った人間は放っておけない性格だった。誰に対しても優しくしていれば、いずれ事情を抱えた人間に行き当たる。

 それが、誰も呼び込むことなく、向こうからやって来たのだ。万世の紅潮した頬を見ながら、彩乃は本殿を見上げた。前は千尋が立派に役割をこなした。二人とも子供だったから、その様子は見せてもらえなかった。しかし、萩山兄弟の弟を仕立てるのに十時間かかったという『笑い話』は、父からよく聞いた。公民館で過ごした夜のことは、おぼろげに記憶に残っている。萩山の弟は大柄で、万世が懐いていた。

「斎藤さん、本殿の隣に休憩所があるんで。そこで夜まで待っていてもらえますか。お昼はうちから何か持っていきます」

 斎藤は彩乃に促されるままに、木造の小屋に上がった。中は畳敷きで広く、誰かがを招くことが最初から決まっていたように、ストーブの電熱線が赤く光っていた。斎藤が座布団に腰を落ち着けて、案内を終えた彩乃が外に出たとき、万世は静かに錠前を通して鍵をかけた。かつて、お面をつけるのも忘れてはしゃいでいた少女だったときの、底抜けの明るさ。それを取り戻したように、呟いた。

「ちょろいな」

 二人は、本殿の裏まで篠田の死体を引きずると、かつて長池家の親子に対してやったように、その体を雪で覆っていった。

    

 お昼までには起きよう。頭の中で最後に考えたことは、確かそんなことだった。その現実的な考えと相反するように、深い眠りの中ずっと浮かんでいたのは、萩山家の娘だった自分が父親も揃った状態で育ち、全く違う人生を歩んでいる姿だった。夢でありながら、どこかに一致する点もあって、森の中にある会社に勤めていながら、同僚に篠田がいたり、真っ白な雪の中、ガソリンスタンドの店員として働く斎藤と出くわしたり、様々な景色が流れていったが、その度にどこかで『これは夢だ』と意識していた。知らない場所で、知らない人生を歩んでいる自分がいる。玲香は目を開けようとしたが、瞼の上に直に腰を下ろしているような頭痛に阻まれ、目を閉じたまま意識をはっきりをさせようと息を吸い込んだ。木の香りがして、それは夢の中で感じた匂いと一致していた。現実に引き戻された玲香は、頭痛をはねのけるように目を開けた。朝、千尋とコーヒーを飲んだのが最後だったはずだ。しかし、視界は真っ暗だった。目が慣れてくるにつれて、宙に浮いたジャングルジムのように見える縦横の線が、屋根を支える骨組みだということに気づいた。玲香は、瞬きを繰り返しながら、体の感覚だけでスマートフォンを探った。いつも体の傍にあったはずの重みはどこにも感じられず、連絡を取り合った最後の記憶だけが蘇った。

「篠ちゃん」

 言葉が飛び出し、右手と左手の感覚が完全に戻った。玲香は体をゆっくり起こした。真っ暗で、その広さと天井の高さから、民宿ではないことが分かった。窓から光が一切差し込んでこないから、夜まで眠っていたのだ。あのコーヒーに、何かが入っていたのかもしれない。まるで睡眠薬を飲んで眠った後のように、体が重かった。暗闇の中、言うことを聞かない体を賢明に捩ったとき、足を引かれたように感じて、玲香は肩をすくめた。恐る恐る足に触れると、右足首にロープが撒かれていて、土のようなざらついた感触が返ってきた。動けない。玲香は心臓の鼓動が緊急事態を察知して跳ね上がるまで、中途半端に体を起こしたままの姿勢で辺りを見回していた。

「すみません」

 玲香は、常識が先行して飛び出した自分の言葉の間抜けさに呆れた。片足を縛られていて、どこかも分からない場所にいる。これは異常事態だ。自分に言い聞かせて初めて、栓が外れたように声が出た。

「篠ちゃん! 斎藤さん!」

「あっ、はい」

 暗闇の奥で、斎藤の声がした。玲香は縋るようにその方向へ顔を向けて、言った。

「斎藤さん、大丈夫ですか? わたし、足をロープでくくられてて」

「すみません、まだじっとしててくれって、言われてます」

 斎藤の言い訳じみた口調は、どこか期待に満ちていた。玲香は体温が一気に冷めていくのを感じ、暗闇の奥から目を逸らせた。目が慣れてきた先に、さっきまで見えていなかったものが浮かび、気づいた。神社だ。わたしは、本殿の中にいる。

「あの、誰かいます?」

 玲香が震える声で言ったとき、すぐ隣で蝋燭の火が灯った。耳に息がかかるぐらいに近くで、千尋が言った。

「よく、お越しくださいました」

 順番に蝋燭に火がつけられていき、斎藤の声がした暗闇にも、橙色の揺れる光が投げられた。玲香が目を凝らせると、斎藤の姿は見えたが、その両手両足にはロープが巻かれていた。

「斎藤さん!」

 玲香が叫ぶと、斎藤は首を横に振った。

「まだ、じっとしてないといけないって。先代が待ってるから」

 千尋の手によって最後の蝋燭が明るく燃え始めたとき、彩乃が言った。

「では」

 彩乃の視線を追うように、玲香は首を振り向けた。大きな塊のようなものに紫色の覆いがかけられていて、その隣に立った万世が言った。

「はちがしら様、おかえりなさい」

 紫色の布がするすると床に落ちたとき、その真っ黒な影を見た斎藤が呟いた。

「ヤス……?」

 黒い肉の塊はあちこちがいびつに腫れあがり、その表皮はほとんど蝋のようになっていた。万世が言った。

「では、代替わりまでの間、あと少しの辛抱をよろしくお願いします」

 そろりと足音を消しながら、二人の人影が現れた。先頭に立つ神谷は、両手両足を失った康夫の前で、深々と頭を下げた。

「長きにわたり、お守りいただいた御恩を、忘れません」

 それを遮るように、斎藤が叫んだ。

「ヤス! あの、これってなんなんですか、なんであんなことに」

 千尋が諭すように目を向けて、言った。

「神になったんですよ。あなたもこれからなるんです。次の代となって、お守りいただきます」

 玲香は、集落の中で完全に閉じた理屈についていけず、その場に腰を下ろしたまま、いびつにあちこちが出っ張った塊を見つめた。叔父さんの話は、何度か過去形で聞いたことがあった。それが、ここの神様? 玲香が頭に浮かんだ疑問を呑み込めずにいると、黒い塊がぎしりと軋み、動いた。玲香は悲鳴を上げた。生きている。同じことに気づいた斎藤が、呼びかけた。

「ヤス、おい!」

 そのやり取りを眺めながら、千尋は二十五年前の『本祭』のことを思い出していた。萩山兄弟は、はちがしら様のことを生贄と呼んだ。実際には、神に捧げるわけではない。はちがしら様自体が、神様なのだから、死んでしまっては意味がないのだ。二十五年間、康夫はこの場所で生き続けた。万世がワイヤー型のノコギリを引きずって来ると、斎藤の周りに重ねて置いた。彩乃は結界を張るように本殿の周りに油を撒き、中へ一歩引いた。

 神谷が下げていた頭をようやく上げると、振り返った。玲香は初めて見る顔にたじろぎながらも、言った。

「殺人ですよ」

「そうである以前に、罪人です」

 神谷は鋭い目で、玲香の顔を突き刺すように見つめた。

「叔父さんは、誰かを殺したんですか?」

 玲香が言うと、神谷はうなずき、先回りするように斎藤の方を向いた。玲香はそれでも、自分の頭に浮かんでいたことを吐き出した。

「じゃあ、斎藤さんは? 罪を償ったんですよ」

「そうかもしれません。しかし斎藤さんは、篠田さんを殺した」

 その言葉が胃を直接殴りつけたように、玲香は思わず体を折った。篠田と入れ替わりに頭の中に入り込んできたのは、布団の中にくるまっていたときの、父の手の感触だった。

「出られなかったんだ……」

 自分の言葉で発すると、それは驚くぐらいに軽く、胸の中に落ちていった。狂った人間に捕まって、閉じ込められた。自分の父が見た最後の景色は、ここだったのだ。

「人は、簡単に人を見捨てられないものです」

 千尋が言い、お面をかぶった彩乃と万世がノコギリを拾い上げた。そのぎらついた刃が光をいびつに跳ね返し、玲香は目を逸らせた。神谷が蝋燭を一本ずつ吹き消していき、真っ暗闇に戻ったとき、刃が巻き付いて空気を切り裂くような音が鳴った。次に上がるのは、おそらく悲鳴だ。そう思って暗闇の中で目を閉じたとき、玲香は右足を掴まれたように感じて、身を捩った。声が喉元まで上がってきたとき、それを察知したように足首の周りで手の力が少し弱まり、どうにかして悲鳴をこらえた。すぐに気配が薄くなり、恐る恐る足首に触れたとき、固く捕えていたロープの感触がなくなっていることに、玲香は気づいた。思わず体に足を引き寄せたとき、また気配が強くなり、背中に冷え切った手が置かれた。

「逃げろ」

 玲香はよろけながら立ち上がった。真っ暗な中、背中を押された方向へ歩き出すと、真っ暗闇の中に扉が見えた。縋りつきながら体重をかけると、扉はゆっくりと外向きに開いた。外に出た玲香が、まだ体の自由が完全に利かないまま雪の中へ倒れ込んだとき、後ろで封をするように扉が閉まった。玲香は雪の中でもがきながら、立ち上がった。体は思い通りに動かなくても、頭の中は澄み渡っている。玲香は聳え立つ本殿に向かって、叫んだ。

「お父さん!」

    

 萩山は、扉の向こうから追いかけてこようとする声を断ち切り、中へ戻った。自分は、二十五年前のあの日、神社に取り込まれた。はちがしら様の一部として。康夫が意識を取り戻したのは、あの姿になって四日が経った後だったが、最初に目が開いて飛び出した言葉は、今でも覚えている。

『兄貴が、ころさないから』

 この集落は、乗ってきた車から財布まで、萩山家に関わる全てを取り込んだ。自分ひとりなら、いつだって勝手に命を断つことができた。それほど簡単なことはなかったように思える。しかし、家族のことを知られている以上、千尋や野瀬家の連中が何を思いつくか、想像もつかないことが起きるような気がして、五十代半ばになる今まで、何もできないままだった。それでも。

 また会えるとは思っていなかったが、玲香は立派な大人になっていた。修也に会うことは叶わなかったが、もうやるべきことは決まっている。ここには、積もる話などない。共有したり、受け継いだりできるようなことは、何も。自分が持つ蝋燭に火を灯し、萩山は本堂の中へ足を踏み入れた。手順を崩されたことに抗議するように、万世が顔を上げたのが分かった。彩乃が持ってきた灯油の缶を手に持つと、その中身をひっくり返しながら、萩山は神谷のところまで戻って、言った。

「くたばれ」

 蝋燭の火が灯油に引火して畳が燃え上がり、斎藤と、そのすぐ隣に立つ万世と彩乃が火柱に巻き込まれた。神谷の服にまとわりついた炎が康夫に移り、萩山は自分の体の半分以上が炎に巻き込まれたまま、反対側へ逃げようとする千尋を捕まえて、言った。

「あんたもだ」

 千尋の目に畏れのようなものが浮かび上がると同時に、萩山から炎が燃え移り、柱に飛び火した。待ち焦がれていたように炎を受け入れ、やがて本殿全体が燃え上がった。

    

 雪に足を取られながら後ずさり、玲香は炎に包まれる神社を見上げた。爆ぜるような音が鳴り、熱気が顔を焼いた。父がいなくなった夜は、とても寒い日だった。布団が足から飛び出して寒かったのに、起きていると思われたくないから、じっとしていたのを覚えている。そしてその大きな手は、布団をかけ直してくれた。

 玲香は炎に顔を照らされながら、その場に座り込んだ。煙と火柱が町から通報され、消防車が押し寄せて来る頃には、その炎の勢いは弱まり始めていたが、神社への坂道を駆け上がった消防隊員が、玲香の姿に気づいて最優先で救出したときには、ほとんど消えかけていた。

「何があったんですか」

 俯いたままでいる玲香に、火災現場から引き離した消防隊員が言った。玲香は顔を上げて、夜空の下で煙を上げ続ける、黒く朽ちた本殿を見上げた。炎に巻かれて傷だらけになったその姿は、役目を果たしたように穏やかだった。自分を探してここまでやってきた娘が凍えずに済んだことを、見届けたように。

「父に、会いに来たんです」

 玲香は、消防隊員の問いかけにようやく答えた。

 変わらず守ってくれる、あの大きな手。

 わたしが喜んでいても、悲しんでいても、例え怒っていても、いつもそこで。

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Frost @Tarou_Osaka

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