【9】一九九六年 一月 二十五年前

 夕方頃から、公民館の方へ人が集まり出すのが、遠目に見えた。野瀬商店で弁当を二つ買った萩山は、部屋で康夫と向かい合わせになって食べながら、行動を起こす時間帯について考えていた。人目につきにくいとすれば、夜中が一番だ。しかし、ヘッドライトを点けずに走り回るわけにはいかないから、動き出せば目立つ。日が明ける直前まで待つこともできるが、この規模の集落で誰にも見られずに出て行くのは不可能だ。朝抜け出して、どうにかして歩きで例の道を下り続けるのも、ひとつ。しかし、追いつかれるかもしれない。萩山はそこまで考えて、箸を止めた。一体、何に? 歩いて出るなら、止められる筋合いはないはずだ。明確に、誰かに引き留められたわけではない。それでも、頭がはっきりと、自分たちがここに『閉じ込められている』と認識してしまっている。萩山が再び箸を動かし始めたとき、隣で物音がした。神谷が取材道具を準備している。ハイラックスの鍵は、上着の中だ。帰ってくる頃には、酔っぱらっているだろう。萩山は、敢えて開けっぱなしにしている扉から聞こえてくる音に、耳を澄ませた。足音が鳴り、カメラバッグを肩から吊った神谷が、部屋の前を通り過ぎるときに頭を下げた。

「いってきます」

「いってらっしゃい。連日、お疲れ様です」

 萩山はそう言って見送った後、神谷が、ハイラックスを運転していたときとは違う、少し軽めの上着を着ていることに気づいた。康夫は弁当に集中していて、話しかけられそうな雰囲気ではない。階段を下りていく音が消えたとき、萩山は廊下に出て、扉の隙間から神谷の部屋を覗き込んだ。あの上着は、ハンガーにかかったままだ。部屋に戻ると、萩山は康夫に言った。

「もうちょっとしたら、おれが鍵を抜いてくる」

 康夫は固まった白米にむせながら、うなずいた。萩山は、内容を理解しているかなど構うことなく、続けた。

「食い終わったら、おれが起こすまでは寝てろよ」

 萩山は、康夫が弁当を食べ終わるまで無言で待った。千尋はまだ一階にいるが、公民館に行くと言っていた。昨日と同じような宴会だとすれば、夜の九時ぐらいに一番盛り上がるだろう。今が四時だから、五時間後だ。弁当のガラを部屋の小さなゴミ箱に押し込んでいると、自分たちの本来の居場所が、頭に呼び起こされた。広い都会に見えて、実際には、自分の居場所をギリギリ確保できるだけの余裕しかない。数センチ隣で息をしている人間は、周りの人間のことなんて考えていないし、見えてもいない。どうしようもない場所だが、そこには明日奈と修也、そして玲香がいる。家族を連れて、どこか別の場所へ行けたら。今までに考えもしなかったことが、頭に浮かんだ。斎藤の面倒だけ見てやればいい。康夫を殺す必要だって、ないのだ。自分が萩山家の恩恵にあずかることを、やめさえすれば。

 テーブルを挟んだまましばらく経ったとき、千尋が顔を出した。

「お布団、出しておきますね」

 テーブルがどけられて、布団が二つ並ぶ様子を眺めていた萩山は、ふと思いついたことを言った。

「千尋さん、いってらっしゃいませは言うけど、おかえりなさいませって、言わないよね」

 シーツにかかった手が止まった。千尋は振り返ると、笑った。

「それは、禁句なんです。はちがしら様を帰すときに使う言葉なんですよ」

 その顔は、いつもより化粧気がなく、少し疲れて見えた。萩山は愛想笑いを浮かべた。

「あ、帰ってくれって意味なんですか? どこに?」

「どこって」

 シーツから手が離れ、千尋は口元を押さえながら笑った。

「地獄ですよ」

 千尋が階段を下りていき、二人きりに戻った。萩山は日が暮れていく様子を眺めながら、康夫に言った。

「九時ぐらいだ。おれが起こすから、何も考えずに寝るんだ。分かったか?」

 康夫はうなずいた。日が暮れるのとほぼ同時に、何も言わずに布団に潜り込むと、そのまま目を閉じた。萩山は誰もいなくなった民宿の一階に下りて、靴が二足ともあることを確認し、二階へ戻ると、神谷の部屋の扉をゆっくりと開いた。取材道具は一式持って出たらしく、上着と旅行鞄だけが置きっぱなしになっている。萩山は上着のポケットを探った。鍵束は、萩山が覚えていた通り右のポケットに入っていて、簡単なリング型のホルダーでまとめられているだけだった。ハイラックスの鍵を抜いた萩山は、鍵束を元に戻し、自分の部屋に戻った。鍵は拍子抜けするぐらいにあっさり、手に入った。上着のポケットに入れて、靴下すら履いた状態で布団に入ると、体が少しだけほぐれたように、軽くなった。いつだって逃げ出せる。束自体があれば、ひとつ鍵がなくなっていてもすぐには分からないだろう。すでに寝息を立てている康夫の隣で、萩山は時計のアラームをセットすると、目を閉じた。

 日が落ちるのに合わせて部屋が暗くなっていき、影のできる方向がゆるやかに変わっていく中、萩山は眠りに落ちた。今まで、夢をほとんど見ることがなかったが、今回は別だった。千尋の言葉が、形を変えながら頭の中を巡っていた。おかえりなさいというのは、地獄に帰れという意味だった。ここでは、神様とは見上げられる存在ではない。使い捨てだ。不作の呪いをかけた猫に対峙するために、そこにいる。合理的だ。一度目が覚めたとき、薄い緑色に光る時計の文字盤は、夜の七時半を指していた。完全に真っ暗だが、遠くで太鼓のような音が鳴っているのが聞こえる。

 昨日集まっていた人間は皆、あの公民館の集会場にいるのだろうか。一体いつ、帰ってきたんだろう。夕方頃、車の音は全く聞こえなかった。冬は働かずに、家でのんびりと過ごすのだろうか。一度は、そんな気楽な生活を送ってみたいものだ。起きているのか、眠っているのか、自分でもはっきりと分からない状態がしばらく続いた。萩山は、すとんと落ちるように眠りに落ちて、一時間もしない内に目を覚ませた。今度は頭がはっきりとしていて、扉から吹き込む隙間風が指先に当たっていることまでが分かった。そして、か細い鳴き声。真っ暗な部屋の中で、萩山は目を開けた。時計の文字盤は、夜の八時半まで進んだ。少し早いが、そろそろ動いてもいいかもしれない。暗闇に目が慣れてきて、掛け布団を腰の上までのけたとき、首だけを起こした萩山は、目を凝らせた。部屋の隅に、人がいる。そのことに気づいたとき、か細い鳴き声が枕元の真後ろから聞こえて、萩山は天井を見上げた。影絵のように揺れる、おかっぱ頭。真上から、万世が見下ろしていた。目の周りが、囲うように真っ黒に塗られ、不器用にひかれた真っ赤な口紅は、口元から両耳まで伸びている。骸骨のような顔が笑顔に変わり、その口から猫に瓜二つな鳴き声が漏れた。それに合わせるように、部屋の隅から歩み出た彩乃が、同じように骸骨のような化粧を施された顔をゆがめて、猫と区別がつかないような鳴き声を上げた。

 萩山は布団を部屋の端まで蹴り、そのまま立ち上がろうとしたがよろめいて、隣の部屋の壁に肩から突っ込んだ。壁に大きな穴が空き、隣の部屋のテレビのコードに腕が引っかかった萩山は、それをどうにかして引き抜こうと力を込めた。万世が甲高い鳴き声を上げたとき、康夫が起き出した。

「え、なに」

「ヤス! 逃げるぞ!」

 萩山はそう言いながら、自分が言ったとおりに動ける態勢ではないことに気づいた。康夫が萩山の体を掴んで強引に引っ張ったことでバランスを崩し、電灯の笠を掴みながら後ろ向きに転んだ。土台ごと引き抜かれた電球が彩乃の頭に突き刺さって割れ、破片が肩まで縦に引き裂いた。萩山はようやく自由になった右腕で上着を掴むと、康夫に言った。

「早く!」

 廊下に飛び出して、階段を駆け下りている途中で、萩山は一度振り返った。彩乃と万世がゆっくりと追いかけてきている。一階に辿り着くと玄関まで一気に走り、靴に両足を突っ込んだ。康夫がもたついているのを引きずるように外へ飛び出すと、萩山は拳を固めて辺りを見回した。点々と、松明の明かりが宙に浮いている。その数の多さに、萩山はたじろいだ。人の姿が見当たらないと今まで思っていたのが、嘘のようだった。ハイラックスの鍵を開け、エンジンをかけると、座席の位置を下げた。康夫が助手席に乗り込み、言った。

「兄貴、あの火はなに」

「おれにも分からない」

 萩山はシフトレバーを一速に入れると、記憶した通りの道に向けて、ハイラックスを発進させた。車体が大きく傾いて加速を始め、萩山はヘッドライトをハイビームに切り替えた。猫のお面を被った子供があちこちにいる。この集落には、猫などいない。人間が、猫の鳴き真似をしているのだ。火を持っている大人たちは距離を詰めることなく、赤く照らされた顔だけを向けて、ハイラックスの進む先を追い続けた。萩山はハンドルを忙しなく回しながら、公民館から下る道に合流して一気にアクセルを踏み込んだ。昼間に見た通りの道が姿を現し、タイヤが雪の上に乗って最初のコーナーを回ったとき、道を塞ぐトラックが眼前に現れ、萩山は思わず急ハンドルを切った。長池石油と書かれた荷台をどうにかすり抜けたとき、急に方向転換したハイラックスの動きは止まることなく、そのまま路肩にいた長池親子の真上に乗り上げて、木に絡めとられるように激突した。萩山はフロントガラスに頭をぶつけて意識を失い、康夫は左肘をダッシュボードに挟まれて骨折した。

 薄暗い色の煙をマフラーから吐き出し続けるハイラックスの周りに、松明の炎が集まり始めた。その後ろを猫のお面を持った万世がついて歩き、ハイラックスの下敷きになった長池親子を眺めて笑った。大人の輪からひょいと一歩出て、オフロード用タイヤに挟まれて空気の抜けたバスケットボールのようになった長池の頭を蹴った。

「火つけ! ドジ!」

 その底抜けに明るい声に、周りが笑った。敏道はかろうじて息があったが、肋骨と腰の間を反対側のタイヤで分断され、そこから雪の上に川のような血の流れができていた。お面をかぶった千尋が前へ出て、自由が利かない敏道の顔を雪の塊で覆い始めた。その重みが少しずつ空気の通り道を塞ぎ、微かに聞こえていたごろごろという喉の音が消えたとき、千尋は手を打ち合わせた。

「長い年月、ご苦労様でした」

 万世の傍に、松明を持った淳史と牧子が立ち、紅潮した顔を見合わせたが、すぐにひとり足りないことに気づいて、言った。

「彩乃は?」

「怪我した」

 万世は地面でまばらに固まった雪を蹴って割りながら、不満げに言った。淳史はぞろぞろと集まってくる村の人間を振り返ると、言った。

「では、行きましょうか」

 康夫は、人の輪が少しずつ小さくなっていく結び目のように密度を増していく様子を見ながら、運転席でハンドルに突っ伏す萩山の体を揺すった。

「くる」

 左腕が思ったように動かず、肘から先が燃えるように熱を帯びていた。康夫は無事な右手でシフトレバーやハンドルに触って、どうにか車を動かそうとした。運転席にだらしなくもたれかかった萩山の体が少しだけ動き、うめき声が漏れた。

「逃げろ……」

 康夫はその言葉を聞き、反射的にドアを開けて雪の中へ落ちるように飛び出した。左腕の熱が激痛にすり変わって頭の中で爆発し、かばうように仰向けに転がったとき、結び目が固く閉じ切ったように、人の輪がその顔を見下ろした。真ん中にいる淳史が、言った。

「縁のない中、よくお越しくださいました」

 人の輪がさっと空いて、民宿から『炭谷』と書かれた大きな手押し車を持ってやってきた達夫と和美が前に出ると、一緒についてきた村人と数人がかりで康夫の体を捕まえた。肘の激痛に気を取られている内に足を掬われ、康夫は手押し車の中に頭から落とされ、上から網で動きを封じられた。もう一台が現れると、運転席から萩山を引きずり出し、意識が朦朧とした状態のまま手押し車に乗せた。淳史は神社へ向かう長い上りの坂道を見上げると、村人たちの背中を押した。

 萩山は、右足に残るブレーキペダルの感覚を頭に呼び起こした。それが自分と現実を結ぶ唯一の接点のように、足の指に力を込めた。頭が痺れたような感覚が強くなり、いびつに血が巡っているように感じる。右手の位置が分かり、左手だけが千切れそうなぐらいに冷たく、金属に触れているからだということが、感触で分かった。そして、それを頼りに、萩山は目を開けた。

 真っ黒に澄んだ空を星が埋め尽くしていて、それは無数の抜け穴のように見えた。いくらだって、逃げ道はあった。逃げられなかったのは、自分でそうすることを選ばなかったからだ。勝手に頭の中で作り上げられていく考えと戦う気は、到底起こらなかった。ヤスに逃げろと言った。思い出すのと同時に、突然頭の中が警告を発するように澄み渡り、仰向けに運ばれているということを全身が理解した。体を起こそうとしたとき、淳史が覗き込むように顔を近づけて、言った。

「おっ、起きたねえ。もうすぐですよ」

 境内はしんと静まり返っていた。鳥居を囲むように油が撒かれていて、村人のひとりが振る懐中電灯の光を跳ね返している。萩山は手押し車から降ろされる瞬間に逃げ出すことを考えたが、もう一台の手押し車に康夫が乗せられていることに気づいて、考えを改めた。自分が先に逃げれば、康夫は自力で逃げ出せなくなる。頭の中に存在する本能がそう結論づけた後、社会生活で培ってきた知恵が問いかけた。そもそも、殺そうとしてここに来たのではなかったか。二人がここで終わりを迎えたら、修也と玲香はどうなる? 萩山はその問いに対して答えるように、手押し車の中で体を強く捩った。体重が片方に寄ったが、左手の自由が利かなかった。萩山は左手首にロープが巻かれていることに気づいて、淳史に言った。

「おい、何をするんだよ」

 ほとんどのことをやられた後だったが、それ以外の質問は浮かばなかった。淳史の代わりに、牧子が人差し指を自分の唇に当てた。

「お静かにお願いします」

 猫のお面をかぶった女達が足を止め、万世もその中でわざとらしく気をつけの姿勢を取った。萩山はその中に、千尋の姿を探した。お面をかぶっていて、立ち姿だけでは区別がつかない。

「千尋さん!」

 思わず声に出すと、万世の二人隣でお面を外した千尋が、言った。

「はい」

「あんた、どういうつもりだよ!」

 千尋が始めたことではないというのは理解していたが、最初に部屋を貸してくれた人間だったからこそ、今の状況を説明してもらうには、最も適任に思えた。千尋はそれを先回りするように、口を開いた。

「今年は二十五年に一度の、本祭なんですよ」

「あんたらがやってるのは、犯罪だぞ」

 萩山が言うと、千尋は周りの人間と顔を見合わせると、笑った。答えを得られることがないまま静まり返り、萩山は続けた。

「これが本祭なのか。毎年取材に来てるあの子は、どうするつもりなんだ」

 外の世界との接点。最後の頼みの綱。萩山はよりによって、その足であるハイラックスを奪ったことに気づいたが、神谷が自分の足で抜け出しているよう祈った。ここには前後左右、どこにも逃げ場はない。それを証明するように背後からも足音が聞こえてきて、真後ろで止まった。萩山が前を向いたままでいると、千尋は言った。

「炭谷の由来を、お話させていただきましたよね。仕事が名前になったと」

 萩山は、千尋の視線を追いかけるように振り返った。白装束に身を包んだ女が真後ろに立っていて、歯を見せながら笑った。萩山が口を開くよりも前に、その笑顔から言葉が飛び出した。

「社を守る人間は、神谷」

 その名前を聞いた人間全員が同じ空気を共有するように、息を呑んだのが分かった。神谷は前髪を額からそっと払い退けると、言った。

「外の仕事があるので、年に一回しか帰ってきませんが。ここの主は、私なんですよ」

 萩山は、観念したように力を抜いた。境内の中にぞろぞろと人が入り込み、本祭が始まった。神谷が本殿に入ると、人の気配が次々に消えていき、手押し車に乗せられた萩山兄弟が運ばれると、扉が閉じられた。淳史は万世の手を取り、牧子と一緒に坂道を下り始めた。

「えー、見たい」

 万世が納得できない様子で言うと、牧子が上品に笑った。

「お姉ちゃんになってからね」

  

 しんと静まり返った本殿の中で、千尋が宙に向かって言った。

「長きに渡り、ご苦労様でした。どうか、おかえりください」

 初めて任される大役に、声が震えた。自分の口から発した言葉が、集落の歴史の一部になろうとしている。神谷が本殿の奥に置かれた仕切りをどけると、左右に立てられた蝋燭に火を点けた。萩山は、手押し車を押していた村人に組み伏せられたまま顔を上げ、蝋燭が照らす丸くて黒い影を見つめた。目が慣れてくるにつれて、あちこちがいびつに張り出していて、その先端は縫いつけられたように皮が突っ張っていた。

「はちがしら……」

 萩山は思わずつぶやいた。あちこちがでこぼこになっていて、八つ頭があるように見える。頭の中で結論が導き出されていたが、理性が受け入れることをまだ拒否していた。千尋が振り返ると、言った。

「縁のない中、よくお越しくださいました」

 黒い影はほとんど蝋化していたが、その顔は苦悶に満ちていた。

「生贄にするつもりか」

 萩山が呟くと、神谷が首を横に振った。

「そんなかわいそうなことはしませんよ。あなたの弟は、神になるんです」

 この集落の神様は、身代わりに罪を背負っている。八つ裂きにされることで。萩山は言った。

「やめてくれ」

 その言葉をかき消すように、千尋は黒い影に頭を深々と下げた。

「どうぞ、おかえりください」

 娘である千尋の晴れ舞台を支えるように、達夫と和美が康夫の両手両足に縄を巻き付け、反対側を柱にくくりつけた。千尋は萩山の隣に屈みこむと、背中に手を置いた。

「逃げなくても、よかったんですよ」

「おれが車を盗むのを、待ってたんだな。出なければならない事情があるって、あんたは初めから分かってたんだろう」

 萩山が言うと、千尋は、はちがしら様との間を取り持つように顔を上げて、視線を走らせた。萩山は、その横顔を見ながら思った。このままこの『儀式』に付き合えば、どこかで隙が生まれるかもしれない。康夫は当てにならないだろう。腕が折れた時点で、そのことで頭がいっぱいになっているはずだ。萩山は、小声で千尋に言った。

「なあ、康夫は人を殺したんだ」

 千尋が萩山の方を向き、最初に宿で出迎えてくれた時のような、和やかな表情を浮かべた。

「そうですか、あなたは逃亡に手を貸したと」

 萩山は首を横に振った。この旅の、本来の目的。

「違う、おれがあいつと一緒に山を越えたのは、山の中で殺すためだ」

「そんな物騒なことは、してはいけませんよ」

 千尋の笑い声が耳から入り込むのを避けるように、萩山は顔を引いた。

「聞いてくれ。ここからが大事なんだ。あんたらの見立て通り、おれは堅気じゃない。康夫のやったことは、斎藤ってやつが身代わりで何年か食らうことになってる。おれが段取りしないと、そいつは相当な刑を食らうかもしれないんだ」

「それで、外と連絡を取ろうとされていたんですか」

 千尋は納得したように小さく息をつくと、立ち上がった。萩山は続けた。

「おれは、そいつに出頭をやめさせないといけない。頼むから、一本電話をかけさせてくれ」

 萩山の言葉は流れるように耳に入ってきたが、千尋は答えることなく、黒い影に視線を向けた。二十五年前に捕らえられた、名前も知らない男。自分が生まれたときには本殿にいて、小学生に上がる頃までは生きていた。こっそり忍び込んで、その胸が上下する様子を眺めていたことを思い出し、千尋は笑った。父曰く、かなりの長い時間、命乞いをしていたという。答えを待つ萩山の視線に気づくと、千尋は立ち上がって神谷に目で合図を送った。

「では」

 康夫を押さえる和美の手元で、細いワイヤー型のノコギリが光った。それがするりと腕に巻き付いたとき、神谷が蝋燭の火を吹き消した。萩山が叫ぶよりも前に、外で猫のお面をつけた女達が一斉に鳴き声を上げ、康夫の内臓を全て吐き出すような悲鳴が、それをかき消した。夜が完全に更けて、康夫の両手両足が完全に切断されたとき、それまで集落に響き渡っていた鳴き声が一斉に止んだ。

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