【8】二〇二一年 一月

 窓の格子状に刻まれた朝日が差し込んで、布団をいびつに照らしている。篠田は体を起こした。頭の中には、カローラバンの鍵がどっしりと腰を下ろしていて、眠っている間も何度かそのイメージが頭に浮かんできて、目が覚めた。車を残して移動できるような土地じゃない。斎藤が死人のような顔色で寝息を立てているのを見て、篠田はゆっくりと布団から外に出た。くしゃみを堪えながら部屋から廊下に出たとき、スマートフォンを手に持った玲香が、部屋から顔を出した。

「おはよ、早くない? 七時だよ」

「寝れねーよ。マイ枕がねえもんな」

 篠田があくびを噛み殺しながら笑うと、玲香は力なく付き合うように笑った。篠田は人差し指を口に当てて、静かにするようジェスチャーすると、一階を気にするように視線を泳がせながら、玲香の部屋に上がった。

「今日もさ、女将さんに色々聞こうと思ってんだけど、もしかしたら嘘が返ってくるかもしれないんだ。玲ちゃんも、その覚悟はしといてほしい」

 布団の上に腰を下ろす玲香は、眠気を振り払うように強く瞬きをした。

「どういうこと?」

「お父さん、三日で出たって、言ってたろ?」

 篠田はそう言って、カローラバンの鍵を乗せた手を、差し出した。

「これな、多分その壊れた車の鍵なんだけど、隣の部屋の、テレビの下に挟まってたんだ。だからさ……」

 玲香は、篠田の手に新種の虫を見つけたように、反射的に顔を引いた。

「え……」

「車は多分、治ってない。他の手段で出た可能性はあるけど。とりあえずおれは、これを見つけたことは伏せてさ。知らない体で聞いてみようと思う」

 篠田が言うと、玲香は首を傾げた。

「嘘をつくなんて、あるかな」

「分かんねーけどな」

 肩をすくめる篠田は、動きはいつも通りでも、顔は笑っていなかった。玲香は言った。

「勘で、何か怪しいところがあるの?」

「野瀬家のさ、万世さんっているじゃない。昨日色々、教えてもらったろ」

「妹さんのほうだね」

「そーだな。いや、玲ちゃん途中で、トイレ行ったじゃない。帰ってくるまでの間、すげー距離が近いんだよ。あとさ、あの子ドライブインで働いてて、おれのマジェスタに気づいてたぽいんだ」

 田舎は人が少ないから、よそ者が目立つ。集落を通り過ぎる手前にある、関所のようなドライブイン。万世が働いている姿は、こちらからは全く分からなかった。玲香は、部屋の冷たい空気から逃れるように首をすくめた。篠田は続けた。

「結構な情報だろ? それはいいとして。どうしておれだけに言ったのかが、気になる」

 篠田が息継ぎをしたとき、隣の部屋で大きなくしゃみが響いた。篠田と玲香は二人とも同じタイミングで飛び上がり、笑った。篠田は言った。

「斎藤ちゃんだな」

 上着を羽織る衣擦れの音が鳴り、開きっぱなしになった扉から斎藤の姿が見えた。玲香は言った。

「おはようございます」

「あ、おはようございます。ちょっと散歩してきます。健康、健康のために日課でして」

「あーそう、気をつけて」

 篠田が短く言い、階段を下りていく足音を聞きながら、笑った。

「歩くのが日課って。まっすぐ歩けねえのにな」

 玲香は愛想笑いだけ返すと、スマートフォンを手繰り寄せて、篠田が現れる直前まで開いていた画面を表示した。

「ここのこと、わたしも調べてたんだ。廃校は、学校なのにお面屋敷って呼ばれてるらしいね」

      

 斎藤は、自分の方を向いている靴をひっくり返すと、体を不器用に傾けながら履き、外に出た。朝の冷たい空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き、野瀬商店で買い物をするか少しだけ迷った後、上り坂に誘われるように歩き始めた。左手には廃校、右手には公民館。まっすぐ上がり切れば社がある。斎藤は坂が緩やかな廃校の方へと歩き始めた。雪と苔が入り混じっていて、通学用の石段はつるつると滑った。斎藤は歪んだ木造校舎の前に立つと、民宿の方向を見下ろした。それほど歩いた感覚はなかったが、ずいぶん小さく、遠くに見えた。

「田舎……」

 独り言が思わず漏れたとき、近くで鳴き声がした。斎藤は返事をするように、口笛を吹いた。昨日からずっと、気にかかっていたのだ。店で猫が出ることはほとんどないが、斎藤の頭の中では『弱くて柔らかいもの』に分類されていた。その点、康夫と特に話が合ったことを、今でも覚えている。康夫は目で追いかけるだけで、危害を加えることはなかったが、それはあまりに素早すぎて捕まえられないからという単純な理由だったと、今になって思う。その証拠に、康夫は話の通じる『弱くて柔らかい人間』に手を付けた。相手は、店の雑用をする康夫のことをからかって遊んでいた。もう名前は忘れてしまったが、笑い声が耳障りで、今どこかから聞こえる鳴き声にも共通する響きがあった。

 廃校は正門こそロープで縛られていたが、その隣の通用口は扉が倒れて開きっぱなしになっていた。斎藤は、鳴き声を追いかけるように中を覗き込んだ。光はほとんど通らず、廊下はそこだけが夜から抜け出せなかったように、真っ暗だった。斎藤はスマートフォンを手に持ったが、ライトを点ける気にはならず、目が慣れるまで待った。乾いた足音が聞こえる。木の床は軋むが、踏み抜くほどは傷んでいなかった。斎藤はがらんとした教室をひとつずつ覗き込んで、小さな講堂のような部屋に行きついた。斎藤は足を踏み入れ、ぐるりと見まわした。最も広い壁の一面に、猫のお面が並んでおり、斎藤は思わず後ずさった。ひとつひとつ形が違い、それは在校生の手作りのようだった。愛嬌のあるもの、猫の特徴を捉えたもの、その出来や趣向は様々だ。斎藤は、無意識に野瀬姉妹のお面を探していた。新しい年代から逆にたどり始めたとき、斎藤がいる側と反対の扉が静かに開いた。

「おはようございます、ここは危ないですよ」

 手に箒を持った彩乃が、笑った。斎藤は肩をすくめながら、うなずいた。

「す、すみません。すぐ、出ますんで」

「いえ、構いませんよ。インターネットだと、この学校が一番有名なくらいで。お面屋敷って、呼ばれてるんです」

 彩乃は、名前の由来になっている壁一面のお面を見上げた。斎藤がぼんやりと全景を眺めていると、彩乃は右端を指した。

「私のお面は、これです。下が万世」

 斎藤は、指に誘われるように二つのお面を見つめた。漫画のようにデフォルメされているが、ひげが接着されていて、手が込んでいる。彩乃は箒を傍らに置くと、髪を耳にかけて、屈みこんだ。斎藤は、その右頬から首にかけて、大きな傷跡が走っていることに気づいて、視線を逸らせようとしたが、その直前で彩乃が顔を上げ、目が合った。

「大きな怪我をしたのは、このときだけなんですけどね。やっぱり、目立ちますよね」

 彩乃の寂しそうな表情に、斎藤は慌てて首を横に振った。

「いえ、今まで気づきませんでした。自分は、もっと目立ちます。足を怪我して」

 彩乃は笑顔だけで応じると、ゆっくりと立ち上がった。斎藤は続けた。

「自分は十五年、刑務所にいました」

 怖がらせると、弱くて柔らかいものは逃げてしまう。頭の中ではそう考えていても、どうやって止めていいのか、分からなかった。まっすぐ見返してくる彩乃の目は、薄暗い講堂の光を全てかき集めたように、鈍い光を跳ね返していた。がらんとした空間に散っていた空気が、耳鳴りを呼び起こすぐらいに冷え込んで、斎藤は首をすくめた。彩乃は言った。

「いつからですか?」

「二十五年前にパクられ……、いや、逮捕されて。そこから十五年」

 斎藤が言うと、彩乃の表情が少しだけ険しくなった。

「冤罪なんでしょう?」

 その言葉を聞いたとき、斎藤の心臓が容赦なく跳ねた。

「なんでそれを……」

 彩乃は、口角を上げて笑った。

「色々と、お話を聞かせてもらったんです。あのときは、結構な騒ぎになって」

 斎藤は、再び髪で隠れた彩乃の右頬を透かすように、じっと見つめた。彩乃は言った。

「そのときに、私も怪我をしたんです」

「それをやったのは……」

 斎藤が呟くと、彩乃はうなずいた。

「弟さんのほうですね」

 斎藤は、自身が受けた『十五年の刑』に、彩乃の『頬の傷』を付け加えた。ずっと捕まえようとしていて、手が届かない感覚。どこかに鳴いている猫がいて、目の前には、ある家族によって、人生を捻じ曲げられた女が立っている。自分と同じように。彩乃は言った。

「思い出すこともなくなっていたんですが、やっぱり辛いですね。すみません」

 彩乃はそう言うと、片方の目にうっすらと浮かんだ涙を拭った。斎藤は、無意識に拳を固めた。自分がまっすぐ歩けないということを、どこかで普通のことだと受け入れてしまっていた。やってはならないことのほとんどを、体に受けた暴力によって学んだ人間。事故で頭を壊してからは、そうする以外、社会生活に馴染む方法はなかった。そう思って生きてきたが、そもそも刑務所に入ることになった上に、足の指を失ったのは、萩山家からの音沙汰がなくなり、そのままの『他人の罪』で裁かれたからだ。

「あ、あの。野瀬さん」

 斎藤が言うと、彩乃はかしこまったように背筋を伸ばした。斎藤は、自分の頬に手をやりながら、続けた。

「怪我のせいで、嫌なことを言われたりとか、ありましたか」

 彩乃は首を横に振った。

「いえ、そんなことはないですよ」

 会話が突然途切れ、彩乃は自分が入ってきた講堂の扉を振り返った。

「私、いつも掃除してるんですよ。中はそのままにしてるんですけど、外の雑草とかは綺麗にしてます」

 箒を手に取ると、彩乃は歩き始めた。斎藤は無意識にその後をついていき、講堂から廊下へ出た。彩乃は軽い足取りで廊下の反対側に辿り着くと、鍵がかかった用具入れのような小屋の前に立った。真新しい南京錠に鍵を差し込むと、彩乃は扉を引き開けた。滞っていた空気が染み出し、斎藤は思わず顔を背けた。視線を用具入れの中に戻したとき、ほとんどの資材を押しのけるように押し込まれた車を見て、目を見開いた。

 錆びて埃に包まれたカローラバンが、そこにいた。

「玲香さんには、言えませんけど。当時起きたことは、警察にも言えなくて」

 彩乃は力なく笑った。斎藤は、タイヤの空気が抜けきったカローラバンのナンバープレートを見て、即席で今作られたのか、ずっと居座っていたのかも分からない、当時の記憶を呼び起こしていた。萩山和基の声や、笑い方の癖。ヤスが助手席で狭そうに体を縮めている様子までが、頭に鮮明に浮かんだ。取り返した矢先に、ほとんど失われた自分の人生。萩山家が、自分をこういう風にしたのだ。そう考えながら、斎藤は彩乃の横顔を見た。不思議な感覚は、今でも残っている。朝、宿から出たとき。野瀬商店で買い物をしようか迷った。それは、レジに彩乃がいて、店を開けていると思ったからだ。しかし今は、箒を持って、掃除をするために来たと言っている。まるで、集落がひとつの大きな目で、自分の動きを追っているようだ。斎藤の視線に気づいた彩乃は、呟くように言った。

「はちがしら様というのは、罪人なんですよ」

「あ、あの。本祭というのは」

 斎藤が尋ねると、彩乃は頬を緩めた。

「はちがしら様が交代します。そして、また先の二十五年、お守りいただきます」

 斎藤は、自分と同じような罪人が神様として大切にされる風習を奇妙に感じたが、人がひとりようやく入れるぐらいの狭い居場所を見つけたような、霧が晴れるような感覚も同時に味わった。頭の中の、空っぽになった入れ物。いつも持て余していたが、ここなら置いていても、大丈夫なのかもしれない。

「あの、まも……、守ってる間、はちがしら様は大事にされるんですか?」

 斎藤が言ったとき、開け放たれた入口から淡い色の朝日が差し込んだ。逆光で半分が塗りつぶされた顔で、彩乃は笑った。

「はい、お供えは欠かさず。だからあなたも、ずっとここにいていいんですよ」

       

「斎藤ちゃん、朝メシどーすんのかな」

 食卓にぽかんと空いた席を見ながら、篠田が言った。千尋は斎藤の分を作らずにおいたが、台所にはいつ帰ってきても食事を出せるように、調理器具が出しっぱなしになっていた。玲香は箸を手に持って、呟いた。

「いただきます」

 千尋が空いた席に座るなり、篠田は言った。

「あの、玲ちゃんの親父さん、いつまでいたんでしたっけ」

「祭りの間は、いらっしゃいました」

 千尋はすらすらと話した。玲香は食事の手を止めないようにしながら、その言葉の続きを待ったが、篠田に会話の主導権が戻されていて、しばらく沈黙が流れた。篠田は味噌汁をひと口飲むと、言った。

「結局、車は治ったんすかね」

「ええ」

 千尋は短く言うと、愛想笑いを浮かべた。篠田はかろうじて顔だけうなずくと、千尋が正直に話すだろうと心のどこかで期待していたことに自分で気づき、それを打ち消すために温かいお茶を飲んだ。

「そっかあ」

 篠田が言ったとき、玲香はできるだけ表情を動かさないようにご飯を食べたことで、思わずむせた。千尋はお茶を注ぎ足すと、言った。

「親が生きていれば、もっと色々と話が聞けたと思うのですが。あまりお力になれなくて、申し訳ないです」

「いえいえ、色々分かって、よかったっす」

 篠田は頭をひょいと下げながら、思った。これは、警察案件だ。動くかどうかは分からないが、一応地元の署に、事情を話した方がいい。時計をちらりと見上げて、篠田は玲香に言った。

「玲ちゃん、とりあえずさ。今日出るか」

「えっ? あ、うん」

 玲香は取り残されていた話に強引に引き込まれたように、目を丸くしながらうなずいた。これ以上は、追及しないのだろうか。本当なら、自分で会話の手綱を持ちたい。しかし、篠田よりうまく聞き出せる気はしないし、今も頼ってしまっている。千尋も驚いたような顔をして、言った。

「あら、祭りは今日の夜なんですが」

「また来年、来ますよ」

「今年は、本祭なんですよ。二十五年に一回しかないので、来年はまた違うものになります」

 千尋はそう言うと、歯を見せて笑った。篠田は、愛想笑いを浮かべた。

「そっかー、それは名残惜しいな」

 少し間が空いた後、篠田は思い出したように宙を仰いだ。

「そうだ。集落の歴史について、もーちょっと知ってから帰りたいかな。油谷って人が猫を殺しちゃって、それは長池家になったじゃないですか。で、不作の呪いが始まって。祭りってのは、その呪いから守ってくれている神様に、感謝するんですよね。本祭が二十五年に一回ってのは、イベントがあるんすか? 本気で感謝する、みたいな」

 篠田が息を切らせることなく言うと、千尋は小さくうなずいた。

「本気で感謝と言いますか。神様の交代が二十五年周期なんです。呪いが始まって二十五年が経ったとき、冬を越せないような飢饉になりまして。ある日、若い衆がひとり、薪を積んでいたときに下敷きになって、死んだんです」

「泣き面に蜂っすね」

 篠田が相槌を打つと、千尋は首を横に振った。

「それが、そうでもなかったらしくて。遭難しかけていた行商が辿り着いて、夜を越させてくれと。彼らが食料を持っていたことで、乗り越えたんです。その行商が、野瀬家なんですよ。死んだ若い衆は、両足を失ったまま夜通し苦しんだそうですが、よその家のものを盗んだり、手癖が悪かったので、誰も悲しまなかった。父から聞いた話なので、正確かどうかは分かりませんが。二十五年が経って、また集落存続の危機を迎えたとき、偶然の幸運をもたらした若い衆のことを思い出して、即席の像を作った。それが、はちがしら様です」

 千尋の言葉を黙って聞いていた篠田は、一字一句逃さず記憶したように、うなずいた。

「神様ってのは、ここの人たちの身代わりなんすね」

 朝食が終わり、斎藤は戻らなかった。篠田は小さくため息をつくと、玲香に言った。

「ちょっと、斎藤ちゃん捕まえてくるわ」

 玲香は目を丸くしたが、その有無を言わせない口調に思わずうなずいた。篠田が立ち上がったとき、千尋が玲香に言った。

「温かいコーヒー、お作りしましょうか」

「あ、お願いします」

 玲香が上げかけた腰を下ろし、篠田は断りを入れるように小さく頭を下げると、立ち上がった。逆を向いた靴をひっくり返し、扉を開いたところで、千尋が『いってらっしゃいませ』と言った。篠田はスマートフォンを手に持つと、斎藤にメッセージを送った。

『朝メシ終わっちゃいましたよ、どこいます?』

 集落は水を打ったように静かだ。篠田は、民宿炭谷を振り返った。この建物だけが、唯一生きているように見える。電気が点いている野瀬商店の中にすら、誰もいなかった。各々が得意分野を名前につけて、共同生活を営んできた集落。篠田は最後にもう一度、玲香と一緒にいたら遠慮して逃しそうな手がかりを求めるように、歩き始めた。社の真下に来るまでの道にあった民家の表札で、気にかかったのは、鎌谷、桑谷、そして増谷。狭い集落だから、苗字にすら『谷』という共通点がある。篠田が社へ続く坂道に足を掛けたとき、玲香からメッセージが届いた。

『斎藤さん、いた? 気を付けていってらっしゃい』

 それを読んだとき、篠田は昨日からずっと頭の中にあった違和感を、はっきりと意識した。千尋は客が出て行くときに『いってらっしゃいませ』と言うが、帰ってきたときに『おかえりなさい』と言わない。

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