【7】一九九六年 一月 二十五年前
宿というよりは、すごろくの最初のコマに戻ってきたような感覚だった。萩山は、細い腕でハンドルを回しながら車庫入れをする神谷に向かって、言った。
「ありがとうございました」
神谷はその言葉で集中力を削がれたように、一瞬だけハンドルを回す手から力を抜いた。車体が微かに揺れ、神谷は頭を下げた。
「いえいえ。ハンドルが重くて」
萩山は、その横顔を見ながら思った。神谷は、取材で来ている。カメラやバッテリーといった、機材らしきものも積まれている。しかし、平和な村の取材とはいえ、女をひとりで送り出すものだろうか。
「取材、おひとりなんですか?」
「ええ。毎年やってるので、もう慣れちゃいましたね」
神谷は眼鏡を押し上げながら笑い、ハイラックスのエンジンを切った。降りたときに、萩山は神谷の手元から目を逸らさなかった。鍵束がダウンジャケットのポケットの中へ、無造作に突っ込まれたのが見えた。康夫が後部座席から降り、神谷は引き戸を開けるときに言った。
「お祭りの日までは、靴を逆向きに脱いでくださいね。ここの習わしなんです」
萩山が違和感を隠せないように靴を脱いだままにして上がると、康夫が癖で並べ替えかけて、慌ててやめた。神谷はくすりと笑うと、台所から顔を出した千尋に言った。
「戻りました」
「靴は、ご自由に脱いでくださいね」
千尋が笑いかけ、萩山は頭を下げた。康夫が二階に上がっていこうとするのを。首を掴んでやめさせ、千尋に言った。
「ちょっと集落の中を散歩したいんですけど、いいですかね」
「どうぞ。雪が深いところは、気を付けてくださいね」
千尋が言うと、神谷が一礼して二階への階段を上がっていき、萩山はその姿が見えなくなってから言った。
「神谷さんって、取材で毎年いらしてるんですか?」
「ええ。確か、出版社に入社したのが二十歳のころで。それから四年、祭事は欠かさず」
ある意味、ここ専任の担当だ。萩山は、ずっと気にかかっていたことを思い出した。
「あの、目ざとくて申し訳ないんですけど。宿泊帳、書いたじゃないですか。あれに、神谷さんの名前はなくて」
千尋は、電話の隣に置かれた宿泊帳の方へ視線を向けた。
「お金、頂いてないんですよ。その代わり、記録をしていただいてるということで。集落史の資料は、恥ずかしながら、ほとんどが神谷さんの写真か、記事なんです。今年は忙しいと思いますよ」
そう言うと、千尋は二階を見上げた。萩山はその視線を途中まで追い、言った。
「いつもとは違うんですか?」
「ええ。本祭といって、二十五年に一回しかないんですけど。今年はその年なんです」
千尋は少しだけ頬を紅潮させると、萩山の方に向き直った。
「祭りまでに宴会場で集まるんですが、いかがでしょう。昨日の宴会でお疲れなら、別で夕食を用意しますよ」
萩山は失礼にならない程度の軽いしかめ面を作ると、うなずいた。
「そうですね、弟はああいう場は不慣れで。ちょっと休ませたいです。ありがとうございます」
「お気になさらず」
千尋は笑顔を浮かべた。何事にも動じない芯がどこかに通っていて、それが整った表情に繋がっている。萩山は無意識にその目を見つめていたことに気づき、慌てて逸らせた。
「すみません。二十五年に一回ってのは、何か由来があるんですか?」
「ええ。守り神だった猫を殺してしまって、この集落は、そこから不作になりました。そこから二十五年が経って、とりわけ冬が厳しく、このままでは越せないと思われた年のことです。追い打ちをかけるように、薪を積んでいたひとりが下敷きになって命を落としたんです」
千尋は、歴史の教科書を音読するように、すらすらと語った。萩山が興味を惹かれていることに気づいて、千尋は小さく咳ばらいをした。
「失礼……、それから二日もしない内に、遭難寸前の行商が流れ着きました。それが、野瀬家です。彼らが食料を持っていたことで、集落は命拾いしました」
萩山は、野瀬姉妹の顔を思い出した。集落の窮地を救った命の恩人が祖先。野瀬一家がとりわけ自由に振舞っているように見えるのは、そう言った過去の力関係が、引き継がれているからなのかもしれない。萩山が考えを巡らせていると、散歩に出るのを引き留めていることを思い出したように、苦笑いを浮かべて千尋は言った。
「すみません、長々と」
「いえ、大丈夫です。野瀬家は集落の一員になったんですか?」
「ええ。ただ、子供は彩乃と万世しかいませんので、今の代で終わるかもしれませんが。それは、うちもですけど」
千尋はそう言うと、白く整った歯を見せて笑った。言葉の内容と表情がちぐはぐで、萩山は気圧されるように靴を履き、康夫の首を掴んで外に出た。背中に『いってらっしゃいませ』と声が飛んだが、それすら可能なら避けたいぐらいだった。
ハイラックスの前をやり過ごし、太陽の方角を確認しながら歩く萩山は、康夫に言った。
「ここは、何かがおかしい」
「たのしかった」
「よく見ろ、周りを。さっき出て行くときもそうだけど、何人見た?」
「人はいない」
康夫は、もやのかかった頭の中をかき分けるように、目をしばたたかせながら答えた。萩山はうなずいた。
「そうだろ? 昨日の夜は、まあまあの集まりだったろ。いくら男連中が仕事に出てるからって、こんなに静かなもんか?」
答えが返ってくることは、期待していない。萩山は独り言のように呟きながら、公民館を目指した。上り坂の先にあって、景色がよく見渡せる。少し息を切らせている康夫を壁に寄りかからせて休ませると、萩谷は真っ白に光る木々を眺めた。川もおぼろげに見える。何より、雪の上にタイヤの通った跡が残っていて、橋から大きな道路に出るまでのやや広い道と、学校へ伸びる道、そして公民館までの道の三本が、特に目立った。萩山は、川に沿うように林の中へ伸びていく四本目のタイヤ跡を見つけ、康夫に言った。
「おい、もうちょっと歩けるか」
「がんばる」
萩山は公民館から離れ、滑らないようにゆっくりと坂道を下った。アイゼンのようなものは、全く準備していない。千尋は、何かを伝えていないはずだ。さっきの『二十五年ぶりの本祭』のくだりも最後まで聞いていないし、今もどこかで鳴き声がする。猫の呪いがかかっているはずなのに、追い払わないのはなぜなのか。疑問は次々頭に浮かぶが、確実な逃げ道を見つけるまでは口に出せないことばかりだ。それに、逃げ道が分かれば訊く必要すらない。萩山は、説明のつかない四本目のタイヤ跡の上に立った。川に沿うように、人気のない場所へ続いている。萩山はそのタイヤ跡を辿るように歩き、緩やかにカーブした先に首を伸ばした。目に映ったものを頭が処理しきる前に、言葉が出た。
「やっぱり、あるんだな」
険しいことは確かだが、川に沿うように、林の中へ抜ける道があった。枝が垂れ下がっている上に、カーブミラーも折れ曲がっているが、新しいタイヤの跡は奥まで続いている。
「ヤス、あいつらは嘘をついてる」
萩山は道の入口に立つと、康夫を誘い込むように手招きした。動こうとしない大きな図体に、拾えるだけの雪を掴んで投げつけてやりたくなったとき、萩山は、康夫が俯いたまま肩を震わせ始めたことに気づいた。
「おい、しっかりしろお前」
体が先に動き、萩山は、地面から千切ったように掴み上げた雪の塊を、康夫めがけて投げつけた。その勢いによろけた康夫は、短い不格好な腕で顔を庇った。萩山はさらに雪を固めると、庇った手めがけて叩きつけた。
「動けつったら、動けよ」
萩山が抑えた声で言うと、康夫は首を横に振った。何かを意思表示するにしても、断ったり異を唱えるのは、これが初めてだった。予想外の反応に萩山が言葉を切ると、康夫は言った。
「ころ……」
萩山は、何もしないという意思を示すために、拳を開いた。次の言葉を聞くまでは、何かを投げつけたり、行動を起こすつもりはない。それを理解した康夫は、顔を少しだけ上げた。
「ころさないでほしい」
萩山の心臓が、素手で掴まれたのを逃げるように、いびつに跳ねた。
「なんだって?」
「兄貴は、さいごに、ころす。おれがめいわく、かけたから」
まるで、仕事仲間と話しているようだ。萩山は表情をできるだけ和らげようとしたが、自分がどんな表情をしているのかは、寒さも手伝って皆目見当がつかなかった。萩山が間合いを詰めようとすると、康夫は後ずさりながら呟いた。
「おれ、じしゅするから」
「どうして、おれが殺すなんて思うんだ」
萩山が言うと、康夫は自身もその答えを持っていないように、俯いたまま黙り込んだ。萩山は、そのうなだれた猫背を見ながら、子供のころからずっと共通して萩山家がやりつづけてきたことを、思い出していた。萩山家は、状況判断が早い。そして、相手が最初に下した判断から逸れることを徹底して拒否する。長男の和基は、後継ぎ。家族の力で大抵の暴力行為は揉み消してもらえるが、家族の中で意地悪く、加虐的な性格とみなされた以上、その枠から逸れることは許されない。康夫は、人間の形をした動物。長男と常に行動を共にし、時々『しつけ』を受ける。何かを学ぶことも、何かを感じることも、許されないし、認められない。萩山は、立ち尽くす康夫を見ながら、確信した。環境が変わったことで、檻のように機能していた家のルールが崩れたのだ。いや、もはや家じゃない。
おれは、この弟に何をしてきたのだろう。
「お前は、おれの弟だぞ」
萩山が言うと、康夫は何度もうなずいた。その情けない姿は、子供のときに持ち物を同級生に全て取られて帰ってきた日から、何も変わっていなかった。兄として、役割は果たした。康夫をいじめた同級生の『持ち物』は、小学校を卒業するまでの二年間、ありとあらゆる手段で『なくなり続けた』。本人が見ている前で、自転車を川に投げ捨てたこともある。それが、萩山和基に求められていた行動だったからだ。
おれだって、実の弟を殺したくはない。
この場を収めるために言いくるめようとしているのか、これが頭の中にずっとあったことなのか、今となってはごちゃ混ぜになってしまって、分からなくなっていた。
「ここには、ずっとはいられないんだ。旅行と一緒だよ」
萩山が言うと、康夫は諦めたようにうなずいた。萩山は、林の中へ続く薄暗い道を指差した。
「おれたちには、仕事があるだろ。もし戻らなかったら、店はどうなる? おれたちが帰らないと、正月明けから大変だぞ。この道が町に繋がってるか、確認するんだ」
「町。まちにはいけないって」
「それを確認しよう。歩けるか?」
萩山が手を差し出すと、康夫はそれがきっかけになったように、手を掴み返すことなく歩き始めた。萩山は頭上に伸びる枝の数本が折れていることに気づいた。折れた断面は真新しい。川を流れる水の音に案内されるように、萩山は歩いた。川は途中で明後日の方向へ逸れ、景色が開けて町の景色がおぼろげに見えた。大きな町ではないが、建物が見える。道路はくねりながらも、続いているように見えた。距離は読めないが、歩きなら夜通しだろう。光源がない中、歩き続けるのは難しい。しかし、ハイラックスを拝借するとなると、『逃げた』ということは必ず発覚する。
「お前、あの町まで歩けるか?」
「ちょっと、とおい」
康夫が即答し、萩山は思わず笑った。その通りだ。辿り着けそうに見えるが、それは道がまっすぐであれば、の話だ。途中でつづら折りになっていれば、見積り通りにはいかない。もう少し先まで歩きたかったが、あまり時間が空きすぎると、怪しまれる。萩山は康夫の背中をぽんと叩いた。
「戻るぞ、昼飯はなんだろうな」
長池は、事務所の中で日誌を読み返していた。カローラバンを入庫したことは、すでに書いた。しかし、本当は残すべきではないのかもしれない。八頭集落にかかる橋を初めて通ったのは、戦後という概念が消えつつあった頃で、小学校に上がった年だった。完成したばかりで、そのコンクリートの塊は頼もしいのと同時に、両端の橋げたは要塞への入口のようにも見えた。どちらも、集落の一部とされていない長池家には、無縁のものだった。ただ、学校へ通うにはその橋を渡るしかなく、長池は人目につかない早い時間に家を出て、なるべく人に見られないようその橋を渡っていた。早起きするようになったきっかけは、『火つけは川で水を被ってこい』と言われたからで、最初はその意味が分からなかったが、両親にそのことを話した夜、二人は八頭集落に伝わる『呪い』の話を、大真面目な顔で話した。
長池自身は、現実主義だった。油売りだった先祖のやったことで、集落の外に家を構えている。それなら、集落の外にしかないものを作ればいいと考え、商売で燃料を扱うことを考え始めた。冬に薪を火にくべる時代が終わりつつあることは、敏感に察知していた。しかし、燃料を扱うには、危険物取扱者の資格が要る。そう考えた長池は、両親が期待した集団就職や集落の外での暮らしを全て捨て、一九七二年に長池石油を開業した。翌年に敏道が生まれ、一九九〇年に妻の敏子を病気で失うまでは、三人家族だった。
今でも、安心して冬を越せるのは、長池石油によるところが大きい。集落の人間が来ても、わざわざ頭を下げさせることは、しなかった。商売は商売だ。敏道が学校で嫌な思いをすることはなく、炭谷家ともうまくやっている。行事や集落の習わしにも参加する義務はなく、一種の寂しさはあるものの、ほとんどの場合は気楽さが勝つ。今となっては、あれこれ頼みごとをしてくるのは、炭谷家ぐらいだ。
敏道が給油に訪れた客に、地図を片手に道案内をしている。下りは通行止になっているから、山を大きく迂回するルートを案内しているのだろう。その様子を眺めながら、長池は無線が立てる音に注意を払った。
『私は、何のしがらみもありませんから。助け合いましょう』
それは、まだ十六歳になったばかりの、千尋の言葉だった。長池家の出入りを未だに禁止にしている野瀬商店に比べると、もっと歴史が長いはずの炭谷家にいながら、千尋は過去に囚われない性格だった。冬に緊急事態が起きたときのために、無線を持っていてほしいと頼みに来た日のことだった。耳障りのいいことを親が言わせたとは、思えなかった。もちろん、父親が頼みごとをしてくるときもあり、都合よく使われているように感じることもある。しかし、あのとき無線を手に現れた千尋の表情を思い出すと、集落と長池家を平等に繋ぐための手段だと、思い直すこともできた。まだ、無線は鳴らない。それがいいことなのかは、分からない。ただ、前回の『本祭』から、二十五年が経ったのは確かだ。
「おかえりなさい」
長池は、禁句とされている言葉を呟いた。
「今まで、ありがとうございました。おかえりなさい」
集落史に残る、おぞましい絵。間に合わせで作られた、出来の悪い像。
その八つの頭のほとんどには、顔がない。
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