【6】二〇二一年 一月

「和基さんは、約束は必ず守る人でした」

 斎藤は、向かい合わせに座る篠田に言った。篠田が、その先を眉の動きで促すと、斎藤はコーヒーをひと口飲んで、言った。

「連絡がつかなくなったのなら、何かがあったんだと思ってます」

「それにしても、二十五年ぶりっすから。それまでにも、探したりした?」

「いえ、今回思い立ったのが、初めてです」

 斎藤はコーヒーを飲み干した。篠田は少しだけ傾き始めた日を見ながら、スマートフォンのロック画面を解除し、言った。

「あー、調べ物してくっか」

 これ以上、会話の間は持ちそうにない。斎藤をひとりにするのは忍びないが、何事にも限界はある。篠田は立ち上がり、上着を着ると、玲香の部屋の前で一度壁をノックした。

「はあい」

「おれ、ちょっと公民館行ってくるわ。散歩がてら。来る?」

「行く」

 がらりと引き戸が開いて、上着を片方だけひっかけた玲香が現れ、篠田は思わず後ずさった。

「なんだよ、準備万端じゃんな」

「片腕だけね」

 玲香は両腕を袖に通すと、笑った。階段を下りきったところで、千尋に言った。

「ちょっと、公民館に行ってきます」

「あら、いってらっしゃいませ」

 外に出て、寒さから頭をかばう様に首をすくめた後、篠田は歩き始めたが、すぐに足を止めた。ハイラックスサーフのナンバープレート。分類番号は二桁で、九十年代の登録なのは間違いない。中途半端にまくれ上がったブルーシートから、確かに見えていた。

「斎藤ちゃん、よく見てんなあ」

「何が?」

「ナンバーだよ。県外って」

 玲香は、篠田が目で指した方向へ視線を向けた。確かに、県外ナンバーだ。しかも、数県跨いでいる。

「県外だったら、何かあるのかな?」

 玲香が言うと、篠田は再び歩き出しながら、首を傾げた。

「いや、地元の車なら廃車にして放っておくのも分かるけどさ。言ったら、よそ者の車がここで朽ちてんだぜ」

 それ以上の答えは生み出せず、玲香は小さくうなずいただけで、公民館までの道を歩いた。寒いが、凍え死ぬほどではない。歩いて気づいたのは、なだらかな傾斜の先に神社があるということだった。

「ねえ、あの先が神様のいるとこなのかな」

「だろうな。高い場所に作るはずだ」

 篠田は目を細めながら、坂道の先に見える木造の本殿に目を凝らせた。左右に建物がなくなり、道が開けたところで、玲香は言った。

「ねえ、篠ちゃん。どうやって聞いたらいいかな?」

「お父さんの話? 普通に聞けばいいじゃん。あんまり捻ると、相手も混乱するんじゃね?」

「でも、覚えてなかったら、それで終わりだよね」

「絶対覚えてる。あの女将さんだって、客商売やってんだからさ。ふらっと入ってきた客の顔は覚えてるだろ。それに、この周りには宿なんてないし。あのガソスタで立ち往生したなら、ここだと思うね」

 篠田は胸を張って言い切ると、足を止めた。鳴き声がする。

「猫かな?」

「だね。どこだろ?」

 篠田は、思わず笑顔を浮かべた。玲香は猫好きだ。それでも飼わないのは、自分がふさわしい飼い主だとは到底思えないから。猫を不幸にしたくない一心で、動画で我慢している。それでも、一期一会の野良猫で人懐っこいのがいれば、話は別だ。

「猫笛とかねえの?」

「犬笛はあるけど、猫は聞いたことないね。篠ちゃん、キャットフード持ってないの?」

「ねーよ」

 篠田は肩を揺すって笑った。集落の方で聞こえるということは、もしかしたらどこかの家で飼われているのかもしれない。玲香も同じ方向を振り返ったが、結局前に向き直って、足を進めた。公民館の中は案内なしだとひどくがらんとしていて、窓から差し込む淡く色づいた夕日の帯の中で、埃がくるくる舞っているのが見えた。資料室の電気を点け、篠田は集落史を手に取った。

「さてと。おれが知りたいのは、歴史だ」

 最初のページには、集落の成り立ちが書かれていた。文字は新しく書き起こされているが、隣のページには、倒れた猫を取り囲み、油や食べ物を持って跪く村人の姿が描かれていた。目を忙しなく動かしながら、篠田は言った。

「この猫は長寿で、この村の平和の象徴だったらしい。三百年前の話だ」

「ちょっと待ってよ、もうそこまで読んだの?」

 絵に見入っていた玲香は、呆れたように笑った。篠田は、自分でも呆れたように苦笑いを浮かべ、ページをめくった。神社の絵が描かれていて、それはさっき見たのと同じ、石段の上にあった。

「どうも、この猫は手違いで死んじゃったらしいな。で、この村は不作になった。そういや、何も育たない土地だって、女将さんが言ってたっけ」

「この猫の呪いみたいなやつってこと?」

「そこまでは書いてないけど、文面からして、ガチで反省したっぽい」

 篠田の軽い言葉は、絵面に全くそぐわない。玲香がくすりと笑ったとき、外で車の停まる音がして、二人は目を合わせた。公民館の扉が開く音がして、足音と台車が転がる音が鳴った。集会場の中に台車が入れられ、足音が止まったとき、篠田は顔を出した。万世が髪をかき上げ、ひと仕事終えたように手を打ち合わせたところで、篠田は顔を引っ込めようとしたが、先に万世が目を向けた。

「あら、こんにちは」

「お邪魔してまっす。あ、万世さんちょっといいすかね」

 篠田は昔からの知り合いのように言うと、万世を手招きした。資料を覗き込む人間が三人に増えたところで、万世は言った。

「調べものですか?」

「そーなんすよ。歴史、詳しいっすか?」

「うーん、そこまでは。この集落で一番若い世代が、わたしとか彩乃なんですよ」

 万世は苦笑いを浮かべながらも、髪を耳にかけて、集落史を覗き込んだ。篠田は言った。

「なんか、手違いで猫が死んじゃって、ガチで反省したってとこまで読んだんですけど」

「ああ、これはね。不作の呪いです」

 その整った横顔からあっさりと『呪い』という言葉が出て、玲香は両腕に走った鳥肌を隠すように、両手に力を入れた。万世は集落史の、最初のページを開いた。

「わたしも、歴史については両親から聞かされたぐらいでして。ただ、習わしとして、祭りのときは、普段神様に守ってもらっているお返しをするんです」

「感謝する、というのではないんですか?」

 玲香が言うと、万世は視線を上げた。その大きな目は薄い化粧の中で異彩を放つようにはっきりとして、窓から差し込む夕日をまっすぐに跳ね返していた。玲香と目が合うと、万世は白い歯を少しだけのぞかせて笑った。

「そうですね、どちらかというと、わたし達が神様の守りをするのが目的です。この辺はちーちゃん……、いえ、千尋の方が詳しいと思います」

 玲香は、篠田の顔をちらりと盗み見た。時間が許せば、このまま明日まで聞いていそうだ。神様を守るということは、持ちつ持たれつの関係。玲香はそれを口に出そうか迷ったが、篠田と万世の両方から文句を言われそうな気がして、唇を結んだ。その表情の変化を察した篠田が、再び集落史に視線を落とした万世に言った。

「子供のころとか、覚えてます?」

「人並みには、覚えてますよ」

 万世はそう言って、顔を上げた。玲香は、篠田に向かって微笑んだ。千尋や彩乃よりも、万世の方が聞きやすい雰囲気がある。玲香は、小さく息を吸いこんでから言った。

「あの、今から二十五年前の話なんですけどね。九十六年です。正月のことは覚えていますか?」

「はい、この年はよく覚えています。本祭の年で、お客さんがいらっしゃったんですよ。雪で立ち往生しちゃって」

 万世が言った。玲香の心臓が好き勝手に暴れ出し、篠田が夕日を遮るように姿勢を正した。万世は玲香の目をじっと見ていたが、突然頭の中で線が繋がったように、歯を見せて笑った。

「もしかして、娘さんですか?」

 ずっと遠くに見えていたものが、突然目の前に迫ったようだった。半分が夕日に照らされた万世の笑顔に合わせてうなずきながら、玲香は思った。今まで、記憶のロープの端を離すことはなかった。その先は暗闇で、時折思い出しては端を引っ張ってみても反応などあるわけがなく、そうなることを受け入れていた。それが今日、たった今、二十五年間で初めて生身の力で反対側から引かれたのだ。その手応えの中に、底の見えない微かな恐ろしさがあった。

「そうです、あの……」

「出て、右に行くとあります」

 篠田が、それがお手洗いのことだと気づくよりも前に玲香は資料室から出て、木でできたドアを開いた。鏡の前に立ち、目元を確認する。自分がどんな表情をしているのか、涙を流しているのかも分からない。自分ではない誰かが電源ボタンを踏んで、体全体にリセットがかかったような感覚。改めて見てみれば、がらがらと音を立てて散らばったのは内面だけで、外から見れば少し化粧が派手なだけの、二十九歳の女だった。泣きたいわけでもないし、言葉は見つからない。ただ、過去と再び接点を持つには、あまりにも長い年月が経ちすぎたのかもしれない。

 篠田は、姿を消した玲香を気にするように、開きっぱなしになったドアをちらりと見てから、集落史を開いた。九十六年の正月。祭りの前に撮られた写真。万世は言った。

「あら、わたしだ。恥ずかしいな」

 写真を撮ると言われても、じっとはしていられない。そんな活発さが、写真から滲み出ている。おかっぱ頭に気づいた篠田は、全く異なる髪型の万世を見ながら言った。

「おかっぱ、やめちゃったんすね」

 万世は声を出して笑った。その仕草の端々には、姉に縋りついて笑う妹の面影がある。自由に振舞っていても、隣で姉が訂正してくれる安心感。おそらく、物怖じしない明るい子供だったのだろう。篠田がそれを口に出そうか迷っていると、万世は言った。

「仕事柄、髪を上げられないと困るんですよね」

「万世さんも、働きに出てんすか? 彩乃さんと交代じゃなくて」

「はい、ドライブイン安川で働いてます。駐車場にマジェスタが停まってるの、見てましたよ」

「マジ?」

 篠田がそう言って笑ったとき、万世は同じように笑顔を浮かべながら、篠田の肩をぽんと押した。

「まさか、こんな形でいらっしゃるなんて、思いませんでした」

 そう言ってくすくすと笑う万世は、篠田の目には今までに見たことない種類の人間に見えた。顔見知りばかりの集落で育ち、地元から離れることなく過ごしている。独身なのかということも気にかかったが、それは言い出す気になれず、篠田は言った。

「縁つうか。玲ちゃんさ、二十五年前に親父が出ていったきりで」

「そうだったんですね。ご兄弟でいらしてましたよ。これこそ、千尋の方がよく覚えているかと」

 万世は、そうすれば記憶が蘇ってくるように、写真に写る子供のころの自分を、とんとんと指で叩いた。篠田は言った。

「あの民宿には、どれぐらいいました?」

「確か、祭りの日までは」

 万世が即答したとき、篠田はふと我に返った。ぽんぽんと聞き出してしまって、いいのだろうか。この答えを欲しがっているのは、玲香のはずだ。そう思ったとき、万世が深緑色の『原典』に手を伸ばした。髪が篠田の肩に触れて、くすぐったい感触を残した。

「九十六年以降のことは、この一冊に書いてあると思います。どんどん薄くなってるんですよね。昔のは五年で一冊なんですけど、九十六年以降はこれしかないんですよ」

 万世はそれを机の上に並べ、正月の記録を開いた。玲香が戻ってきて、篠田と目を合わせた。

「ごめん」

 万世が顔を上げ、呼び寄せるように手をぱたぱたと動かした。

「萩山さん、こっちの方が詳しく載っていますよ」

 玲香が覗き込むと、万世は真ん中に載る、集会場で開かれた宴会の写真を指差した。ピントの合っていない位置に座る二人の男。

「この二人が、例のお客さんです」

 体は半分こちらに向いているが、二人とも顔を背けている。その後ろ姿からは、もちろん表情は読み取れない。それでも、誰かは分かる。玲香は、そのシルエットを眺めた。本当に、ここにいたんだ。細身な方が父で、間違いないだろう。

 篠田は、隣に座る大男が気になり、玲香に言った。

「もうひとりは、友達?」

「叔父さんだと思う。会ったことはないんだけど、この人も行方不明だよ」

 玲香はそう言って、また写真を見つめた。生身の人間が紙に取り込まれたようだ。万世が思い出したように目線を上げた。

「千尋がネガを持ってるかも。聞いてみます」

 玲香の両頬が涙で光っていることに気づいたのは、篠田が先だったが、万世がすぐ横について、抱きかかえるように肩へ手を回した。篠田は集落史に目を逸らせながら思った。万世は勘がいいし、頭の回転も速い。まるで、次に何が起きるか予知しているようだ。

    

 がらんとした部屋の中を、何周したか分からない。斎藤は、足の指に意識を向けながら部屋の中を歩き回っていた。篠田と玲香は帰ってこない。遠くで動物が鳴いているのが聞こえて、斎藤は頭をぐるりと動かした。猫のようだ。すばしっこくて、何を考えているか分からない生き物。『猫の手も借りたい』という諺の通り、頼りにならない。

 出頭したとき、応対した刑事が向けた視線を、今でも覚えている。女を殺した人間が同房の連中からどう見られて、どんな目に遭うか、よく知っている目だった。その刑事もおそらく、無期刑を受けるとは思っていなかっただろう。公選弁護人ですら、事の成り行きを面白がっているようだった。十五年で出られたのは、抵抗することなく、大人しくしていたからだ。文字通り、何をされても。斎藤は、左足の薬指と小指があった場所に、意識を向けた。二本の指は同じ日に、凍傷で壊死した。斎藤をサンドバッグにしていた元暴走族の囚人に、真冬に氷水に漬けられたことで、あっさりとその機能を失った。最も辛かったのは、夜通しマットレスの下敷きにされることだった。骨が潰れそうになっても声が出せないから、誰も気づかない。『こいつには何をしても大丈夫』という空気が引き継がれ続けた結果、出所して十年が経つにも関わらず、まっすぐ立っているように見えても、骨のあちこちが曲がって、軋んでいる。その神経性の痛みは年々酷くなっていた。それが、やってもいない罪を被ったことで刑期の中で得た『贈り物』だった。約束とは、一体何だったのだろう。二十五年前の正月。年が明けてすぐに、真夜中の空き地で、萩山は言った。『数年だよ。お前は頭がいかれてるから、医療刑務所に送れる』。両親が事故で亡くなったとき、十九歳だった斎藤は自身も後部座席に乗っていて、頭の骨が折れる怪我を負った。脳のどの部分を損傷したかは、外科手術では判明せず、性格に変化を及ぼす可能性があるということだけを、担当の医師から教わった。萩山は、斎藤が店に出没するネズミを捕まえる様子を見て、言った。

『お前、その殺し方はサイコじゃないの』

 罠にかかったネズミを檻から出すと、その後ろ足を巨大なホチキスで板に打ち付け、頭をゆっくりと踏みつけて、少しずつ体重をかけていく。その過程で斎藤は、萩山にそう言われて気づいた。事故が起きる前にこんなことをした覚えはなかったと。しかし、殺し方のアイデアだけは、脳のある位置に用意されたプールに次から次へと注がれているようで、常に溢れ出していた。そして、萩山は苦笑いを浮かべても、止めることはなかった。一度だけ、固形燃料をネズミの全身に塗って火をつけようとしたときだけは止めた。

『そいつが逃げ回ったら、火事になるだろうが』

 斎藤は叱られたと思って首をすくめたが、萩山は檻を掲げた。

『先に檻の中に入れろ』

 檻の中で火だるまになって暴れまわるネズミを斎藤が見つめていると、萩山は呆れたように笑った。人に何かをしろと言っても、その結果が出るころには一歩引いた位置で苦笑いを浮かべる男。今思い返せば、萩山も面白がっていたのだ。斎藤にとっては、それは火だるまになったネズミだったが、萩山にとっては、斎藤がその役目を果たしていた。

 斎藤は、ふと足を止めた。体が左に傾き、食いしばった歯に少し力が籠る。こうやって帰ってくることができた。かつて、ネズミの殺し方で一杯だった脳の一部は、空っぽだ。ここ十年は思い出しもしなかったのに、それがどこにあるかだけは、今は不思議と分かる。修也と玲香は立派に育った。子供のころを知っているわけではないが、修也と違って、玲香はあの父親にはあまり似ていない。篠田も悪い人間ではないが、かつて真っ黒に変色した足の指を見て、『あー、そりゃ切断だわ。泣くなや、死なねえって』と言って笑った同房の男に、話し方が似ている。そして、猫のことを考えると、空っぽになった『例の場所』に、少しだけ何かが染み出してくるように感じる。部屋から出るだけの力が湧き、斎藤は一階に下りた。台所に立つ千尋が笑顔で見送り、斎藤は愛想笑いを返しながら靴に足を通そうとしたが、転びそうになって靴箱で体を支えた。斎藤は足元に視線を向けた。靴が逆を向いている。千尋がぱたぱたと足音を鳴らしながら傍に来て、言った。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい。大丈夫です。大丈夫なんですけど、靴が逆になってて」

「あら、ごめんなさい。私が並べ替えたんです。変な習慣でしょう」

 千尋はばつが悪そうに首をすくめた。斎藤は自分で靴を正しい方向へ並べると、足を通した。なんとかまっすぐ立ち、掴んだときに少し動いた靴箱の位置を修正すると、言った。

「これ、逆にする習慣があるんですか? 靴を?」

「そうです、祭りまでの間」

 千尋はそう言うと、斎藤がさらなる説明を期待していることを悟ったように、歯を見せて笑った。

「悪いものが来ても、迷うように」

 斎藤は笑った。迷信の類だ。軒先に並ぶ靴が反対を向いていたら、それで『悪いもの』は入れないのだろうか。千尋が表情を変えないことに気づいた斎藤は、言った。

「悪いものって、何です?」

「三百年以上前になりますが、この集落は、守り神の猫を誤って殺したんです。猫は祟りとなって、作物が育たなくなりました。当時の人間は、その祟りを打ち消すために神様を立てたんです。はちがしら様というんですが、社に名前が残っています」

 千尋はそう言うと、外に出ようとしている斎藤に今更気づいたように自分も靴を履き、引き戸を開いた。二人で外に出て、千尋が引き戸を閉めたところで斎藤は言った。

「はちがしらって、どんな風に書くんです?」

「八つの頭と書きます。急ごしらえの像の出来が悪くて、頭が八つあるように見えたからだそうです。昔の人は、必死だったんだと思います」

 千尋はその様子を思い描いているらしく、斎藤が全く共有できない笑顔を浮かべた。

「悪いものってのは、猫なんですか?」

 斎藤が言うと、千尋はうなずいた。

「ええ。明日が、その猫の命日なんです。寝ずの番で、はちがしら様を守るのが、祭りの意義です」

 斎藤はうなずいたが、千尋の言葉はあまり浸透していなかった。頭の中の、空っぽになった入れ物。そこに溢れていた、殺し方のアイデア。この集落には、明日までに悪いものが集まってくる。かつて火だるまにしたネズミが檻に体当たりする金属音が、猫の鳴き声に変わり、思いがけず玲香と篠田の顔に結び付いたとき、斎藤は思った。

 自分も、『悪いもの』のひとつなのかもしれない。

        

 野瀬商店は、名目上は十八時で閉店。しかし、店主が二階に住んでいるのだから、二十四時間営業と変わらない。彩乃は社に続く坂道を早足で上がり切って、息を整えた。姉妹が二十歳になったとき、父は手伝いで出向いた建設現場の事故で死んだ。その二年後に母が続き、野瀬商店は自然と姉妹の手に引き継がれた。集落の人間は不文律に縛られたように、野瀬商店以外では買い物をしなくなった。住人がいる限り、商店は守られ続ける。それは有難いことだったし、今でもその不文律は続いている。

 彩乃は二十代の半ば、集落の外から配達で訪れる男と付き合い始めた。しかし、八頭集落という名前はどこまでもついて回る。自分たちで守り神を殺してしまったことで不作になったこの土地は、『忌み地』とされている。それが自業自得だという評価は深いところに根付いていて、配達人の男にもその意識を見出した彩乃は、自分から別れを切り出した。三十五歳になって思うのは、冒険心よりも、見慣れた景色の心地よさが勝つということ。自分以外の最後のひとりが死に絶えて、野瀬商店を利用する人間がいなくなったら、その時考えればいい。子供のころからどこか大人びていて、現実主義的だと言われてきたが、彩乃自身は、自分のことをそう考えたことはなかった。もし現実主義的な性格なら、若い内にこの集落から離れていただろう。自分と万世が学んだ学校が廃墟になって、木造の柱がゆっくり傾いてきているのを見ても、何とも思わなかっただろうし、二十年以上現役の黒電話だってとっくに撤去していただろう。地元との縁を断つどころか、むしろ丁寧に守ってきた。しかし、気になることもある。果たして、はちがしら様は、本当に私たちを守ってくれているのだろうか。千尋の家も、両親は六十代で亡くなった。そして、千尋も独身だ。八頭集落には『子供』がいない。

 もし、これがひとつの壮大な呪いだとしたら。彩乃は分厚いジャケットの中で細い体を震わせた。集落全体が二十五年の歳月をかけて、こうなったのだとしたら? 疑うこと自体が、罪深い。理屈では分かっていても、昔の人間に話しかけることができるなら、聞いてみたい。今の集落の姿を想像できただろうかと。残った家は七軒。住人は二十人ほどで、祭りに参加する家は野瀬家と炭谷家だけになった。万世は、公民館に行ってみると言った。『お客さん』が調べ物をしているなら、手伝いたいと。彩乃は思った。私なら、集落史を開く気にもならない。まだ十六時だが、木々が覆いかぶさるように日を隠し、社の前は薄暗かった。彩乃は手を合わせると、目を閉じた。

「はちがしら様。一年間、ありがとうございました。どうかご無事で」

 奥からは、薪を割る機械的な音が聞こえる。彩乃は少し大きな声で言った。

「よろしくお願いします」

 斧の音が一度止んで、また繰り返された。ランニング用のウエストポーチの中でスマートフォンが光り、彩乃は一歩下がって、千尋から届いたメッセージを読んだ。

『はちがしら様に、ありがとうございました、おかえりなさいって、伝えておいて』

 彩乃は目を見開いた。『おかえりなさい』という言葉を軽々しく使うことは、固く禁じられている。彩乃は動悸を抑え込むように胸に左手を当てると、社を笑顔で見上げた。

      

 十八時きっかりに夕食が並び、玲香は目を丸くしながら言った。

「これ、全部千尋さんが作ったんですか?」

「ええ、お漬物だけは野瀬から買っちゃいました」

 そう言って小さく舌を出す千尋は若々しく、とても四十四歳には見えない。この集落に来て、幾度となく思ったこと。千尋だけでなく、彩乃や万世も同じように、所帯疲れのようなものが全く見えない。玲香は笑顔を返すと、椅子を引いた。隣に篠田が座り、その向かいに斎藤が座った。篠田はお茶を人数分注いだところで、四つ目の湯呑みがないことに気づいて、言った。

「千尋さん、食べないんすか?」

 千尋は口元に手を当てて笑った。

「私はご一緒できませんよ。でも、お話なら伺いますよ。公民館はいかがでしたか?」

 千尋が食卓の空いた席に腰を下ろすのと同時に、玲香が言った。

「あの、わたし萩山玲香っていうんですけど。二十五年前にここに泊まった人の娘なんですよ」

「あら、そうなんですか」

 千尋が目を丸くするのと同時に、篠田と斎藤が『いただきます』と言い、玲香もそれに倣った。変なタイミングで切り出してしまった。玲香はそう思いながら、千尋の視線を追った。後ろを振り返ったまま、千尋は言った。

「昔の宿泊帳、あるかしら」

 言いながら立ち上がり、千尋が襖の後ろへ入っていったとき、篠田が言った。

「あの写真の話、万世さんしてねーのかな」

「どうだろう」

 斎藤が箸を動かす音だけが響き、篠田と玲香は千尋が戻ってくるのを待った。分厚い宿泊帳の埃を丁寧に払うと、千尋はバツが悪そうに首をすくめながら言った。

「食事中にすみません。ちょっと埃っぽいですよ」

 千尋が開いたページに、二人分の名前があった。一月五日と書かれた隣に並ぶ文字の羅列だったが、玲香はそれを指でなぞりながら呟いた。

「萩山和基。お父さんの名前だ」

「康夫ってのが、弟さんか」

 篠田が言ったとき、斎藤が箸の動きを緩めて、首を伸ばした。

「自分は、ヤスの友達だったもんで。でも、いなくなるって何があったんでしょう」

 宿泊帳に書かれた『ご出発』の欄には、一月七日と書かれている。玲香は頭の中で日数を数えた。三日で車を修理して、出て行ったことになる。

「近くに長池石油ってあるじゃないすか。修理お願いしたのって、この辺ならあっこすか?」

 篠田が思い出したように言った。千尋はうなずいた。

「そうですね。大雪で部品がすぐに届かなかったから連泊になったと、記憶しています」

「燃ポンですか」

 斎藤が言ったとき、玲香が息を呑み、篠田があの『険しい目』を斎藤に向けた。それは侵入して日誌を見なければ分からないことだ。千尋は単語の意味が分かっていない様子で、愛想笑いを浮かべた。湯呑みに自分で茶を注ぐと、言った。

「長池家というのは、うちと同じぐらい歴史が長いんですよ。斎藤さんにはお話ししましたけど、猫にまつわる祟りの話は、万世から聞かれましたか?」

 篠田が穏やかな表情に切り替わると、うなずいた。

「なんか手違いで死なせちゃって、反省したんすよね」

「あはは、反省。そうですね。その猫は賢くて、どの家にいけば何がもらえて、可愛がってくれるか分かっていたそうです。長池は油売りでした。ある日、猫の相手をしているときに行燈を倒してしまい、家は焼け落ちました。猫もそのときの火傷で、亡くなったんです」

 千尋が息継ぎもなしに言い切ると、篠田は気まずそうに眉をひょいと上げた。

「それは長池さん、バツ悪いっすね」

「なので、集落の中には、長池の家はないんですよ。川を跨いだ側に、屋根の潰れた家があったでしょう。あれが長池家です」

 来るときに、見た気がする。玲香は思い出しながら、ふと気づいた。いつ、長池家の話になったんだろう。篠田が歴史寄りの話に興味を刺激されたように、少し前のめりになって言った。

「長池石油の人は、その行燈を倒した人の末裔なんすか?」

「そうです。確か、それまでは油谷と名乗っていたんですけどね」

 千尋が言うと、篠田が得意げな顔を作った。玲香は苦笑いを浮かべた。自分だけが知っていると思っていることを披露するときに、よくやる表情だ。篠田は言った。

「なるほど、炭と油っすか。炭谷とか油谷とか、得意分野の名前を取るんすよね」

「よく覚えてらっしゃいますね」

 千尋は嬉しさを隠せないように、少し首を傾けながら笑顔で言った。斎藤が箸を止めて、言った。

「あ、あの。逆向きにするのは?」

 篠田と玲香が怪訝な顔を向けると、千尋が言った。

「祭りまでの日は、表札と靴の向きを逆にします。どの家に何があるか、猫は知っていますから。でも、逆向きになっていると、迷ってしまって入れない。そういう迷信が残ってるんですよ」

「へー、おれらの靴も逆向いてるってこと? ちゃんと見てなかったな」

 篠田が言うと、千尋はうなずいた。

「表札も、今日逆向きにしました。祭りの日が猫の命日なので、過ぎれば元に戻しますけど」

 そう言って笑う千尋を見つめながら、玲香は思った。千尋の落ち着いた口調だから普通に聞こえるだけで、冷静にイメージすると、ずいぶんと変わった風習だ。祭りの意味は、猫の祟りから神様を守ること。つまり、命日に何かが来るということになる。

 食事が終わり、交代で風呂を済ませた後、歯磨きをしている玲香の隣に立った篠田が言った。

「よっす、隣空いてる?」

「どーぞ」

 頭ひとつ分背が高い篠田を見上げながら、玲香は言った。

「わたし、満足したかも」

「何が? 親父さんのこと?」

「うん。いろんな話を総合すると、うちのお父さんって、善人じゃないんだよね」

 歯磨き粉が口の中に残ったままの、ぎこちない会話。篠田は歯を磨きながら器用に笑い声を出した。

「この世に、善人なんかいねーよ。誰かにとって悪人でも、他の人間にとったらダンナだったり、親だったりするんだから」

「篠ちゃん、この旅でめっちゃ賢くなってない?」

「うるせー。これはおれの持論だよ。昔からそう思ってた」

 玲香と篠田は、口の周りが真っ白になったまま顔を見合わせて、笑った。うがいをすると、篠田は言った。

「もういいの? じゃー、明日出る?」

「斎藤さんがいいなら」

 玲香が言うと、篠田は鼻で笑った。

「あんな奴、どーでもいいだろ。ここに埋めてくか?」

 玲香は苦笑いを浮かべた。誰に対する強がりか分からないその笑顔も、言葉も、わたしは嫌いだ。斎藤さんと言葉に出さなければ、後味良く会話を終えられたのに。玲香は『おやすみ』と言って篠田の背中をぽんと叩き、二階に上がった。篠田は、コップを洗うとフックにかけて、鏡を見上げた。九十六年なら、電話とかもないはずだ。記録のほとんどは、紙。残す意思さえあれば、ほとんどのものは文書として残る。篠田は、二階に上がりながら続きを考えた。あの集落史は、あれだけ分厚いのに、社に関する記述が極端に少ない。そして、今日会った人間は、野瀬彩乃、万世、そして千尋だけ。遠くに人影は見えたが、接したのはたった三人だ。それなのに、集落の隅から隅まで知り尽くした気になっている。働きに出ている人間は、どこかのタイミングで帰ってきたはずだ。夕方だとすれば、公民館で調べ物をしていた時間帯だから、見逃しただけかもしれない。篠田は部屋に入り、布団を半分かぶって寝る準備に入っている斎藤の隣に腰を下ろすと、言った。

「今日さ、外出ました?」

「ええ、ちょっと散歩しました。そのときに、女将さんから猫の話を聞いたんです」

 斎藤が言ったとき、遠くで鳴き声がした。篠田は首をすくめた。猫と言えばふわふわの可愛い生き物だが、この集落の中では鳴き声自体が『呪いが続いていることの証明』に聞こえる。斎藤は言った。

「像がでこぼこで、頭が八つに見えるらしいっす。想像したら怖くないですか?」

「なんの話よ」

「はちがしら様ですよ。間に合わせの神様らしいです。造りが悪くてでこぼこだから、頭が八つに見えるって。そんなことあるのかな。見ようによっちゃあ、あるか」

 独り言のように呟く斎藤を見ながら、篠田はスマートフォンを取り出すと、ライトを付けて自分の顔を下から照らした。

「八つに見えるっすか?」

 薄暗い部屋の中では十分に効果があったらしく、斎藤は布団から逃げ出すように後ずさった。布団の端が跳ねて篠田の手にぶつかり、スマートフォンが畳の上に落ちた。篠田が笑っていると、斎藤は体の中にさらに閉じこもるように、身を小さくした。

「か、勘弁してください」

「斎藤ちゃん、結構怖がりだね。ごめん、もうしないっす」

 篠田はそう言って、笑うのをやめた。スマートフォンを拾い上げたとき、点いたままになったライトが壁を照らした。一部、新しく塗り直された箇所がある。篠田は気づいて、ライトを動かした。

「これって、塗り直したのかな? 微妙に色違いますよね」

 斎藤は体を起こし、まだライトを警戒するようにびくつきながら、壁に触れた。

「一回、穴が開いてます。塞いで塗ったんじゃないですか」

「へー。まあ長いこと使ってたら、あるか」

 篠田は、色の違う部分がよく見えるように、テレビ台を少しずらせた。積もった埃の中にピンク色のキーホルダーが見えて、斎藤の肩を叩いた。

「なんか落ちてる」

 篠田は斎藤の注目を引いたことを確認してから、それを拾い上げて埃を払った。キーホルダーには『リネン』と書かれていた。その先には、黒い鍵がついている。トヨタのエンブレム。

「おい、これって」

 篠田は呟いた。斎藤も同じことを考えているように、目を丸く見開いていた。篠田はテレビ台を元に戻して、鍵を畳の上に置いた。斎藤は忙しなく瞬きしながら、言った。

「カ、カローラバンは、リネンを運ぶのに使ってました」

 篠田は、玲香を起こすべきか考えたが、斎藤と天井の間に視線を向けたまま、首を横に振った。

「今言うと、パニックになるな」

 二十五年前に故障して、長池石油に運び込まれた車。

 その鍵がここにあるということは、車は治らなかったのだ。

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