【5】一九九六年 一月 二十五年前

 朝の七時半。電気を点けなくても、明るすぎるぐらいに日が差している。萩山は目を開けて、電灯から垂れ下がる紐を眺めた。昨日の酒は抜けきっているが、体の中が色々な物を余計に吸い込んだように重い。頭痛はなく、日付が変わる前から熟睡できたということが分かった。昨日の今頃は、閉店したばかりの店舗の裏にある空き地に隠したカローラバンを取りに行っていた。がさりと音がして野良犬が出てきただけでも、飛び上がって車の影に隠れるぐらいに、びくついていた。夕方に事態が一変して、これだ。集落で一泊して、今は朝御飯が用意されるのを待っている。萩山は体を起こした。康夫はすでに起きていて、窓ガラス越しの景色を見ていた。康夫が自分で起き出すなど、今までに見たこともない。萩山は言った。

「起きてたのか」

「たのしかった」

 康夫は窓の外を眺めながら言った。萩山は、康夫の大きな背中を見ながら思った。人生に一度も吹き込まなかった風。見知らぬ土地で歓迎され、一泊するだけのことだが、萩山自身もその暖かさには無縁だった。

「そうだな」

 萩山は、康夫の隣に立って窓の外を眺めた。向かいの野瀬商店は営業中だが、人の気配はない。昨晩から降り続いた雪が積もっていて、そこに何組か足跡が見える。隣の部屋で引き戸の開けられる音が鳴り、足音が部屋の前を横切っていった。

 神谷のハイラックス。せめて、ドライブインまで戻ることができたら。萩山は続きを考えながら、差し込む朝の光から逃れるように、布団の上へ座り直した。通行止になったのは、町に下りる道。つまり、目的地の方向だ。逆方向も、同じようにどこかで通行止になっているのだろうか。萩山は立ち上がると、鏡で寝癖の具合を確認し、トレーナーの上に上着を羽織った。

「ちょっと電話かけてくるから、そこにいろよ」

 返事を待たずに引き戸を開け、温度差に肩をすくめながら階段を下りきったところで、萩山は千尋とばったり顔を合わせた。

「おはようございます。よくお休みできましたか?」

 千尋が浅くお辞儀をし、萩山は思わず頭を下げて言った。

「おはようございます。おかげさまで、疲れも飛んだ感じです。あの、長池さんに電話をかけたいのですが。公衆電話ってないですかね?」

「そこの電話を使って頂いて大丈夫ですよ。番号は、電話帳の黄色の付箋のところにあります」

 千尋は手に持っていた雑巾を床の隅に置き、玄関のすぐ近くに置かれた黒電話の前に立った。萩山は一礼して、電話帳の付箋の位置を開きながら受話器を上げたが、じりじりと無機質なノイズが鳴るだけで、ダイヤルを回しても反応がなかった。立ち去ろうとしていた千尋が振り返り、受話器を持ったままフックを押し込む萩山に気づいて、言った。

「かかりませんか?」

「はい、ノイズみたいなのは鳴っているんですが」

 萩山が言うと、千尋はすぐ隣に立ち、受話器を耳に当てた。いくつか番号をダイヤルしたが、小さく『あら』とだけ言い、受話器を置いた。

「つながりませんね。長池さんでしたら、無線で呼べますよ」

 千尋は早足で台所に入り、四角い無線機を持って戻ってくると、目を丸くしている萩山に言った。

「燃料は死活問題になるので。電話は、ときどき止まっちゃうんですよ」

 千尋はボタンを何度か押して、三度目で言った。

「長池さん、すみません。いらっしゃいますかー」

 しばらく経って、雑音が小さなスピーカーから鳴った。

『はいはい、ごめんごめん。聞いてるよ』

 千尋は無線機を萩山に手渡すと、オレンジ色のボタンを指差して、言った。

「ここを押しながら話してください」

 萩山は一度咳ばらいをしてから、ボタンを押した。

「長池さん、おはようございます。萩山です。昨日はありがとうございました」

 ボタンを離すと、少しだけ間が空いたが、長池の声が少しだけ『余所行き』になって帰ってきた。

『萩山さん、カローラはねえ、まだ動かんよ。部品がないと。あと、鍵持って行ってない?』

「すみません、癖で持ってきちゃいました。通行止になったのは、町に下りる道ですよね? 反対向きはどうなんでしょう。引き返そうかと」

『山を越えるの? 危ないな』

 ドライブインに辿り着くまでの道は、何度か尾根を越える山道だった。そこを逆向きに辿るということは、そこそこの勾配がある上りの山道を走り抜けなければならない。常識的には、カローラバンを置いていくわけにもいかないし、一時的なものになるだろう。ドライブインで降ろしてもらい、そこで誰かに拾ってもらうか。しかし、先に行けないと分かっていて、わざわざ山越えしてくる人間がいるとも思えない。

「ドライブインは、開いてるんですか?」

『今はね。町側の道路が止まっちゃうと、春まで閉めるかもしれんね』

「ありがとうございます」

 萩山はそう言って、無線を千尋に返した。

「参ったな……」

 呟くと、台所の奥から千尋の父と母が顔を出して、母が言った。

「どうしたんな?」

 千尋の父は達夫、母は和美で、二人とも四十代半ば。お互いがどうやって知り合ったかということまで、萩山は野瀬家から教わっていた。達夫は、千尋と生物学的に違う生き物のように強面だが、笑顔は柔らかい。和美の方は真顔こそ優しいものの、その表情はあまり変わることはなかった。千尋が言った。

「町側の道が詰まっとるんよ。電話も繋がらんし」

「電話、あかんのか」

 達夫が言い、自分の手で受話器を上げると、千尋や萩山が試したのとまったく同じことを自分の耳で確認し、顔をしかめた。

「よく止まるからな」

 神谷が外から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら言った。

「おはようございます、皆さん揃って、どうしたんですか?」

「電話が不通になった」

 達夫が言い、和美は自分が問題の原因であるかのように、肩をすくめた。野瀬商店の引き戸が開き、中から彩乃と万世が顔を出した。大騒ぎだ。萩山は集まりから少しだけ距離を取って、神谷に小声で言った。

「すみません、電話をかけたくて。お借りしたら使えなかったんです」

 神谷は眼鏡をぐいと上げると、眉をハの字に曲げた。

「はあ、困りましたね」

 その横顔は理知的で、萩山が目線を逸らすタイミングからやや遅れて、神谷は萩山の方を向いた。

「車は、治らないんですか?」

「部品が要るんですよ。その部品も、道が開かないと来ないんです」

「神谷さん、すみません。あのハイラックスは四駆ですよね?」

「はい。あ、ドライブインまで送りましょうか?」

 萩山は、壁にかかる時計を見た。達夫と和美が台所に戻り、朝食の準備に戻った。千尋は雑巾を拾い上げながら、萩山と神谷の様子を伺っていた。萩山はうなずくと、神谷の目を見ながら答えた。

「そうですね……、お願いしたいです。どこかでお時間があれば」

「お祭りまでは暇ですから、いつでもいいですよ」

 神谷はそう言って、笑顔を作った。体の芯に光が灯っているように、その表情には明るさがあった。萩山がぺこりと頭を下げたとき、千尋が言った。

「今晩もお泊りになるなら、それは大歓迎です」

 その言葉にはどことなく、年相応の感情が込められた響きがあった。萩山が小さく頭を下げると、台所から達夫が言った。

「着替えとかないでしょ。長池に持ってこさせるわ」

 萩山がどう答えていいか分からないでいると、千尋が台所に顔を向けながら言った。

「今日、揃うかな?」

「それは長池次第やね。敏道くんなら、揃えてくれるやろ」

 達夫が笑った。それに和美が共鳴するように笑い声を添え、千尋までが笑った。この集落での長池家の扱いは、相当下だ。無線が用意されているというのも、緊急時に燃料を持って来てもらう本来の目的以外に、雑用をすぐお願いできるようにするためではないのか。萩山がそう思ったとき、直感を補強するように、無線を持った達夫がオレンジ色のボタンを押しながら言った。

「長池さん、ごめんねえ。お客さん二人な、今日も泊まるかもしれんから、着替えを一式用意したってほしいんよ」

 返事は雑音交じりで聞き取りにくかったが、長池の声だった。萩山は頭を下げた。

「何から何まで、ありがとうございます」

「身動き取れんのは、心細いやろ。少しでも気が楽になるように、協力させてもらうよ」

 達夫はそう言って、朝食の準備に戻った。味噌汁の匂いが広がり始めたとき、引き戸を開けて、彩乃と万世が顔をのぞかせた。

「おはようございます」

 彩乃が二人分の挨拶を担当し、万世は『お気に入りのぬいぐるみ』である康夫の姿を探すように、首を伸ばした。

「ねー、ヤスさんは?」

「部屋で休んでるよ」

 萩山は短く答え、万世の視線から逃れるように後ずさった。空気が少し澄んで、神谷が言った。

「戻りましょうか」

 二人で階段を上がりながら、萩山は万世の言葉を頭の中で繰り返していた。康夫は仲間内で『ヤス』と呼ばれている。少なくとも、自分と康夫が兄弟だということは、集落内の全員が知るところだろう。しかし、あだ名は? あの、集会場での三時間。色々な人間と話した。ほとんどは自分が会話の主導権を握っていた。しかし、自分が捉えきれなかった会話もあちこちにあったはずだ。康夫は誰かに、どう呼んでいいか尋ねられたのかもしれない。そして、ありのままに答えたのかも。自分の知らないところで、萩山兄弟に関する事実が少しずつ積み上げられている。

 部屋に上がると、康夫はくしゃくしゃになった掛布団の上に座り、ぼんやりと宙を見つめていた。誰にあだ名を伝えたのか、問い詰めてもよかった。しかし、眩しいくらいの朝日に照らされる康夫の姿は場違いで、猫背であることも相まってか、情けなくすら見えた。

「目、覚めたか?」

「うん。ごはん?」

 萩山は時計を見上げて、首を横に振った。

「もうちょっと我慢しろ。あと十五分ってとこだな」

 萩山が向かい合わせに座ると、康夫は居住まいを正した。猫背が不器用に伸びあがったのを見て、萩山は言った。

「くつろいだらいいんじゃないか。旅行みたいなもんだ」

「りょこう。たのしかった」

 康夫が言い、言葉自体を恥じるように少し俯いた。萩山は言った。

「今晩も、ここに泊まることになる」

 もしかしたら、結構な期間。所持金は十分ある。ここに泊まり続けたとしても、支払いで揉めることはないだろう。最初の一泊はタダでも、何日もそれが続くとは思えない。康夫は少し気分が晴れたように、ぎこちなく笑った。

「りょこう、続くってこと?」

「そうだよ。だからそわそわせずに、くつろいだらいい。去年は大変だったろ」

 あの、忌まわしい殺し。年を跨いだからか、大昔に感じる。そしてどういうわけか、この部屋にいると、その記憶が擦り切れていくように、薄くなっていく。現実の延長線上にいないような感覚。自分から、弟を労うような言葉が出るのも、信じられなかった。ここに来て以来、以前とは全く違う人生を歩んでいるようだ。ぼうっと座っているだけで、あっという間に時間は過ぎた。

 朝食の席には、千尋と神谷がいて、達夫と和美は出かけた後だった。萩山は言った。

「お父さんとお母さんは、食べないんですか?」

「ええ、朝は仕事場で食べます。お昼に帰ってきますけど」

 千尋に合わせるように、全員で『いただきます』を言い、萩山が卵焼きを箸で割ったとき、神谷が言った。

「早い方がいいなら、ご飯の後でもいいですよ」

 萩山は笑顔でうなずいた。

「そうですね、早い方が助かります」

 康夫が会話の流れを追おうと試みるように、萩山と神谷の顔を代わる代わる見た。萩山は言った。

「ドライブイン、覚えてるか?」

「でんわ?」

「そう、公衆電話を試してみる」

 萩山が言ったとき、千尋が納得したようにうなずきながら笑顔を見せた。

「あそこなら、大丈夫だと思います」

 朝食が終わり、萩山は食器を運ぶのを手伝おうとしたが、上品に笑う千尋に止められた。

「お気遣いなく。ありがとうございます」

 神谷がリュックサックのカラビナからハイラックスのキーを外して、言った。

「行きましょうか」

「よろしくお願いします」

 萩山は頭を下げ、部屋に戻ろうとする康夫の肩を掴むと、言った。

「お前もだよ」

 ハイラックスサーフは新しい型で、ギアはマニュアルだった。シフトレバーの隣にはトランスファーのレバーが生えていて、神谷はディーゼルエンジンに火を入れると、助手席に乗り込んだ萩山に言った。

「大きくて運転しにくいけど、頼りになるんですよ」

 後部座席に座った康夫が不安げに車内を見回し、神谷はハイラックスを発進させた。ドライブイン安川までの道は真っ白になっていて、除雪自体が間に合っていないどころか、積もるのに任せたようだった。駐車場にハイラックスを寄せた神谷は、電話ボックスを指差した。

「いってらっしゃい」

 萩山は小さく頭を下げ、ハイラックスから降りた。電話ボックスに飛びつくように入ると、小銭を入れて、番号をダイヤルした。この時間帯なら、ぎりぎり家にいるはずだ。四回以上呼び出し音が繰り返されたとき、萩山は受話器を握りしめたまま俯いた。家にいれば、風呂にでも入っていない限り、すぐに電話に出るはずだ。あの集落にとって、長池が都合のいい『使用人』であるように、萩山家にもそういう存在がいる。最初は、盗みだった。車上荒らしで捕まったが、盗んだのは花柄のティッシュケースひとつ。偶然通りがかった警察官に捕まった。どこまでも間が悪い。家の借金が最高額に達したとき、両親が二人とも事故で死に、手にピンの抜けた手りゅう弾を落とされたように借金を引き継いだ男。そんな斎藤には、店の掃除を任せている。また、盗みの才能があるから、そういうことをする人間の監視も上手い。蝶のようにひらひらと出入りする女たちが、店の備品に手を出していないか、チェックもしている。だから、まずは働く場所を与えて、背負っているものを下ろした。斎藤の親の借金は、萩山家の感覚だと小銭だった。そうやって得た忠誠心は本物で、康夫との友情もあったし、頭の出来が若干不良品寄りだったということもあるだろう。斎藤は、康夫が人を殺したと知って、自分が代わりに自首すると言った。康夫が直接話したことを知った萩山は、斎藤が見ている前で康夫が立てなくなるぐらいに蹴飛ばした。しかし、斎藤が引き受けようとしていることを知った今は、それが正しい選択だったと思っている。そして、口止めなど関係なく斎藤に話してしまった康夫の口を塞ぐ必要があるということ。一度は、斎藤も連れ出して殺すことを考えた。わざわざ犯人を作り上げる必要もないからだ。しかし、康夫が殺した女の遺体は、すでに『発見』されている。警察はほとんどの証拠が洗い流された遺体を見て、おそらく威信をかけて捜査を開始しているところだろう。そして、心のどこかで、犯人が良心の呵責に負けて、自首してくれたらと願っているはずだ。殺された側の身元から考えれば、重要参考人は無数にいる。それでも、いつまでも警察に嗅ぎまわられて、何か康夫につながる手がかりを見つけられるよりは、斎藤が犯人としてまな板の上に自分から上がってくれた方が、はるかに好都合だった。それに、ある程度の融通は利かせられる。萩山家の病んだ全能感は、客の個人情報を把握しているということから来ている。聞き出した従業員には、報奨金も出しているぐらいだ。今回も適切に立ち回れば、とびきりの変態趣味を持つ何人かは、斎藤にとって所内の暮らしが楽になるよう、計らってくれるだろう。そうでもしないと、女子供を殺した人間は、塀の中で他の囚人から取り返しのつかない矯正教育を受けることになる。

『お前のために、できるだけのことをする』

 斎藤には、そう約束したが、もしこのまま雪が解けずに、予定よりも時間が過ぎてしまったら。斎藤は、起きた通りの罪で裁かれ、教科書通りに矯正される。もし電話に出れば、出頭するのを数日待てと言うつもりだったが、斎藤は電話には出なかった。自力で動けない以上、何度も電話をかけに来るわけにはいかない。萩山はもう一度鳴らしたが、繰り返される呼び出し音を聞いて、受話器を置いた。ハイラックスまで戻り、暖房の風に当たりながら思った。

 もし、このままだったら。無期刑になったとして、十年は出られないだろう。斎藤は塀の中でなぶりものにされ、出てきたときにはすっかり別人に『矯正』されているに違いない。そのとき、約束を果たさなかった萩山家に対してどう思っているかなど、そんな可能性は考えたくもない。暖房の風が素通りしているように、萩山は肩を震わせた。

 何としてでも、ここを出ないといけない。

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