【4】二〇二一年 一月

 集落に向けて架けられた橋は、欄干の付け根から延びる雑草のせいで余計に狭く感じ、マジェスタの車幅だとかなり心許ない。やや荒れたコンクリートの上を進めながら、玲香は言った。

「こすったらごめん」

「いいよ」

 篠田は笑いながらも、鼻の下を伸ばしてフロントフェンダーを覗き込むように確認した。車体に草をひっかけているが、それは避けられない。それでも、調べ物はスマートフォンの中で続いており、篠田は時折、得たばかりの知識を呟いていた。

「この橋がかかったのは、戦後だって。だから、しっかりしてるんだな」

 スマートフォンの中から知識として吸収したことが、目の前で展開されている。篠田は、橋の手前にあった、屋根のひしゃげた一軒家を振り返った。

「限界集落だな。電波も何とか入るって感じだわ」

 橋をまたぐと、雪が左右に退けられた道はやや整えられていたが、細かな石がタイヤの通り道を避けるように薄く伸びていて、その上に乗るとパラパラと巻き上げる音が鳴る。玲香は、篠田の道案内に従ってマジェスタを進め、砂利敷きの空き地に寄せた。ハザードを焚いたとき、篠田が助手席から降りて、大きく伸びをした。玲香も運転席から降りて、集落には不似合いな平たい車体を眺めた。径の大きなホイールも、扁平タイヤも、何もかもがこの景色と相反している。斎藤が最後に後部座席から降りて、迷子になったような不安げな表情で、景色を見回した。雨の跡が黒ずんだ線を残す白い建物は公民館で、その反対側には藪に覆われた学校跡。玲香は、斎藤の視線の先を一緒に追っていたが、篠田の方に向き直った。道路を挟んで、向かい合わせに建つ、二軒の建物。看板はやや掠れているが、右側の建物には『民宿炭谷』とあった。篠田は道路の真ん中に立って、両側の建物を代わる代わる見た後、体ごと左側の建物に向き直った。

「こっちは、コンビニだな」

 玲香は篠田の隣に立って、野瀬商店の外観を眺めた。屋号や造り自体は古くても、ガラスは綺麗に磨かれているし、手入れが行き届いている。民宿炭谷も現役のようで、玄関の扉には補修した跡があり、郵便受けは鮮やかな赤色に塗り直されていた。篠田が口笛を吹き始め、廃墟にブロックを投げ込む様子を思い出した玲香は、思わずその腕を掴んだ。篠田は笑いながら、首を横に振った。

「何もしないって。ちょっと、買い物してみよーか」

 アルミサッシの引き戸は音もなく滑り、店の中は静かだった。レジの前で本を読んでいた店主が顔を上げて、笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

 玲香と篠田はほぼ同時に頭を下げ、店内を見て回った。コンビニに置かれているような最新のお菓子もあったが、ほとんどは生活に根差した食料品だった。ぐるりと一周した玲香がチョコレートをレジに置き、隣から篠田が雑誌を差し出した。会計を済ませたところで、野瀬彩乃は二人に言った。

「旅行ですか?」

「はい、手前の空き地に停めちゃったんですけど、大丈夫っすかね?」

 篠田が代わりに答えた。その目がまた上下に動いて、レジのカウンターで隠されている範囲までを網羅するように、彩乃の『採点』を始める。玲香が小さく咳払いをしたとき、彩乃は言った。

「大丈夫ですよ、あれが駐車場みたいなものです」

 その笑顔は、表情だけ見ると子供のように屈託がないが、年上には違いない。玲香は、彩乃の身のこなしを見ながら思った。限界集落と言えば、最小限の動きで全ての行動をこなす老婆のイメージだったが、この店主は全く当てはまらないどころか、横顔をほとんど隠すような髪型を差し引いても若々しい。篠田は、買ったばかりの雑誌を丸めては広げてを繰り返していたが、窓の外に目を向けると、引き戸ががらりと開いて客が入ってくるのを見ながら、言った。

「お向かいは、民宿すか? あ、すみません。お店の名前から勝手に想像したんすけど、野瀬さんで合ってます?」

「はい、合ってます。わたしは彩乃で、今入ってきたのが妹の万世」

 玲香は、万世と目が合ったとき、思わず息を呑んだ。彩乃と髪型や化粧は違っても、二重の大きな目は精巧なコピーのように瓜二つだった。

「双子なんですよ。学校ではよく間違われました」

 万世は、普段より賑やかな店内に気圧されたように、ぎこちない笑顔を浮かべると、レジに向き直った。

「こんにちは、旅行ですか?」

「狭い集落だから、みんな聞くんですよ。ごめんなさい」

 彩乃が笑い、後に続くように万世が同じ表情を見せた。似ていても、万世にはどこか底が抜けているような明るさがあり、それを見抜いたように篠田が言った。

「何度でも聞いてください。すみません、急に訪れちゃって。だって今、大変じゃないすか? ちゃんと距離を取らないと」

「あはは、構いませんよ」

 万世が口元に手を当てながら微笑んだとき、篠田は彩乃と万世がひとりの人間であるかのように、その顔を交互に見ながら言った。

「おれ、篠田っていいます。集落の歴史とかに興味があって、結構あちこち回ってるんですよ。で、彼女は友達の萩山」

 玲香は反射的に頭を下げた。友達という表現はくすぐったいが、篠田の口からあっさりと飛び出るとは思っていなかった。『ボスの妹』という立場よりは断然いい。篠田はふと思い出したように、付け加えた。

「外で待ってるのは、斎藤と言います」

 玲香としては、特に待たせているつもりはなかった。篠田と自分との関係性に入り込むのは、容易ではない。自分が逆の立場なら、初めから努力を放棄するだろう。玲香は向かいの建物を眺めた。ちょうどシルバーのアルトが民宿炭谷の前を一旦通り過ぎて、建物の隣にがらんと空いたスペースに車庫入れしたところだった。エンジン音に篠田と玲香の注意が向く中、彩乃が言った。

「歴史を調べてらっしゃるなら、公民館に色々と置いてありますよ」

 アルトから降りてきた女の人が民宿の扉を開いたとき、万世が引き戸を開けて言った。

「ちーちゃん、今時間ある?」

 振り返ると、女の人は前髪を細い指で額からどけた。店の中に入ってくると、彩乃と万世の顔を一瞬だけ見て、篠田と玲香に微笑んだ。

「時間、ありますよ。旅行ですか?」

 篠田と玲香が顔を見合わせて笑い、万世が公民館を指差した。

「集落の歴史を調べてるんだって。ちょっと案内したげてよ。資料とか、カビてないよね?」

「多分。開くときは息止めたほうがいいかも」

 千尋はそう言って笑ったが、表情をすぐに切り替えた。

「図書館みたいなものですから、朝から夕方までなら、いつでも見にいらしてください」

 言いながら、千尋は玲香と篠田に笑顔を向けた。二人が応じたとき、斎藤が引き戸を開けた。

「すみません、景色に見とれてました」

 そのたどたどしい言い訳に、彩乃と万世が笑った。玲香も同じように笑おうとしたが、初対面の人間を前にそこまで打ち解けた笑顔を作る自信はなく、愛想笑いにとどめた。篠田は言った。

「おれ、篠田っていいます。この二人は、萩山と斎藤です」

 判で押したような挨拶。玲香が口角を上げて笑いながら頭を下げると、斎藤が部活の中学生のように深々とお辞儀をした。千尋は言った。

「私は、炭谷千尋です。向かいの民宿をやっています。では、行きましょうか」

 停めたばかりのアルトに向かって歩きながら、千尋は、後ろを歩く三人に向けて言った。

「この時期にお客さんがいらっしゃるのは、珍しいです。時々、学校跡を見に来る方はいますが」

「正月休みが長いんですよ。これを逃すと、また忙しくなっちゃうんで」

 篠田はそう言って、千尋の背中に愛想笑いを返した。玲香は、小さくため息をつこうとしたが、それは呆れたような笑いに変わった。篠田の店は、正月の間は副店長が回している。時短営業だから、開けているだけ電気代がかさむだけで、大した売り上げは見込めない。玲香自身も、十一日まで休みという大企業ならではの休日を用意されていた。それにしても。玲香は、篠田の横顔を見ながら思った。すでに、この集落に出入りして長い人みたいだ。斎藤はまだ、上級生だけの集まりにひとりだけ放り込まれた小学生のようにおどおどしていて、その目は忙しなく景色と地面を行ったり来たりしていた。

 千尋がアルトの運転席に乗り込んだとき、一瞬だけ三人組に戻った間を利用して、玲香は篠田の肘をつついた。

「ちょっと、これどうなるの?」

 篠田は自分のやっていることを完全に理解し、自覚しているように口角を上げた。

「打ち解けたろ? これなら、何か聞けるかもよ。田舎だし、この界隈で起きたことなら何でも覚えてるはずだ」

 アルトが停められたスペースの隣には、ブルーシートが雑にかけられた車が置かれていて、完全に空気の抜けたタイヤが見えた。斎藤が言った。

「ハイラックスですね、はい。サーフだと思います」

 紺色のハイラックスは、風で揺れるビニールシートの下で傾いたまま、安置されていた。

「斎藤ちゃん、カーマニア? 詳しいっすよね」

「いえ、それほどでも。まあ、多少知ってるほうかとは思いますが。いや、上には上がいるからなあ」

 斎藤の独り言を振り切るように、篠田が後部座席に乗り込み、玲香は自然に助手席に乗り込んだ。斎藤は後部座席に頭から不器用に乗り込んで、ドアを閉めた。千尋はゆっくりとアルトを走らせ、学校跡を指差した。

「ここの住民は、私の年代だと皆あそこで学んで育ちました」

 玲香がうなずきながら千尋の横顔を見たとき、その切れ長の目が一度玲香の方を向いた。千尋は、玲香の頭に浮かび上がっている疑問を掬いとるように、前を向いたまま言った。

「私は、四十四歳です。野瀬の双子は九歳下ですが、そのもうひとつ下の世代が最後で、廃校になりました」

 玲香は、千尋の横顔を見つめた。野瀬の双子もそうだったが、年齢より若く見える。廃墟になった学校は小規模だが、鉄で作られた遊具が錆びついているのが、遠目に見えた。都会で育った身には、想像もつかない。篠田も同じで、育ったマンションの一階はコンビニ、繁華街から徒歩五分の都心で育った。公民館は鉄筋コンクリートの立派な建物で、駐車場には軽トラックが二台停まっているだけだった。篠田は周辺を見回しながら、言った。

「勝手なイメージなんすけど。意外に、畑仕事してる人とか、いないっすよね」

 千尋は軽トラックの隣に車庫入れすると、丁寧な仕草でサイドブレーキを押し込みながらうなずいた。

「ここは、何も育たないんですよ。なので、みんな外に働きに出てます。裏の森に栄養を全部取られちゃってるって、昔は言ってましたね。木だけは採れるので、うちは炭焼きをやってました」

 千尋の言葉に、篠田はヘッドレスト越しに顔を覗き込むように、少しだけ身を起こした。

「それで、炭谷なんですか?」

「そうです、仕事が名前になったんです。合理的でしょ」

 バックミラー越しに目が合い、篠田はなるだけ軽くならないよう、少し険しい顔を作ってから笑顔に変えた。公民館の入口には、『会館』と彫られた銘板がかかっていたが、その上には削られたような跡があった。千尋は言った。

「ここは昔、八頭集落と呼ばれていました。社に祀られている神様の名前で、八に頭と書きます。ただ、私たちがその神様を名乗るのはおかしいということで、銘板からは削り落としたという歴史があります」

 公民館には鍵もかかっておらず、やや埃っぽい空気をかき分けながら、千尋の後について、三人は歩いた。斎藤の足音だけやや間隔が短く、忙しない。玲香は足を下ろしたときに微かにしなる木の音を心地よく感じながら、少し深く息を吸い込んだ。ここで生まれたわけではないのに、どこか懐かしい。集会場と書かれた大広間を通り過ぎ、資料室と書かれた札が飛び出している部屋の扉を開いた。

「ちょっと埃っぽいですけど。歴史を調べてらっしゃるんでしたら、ざっくりとまとめた物があります。各々の時代について調べたい場合は、深緑色の冊子を見ていただければ、ほぼ把握できるかと」

『ざっくりとまとめられた本』は八頭集落史という表題がついていて分厚く、片手でかろうじて持てるぐらいの大きさだった。玲香がそのボリュームに驚いて目を丸くしたとき、篠田は言った。

「九十年代にあった出来事とかも、書かれてますか?」

 玲香の心臓がぎこちなく跳ねて、固く結んだ唇に伝わった。篠田は集落史を開き、昭和後期の民宿炭谷の写真が載ったページを開いた。まだ看板の字は新しく、軒先にお面を手に持った少女が立っている。

「これが、八八年か。お面持ってますね」

 篠田が言ったとき、千尋はくすりと笑った。

「これは、私なんですよ」

 そう言って目を伏せる千尋の、少し恥ずかしそうな表情を察した篠田は、それ以上聞くことなく、ページをめくった。その手が偶然、九六年の正月で止まり、玲香の心臓がまた躓いたように跳ねた。斎藤も少し身を乗り出して、民宿炭谷の前で撮られた記念写真を眺めた。隣の空き地も写り込んでいて、紺色のハイラックスサーフが停められている。

「これ、あれですか。今、ブルーシートがかけられてる」

 斎藤が言い、玲香は思わず篠田の目を見た。飄々としていて、何を言ってもするりとかわしてしまう。しかし、それはあくまで、『商品』が相手のときだ。斎藤の薄くなった頭を見下ろした篠田の目は、玲香が恐れている『狩る側』の目そのものだった。それは、気まぐれに映りが悪くなったテレビのように一瞬だったが、千尋もその表情の変化に気づいて、苦笑いを浮かべた。篠田は誰とも目を合わせることなく、九六年の正月の記念撮影で被写体になった、二人の少女に視線を向けた。ひとりはお面を持って行儀よく立っているが、もうひとりはその肩に寄りかかって、手にはお面も持っていない。

「この二人は、さっきお会いした野瀬さんですかね?」

「そうです。お行儀のいいのが彩乃で、お転婆なのが万世です」

 千尋は当時を思い出すように、少しだけ歯を見せて笑った。玲香は、その写真に少しだけ顔を近づけた。斎藤の言っていた、ブルーシートのかけられたハイラックス。この写真ではタイヤの空気も入っていて、まだ新車に見える。篠田は玲香の横顔をちらりと見てから、千尋に向かって言った。

「これ、見せていただけるの、マジでありがたいです。ちょくちょく見に来てもいいっすか?」

「ええ。祭事が明後日あるのですが、ご興味があるなら何泊かされますか?」

「いいんすか? 玲ちゃん、どーする? 斎藤さんも、どーでしょ?」

 篠田は、熱に浮かされたように言った。玲香は小さくうなずいて、斎藤の方を向いた。明確な表情は浮かんでいなかったが、玲香を一瞬だけ見ると、篠田に視線を向けてはっきりとうなずいた。

「はい。調べ物も、手伝います」

 千尋は全員の合意が取れたことで少し気が抜けたように、息をついてから笑顔を見せると、玲香に目を向けて言った。

「部屋は二つありますので、分けて使って頂ければ」

 玲香がうなずいたとき、篠田が指をぴんと立てて言った。

「ちなみに、一泊おいくらっすか?」

 玲香は苦笑いを浮かべたが、内心は本当の笑顔だった。こういうことをあっさりと聞いてもらえるのはありがたい。千尋は口元に手をやって笑うと、言った。

「部屋あたり、夕食付きで三千五百円頂いてます。二部屋お使いでしたら、三泊四日ですと二万一千円ですね」

「三人いますよ」

 篠田が話の落ちのように、斎藤を指差した。千尋は小さくうなずくと、続けた。

「部屋単位で頂戴する形で、大丈夫ですよ。こうやって興味を持って来ていただけるのは、ありがたいことです。このまま調べ物をなさるなら、夕方頃に迎えに上がりましょうか?」

 篠田は首を傾げたが、集落史を閉じてテーブルの上に置いた。

「いや、時間あるし、いーかな。あ、今払っときますよ」

 篠田は、棘のような突起があしらわれた下品な長財布を取り出した。千尋が、今までに見たことのない動物と出くわしたように目を丸くし、玲香が言った。

「篠ちゃん。その財布ほんと、本人より目立ってるから」

「そう? 棘があったら落とさねーだろ」

「お代は、出発されるときで結構ですよ」

 千尋が言い、篠田は肩をすくめて財布をポケットに戻した。千尋は、三人が出てから資料室の電気を消すと、言った。

「今は皆さん携帯電話をお持ちですけど、昔は固定電話が頼りでしたし、何より冬はよく断線しまして。雪が降れば道路は塞がってしまいますし、うちは駆け込み宿のような役割もしていたんです」

 玲香は、言葉になりかけた喉の動きを、直前で押し戻すように止めた。篠田はそのことに気づいたが、何も言わなかった。ふと、斎藤が言った。

「よく、降るんですか?」

「ええ、昔ほどではないですが」

 千尋が呟くように答え、会話はそこで途絶えた。民宿炭谷まで戻り、三人がマジェスタのトランクから鞄とリュックサックを回収して二階に上がったところで、千尋が言った。

「日当たりは、手前の部屋のほうが多少いいかと」

 玲香は、それとなく譲られる形で手前の部屋を選び、篠田と斎藤は奥の部屋を覗き込んだ。二部屋とも、大人二人が充分に寛げるだけの広さで、畳も傷んでおらず、綺麗な部屋だった。千尋が玲香の後について部屋の案内を始めたのを見ながら、篠田は小さな声で言った。

「結構、人の出入りあるのかもな。斎藤ちゃん、畳アレルギーとかないっすよね?」

「大丈夫です」

 篠田は、テーブルをまたぐ形で座布団を二つ放ると、片方に腰を下ろした。

「あー、生き返る」

 その言葉が合図になったように、斎藤はテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。篠田はしばらく黙っていたが、凝りをほぐすように首を回しながら斎藤の方を向いた。

「すんませんね、なんか流れでこんなんなっちゃって。でも、玲ちゃん……、いや、萩山さんは結構、親父さんのことが気にかかってるみたいで。おれと一緒にいるときとか、よくその話をするんですよ。あの女将さん、何か知ってると思います?」

「そうですね。自分は……、あのハイラックスが気になります」

 斎藤が言うと、篠田は呆れたように顔をしかめた。

「あー、あの車? 潰れてそのままにしたんじゃねーのかな?」

 斎藤は、今までの人生で必ず守ってきたルールのように、一度うなずいて同意した。篠田は、その目を見ながら思った。最初にうなずいてしまったことで、避けられたはずの事態に嵌ったり、酷い目に遭ったことだってあっただろう。癖というのは、中々抜けないものだ。答えを待っていると、斎藤は隣の部屋を気にするように、小声で言った。

「あとで聞いてみようとは思うんすけど、県外ナンバーだったもんで」

 篠田はその情報を頭の特定の位置に収めるように、目線を少しだけ上に向けた。田舎に県外ナンバーの車が放置される理由は、特に思いつかない。

「あー、車庫飛ばしとか、そーゆーやつかな? てかさ、斎藤ちゃん。萩山の親父さんに会って、どうするつもりだったの?」

「昔、世話になりまして。ヤス……、弟の康夫さんと友達だったんですが。お恥ずかしい話ですけど、自分は手癖が悪くてですね。親の借金とかもあったもんで、若いころは大変でした。和基さんは面倒見が良くて、仕事もくれたし、借金を清算するのも助けてくれたんです」

 篠田は、淀みなく話す斎藤の言葉を聞きながら思った。今のオーナーである、アストンマーティンを乗り回す修也の遺伝子は、和基と康夫から引き継がれたものだ。玲香にはそんな要素は見当たらないが、男連中なら中身はほぼ同じと考えて、差し支えないはずだ。萩山家の男は、善人ではない。その続きを考えようとしたとき、千尋が顔を出して、言った。

「よろしければ、お茶かコーヒーをお持ちしましょうか?」

「あ、ぜひ。二人ともコーヒーで」

 思わず斎藤の分まで答えた篠田は、千尋が階段を下りていくのを目で追い、立ち上がった。隣の部屋では玲香が座布団の上に腰を下ろして、背筋をぴんと伸ばしたままスマートフォンの画面を見つめていたが、篠田に気づいて顔を上げた。

「なんだか、現実じゃないみたい」

「これで、おれたちは客だからな。聞きまくってやろうぜ。絶対、何か関わりはあるって」

「初めから、それが目的だったの? わたし、歴史に興味が爆発したんだと思ってたよ」

「それもそうなんだけどね。そうだ、コーヒーにした?」

 篠田が言うと、玲香はうなずいてから、間を改めるように笑顔を向けた。

「篠ちゃん、ほんとありがとう」

「お安い御用だよ。てか、おれマジで調べるから。そのときはひとりにしてね、なんつって」

「意外な一面を見たよ」

 玲香は篠田と顔を見合わせて笑った後、ひとりで使うには広すぎる部屋を見渡した。蛍光灯自体は新しいが、その傘は相当古くからあるものだろう。隙間風もないのに、その紐は緩やかに左右に振れていて、メトロノームのようだった。

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