■■■■-02

 まただれかが見ている。

 ナイナイは車の窓から外を見る。さっきと同じひとだ。見ていてくれるなら、そっちのほうが探しやすい。

 ナイナイはさっき買ったばかりの包丁をパッケージから取り出し、スクールバッグの中にそっと隠す。

 ナイナイは今、とても怒っている。こうして見られていることも、頭の中に「なにか」が入ってきたことも、どちらもとてもいやなことだ。早く何とかしなくてはならない。

 やがてマンションの下に車が停まる。ナイナイは車を下りる。椿ありさの母親が「近くで待ってるわね」とにこにこする。

「うん」

 マンションの入口はオートロックで勝手には開かない。ナイナイが困っていると、ちょうどそこに住人らしい、中年の男のひとが通りかかる。

「すみませーん」

 ナイナイは声をかけて、振り返った男のひとの目をじっと見つめる。目が合う。さっと手を伸ばし、相手の手を握って、またじっと見つめる。

 まだ力は完全に戻っていないけれど、距離が近いからだろう、男のひとはぼーっとなって動けなくなる。ナイナイはそのひとの頭の中をさわる。

「ここ開けてくれる?」

「どうぞ」

 男のひとはにこにこ笑って、快くオートロックを開けてくれる。これくらいのことなら、すぐに言うことを聞いてくれるひとはけっこういる。

 ナイナイはエレベーターに乗って十階に向かう。だれかはまだ見ている。だからとても探しやすい。気配をたどりながら、バッグの下で包丁を握りしめる。

 エレベーターを下りる。もう本当に近くだ。部屋番号だけの部屋。なんという名前のひとなのかわからない。

 インターホンを押すと、少ししてドアが開く。

 男のひとが立っている。真っ白い髪の、なんだか変なひとだ。両目を閉じているけれど、ナイナイがここに来たことはちゃんとわかっているらしい。

「待ってたよ。入る?」

「うん!」

 ナイナイはうきうきと玄関の内側に入る。

 このひとは目を見ることができない。そのせいか、頭の中をさわるのも上手くできない。なにかに邪魔されているみたいだ。頭の中をさわれたら楽だったのにな、と思う。そしたら自分で死んでもらえたかもしれない。やっぱり包丁を持ってきてよかったな、とも思う。

「あなたがあたしを見てたの?」

 ナイナイが尋ねると、

「そうだよ」

 と男のひとが答える。さっき「なにか」をけしかけてきたのもこのひとだ。同じ気配が残っている。まちがいない。

 ナイナイはスクールバッグから包丁を取り出す。このひとは目が見えないから、まだそのことに気づいていない。バッグを足元に放り出し、両手に包丁を握りしめて、ナイナイは男のひとに思い切りぶつかる。

 お腹を刺されたことなんか全然気にならないみたいに、男のひとは右手をナイナイの頭にのせ、指を広げて包みこむようにする。見られていたときとよく似た冷たい感覚が、頭の中に満ちていく。

 男のひとが、耳元でなにか言っている。


 その数分前、


 神谷は自分のスマートフォンで志朗に電話をかけ、歌枝に渡した。彼女は先程とは打って変わった無表情でそれを受け取った。

(本当にシロさんの言ったとおりになったかもしれない)と期待しながら、神谷は息を殺して見守った。

 志朗の言葉を思い出す。

(ボクはナイナイにできたことは、こっちにもできるんじゃないかと思うんです。これにはボクから指示を出しておきますから、神谷さんは)

 森宮歌枝に至近距離まで近付き、

 きょうが壺から出てくるように周囲を暗くし、

 すぐ近くで壺の蓋を開ける。

(ひかりさんの話では、椿ありさは様子が変わった後も、学校生活をちゃんと送っていたんでしょう? たぶんナイナイは椿ありさ本人の記憶を持っているんです。同じことが起こるなら勝算はあると思います。ナイナイとこれには血縁関係がある。似たようなことができる可能性が高い。ナイナイが椿ありさの頭に入って記憶を得、かつ肉体の主導権を握ったのと同じく、こっちも森宮歌枝の頭に入ってしまえば、彼女が知り得るあらゆる情報を引き出すことができる。たぶん。仮説ですが)

 きょうが間違って入ってこないよう、神谷は加賀美の御札を持っておく。これなら失敗してもボクが死ぬだけじゃ、と志朗は言って笑った。

『もしもし、神谷さん?』

 電話が繋がった。志朗の声が聞こえる。歌枝の涼やかな声が「もしもし」と応える。

『ああ、入ったか。お久しぶりです』

「久しぶり。貞明くん」

 森宮歌枝の口から出る言葉を、神谷は気の遠くなるような思いで聞いた。


 その数分後、


 何かが落ちる音と女の子の軽やかな足音の後、志朗貞明は左脇腹に強い衝撃を覚えた。刺されたな、と思った途端に痛みが走った。

 でも今はそれに構っている場合ではない。とにかく近くに来てくれればそれでいい。

(これを失敗したら、今度こそ師匠に合わせる顔がない)

 志朗は右手を目一杯開いて椿ありさの後頭部を抱え込み、「よむ」ときのように精神を集中させた。指先が髪と頭蓋以外の、何か不定形なものに触れるのがわかった。

 やっと会えた、という気がした。


 その直後、


 奥のリビングで待機していた黒木省吾は、玄関から人の倒れるような音を聞いた。

耳をそばだてて様子を伺いながらドアノブに手をかけたとき、「いってぇ」という志朗の声がした。

 黒木は音をたてるのも構わず、急いでドアを開けた。

 玄関の前の廊下、壁にもたれて志朗が座り込んでいる。そして紺色のブレザーを着た女の子が、志朗の膝の上に頭を載せて崩れるように倒れていた。

 写真で見た椿ありさだった。実物もきれいな子だ。まるで眠っているような、穏やかな顔をしている。

「おまたせ、黒木くん。行こうか。病院」

 志朗が朦朧とした声で言って、右手を挙げた。脇腹から包丁の柄が、不気味なオブジェのように生えている。

 黒木は慌ててスマートフォンを取り出した。119にかけようとするがうまく操作できない。そのとき志朗が息を切らしながら「ねぇ、黒木くん」と言った。

「ナイナイの名前なぁ、ちょっと聞いてよ。酷いから。『神谷晴香』じゃった。宇宙で一番嫌いな女の名前、つけんなや。道理で、気合い入っとると思った。はは」

 小さな声で笑いながら、志朗は椿ありさの頭をそっと撫でた。


 その数分前、


(ええと、私これからどうすればいいんだっけ? 何も言われてないや)

 警察署のトイレで、通話の切れたスマートフォンを受け取りながら、神谷は今更のように考えた。このまま歌枝を置いていってしまってもいいものだろうか?

「神谷さん」

 歌枝の口が動いて、神谷に呼びかけた。

「もう戻らなければ。人が探しにくるかもしれない」

「あ、はい」

「心配しなくても、この体が死んだらそこの壺に戻りますけん。もう少しこの建物の中にいてくださったら助かるなぁ」

 歌枝の声で、歌枝ではない誰かが喋っている。

「神谷さんには真に申し訳ないことをした。お姉さんと甥御さんは俺が死なせたようなもんじゃ。歌枝にきょうを戻すのが怖ろしかった。本当に申し訳ない」

 そう言いながら、神谷の知らない「誰か」は深々と頭を下げた。

「では」

 神谷はトイレから出ていく歌枝の背中を黙って見守った。

 森宮歌枝が警察署内で突然倒れたのは、この少し後のことだった。

 そのとき、未だトイレの中で立ち尽くしていた神谷は、抱えていたナイロンバッグの中で、壺の蓋がひとりでに動く音を聞いた。


・・・・・・


 森宮ひかりは、誰かから電話がかかってくるのを、玄関の扉が開くのを、家の中でじっと待っていた。

 母親もナイナイも、もう帰ってこなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る