神谷実咲-04

 志朗の事務所を出た神谷は、タクシーで警察署に駆けつけた。ひかりによれば、森宮歌枝は今ここにいるはずだという。

 なかなか年季の入った建物だ。日が落ちて各所に電灯が点ってはいるが、やけに暗い感じがした。元々あまり前向きな用件で訪ねるところではないから、そんな風に感じられるのかもしれない。

 肩にかけたバッグがやけに重たく感じられた。味方に思えるのは、コートのポケットに入れた加賀美春英の御札だけだ。

(もしも森宮歌枝が名前を教えてくれなかったら、どうしよう)

 ふと後ろ向きの考えが脳裏をよぎる。神谷は首を振った。あれこれ考えている場合ではない。それよりもまず、歌枝を見つけなければならないのだ。

 何人ものひとが行き来する入口付近で、神谷は受付の近くにあった案内表示を見つめる。自殺者の遺族がどこに案内されるものか、部外者の神谷にはまるで判断できない。怪しまれても仕方ない、思い切って受付で尋ねようとしたとき、いつか見たすらりとした姿が、廊下の奥に見えた。

 どこの部屋から出てきたのだろう、森宮歌枝と思しき人影は、奥の女子トイレに入っていった。

「森宮さん!」

 神谷はとっさに名前を呼びながら、彼女を追いかけた。

 追いかけながら、今は考えまいとしていたことが、ひとりでに頭に浮かぶ。

(シロさんの作戦が――あの破れかぶれの作戦が成功したとして。いつか死んだら、私も地獄に落ちるのだろうか)

 神谷は歯を食いしばった。

 晴香と翔馬の敵を討つと決めたのに、今更私は何を考えているのだろう。自分自身を叱咤しながら、彼女はトイレのドアを開けた。


 女子トイレの中に人の姿はなかった。物音もしない。青白い電灯が、タイルの貼られた壁を冷たく照らしている。

「森宮さん?」

「なぁに」

 突然背後から返事をされて、神谷の喉の奥から「ひっ」と声が出た。

 弾かれるように振り向くと、森宮歌枝が立っていた。厚手のジャケットを着ているために左腕の欠損はわかりにくいが、確実に歌枝本人だ。

「ふふふ、ごめんなさい。びっくりさせようと思って、そこの個室に入ってたんです。驚かせすぎちゃった」

 歌枝は軽やかな声をたてて笑った。

 素っ気ない電灯に照らされてやや顔色が悪く見えるが、相変わらず綺麗な人だ、と神谷は思った。きょうなど作らなければ、彼女にも別の、もっと穏やかな人生があったのではないか。そう思わずにはいられなかった。

「神谷さん、いつもひかりとお話してくださってありがとう」

「ど、どうも……」

「ひかりね、神谷さんとお電話すると、ちょっと元気が出るみたいなんです。今日はいいことがあったから、もっと元気になるわね。あのね、夫が亡くなったの」

 美味しいケーキを買っておいたの、とでもいうような口調で、歌枝は言った。

「実の父親だし、仕事もしてるからひかりのためになるかと思って再婚したんですけどね。でも、ひかりはいやだったみたいだから反省したわ。いればいいってものじゃないんですね。きっと本人もそう思ったから死んでくれたんでしょう」

 皮肉でも何でもない、本当に「よかった」と思っていそうな口調で、おまけにまるで井戸端会議でもするような気軽さで、歌枝はそう話す。

(やっぱりこの人は、もうまともな人間じゃないんだ)

 神谷は肩にかけたナイロンバッグの持ち手をぎゅっと握りしめる。

(私だってまともじゃない。こんなこと引き受けるなんて。復讐の是非以前に、

 神谷は一瞬目を閉じ、晴香と翔馬の笑顔を思い浮かべた。

「ごめんなさい!」

 そう言うなり、神谷は歌枝の横をすり抜けるように通りすぎ、トイレのドアのすぐ横にある電灯のスイッチを押した。辺りが暗くなる。

 晴香と翔馬に取って代わるように、森宮ひかりの顔を思い出した。初めて出会った日、自分のことを追いかけてきたときの顔だ。

 さっき電話をかけたとき、ひかりは泣いていた。これから自分は、あの子の肉親を奪おうとしている。

(ひかりちゃん。ごめんなさい)

「神谷さん?」

 不思議そうな歌枝の声がする。その方向に向けて、神谷はナイロンバッグの口を開けた。

 中には森宮詠一郎の骨壺が入っている。

 神谷は壺の蓋を開けた。


・・・・・・


 応接室のテーブルの上に置かれた志朗のスマートフォンが振動した。画面を見た黒木が「神谷さんです」と告げた。

 志朗が電話をとる。

「もしもし、神谷さん?」


『もしもし』


 神谷ではない女の声が応えた。

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