森宮ひかり-02

 毎日のありさの訪問を、ひかりはあえて避けていた。

 ありさはむりやり中に入ろうとはせず、学校からのプリントやノートのコピーを母や父に渡して、それからしばらく話をしていくらしい。どんな話をしているのかは知らないが、きっとふたりとも嬉しそうにおしゃべりしているのだろう。

 ありさと関わったひとたちは、みんなそうなるのだから。

「ひかり、ありさちゃんが今日も来たよ。心配してたけど、会わなくていいの?」

「ありさちゃんに会いたくなったらいつでも言うんだよ。ありさちゃんの家に連れてってあげるから」

 母と父の申し出を、ひかりは必死で断っている。こんなことを言い出すなんて、やっぱりふたりともおかしい。母はひかりのために車を出してくれたことなど一度もなかった。父も新しい奥さんのところに行ったきり、ひかりには会おうともしなかった。なのに。

(神谷さんと話したい)

 ひかりは時々、意味もなくそう思った。神谷が椿ありさと接点を持たない、今のところ唯一の人物だからだろう。以前だったら(高田たかださんと話したい)と思ったかもしれない。

 ただ、必要以上に連絡をとっていると、神谷も巻き込んでしまうかもしれない。高田瑞希みずきが変わってしまったように、神谷もまた変わってしまうかもしれない。ひかりにはそれが怖かった。


 押入れの中にいると時間の感覚が失われる。ひかりが外を覗いたとき、すでに日は沈み、部屋の中にも薄暗がりが満ちていた。

(遅いな)

 自分の足の爪を眺めながら、ふとそう思った。今日はまだ一度も「ありさちゃん、来たよ」という呼びかけを聞いていない。眠ってしまって気づかなかったのだろうか?

 そのとき、襖を叩く音がした。

「ひかり? ありさちゃん、来たよ。お話しない?」

 母親の声だ。

「しな……」

 答えかけてふと、神谷のことを思い出した。

 確か彼女は、「専門家のひとに相談できるようになった」と言っていた。それならそのひとに、聞いてみたいことがある。あまりに突飛で馬鹿みたいだけど、そういうひとならきっと真面目に聞いてくれるんじゃないか。「押入れの中にいたお化けが人間の体を乗っ取ってしまったかもしれない」なんて言っても、笑われないんじゃないだろうか。

 だったら、ちゃんと確かめなければ。


 部屋に入ってくるなり、ありさは「ひかり! ひさしぶり!」と言いながら、ひかりに抱きついてきた。

「会えてよかった! 心配したんだよ。元気になった? 大丈夫? あたしがいるからね」

 ありさの体は温かい。ちゃんと呼吸をしている。心臓の鼓動を感じる。相変わらず「ひかりのことが好きで好きでしかたない」という目で、ひかりのことを見つめる。

「……ありさちゃんこそ、大丈夫?」

 ひさしぶりに会ったということを差し引いても、ありさは元気がないように見えた。体のどこかが痛むのを堪えて、無理に笑っているみたいだった。

「全然大丈夫だよ」

 ありさはそう答えたが、ひかりが部屋の明かりを点けようとすると、「点けないで」と頼んだ。

「なんかちょっとね……頭が痛いの。まぶしいとしんどいから」

「わかった。ねぇ、何かあった?」

「何にもないよ。これ、今日配られたプリント。で、ノートをコピーしたやつでしょ。みんなから手紙も預かってきたよ。あと本も借りてきた! ひかり、こわい話好きでしょ? 色々読んでるもんね」

「そうだね、色々読んだけど」ひかりはハードカバーを手にとって、箔押しされたタイトルをなぞった。「ナイナイが何なのかは、よくわかんなかったな」

 ありさはぴたりと動きを止める。薄暗い部屋の中で、その顔が一瞬真っ黒な影のように見えた。

「ナイナイ……」

「知ってたんだね」

 ありさは――ナイナイは、椿ありさの顔で微笑んだ。

「ひかりが言ってくれるの待ってたの。きっと気づいてくれると思って待ってた。うれしいな。ありがとう」

 畳に置かれたプリント類を押しのけて、眼前にナイナイが迫った。二重のくっきりとした大きな瞳の中に、ひかり自身の顔が映っている。

「な、ナイナイ」

「今日はいいことがあるんだよ」

 ナイナイが動かすありさの腕が、ひかりの背中に回される。小さな子どもをあやすように、ナイナイの操るありさの声が耳元で囁く。

「こないだ瑞希みずきに聞いたよ。ひかり、お父さんが戻ってきたこと、本当は困ってたんだね? ごめんね、あたしそういうのよくわからなかったんだ。お父さんって、いればいいってものじゃなかったんだね。大丈夫だよ、さっき電話してね、お父さんもそうしてくれるって……ほら! もうニュースになってる!」

 ふたりの体が離れる。ナイナイはありさの顔に満面の笑みを浮かべて、スマートフォンを差し出してきた。

 ニュースアプリの画面が表示されている。駐車場に男性の遺体。近隣のビルから転落した模様――

「ほら、ひかりのお父さんでしょ。名前出てるもんね」

 ナイナイの笑顔は、どこまでも無垢だ。

「でもね、ひかりのお母さんともう一回結婚しておいてよかったんだよ。だってそしたら、お父さんの持ってたお金とか保険金とか、お母さんとひかりのものになるでしょ? 前の奥さんと子供は死んじゃってるから関係ないし、お母さんのお金はひかりのものとほとんど同じだよね。お父さん、役に立ったよね。よかったね」

 ナイナイの瞳はきらきら輝いている。その姿がぼやけた。頬を水滴が流れて落ちる。

 ひかりはようやく、自分が泣いていることに気づいた。

「ひかり! どうしたの!?」

 驚いたような声とともに手が伸びてくる。温かい。

「ナイナイは――ナイナイは、前のままでよかったんだよ」

 ひかりは泣きながら、伸ばされた手を握った。

「押入れの中にいるナイナイのままでよかったの。ごめんねナイナイ。わたしのために色んなことしたんだね。本当にごめんなさい。怖がってないで、もっと早く、ちゃんと話せばよかった」

 ナイナイの顔から笑顔が消えた。

 廊下で電話が鳴っている。

「もしもし、森宮です」

 母の声が聞こえる。

「ひかり? 今警察から電話があってね」

 部屋の襖が開かれる。

「お父さん死んじゃったんだって。お母さん、警察署に行ってくるね。お留守番しててね」

 逆光になった母の顔は、それでも笑っていることがわかる。声は明るい。軽やかな足音が廊下を遠ざかり、少しして玄関を開け閉めする音が聞こえた。

 うつむいたナイナイが、音もなく立ち上がった。

「――ごめんねひかり。あたしも行くところがあるの」

 部屋を出ていくときに、ナイナイは一度振り返った。

「明日いっしょに学校行こ。またね」


・・・・・・


 ナイナイは外に出ると、椿ありさの母親に電話をかける。

 ここ三年ずっと脳をいじってきたのだから、椿ありさの両親は何でも言うことを聞いてくれる。車に乗せてくれるように頼むと、思ったとおり彼女は快諾してくれ、すぐに椿家の自家用車がやってくる。

 ナイナイは車に乗り込む。

(前のナイナイでよかったのに、なんてうそだよ。だってあの頃のひかりはいつも悲しそうで、よく泣いてたもん。今よりもっと痩せてて、服もよれよれで、お腹もよく空かせてた。今の方がいいに決まってる。しあわせに決まってる)

「途中で、刃物が売ってそうなところに寄ってくれる?」

 ナイナイが椿ありさの母親に言うと、

「じゃあ、ホームセンターに寄りましょうか」

 椿ありさの母親は理由も聞かずに承知する。


 車が静かに走り始める。

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