神谷実咲-03
「戻せないかもってどういうことですか!?」
待機していたビジネスホテルを出て、志朗のマンションの方に歩きながら、神谷実咲は思わず大声を上げた。近くにいたベビーカーを押している女性が、ぎょっとしてこちらを見た。
電話の向こうからは、黒木の戸惑いがちな声が聞こえてくる。
『志朗さんが急にそう言い始めまして……さっき事務所に戻ってきたんですけど』
「え? どこか行ってたんですか?」
『あの、色々ありまして……とにかく急に笑ったかと思ったらぼーっとなって、もう今日は飲むとか言ってるんですよ。骨折してるのに』
「骨折したんですか!? 全然事情がわからないですけど……あっ、着きました」
神谷がそう言うと、間もなくマンションのオートロックが開いた。
看板も表札もない、部屋番号だけの志朗の事務所のドアを開けたのは、志朗ではなく黒木だった。
「――なんで神谷さんがいるの?」
声と足音で気づいたのだろう、応接室から志朗の声がした。日が沈みかかった部屋にはまだ電灯が点いていない。黒木が急いでスイッチを入れた。
「私がさっき黒木さんに連絡したんです。今どうなってるか気になって……シロさんこそ、どうしたんですか!?」
全指がでたらめな方向に曲がった志朗の左手を見て、神谷は悲鳴のような声を上げた。
「秘密兵器を返されたみたいでね。はぁ―――」
志朗が長い溜息をつく。骨折した箇所が痛むのだろう、額に脂汗が浮かんでいる。
「いや、ボクもどうするか考えてるんですよ。考えてるんですがねぇ、まとまらなくてね……」
「あの、黒木さんに聞いたんですけど。戻せないってどういうことですか?」
神谷は応接室のソファに腰をかけ、志郎と向かい合って座った。志郎はまたひとつ長い溜息をつく。
「いやね、ボクらが相手にしているきょうというものは、素体になった人間の名前がわからないと戻せないんですよ。その名前がわからないんで困ってるんです」
「え? わかってたんじゃないんですか?」
「わかってたんですが、実は違うかもしれないというか、ボク的には考えれば考えるほど八割違うんじゃないかなというか」
「何でここにきてフワフワしてるんですか! 違ったらどうなるんですか?」
「詰みですよ。戻せないんだから。いずれここに椿ありさ、というかナイナイが来るでしょう。幸い物理的な距離が稼げるから助かるけど、それにしたっていつまでも逃げ続けられるもんじゃない。そのうち椿ありさの体を捨てないとも限りませんからね。戻せなければおそらくボクが押し負ける。秘密兵器もやられたし」
そう言いながら、志朗はテーブルの上に置いてあった壺をポンポンと叩いた。
「それ、さっき『戻した』んじゃなかったんですか?」黒木が尋ねる。
「まだ『戻して』はいないよ。元いたところに帰ってこいって言っただけ。触って、素体の名前を呼んで、『戻れ』。この三点が揃わないと戻せない」
「ど、どうするんですか?」
「だから考えてるんですよ黒木くん。幸い相手は、椿ありさの体から出てくる様子はないから――あ」
「何か思いついたんですか!?」
「いっそ椿ありさの体ごとコンクリ詰めにしたらええのと違う?」
「いやよくないでしょ! どうするんですかそのコンクリ詰め!?」
「ボク死体の処理はしたことないので……うまくできる気がせんのよなぁ。黒木くん埋めてきて」
「俺が!?」
「ふたりとも! 遊んでる場合じゃないですよ!」
神谷は割って入った。
「ボクは一応真面目に提案したつもりだったんですが……」
「本気だったんですか!? とにかく名前でしょ!? 名前! だったらそれ、本人に聞く以外なくないですか!?」
そう言いながら神谷はテーブルをバンバン叩いた。
「はい?」
「何だかわからないけど、森宮歌枝が作ったんだったら、彼女はそれ知ってるんでしょ? だったら森宮歌枝に聞くしかないでしょう!」
志朗はぽかんと口を開け、「ははは」と思いがけず朗らかに笑いだした。
「教えてもらえるわけないじゃないですか! 相手はナイナイの支配下にあるんだから、そんな重要な情報絶対教えてもらえませんよ。ああ、悪いけど黒木くん、電気消してもらっていい? さっきスイッチ入れたでしょ」
「あ、はい……でも、外はもう暗くなりかけてますよ」
「このきょうがね、明るいところが苦手なんよ。今は壺に引っ込んでるんですけど、可哀想でしょ」
「それ、きょうなんですか!?」神谷は思わず声を上げた。
「じゃあナイナイと同じ……?」
「あ、ばれた。そうです同じやつです。でももうここから出てこないじゃろうな。まぁ、こっちのことはいいんです。ちゃんと名前がわかってますから。問題はナイナイの方です。本当の名前がわからないから戻せない。作る過程で必要だから、何かしらつけてはいるはずなんですけどね」
「そんな――い、色々試してみたらどうですか? 名前」
「色々って? ははは、名前なんて星の数ほどあるじゃないですか。聖徳太子とかレオナルド・ダ・ヴィンチでも、いこうと思えばいけるんですよ」
「そんなこと言ったって、それが必要なんでしょ!? 当てるしかないじゃないですか!」
神谷はさらに前のめりになった。「私なんでもやります! 何だったら人名辞典買ってきて片っ端から読み上げます!」
「たまたま当たるまで? 狂気の沙汰じゃ、ははは……」
志朗は無事な右手で乱れた髪をかき上げながら、愉快そうに笑い始めた。
「ちょっとシロさん、笑ってる場合ですか!」
「はははは、だって凄いじゃないですか神谷さん。笑うしかないわ。ほんまに何でも……あっ」
志朗の顔から突然笑みが消えた。
「な、なんですか? 『あっ』て」
神谷は思わずどきりとした。志朗が目を開いている。ぱちぱちと二回まばたきした後、
「神谷さん、本当に何でもやります?」
と、神谷の方を向いた。見えていないはずの両目が、じっとこちらを見つめている気がする。
神谷は思わず唾を飲んだ。
「――やります」
「じゃあ、片棒をがっつり担いでもらいます」と志朗が言った。「成功したら、ボクと一緒に地獄に落ちましょう」
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