志朗貞明-01
志朗貞明はそのとき、自分の左手の中から枯れ枝を折るような音を聞いた。続いて肘からバキンという音と衝撃が頭に響き、自らの意思に反して左腕が跳ね上がった。何かが腕の中を上ってくる、と本能的に悟った次の瞬間、頭の中で(戻せ!)という声がした。
森宮詠一郎の声だった。
「戻れ!」
とっさに声が出た。左腕を上ってきた何かが体内から抜け、骨壷の蓋がカタンとひとりでに跳ね上がるような音をたてた。力が抜け、途端に激痛が襲ってきた。
「志朗さん!」
黒木が近づいてくる。立っていられず、志朗はその場にしゃがみ込んだ。喉の奥から自分のものではないような呻き声が漏れている。
きょうが返ってきた。返されたのだ。
椿ありさの中にいる「ナイナイ」に。
きょうが力尽くできょうを返すなど、聞いたことがない。だが、起こったことは起こったのだ。
志朗は息を吸い、ゆっくりと吐いた。医学の心得はない。左腕は触らない方がいいだろう。
「なんですかそれ!? 病院!」
行きましょうと続けようとする黒木を制して、志朗は言った。
「事務所に戻る」
腕の治療などしている場合ではない。椿ありさと遭遇しやすいようにこの場所に来ていたが、こうなったら距離をとった方がいいと判断した。どうせ移動するなら、勝手のわかる場所がいい。慣れない場所は、全盲の自分には不利だ。
黒木は何か言いたげに息を呑んだが、「……わかりました」と答えた。何も指示しないうちに壺をバッグに戻し、荷物をまとめているらしい。「入れときます!」と言われて、体の前面に回しておいたボディバッグの中に巻物を突っ込まれた。
「志朗さん、歩けます? いやいいです! 動かします!」
右腕を黒木の首に回され、背中と膝裏を支えられた、と思った瞬間、体がすっと浮いた。
「うわっ、すごいなキミ」
「車まで急ぎます!」
「これ今アレ、お姫さま抱っこというやつでは……」
「今いいでしょそんなことはどうでも!」
そう言うと、黒木は早足でもと来た坂を下っていく。揺られながら志朗は考えていた。
ナイナイは強い。想定していたレベルをかなり超えている。
森宮詠一郎は志朗の血縁ではない。だが何十年も活動した実績を持つ、力のある霊能者だ。その人物の全身の骨を使って作ったきょうを、力任せに返された。
歌枝の左腕一本にしては、ナイナイはあまりに強すぎる。
(本当に歌枝さんの左腕か?)
志朗は考えた。さっきも考えたことだった。相変わらず左腕には痛みが走っているが、頭の中はやけに静かだった。
そういえば神谷の話を聞いたとき、なにか噛み合わないと思っていたことがあった。
というよりは、あえて直視せずにいたことが。
(そもそもあの歌枝さんが、バカ正直に自分の腕できょうを作るか? 師匠の目の前で持ち去ったんだ、もしも師匠がきょうを戻そうとしていたら、すぐに戻されてしまっただろう。名前が割れているんだから。でも、別の人間が素体だったとしたら? 素体の名前がわからなければ、きょうを戻されることはない)
駐車場にたどりついた。車のロックが開く。「中に入れますよ!」と声がして、後部座席に乗せられる。
(歌枝さんが森宮家に帰ってきたとき、日中は暖かかった。歌枝さんは薄い長袖を着ていた……確か五月頃。一方で晴香さんが自殺未遂を繰り返すようになったのが、神谷さんによれば二月頃。間が空きすぎている。きょうを作るのにそんなに時間はかからない。じゃあ何に時間を使っていた?)
黒木は丁寧にシートベルトまで締めさせ、ドアを閉めた。
(もしかして、彼女は育つのを待っていたんじゃないか。きょうの素体が。そうすれば誰も素体の名前を知らない、戻される心配のないきょうを作ることができる)
運転席のドアが開き、前方右方向に車がズンと沈んだ。黒木が乗り込んだのだ。
「出発します!」
車が走り出す。
志朗は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。読み上げ機能の合成音声を聞いたのだろう、黒木が声をかけてきた。
「誰かに電話するんですか?」
「いや、検索」
ブラインドタッチで入力した語句の検索結果を、読み上げ機能が猛スピードで次々と読み上げていく。
(妊娠後期の胎児なら重さは1キロ超えるし、主な臓器もできてる。体型をごまかせるかどうかは個人差が大きいらしい。まず左腕を使ってきょうを作り、自分の胎内の子供を呪って死産させる。生身の素体があれば強いきょうを作るのに間に合う)
もしも志朗と密かに会っていた五月に、歌枝が妊娠したのだとすれば。
時期が合うのではないか。
動揺しながらも運転を続けていた黒木は、後部座席から突然上がった笑い声にぎょっとした。思わず運転を忘れて振り返りそうになった。
「ど、どうしたんですか志朗さん!?」
「ははは……黒木くん、酷い話じゃなぁ。ボクの予想が当たってたら最悪じゃ。歌枝さん、よくこんなことができたなぁ」
膝の上に巻物を広げたまま、志朗は笑っていた。志朗本人は知っている。昔から絶望が急激に度を過ぎると笑う癖があるのだ。自分の失明を知ったときもそうだった。
「志朗さん、大丈夫ですか?」
「黒木くん、えらいことになった。ナイナイの名前がわからんかもしれん」
「はい!? ど、どういうことですか」
「わからんということは戻せんということじゃ。あ―――……」
詰んだかも、と言って、志朗はシートに沈み込んだ。
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