森宮ひかり-01

 森宮ひかりは、自室の押入れの中に蹲って日付を数えた。

 転校生が自殺してから、もう十日以上が過ぎた。学校はとっくに再開されているが、彼女は登校していない。母も父も担任も皆、自殺の瞬間を目撃してショックを受けたのだと思ったらしく、休んでも咎められることはなかった。

 もっとも彼女が何をしたところで、文句を言ったり叱ったりするひとは滅多にいない。ここ数年、ひかりの周囲の人物のほとんどは、彼女の行動を好意的にとらえ、ほめそやしてきた。

 転校生の自殺にショックを受けたのは本当だ。でも学校に行かない理由はほかにあった。他人に会うのが――特に、椿ありさに会うのが怖かった。

 学校を休んでいる間、ひかりはほとんど自室の押入れの中に閉じこもっていた。ここ三年で突然優しくなった母にも、突然戻ってきた父にも、今は会いたくなかった。

 押入れの中にはひかりしかいない。だが、以前はここに「何か」がいた。彼女がナイナイと呼んでいたものが。

 ナイナイがここからいなくなってから――つまり、椿ありさが初めてこの部屋にやってきたあのときから、何もかもが変わり始めたということを、彼女はとっくに気づいている。

 部屋の襖がはたはたとノックされた。

「ひかり、お昼ご飯食べる?」

 母の歌枝の声だ。ひかりは「あとにする」と答えた。

「そう? じゃあテーブルに置いておくからね」

 声はずっと優しく、柔らかいままだった。

 ナイナイがまだ押入れの中にいた頃の母なら、きっと烈火のように怒って、自分を部屋から引きずり出したに違いない。そう考えてふと、ひかりは(それ以前のお母さんだったらどうしたかな)と考えた。

 思えば最初に母の性格が変わったのは、父と離婚する直前のことだ。それより前の母は、父にはよく干渉していたけれど、ひかりに対してはむしろ無関心だった。とらえどころのない人で、子供など最低限の世話をしていればいいと思っているふしがあった。

 そういえば小学三年生の頃、母がしょっちゅう家を空けていた時期があった。長いときは一週間ほども音沙汰がなかった。父も単身赴任先から帰ってこず、ひかりは母が買いためておいたインスタント食品で食事を済ませ、ひとりで寝起きしていた。近所の人や学校の友達、先生たちに対しては、「母は毎日ちゃんと帰ってきてるから大丈夫」と嘘をついていた。

 今思えば、あの頃が一番気楽だったかもしれない。今のように甘やかされるよりも、むしろよかったかもしれないとすら思う。将来一人暮らしをしたいと考えるようになったのも、あの頃のことがきっかけではないだろうか。

 母が突然倒れたのは、父との離婚が成立する少し前だったと記憶している。何日かして体調は戻ったが、それからまるで人柄が変わったかのようになった。ひかりの行動をなにかにつけて縛り、少しでも気に入らないとひどく怒った。ここに引っ越してきたばかりの頃は特に酷かった。

 そうなったのは、父がいなくなって執着心の行く先を失ったせいなのかもしれない。少なくとも、そう考えて自分を納得させることができる。

 でも、あんなに怒りっぽくて恐かった母が、今みたいに優しく変わってしまったというのは、どういうことなのか。

 うまく説明がつかない。

「ナイナイ」

 ひかりは小さな声で呼びかけた。なにも応えるものはなかった。


 部屋の外で電話が鳴った。

 いつの間にかうとうとと眠っていたひかりの肩がビクッと動いた。呼び出し音が止み、母親の声が答える。

「はい、森宮です。……少々お待ちください」

 ふたたび襖がノックされた。

「ひかり、神谷さんから」

 それを聞くと、ひかりは押入れから飛び出し、部屋を出た。いつの間にかもう夜になっている。さすがに空腹だった。

 母が立っていた。彼女を見てにっこりと笑う。

「ひかり、神谷さんとお友達になったんだね。よかったね」

 場違いにもひかりはぞっとした。

(やっぱりこの人、元のお母さんじゃない)

 人が変わったように優しくなった母を、ひかりは未だに受け入れがたく思っている。何かそれらしいきっかけがあったわけでもないのに、母はごく短期間で別人のように変わってしまった。

 そんなの、絶対におかしい。

 ひかりはすがりつくように電話に出た。

「もしもし」

『ひかりちゃん? 神谷です。夜分にごめんね』

 その声を聞いて、ひかりはほっと溜息をついた。

 訪問の翌日から、神谷実咲は毎日一度電話をかけてくるようになった。まだ役立てたことはないが、連絡先も教えてもらった。彼女は今のところ、椿ありさと接点を持たない唯一の知人と言っていい。

「神谷さん、どうですか?」

『こっちは変わりないよ。椿さんとも会ってないし』

「そうですか……」

『大丈夫? 学校のこと、テレビでもネットでも報道してるよね。ショックだったでしょ』

 ひかりを心配する神谷の言葉には、しっかりとした実感があった。母や父や同級生からは感じられないものだった。

「ありがとうございます……神谷さんの方はどうですか? あの、前に言ってた専門家のひとって」

 神谷の会った「専門家のひと」は、神谷の姉たちの死と、ひかりの周囲の人々の不自然な変化の双方を解決することができるかもしれないという。ところがここしばらく音信不通になっていたので、神谷と一緒に気にしていたのだ。本人が「しばらく連絡がとれなくなる」と言ったそうだけど、気がかりなのは変わりない。

『そうそう、それで電話したの。実はそのひととまた連絡が取れるようになったの! もう十日も音沙汰なしだったから心配したけど、これでひと安心だね』

 ひかりはほっと息をついた。「専門家のひと」と連絡をとれるようになったことにもほっとしたが、何より神谷はひかりに対して取り繕わない。不安なときは不安だと言ってくれる。それがひかりには心地よかった。

『そろそろ切った方がいい?』

「あ、そうですね」

 ひかりは背後に視線を送った。父は仕事だが、家の中には母がいる。もしかすると母からありさに情報がもれるかもしれない。手短に電話を切り、受話器を戻した。

 すでにひかりはありさを元凶だと疑っている。周囲の人々が変わっていった、その中心には必ず椿ありさの姿があった。

 ありさは学校に通っているらしい。ひかりのために授業のノートをとり、プリントを運んでくる。ひかりのために図書室で本を借り、ひかりに直接会えなくても、毎日ここにやってくる。何もかもひかりのためだ。

新浜にいはまさんが自殺したのは、わたしのせいなのかもしれない)

 彼女は二学期からやってきた転校生のことを思い出す。窓の外を落ちていく姿はまだ脳裏に焼き付いていて、想像すると全身が寒くなった。

 確かに彼女のことは好きではなかった。初日にいきなり突っかかってきた相手を、すぐ好きになれる方がどうかしている。とはいえ、あれだけのことでいつまでも腹を立てたりはしない。むしろひどく怒っていたのはありさの方だった。

「ひかりにあんなこと言うなんて許せない」

 冷たく言い放ったときのありさの顔は、気のせいか一瞬真っ黒な影のように見えた。

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