過去-08

 救急車に乗せられた詠一郎は、志朗がかつて世話になった病院に運ばれ、そのまま入院の運びとなった。歌枝とはさっぱり連絡がつかない。関屋と手分けして入院の手続きを済ませた志朗は、どっと疲れて帰宅した。

 翌日からはよみごの下を訪れる客の対応を一人でせねばならず、落ち着かない日々が続いた。工藤昌行の代理人を名乗る人物から連絡があったのはまさにその頃のことで、この時のことを志朗はあまり思い出したくない。それでも受話器を耳に当て、弁護士だという男性の話を聞きながら、背中にじわじわと厭な汗をかいていたことをよく覚えている。

 完全に自分が当事者なのに、どこか遠い世界での話を聞いているような気がした。このとき彼は初めて、自分が歌枝に嘘を吐かれていたことを知ったのだ。

 工藤昌行との離婚は成立していなかった。知らなかったとはいえ、ふたりは不貞行為を働いていたことになる。

 歌枝はどうしてこんなことをしたのだろう。志朗はぐるぐると考え事をしながら、それでも足は病院へ、詠一郎の病室へと向かっていた。工藤昌行への当て付けだろうか? それとも詠一郎や志朗に対して、何か思うところがあったのだろうか? 十年前、自分は森宮歌枝に、本当は何をするべきだったのだろう。

 何から話せばいいのか考えながら病室のドアを開けると、「来る頃じゃと思っとった」と声がした。

「俺のとこにも連絡が来たけん。歌枝となかなか連絡がとれんちゅうてな」

 キミが悪いこっちゃないがな、と詠一郎は言った。声は遠かった。声自体が小さいのではない、こちらを向いていないのだ。詠一郎はいつも、志朗と話すときはこちらを向いて話していた。しかし今はそうではない。

 志朗はリノリウムの床に座り、両手をついて頭を下げた。

「申し訳ありません」

 返事はなかった。

 森宮家に戻った志朗は、すぐに自分の荷物をまとめ始めた。家にやってきた関屋は、彼を止めなかった。

「森宮さん、怒ってらっしゃるわ。あの人も人間じゃし父親じゃけん、仕方ないわ。ここのことは何とかやっておくから、またそのうち帰ってきたらええと思います」

 静かにそう言った関屋にも、志朗は「申し訳ありません」と詫びて頭を下げた。

 彼が森宮家に戻ったのはそれからおよそ四年後、森宮詠一郎の葬儀の日だった。


・・・・・・


 今、事務所にいる志朗貞明の手元には、森宮詠一郎の遺言が吹き込まれたカセットテープがある。

 詠一郎は新しいものが苦手だった。渋々持っていた携帯電話も、本当に電話のためにしか使ったことがない。いくら「読み上げ機能でネットもメールもできますよ」と言っても、「俺は覚えられん」の一点張りだった。

 あの後歌枝がきょうを作ったことも、それを使って神谷実咲かみや みさきの姉を呪ったことも、そしてそのきょうを加賀美春英かがみ はるえに返されたことも、志朗から離れたところで起こった出来事だ。

 きょうを返された歌枝がひかりを連れて、離れているとはいえ同じ県内に転居していたことを、志朗は今まで知らなかった。そこにどんな意思があったのか、それともたまたまだったのか、それも知らない。知らないことばかりだ。

 それでも、事態はすでに森宮詠一郎から託されている。自分の娘がきょうによって他人を殺そうとしたことも、それを返されたことも、その始末を志朗に頼みたいということも、このカセットテープに吹き込まれていた。

 遺言を聞いた志朗は、黒木に買ってきてもらったカセットデッキを前に頭を抱えた。

(今度こそきょうを歌枝さんに戻さないとならない。よみごの方法でちゃんと戻せばきょうはいなくなる。ただ、あれだけ強いのを戻されたら、歌枝さんは死ぬじゃろう)

 詠一郎がこの件に手を出さずにいたのは、神谷実咲の両親がたまたま加賀美のところに駆け込んだからではなかったのかもしれない。歌枝を殺すことだとわかっていたから手を出しかねていたのかもしれない。何であれもう、遺言になかったことは推測するしかない。

 森宮詠一郎は死んだのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る