過去-07

「貞明くん、最近歌枝に会うたか?」

「いや会ってないですけど」

 詠一郎に対してしれっと口から嘘が出てきたことに、志朗は罪悪感を覚えつつも驚いた。

 実のところ、歌枝とはあれからまた三度ほど隠れて会っている。詠一郎に対してはさすがに面目なく、あっさり流されたのも我ながら情けなくもあり、何より歌枝に「黙っていてほしい」と頼まれていたのでその通りにしていた。もしもこのまま関係が続いたら、いずれ詠一郎にも打ち明けるべきときがくるだろう。だがそれは今ではない、と思った。

 歌枝は志朗に会うためだけに県境を越えてくるわけではなかった。森宮家を訪れて、自分の左腕を探しているのだ。菩提寺にも問い合わせがあったという。

「そうか」

 詠一郎はそう言うと、声のトーンを一段落とした。

「貞明くんなぁ、もし歌枝が腕を持ち出そうとしとったら、止めてくれんか」

「はい?」

「おそらく、きょうを作るつもりじゃけん」

 きょうを作る、と詠一郎が口に出した途端、その場の空気が張りつめた。

 きょうを作ること自体は、よみごではない者にも可能だ。自然発生的にできるきょうと違って、人の手で作られたきょうは力が強い。それは明らかに「誰かを害する」ことを目的として、この世に生み出されたものだ。

「こんな家に生まれたけん、歌枝もきょうの作り方は知っとる。キミもわかっとるじゃろうけど、自分や近しいもんの体を使って作るきょうは厄介じゃ」

「はぁ……でもそうだとして――誰に向けて作るんです?」

「昌行くん、単身赴任中によそに女作ってな。結局そっちから帰ってこないらしい。誰に向けてと言われれば、おそらく昌行くんか、浮気相手じゃろうな」

 冷たい沈黙が一瞬、部屋の中に立ちこめた。詠一郎が再び口を開いた。

「腕の骨壺はよそに預けとる。キミにもどこかは言わん。念のためじゃ。ほいでも注意しとってくれ」

 そう頼んだ声はどんよりと重く、暗かった。


「歌枝さん、これからどうするん」

 志朗が尋ねると、横でこちらを振り向く気配がした。おそらくホテルのベッドの前には大きな鏡があって、歌枝はそれを見ながら髪をとかしているらしい。髪を梳く微かな音が聞こえた。

「どうするって、何?」

「いや、離婚したんじゃったら、こっちに帰ってきたりするんかなって」

「うーん、どうかな。子供の学校とかもあるし」

「ほいでも、しょっちゅうこっちに来るでしょ。何で腕なんか探しとるんじゃ」

 先日詠一郎に言われたことが気になっていた。本当にきょうを作るために探しているのだとしたら、歌枝は正直には答えないだろう。事実、彼女は黙って髪をすいていた。志朗は勝手に続けた。

「歌枝さんなぁ、腹立つじゃろうけど、元旦那のことなんかもうほっといたらええがな」

「ふふっ」歌枝が笑った。「なんで?」

「なんていうか、非生産的じゃない?」

「ははは、そういう問題じゃないの」歌枝はなお笑いながら、志朗の頭を軽く小突いた。

「それにこっちに来たって居づらいでしょ、実家。わたし、あんな風に出てったんだから」

「どこか近くに家探したら?」

「そんなにお金ないの」

「じゃあ一緒に住もうか」

「そんな簡単に言わんでよー。貞明くん、お父さんどうすんのよ」

 ほうじゃなぁ、と志朗は呟いた。自分でもわけのわからないことを言っていると思った。

「そんなにわたしのこと好き? 貞明くんは変なひとだね」

「ボクなぁ、たぶんファム・ファタール的な人に弱いんじゃろうね」

「それわたし? ふふふ」

 まぁ嬉しいよ、と言って歌枝が立ち上がる気配がした。

「じゃあひかりの弟か妹ができたら、貞明くんが名前つけてええよ」

「まじか」

「あはははは」

 その日、歌枝はやけによく笑った。密会はそれが最後になった。


 三日後の夜、志朗が出先から森宮家に戻ると、悄然とした詠一郎が出迎えた。

「キミにああいうことを頼んでおいて、すまん。歌枝な、腕持っていきよった」

 三和土で靴を脱ぎかけてぽかんとしている志朗に、詠一郎は続けた。

「あいつな、腕がないんじゃったら自分の子供を殺して使う、言うてな。本当にやれるんか言うたら、憎んでる男の子供をどうして殺せないと思う? て逆に聞かれたわ。ゾッとしてな――俺は甘いわ」

 そう言うなり、ドンという音と衝撃が志朗の足の裏に響いた。詠一郎が三和土に崩れ落ちていた。

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