過去-06
歌枝から電話がかかってきたのは、翌日の午前中だった。
「すいません、師匠は病院で――」
『よかった。庭に車がないから、今貞明くんしかいないだろうと思ったの』
「ボクに用事ですか?」
『そう。駅前まで来てくれる? できれば早めに』
お父さんには言わないで、絶対ひとりで来て。
そう言い残して電話は切れた。
とにかく指定された場所に行こう、と志朗は思った。詠一郎に一報入れるべきかとも思ったが、やめた。
よみごである詠一郎の血筋のせいだろうか、歌枝もまた奇妙な勘の鋭さを発揮することがあった。彼女に嘘をつくのは――そしてそれがばれるのはまずい、という気がする。
(とって食われるわけでもないじゃろ)
短い逡巡の後、志朗は記憶しているタクシー会社の番号を押した。
「あー、来た来た! 昨日ぶり」
駆け寄ってきた歌枝の足取りは聞く限り軽やかで、声色も嘘のように明るい。昨日とはまるで別人のようだ。志朗は肩透かしを食った気分で、安堵半分、警戒半分のまま話しかけた。
「歌枝さん、今この辺に住んでるわけじゃないでしょ。よく毎日来ますね」
「車があったらそう遠くもないからね」
「そうなんですか?」
「こっち」
歌枝はいきなり志朗の右手をとると、彼女の左肩に置き、すたすたと歩き始めた。誘導の形である。
「どこ行くんです?」
「いいからちょっと付き合って」
この辺りの地理は把握しているが、どこに行くとも言わずに突然方向転換されると、自分がどこに向かっているのかわからなくなる。ともかくも歩いているのは歩道のようだから、すぐに危険な目には遭わないはずだと志朗は判断した。
歌枝の誘導には、さすがに手慣れた感がある。歩調を合わせて歩きながら、
「わたしねぇ、昌行くんと別れたの」
突然そう言われて、志朗はぎょっとした。「え、マジですか」
「何しろわたしも色々あったからね」
歌枝もまた「色々」の詳細は話さなかった。
「あの、その、お子さんは?」
「今学校。学童まであるから遅いの。そこ、段差」
「あ、どうも」
歌枝に導かれるまま二十分ほど歩いた。お父さん最近どう? 体弱くなりました。ああそう、大きな病気した? 去年不整脈で入院したのが最近だと大きいですね。そう――さもない会話が続いた。
「三段、低いけど階段があるから気を付けて」
「どうも。ここ、どこです?」
自動ドアの開閉音と、反響が屋外から室内のものに変わったことを察して、志朗は歌枝に尋ねた。
「ラブホテル」
「は!?」
「空きあるね。平日の真昼間だもんね」
歌枝は志朗をずんずん引っ張っていく。
「ちょっと歌枝さん、まずいでしょこういうとこは……」
「別にまずくないでしょ。わたしは旦那と別れたんだし。ああ、志朗くんに誰かいる?」
「――いや」
昨日ビールかけられてふられました、とは言いにくい。歌枝は「だったらいいでしょ」と言ってなおも先導していく。エレベーターの作動音が聞こえる。
「いやぁよくはないですよ。どうしたんですか? 急に」
「そうね――悔しいから。昌行くんに浮気されて別れたから、わたしだけ何にもないの悔しいじゃない」
「そういう理屈ですか?」
「そうだけど? あー、そうか。わたしおばさんになったもんね。イヤか」
「いやいやそうじゃなくて――歌枝さんはキレイでしょ」
「貞明くん、見えてないくせに」
「そういうことはわかるんですよ」
少なくとも志朗の脳裏に今も焼き付いている歌枝の姿は、あの頃のまま美しい。
歌枝の実年齢は確か三十四か五か、その辺りだ。おそらくほっそりとした体形はさほど変わっていない。肌にも張りがある。いや、そんなことを考えている場合ではない。
ないのだが。
チン、と音をたてて、エレベーターが到着した。
歌枝の嘘はわかりにくい。昔からそうだった。
志朗の他人の声に対する感覚は、視力を失ってからかなり鋭くなった。それでも個人差はある。彼にとって、たとえば詠一郎の嘘はわかりやすいが、歌枝の嘘はわかりにくい。
このとき彼女が語ったことが真実なのかどうか、志朗にはとっさにわかりかねた。もし嘘だとはっきりわかっていたら――
それでも、知らないふりをしてついていったかもしれない、と思う。
「――いやちょっと待って、ほんまにえらいことになった……」
志朗がベッドの中で頭を抱えていると、隣で歌枝が笑い声をたてた。古い空調が詰まったような音をたて、剥き出しの肩に温い空気が当たった。
「後悔するわりには、簡単に流されたねぇ」
「流されますよ、流され……あー」
「あはは。貞明くん、わたしのこと好きだったもんねぇ」
「それ知っててやったか……困るなぁ」
「何が?」
「師匠とお子さんに合わす顔がないでしょ」
そう言うと、歌枝はますますおかしそうにげらげら笑った。
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