過去-05
工藤昌行との入籍と妊娠の一報があった後、歌枝からの音信は絶えていた。
詠一郎もあえて連絡をとろうとはしていないらしかった。一人娘にこのような形で出て行かれた詠一郎の心中は志朗には測りかねたが、やはり詠一郎もよみごだから――普通の人とは異質な世界で生きる者だから、歌枝を引き留めにくかったのだろうと推測し、あえて問いただそうとはしなかった。
歌枝がいなくなってから、詠一郎は体調を崩すことが増えた。年月が過ぎるうちに自然と志朗が客の対応をすることが多くなり、「場数を踏むしかない」という詠一郎の言葉が図らずも実現されたことになる。
およそ十年越しに歌枝が森宮家に現れたとき、志朗はすでに一人前のよみごと言ってよかった。
「ただいま戻りましたー」
「おう、おかえり。うわっ、昼間からビール臭いなキミ」
その日、外出から戻った志朗に、詠一郎はそう言った。
「どれだけ飲んだらそうなるんじゃ」
「それが飲んでないんですよ。頭からかけられました」
「ということは、結局今のカノジョとは別れたんかいな。懲りんなぁ……まぁ、あったかい日でよかったんじゃないか」
家の奥に向かって「関屋さん、ちょっとタオル持ってきてくれんか」と声をかけ、詠一郎は呆れたように笑った。
歌枝が突然姿を現したのはこの数時間後、突然雨が降り始めた夜のことだった。
玄関に立った歌枝は、顔を出した詠一郎に向かって開口一番「わたしの腕どこ?」と言った。
追って玄関に向かった志朗は、それが間違いなく記憶にある歌枝の声だとすぐに思い出した。それでありながらなお、あまりに突然の帰宅を信じられずにいた。
「歌枝か?」
やはり信じられないという声色の詠一郎に向かって、歌枝は無感動に繰り返した。
「わたしの腕は? 骨壺があるでしょ。どこなの?」
「どうしてそんなもんが要る?」
「いいから!」
ぎょっとするような声を張り上げると、歌枝は靴を脱ぎ捨てて家の中に入ってきた。志朗は思わず道を開けた。黒い雷雲が押し迫るような圧迫感を彼女から覚えた。ひどく怒っているのだ。
「おい歌枝、お前こんな夜に何じゃ。工藤くんと子供は――」
「いいでしょ別に。で、腕は?」
「腕は――ない」
詠一郎はきっぱりとそう言った。志朗の耳には嘘をついたように聞こえた。彼の気持ちを代弁するように、歌枝が「嘘でしょ」と言った。
「ほんまにないぞ」
「墓に入れたってこと?」
「墓にもない。捨てた」
「嘘。お父さん、そういうことは絶対しない人だもの」
歌枝はじっと黙って、何か考えている様子だった。が「いい。また来るから出しといて」と言って、玄関の方に向かった。靴を履き、外に出て行く。
ようやくそこで、呪縛が解けたように志朗の体が動いた。立ち尽くしている詠一郎の横を通りすぎ、自分の靴を引っかけて外に出た。雨音に紛れて、車のスマートキーを作動させる音が聞こえた。
「歌枝さん!」
勝手のわかった庭先である。志朗は車の方に走り寄ると、歌枝に向かって手を伸ばした。右手の人差し指と中指が左腕に、あとの二本は中身のない服の袖をつかんだ。薄手の長袖を着ているようだった。
歌枝が振り向く気配がした。刺すような視線を感じたが、一瞬置いて聞こえたのは「ふふっ」という笑い声だった。
「貞明くん、まだうちにいたんだ。それ、染めたっぽくないけどどうしたの?」
「は?」
「髪の毛。真っ白になってる」
「ああ」志朗は左手で頭を触った。「そんな白くなってましたか。確かに、人によう言われるとは思った」
「ほんとに真っ白だよ。おじいさんみたい」
「色々あったんで」
志朗はそう話すに留めた。
「わたしも色々あったよ」
思いのほか静かな声が答えた。
「今度またゆっくり話そうか。連絡するから。放してくれる?」
「あ、はい」
思わず言われるままに右手を離すと、歌枝は運転席に乗り込んだ。
「またね、貞明くん」
ドアが閉まった。遠ざかっていく車の音を、志朗はずぶ濡れになりながら聞いていた。
家の中に戻ると、詠一郎が手に乾いたタオルを持って待っていた。
「何か言うたか? 歌枝は」
「あの、また連絡してくるみたいです」
志朗がそう答えると、詠一郎はため息まじりに「そうか」と呟いた。
「貞明くん。歌枝がまた来ても腕は渡すなよ。絶対に持っていかれるな」
「ちょっと……どういうことですか? 腕って、歌枝さんの左腕ですよね」
彼女の腕は火葬し、骨壺に納めてこの家に保管されているはずだ。なぜ今になってそれが必要になったのか、そのときの志朗にはわからなかった。
「それは――いや、ええわ。そのうちな」
詠一郎はそう言うと、家の奥へと歩き去った。
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