過去-04
連絡を受け、詠一郎は大急ぎで歌枝が収容された病院へと向かった。
志朗は留守宅に残ったが気が気ではない。当時はまだ「歌枝が事故に遭って病院に運び込まれた」という情報しか得ておらず、容体がわかっていなかったのだ。詠一郎から電話が入ったのはその日の夜だった。
『えらいことになったなぁ、貞明くん』
受話器から溜息まじりの声が流れてきた。
『左腕はほとんど付け根の方から切断したそうじゃ。ほいでも意識ははっきりしとるし一応話もできる。ただ本人が錯乱しとるで、またゆっくり話さんとならん』
志朗はなんと返したらいいかわからず、結局絞り出すように「そうですか」と言っただけだった。一人になった家はやけに広く、電話を切るとぞっとするほど静かだった。
入院中、志朗が歌枝の病室を訪れることはなかった。会いたいのは山々だったが、彼女は志朗はおろか、詠一郎にも会いたくないという。
服の交換などは看護師を介して行うことになった。森宮家には親戚筋の関屋という中年の男が出入りするようになり、歌枝のいない間、手の回らない雑事を片付けてくれた。
ある夜、詠一郎が「入院ちゅうのも大変じゃな」とぼやいた。珍しく歌枝と話せたという日のことだった。ひさしぶりに一人娘と会話ができたというのに、彼はひどく沈んでいた。
「洗濯物は出るし、先生から色々話も聞かにゃいかん。バス停も遠いし……」
「でも、婚約者の人がいるんですよね? 工藤さんでしたっけ」
その人は何をしてるんです? と志朗が聞きかけたところに、被せるように詠一郎は、
「それがなぁ、俺がえらいことと思っとるのは、そこなんじゃなぁ」
と言った。
詠一郎の声は、普段より枯れてがさがさしていた。
「破談になるかもしれん。婚約破棄じゃな」
「は?」
食事中だったので、志朗は箸を落としそうになった。「このタイミングでですか? それじゃったら……」
思わず言いそうになって飲み込んだ言葉を、詠一郎が代わりに口に出した。「五体満足でない女と結婚はできんいうことじゃろうな」
怒りが限度を超えると言葉が出ないということを、志朗は初めて知った。
詠一郎の声は淡々として、哀しみと諦めを含んでいた。
「俺もそれを聞いたときは、場所もわきまえんとでかい声が出たわな。けどなぁ貞明くん、いっぺんああいう話になったら取り返しがつかんわ。結婚したとしてもロクなことにならん」
「いやでも、なんかその……」
「納得いかんのはわかるけどな」
器を食卓に置く音がゴツンと響いた。
「でもそっちの方がええ。後になったらわかる」
詠一郎にそう言われると、志朗に反論するすべはなかった。
やがて退院した歌枝は、ふたたび森宮家に戻った。玄関の引き戸が開いて彼女が家に入ってきた瞬間、志朗はなにか冷たい空気が押し寄せてくるように感じて、思わず半歩後ずさった。
よみごの修行を始めてから、志朗は人の発する空気のようなものに敏感になった。霊感ではなく、声色や動きなどから直感的に判断する、いわゆる「勘」である。事故に遭う以前の歌枝が発していた空気とは、明らかに違った。黒くて冷たいものが渦巻いているような感じがした。
(きょうが寄ってくるやつじゃ)
歌枝が「ただいま」と言うのを聞いて、志朗はとっさにそう思った。すれ違おうとしたとき、彼女の足音がぴたりと彼の横で止まった。
「貞明くん、お父さんに聞いた? 昌行くん、わたしと別れるんだって。わたしを支えていく自信がないんだって。入院費とか慰謝料とか払うから、どうしても別れてほしいってさ。どう思う? 困るかぁ。聞かれても」
耳の近くで、歌枝の「ふふふ」と笑う声が響いた。
「わたし絶対別れない。絶対責任とらせるから。わたしの人生を背負ってもらう」
背筋が冷たくなった。
志朗が黙っている間に、歌枝は廊下を遠ざかっていった。
数日して、歌枝は詠一郎にすら何も言わずに家を出た。連絡もとれなくなり、詠一郎は「何で工藤くんの連絡先を聞いとかなんだのか。俺は阿呆じゃ」とぼやいた。知人を頼って居場所を突き止めた後も、歌枝はがんとして森宮家からの連絡を受けつけなかった。
歌枝の方から一報があったのは、それからまた一年近くが経ったころである。
「入籍したんじゃと、工藤くんと。ほいで歌枝は、工藤くんの子を妊娠しとるらしい」
めでたい報せのはずなのに、志朗にそう告げた詠一郎の声は、ひどく沈んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます