過去-03

 それから森宮詠一郎は、毎日のように志朗の病室を訪れた。よもやま話をしては短時間で帰っていくだけだが、そのせいだろうか、あれ以来一度もきょうを見ることはなかった。

 入院している間に、物事は着々と、流れるように進んでいた。

「よみごになるしかない」ということは、すでに志朗にもわかっている。入院初日に見たあの影のようなもののことを思い出すと、最早そうするしかないということが諦めと共に確信へと変わっていく。

 元々これといってなりたいものがあるわけではなかった。同じ年の友人達もそうだったし、進路というものはそのうち何となく決まるものなのだろうと楽観視していた。まさかこんな形で将来の選択肢が一気にそぎ落とされて、一本の道しか歩めなくなるとは思ってもみなかった。

 母親は相変わらず毎日病室を訪れていたし、父親や兄姉も顔を出していた。元々決して仲の悪い家族ではなかったが、「よみごになる」ということが決まった途端に、志朗は彼らとの間に距離を感じ始めた。それはこれまでのように彼らの表情を視認できなくなったせいかもしれないし、事故のショックについていけなかったからかもしれない。だが、

「あんたがあの、よみごさんになるなんて嘘みたいね」

 母親が溜息と共に漏らした言葉が、何より大きいような気がした。

「よみごさん」は特別なものなのだ。普通のひとびとから少し外れたところにいる、特殊な存在なのだ。事実、これまでは自分も、よみごのことをそんな風に思っていた。いわゆる「住んでいる世界が違う人」なのだと。

 その「違う世界」に、すでに自分は足を踏み入れている。そのことに改めて思い至ると、事故に遭った日がもう遠い昔のように感じられた。


 退院後の志朗は、当たり前のように森宮家に下宿することになった。

 家族とは何となく隔たりができたままだ。よみごになるということが決まった途端、友人とも疎遠になり、当時付き合っていた彼女とも別れる運びになってしまった。辛い反面、諦めてもいた。

 それに、落ち込んでいる場合ではなかった。住環境だけでなく、学校も盲学校に編入し、新しい生活になじまなければならない。家の中を歩くだけでも一苦労だし、点字も覚えなければならない。

 なにより、きょうを追い払うことを覚えなければならない。死活問題だった。


「貞明くんに教えることなぁ、実はあんまりないんじゃ」

 詠一郎はいきなりそう言い放った。

「もうキミ、きょうが見えるもんな。というわけで実地をするしかない」

「とんでもなくないですか、それ?」

「まぁ〜、大丈夫大丈夫」

 よみごには特別な呪文も作法もなかった。ただ道具が――白紙の巻物があるだけである。これも普通に表具屋に注文するだけで、あとは使いながら馴染ませるしかないという。

「そういうわけで、貞明くんにこれ渡しておくわ。使い」

 と言って渡された筒状のものは、案外重かった。

「結構金糸とか使ってるけん、キラキラしとるな」

「見えないですけど」

「俺も見えん。ほいでも高そうな見た目の方が、客に対して説得力が出るけんね。必要経費じゃ」

 キミのご両親がお金出してくださったんじゃと言われて、志朗はふいに何も言えなくなった。その巻物は未だに使っている。


「きょうっていうのは、大抵はその辺ゴロゴロしているよくないものが固まっただけのもんじゃけん。基本的には動物を追っ払うみたいなもんよ」

 詠一郎の説明には、拝み屋らしからぬ気軽さが漂っていた。志朗には把握しやすかった。

「威圧して、動けなくなったのをポイッと捨てたら、大抵のきょうは霧消してしまう。ただ面倒なのもおるけん、一概には言えんが」

 詠一郎は祝詞や念仏のようなものは唱えない。ただ「動くな」という。たったそれだけの言葉が、しかし絶大な効果を持っているのだということを、志朗は身に染みて知っていた。

「面倒なのって、どういうのですか」

「誰かを攻撃するために、人間がわざわざ作ったやつじゃ。強いんじゃなぁ、これが。たとえばキミが病院で見たやつとか」

「うお、マジすか……もうエンカウントしてたんか」

「ははは。あれもあの後俺がおいたけん」

 幸いにもあれ以降「面倒なの」には会わず、しかし怒涛のように日々が過ぎていった。

 ひとつ屋根の下にあの森宮歌枝が暮らしているにも関わらず、色気のあるイベントが一切ない――ということに志朗が気づいたときには、下宿してからおよそ半年が過ぎていた。


 視覚から得られる情報が(きょう以外には)なくなってしまったためか、映像による記憶がどんどん薄れていった。両親の顔立ちさえ曖昧になってきたことに気づいたときには愕然としたが、そんな中でもなぜか、最後に見た森宮歌枝の姿は、志朗の脳裏にくっきりと焼き付いていた。

 その理由について、志朗は深く考えるのをやめていた。森宮歌枝の姿だけが鮮明なのは、新しい情報が入ってこなくなった頭の中のモニターが、最後に映したものを映しっぱなしにしているだけなのだ。そう思うことにした。

 当時、森宮歌枝にはすでに婚約者がいた。遠からず結婚することが決まっていたし、その男が森宮家を訪れたこともある。彼のことはなんとなく苦手だったが、歌枝は幸せそうだった。「色っぽいイベント」など邪魔なだけだ。


 その婚約者が運転する車に乗っていた歌枝が事故に遭い、左腕を切断したのは、志朗貞明が森宮家に住み始めて約一年が経った頃だった。

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