過去-02

 その日は頭が重く、時折きりきりと痛んだ。事故の後遺症か薬の副作用かわからない。看護師にその旨を伝え、志朗はまたぼんやりと過ごした。相変わらずベッドの上で横になっていることしかできない。

 テレビもラジオも、今は聞こうという気になれなかった。目が見えなくなってから、周囲の何気ない物音がやけに大きく感じられる。ベッドの上で、志朗はなるべくそれらを聞き分けようと耳を澄ませた。


 森宮詠一郎もりみや えいいちろうが見舞いにやってきたのは、その日の午前中のことだった。年齢はおそらく五十代、背が高くて痩せた、どこか仙人めいた人物だったはずだが、もちろん志朗にはその姿が見えない。記憶にあるだけだ。

 付き添いの母親は、別室で医師と話をしている。病室にいるのはふたりだけだった。

「貞明くん、えらいことになったな。うちの目の前での事故じゃったから、俺も驚いたわ。娘も心配しよる」

 娘と言われて、志朗は森宮歌枝の姿を思い出した。森宮詠一郎は彼女の父で、ふたりきりで広い平屋建ての家に暮らしている。彼女に心配されていると聞いて、志朗は少しだけ心が和んだ。

「ほいでキミ、俺が何で急に来たかわかるか」

 詠一郎の声は、さほど広くもない個室にやけに響いた。

 志朗は森宮詠一郎のことをかねてから知っている。家が近いということもあるが、それ以上に彼が「よみご」だからだ。

 それを信じているかいないかに個人差はあれど、この町の者であれば、子供から老人までよみごのことは知っている。盲目の拝み屋。何も書かれていない巻物を広げて凶事を占い、遠ざける人々である。

 志朗は詠一郎の問いかけにぎょっとした。昨夜のことを思い出したからだ。あの子供のような、色の薄い影のような「何か」――志朗はすでにあれを夢だと思い始めていた。眼球を失った自分には、もう何も見えないはずだ。

 だが、志朗がまだ何も答えないうちから、詠一郎は「見たじゃろ」と畳みかけた。

「自分で言うのも何じゃが、俺の『よみ』は当たるけん――いや、キミの事故はただのと言ったら何だが、でもただの事故じゃろうね。だが、この部屋にはまだ『きょう』の気配がある。キミにもまだくっついとる。そもそも病院にはよくきょうが湧くもんじゃ。ええか貞明くん。キミはよみごになる」

 詠一郎は断言した。迷いのない口調だった。

「というか、ならないと近いうちに死ぬか、発狂するよ。何の訓練も受けていないはずなのに、キミにはすでにきょうが『見えて』いる。おそらく元々素質があったんじゃね。嬉しくはなかろうがね。ああいうもんを引き寄せる人間ってのは色々タイプがあるもんじゃが、その一つに『あれが認識できて、かつ何の対処もできない人間』ってのがある。つまり、キミじゃ」

 何かごそごそと音がして、詠一郎が「そうか、病院か。タバコはご法度じゃ」と言った。

「脅しているようで悪いね。でも俺は言わにゃならん。よみごになって、きょうを自分で追っ払えるようにならんと、キミは早々に死ぬよ。すでにちとしな」

 しばらく何と答えたらいいのかわからなかった。突然そんなことを言われても、困る。しばらく困惑したのち、志朗はようやく、

「追っ払うって、どうするんですか」

 と詠一郎に尋ねることができた。

「人によって違うが、俺はこうやるんじゃ。動くな」

 詠一郎が「動くな」と言った途端、体がズンと重くなった。なんというか、背負っていた荷物が突然重みを増したような感じだ。だがもちろん、ベッドに寝かされている志朗が、荷物など持っているはずがない。

「動くな。そのまま」

 もう一度、詠一郎の声が響いた。肩に手が触れる。その瞬間、ピリッという痛みが走った。もう一度詠一郎の指が触れる。もう一度。

 気がつくと、朝から悩まされていた頭痛が嘘のようにひいていた。体もさっきより格段に軽くなっている。

「な。何かが取れた感じするじゃろが。きょうがくっつけてったもんが取れたんじゃ」

 詠一郎の声はどこか嬉しそうだった。

「ご両親にも話しとくけん、退院したらうちへおいで。ほいじゃ、俺はこれから仕事」

 詠一郎は有無を言わさず言い切った。

 ガタン、と椅子から立ち上がる音がした。志朗は「仕事ってよみごのですか?」と聞いた。

「おうよ。さっきも言ったとおり、こういう大きな病院はきょうが出やすいけん。お得意様じゃ」

 飄々と答えると、詠一郎は病室を出て行った。ドアの開閉音がして、足音が遠くなった。


 その夜、志朗があの影のようなものを「見る」ことはなかった。

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