晩秋-04

 電車に揺られながら、私は森宮ひかりから預かった写真を改めて眺めた。椿ありさは彼女と同じブレザーを着ている。同じ中学校に通う生徒同士だとすれば、おそらく同市内に住んでいるのだろう。

 つまり、晴香たちが通っていた児童館に行くには、同じ県内とはいえ電車に乗り、一時間近くの時間と交通費を費やさなければならない。なぜ椿ありさは、わざわざこの児童館を訪れたのだろう?

 まさか、晴香たちに会うために?

 私は頭を振り、次々と湧き上がる疑念と妄想を追い払った。本当に「まさか」だ。森宮ひかりの友達の女の子が、どうしてそんなことをしなければならないというのか。

 否定しつつも、一度つながった糸は消えなかった。私は写真を仕舞い、これ以上余計なことを考えないように、読みかけの本を取り出した。


 県境をふたつ越え、駅前で食事を済ませて帰宅した頃には、とっくに夜になっていた。

 家には灯りが点いている。父も母もまだ起きている時間帯だ。とはいえ我が家にはどこか、暗い影の中に沈んでいるような気配がある。

 晴香と翔馬が亡くなってから、私の家はずっと暗くて静かだ。

「ただいま」

 玄関を開けながら声をかける。柴犬のコウメが走ってきて、靴を脱ぐ私の周りにまとわりついた。この子だけは相変わらず溌溂としている。

 洗面所で手を洗い、コートを着たまま廊下でコウメを撫でまわしていると、リビングからパジャマ姿の母が出てきた。

「遅くなったね。もうお風呂入ってないの実咲だけだから、入ったら洗っといてよ」

「わかった」

 リビングに戻る母の背中は、ずいぶん痩せて小さくなってしまったように見える。父も同じだ。

 元々は明るくて賑やかな家庭だった。問題がまるでなかったわけではないけれど、大抵それは私の向こう見ずが原因で、おっとりした晴香は揉め事とは無縁の人だった。

 結婚を前提に同棲していたはずの晴香の彼氏が、実は既婚者だったという事件が発覚したのは、私たちにとってまったくの不意打ちだった。両親も私も、そんな男とは別れろと強く意見したものだ。それなのに晴香は「彼も離婚して、私と再婚するつもりだから」と譲らなかった。彼女のお腹の中にはもう、翔馬がいたのだ。

 家族がバラバラになるんじゃないかと思うくらい揉めて、結局晴香はこの家を出て行った。それでも私たちの間にできた溝は、翔馬の成長と共に少しずつ埋まっていった。元気で人懐っこくて、本当にいい子だったのだ。なのに。

 リビングにある仏壇には、晴香と翔馬の遺影が飾られている。それが目に入るたびに胸が痛むけれど、私たちは誰もその写真を片付けようとはしない。毎日線香をあげて、お菓子をお供えして、そうやって私たちは何とか心を修復しようと必死になっている。

 ふたりの遺影だけではなく、位牌もこの家に置かれている。なのに義兄はここを滅多に訪れることがない。

 なぜそんなに無関心でいられるのだろう? もう一月以上、私は義兄と話してすらいない。最後に言葉を交わしたのは、森宮歌枝の住所を思い切って尋ねたときだった。駄目で元々と思っていたのに、義兄は妙に嬉しそうに教えてくれた。

(娘がいるんだよ! 会えたら教えて!)

 電話越しにもわかる、異様なテンションだったことを覚えている。

 自室で着替えを済ませたところで、スマートフォンに着信があった。すわ仕事関係かと思いきや、画面に表示されているのは「工藤昌行」、つまり義兄の名前だ。気の重い相手だがしかたがない。私は電話に出た。

『もしもし実咲さん? 今日こっちに来たんだって?』

 今日も異様なテンションだ。酔っぱらってでもいるのだろうか?

「そうですけど」

『じゃあ、ひかりに会ったでしょ。どうだった?』

「はい?」

『オレの娘。かわいかったでしょ? いい子なんだよ』

 義兄はまくしたてるようにひかりを褒め始めた。かわいくて優しくて賢くて、四月から中学生になったけど新しい環境でも頑張っている。友だちもたくさんできて人気者で――

『本当にいい子なんだよ。実咲さんもきっと好きになったでしょ。よかったらまた会いに来てやってよ。妹みたいなもんだと思ってさ。そういえば嫁もお客さんが来たって喜んでて……』

 嫁って、森宮歌枝のことだろうか? 嫁だと? いくら家に入り浸っていると言っても、離婚して今は戸籍上他人になっているんじゃなかったのか。

 私の気持ちを察したかのように、義兄が言った。

『あ、忘れてた。オレもう歌枝と入籍してるから』

 声も出なかった。足元から力が抜けて、私はその場に崩れ落ちそうになった。こめかみが熱い。

 入籍だと? 晴香と翔馬が亡くなってまだ半年も経っていないのに、それもあんな死に方をしたっていうのに、入籍? 私たち遺族に何の断りもなく?

 一生のうち、こんなに激怒したことは一度もなかった。胃の中が煮えくり返るようだ。口を極めて相手を罵ってやりたいのに、言葉がひとつも出てこない。それくらい怒りに支配されていた。

『やっぱりひかりにも父親が必要だと思って』

 義兄は平気で話を続けている。いかにも「良いことをした」と言わんばかりだ。

『オレ、どうしてひかりを捨てたんだろうなぁ。なんでこんないい子をほっといて、別の家庭を作って、そっちに金も労力も注いでさ。なんでそんなことしたのか全然わかんないよね。だってひかりは』

 気がつくと、私は通話を切っていた。

 義兄の話を、これ以上聞いていることができなかった。

 いつの間にかあふれた涙が頬を伝っていた。こんなことを言われたのが私でよかった。父や母ではなくて本当によかった。でもどうしよう。この気持ちをどこに持っていったらいいのかわからない。父にも母にも話せない。

 どうしよう。

 ドアの外で、カツカツと爪で床を鳴らす音がした。開けるとコウメがするりと入ってきた。私の足元をうろうろと歩き回り、脛に頭を押しつけてくる。

 不思議だ。どうやってこの子はいつも、私が傷ついたことを悟るのだろう。

 私はコウメを抱きしめ、声を殺して泣いた。

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