神谷実咲
晩秋-01
電車は否応なしに私を目的地へと運んでいく。知らない街を眺めながらシートの上で揺られている間、私は姉の
晴香がこの街に引っ越すことになったと聞いたときは驚いた。確かにここには義兄が勤める会社の支社がある。でも「何もここでなくても」と思ったのだ。
電車で一時間ほど離れてはいるが、同じ県内に義兄の前妻が住んでいる。その女性はかつて――もしもそんなことが可能ならば、の話だけど――晴香を呪い殺そうとしたことがある女なのだ。
「その転勤、断れないの?」
そう尋ねると、「ちょっとね」と浮かない顔をされてしまった。
簡単に転職などできないことは、私にもわかる。晴香は結婚前に勤めていた会社を退職し、専業主婦になっている。甥の
「単身赴任は駄目なの?」と言いかけて、私は慌てて言葉を引っ込めた。そんなの駄目に決まっている。
義兄はかつて、既婚者であることを隠して晴香との交際を始めた。それが単身赴任中のことだったのだ。
たとえ家庭にどんな問題があったにせよ、これは絶対に許されないことだと思う。離婚が成立し、晴香が結婚した後もずっと、私が義兄に不信感を抱いていた理由はこれだ。現に今、あの男は前妻のもとに戻っている――
(大丈夫。この街には本物の霊能者がいるって、あの加賀美さんも言ってたし)
晴香の言葉と共に、以前一度会ったきりの
年齢に似合わない総白髪のせいかもしれないが、不思議な人だった。結局その「本物の霊能者」とやらも、あてにはならなかったわけだけど……と考えて、私はシロさんの事務所にいた大きな男の人のことも思い出した。
そういえば
黒木さんの連絡先だけではない。私のスマートフォンには、晴香から送られた写真が何枚も保存されている。
亡くなった時、翔馬はまだ三歳と二ヶ月だった。引っ越してからふたりで近所の児童館に通い始め、愛想のいい翔馬は小・中学生たちに可愛がられていたらしい。晴香は独身時代に塾の講師をしていたから、子供たちを見ているうちに懐かしくなったのだろう。「そのうちまた塾講やりたいな」などと話すこともあった。
晴香には未来への展望があったのだ。やりたいことがあったし、翔馬の成長も楽しみにしていた。
自殺なんてするはずがない。
(何で死んじゃったの。もう心配ないって言ってたくせに。翔馬まで連れて)
ふたりが亡くなったのは三ヶ月も前のことなのに、傷口はまだ新しい。思い出すと泣きそうになってしまう。
数年前、晴香は何度も自殺を繰り返したことがある。晴香が「呪われてる」と言っていた時期だ。とても寒い冬だった。その頃、義兄はまだ離婚問題で前妻と争っていた。
当時、すでに晴香のお腹には翔馬がいた。妊娠中でナーバスになっているのに加えて、知らないうちに不倫相手にされていたこと、その相手と結婚できるかどうかわからないこと……心配の種は尽きないに違いない。詳しくはないが、冬はメンタルの調子が崩れやすいと聞いたこともある。
私は晴香が心身共に疲れ果て、おかしな妄想を始めたのだろうと思った。カウンセリングを勧めたが、彼女は頑として認めなかった。
「本当なんだってば、
そう訴えた数日後、晴香は自宅マンションのベランダから飛び降りかけた。義兄が取り押さえたからよかったものの、それから彼女は幾度となく自殺を試みるようになった。
理由は本人にもわからない。正気に戻ると「覚えがない」などと青い顔で語るが、しばらく経つと再び死のうとする。私はできるだけ仕事を休んで晴香に付き添ったが、緊張感と疲労で気が狂いそうだった。
そんな中、両親が伝手を辿って探し出したのが
彼女が本物の霊能者かどうか、私にはよくわからない。何せ私には、幽霊も妖怪も呪いも見ることができないのだ。
でも実際に晴香の心身は回復し、自殺を試みることはなくなった。翔馬も無事に産まれた。当時は何もかもが加賀美さんのいう通りに進んで、結局私も彼女を信用せざるを得なかった。
そういえば、加賀美さんは言っていた。「あたしは元を断ったわけではない。追い払っただけです」と――
呪いなんて。
ばかみたい。電車に揺られながら、私はかすかに首を振った。晴香のことがなければ、未だに「人を呪い殺す」なんてフィクションの中の出来事だと、気軽に笑い飛ばしていただろう。
それなのに、私はもう「呪いはある」と信じてしまっている。姉と甥の死の原因を知りたくて加賀美に会い、志朗に会い……
そうして今、義兄の前妻の下に向かっている。
アナウンスが、電車が目的の駅に着いたことを告げた。
私はシートから立ち上がり、電車を降りた。ずいぶんと冷たくなった風が頬に当たる。
志朗貞明の事務所を訪れたのは夏だった。それからここに来るまで、ずいぶん時間がかかってしまった。
もっとも、場所自体は義兄があっけないほど簡単に教えてくれた。なのに訪ねることができなかったのは、やっぱり怖かったのだ。最後に連絡をとったとき、黒木さんは「もう関わらない方がいい」と私に忠告をした。
『志朗さんがあんなふうに依頼を断ったのを、俺は一度も見たことがありません。神谷さんの気持ちはわかりますが、お姉さんたちのことを調べ続けるのは、おそらく危険なことだと思います』
電話越しの声は真剣な響きを持っていた。
それでも結局、私はここにやってきてしまった。たぶん一度はきっと、会わなければ気が済まないのだ。
義兄の前妻、
階段を下りながら、私はまた晴香の声を思い出す。大きなお腹をなでながら、
(奥さんが怒るの、当然だと思う)
そう言っていた。
死ぬほどの目に遭ったのに、晴香は森宮歌枝に同情していた。これから私はその、森宮に会おうとしている。何と話を切り出したらいいだろう。どんな顔をしていればいいのだろう。
緊張で手に汗が滲む。それでも無理やり前を向くと、私は改札を出た。
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