晩秋へ-01

 あれ以降、志朗は神谷の話もせず、普段通りの様子に戻って、訪れる客を捌いている。

 黒木もあえて彼女の話を持ちだしたりはせず、神谷の件はまるで「なかったこと」のようになっていた。

 だが、黒木のスマートフォンにはまだ、神谷から聞いた話のメモが残っている。もう使うことはないだろうと思っていても、それを消すことができないのだ。居酒屋で話した時の彼女の顔や声も、つい昨日のことのように思い出すことができる。その度に黒木は、

(やっぱり志朗さんに言うべきだったかな)

 と考える。

 せめて神谷が、「前妻が姉たちを呪ったのだ」と決めつけた根拠くらいは、話しておいた方がよかったのかもしれない。もしも彼女の推測が当たっているとすれば、「前妻」はそれこそ志朗にとっても危険な人物なのではないだろうか。たとえ志朗が訊くことを拒んでいるとしても――

 今でも黒木はたまにメモを見返す。中でも、

「前妻は以前も神谷姉を呪ったことがある」

 と書かれた箇所で、毎回視線が止まる。

 もしもその女性が、二度も「きょう」を使って人を呪い、そして殺したというならば、危険ではないのか。これから先、三度みたび同じことをしようとするのではないだろうか。

 そう考えると、黒木の気持ちは沈んだ。

 何度か神谷の安否を確認すべく、連絡をとろうとしたこともある。黒木が感じたあの「厭な感じ」がきょうによるものなら、彼女はすでにその影響を受け始めているのかもしれない。

 しかし、いざ連絡をとろうとすると手が止まってしまう。怖ろしいのだ。彼女に関わったために、志朗や自分にまで何かしらの被害が及ぶかもしれない。

(俺もずいぶん志朗さんをアテにしてるんだな)

 黒木は思う。おかしなものが見えるわけでも何でもないのに、志朗の言うことなら信用してしまう。そうなってきたことが我ながら可笑しく、そして危なっかしくも感じられた。


 夏が終わり、秋風が吹き、街路樹が葉を落とし始めた。

 加賀美春英かがみ はるえが志朗の事務所を訪れた頃、季節は晩秋になっていた。


 加賀美はアポイントメントをとっていなかったが、客のいない時間帯を見計らってきたかのようにやってきた。いつの間にかエントランスのオートロックを突破し、ドアの前に立ってインターホンを連打されては、志朗も中に入れざるを得ない。

「あらー、大きいかた! ごめんなさいね、失礼しちゃって。お邪魔しますね~」

 明るい声でしゃべりながら入ってきた加賀美は、なるほど「優しそうな普通のおばさん」にしか見えなかった。にこやかに微笑みながら「これお土産」と言い、駅前の総菜屋の名前が入った袋をドンとテーブルの上に置く。本当に親戚のおばさんが訪ねてきたかのようだ。それとは反対に、「急に来ないでもらえます?」と言った志朗のイヤそうな顔といったらなかった。

「急に来ないとシロさんが逃げるかと思ったのよ」

 加賀美はそう言って、黒木の出した茶を啜った。

「ちゃんと大事な用事で来たのよ。あのね、詠一郎さんが亡くなりました」

 その言葉を聞いた途端、志朗の顔色が変わった。加賀美は湯呑をそっと戻し、脇に置いてあったハンドバッグの中から葉書を取り出した。

「これ、葬儀の案内。最後くらい顔出しなさいよ」

「こんなものをもらっても、ボクには読めませんなぁ」

「そこの大きいお兄さんに読んでもらったらいいじゃないの。当日はあたしが迎えにきてあげるし」

 志朗は深い溜息をついた。

「そうは言いますけどねぇ、ボクの顔なんか出していいもんかねぇ」

「いいじゃないの。石投げられるわけでなし、シロさんが気まずいだけでしょ」

「それがイヤなんですよ」

「細かいこと言うもんじゃないの。大体追い出されたって言ってもねぇ、実際はあんた、自分で出て行ったそうじゃない。詠一郎さんが気にしてたわよ。それに何だか知らないけど、シロさんに渡したいものがあるらしいし」

「は? 渡すって今更何を……」

 事情を何も知らない黒木が困惑しているのを察したのだろう。志朗は手探りで手に取った葉書を、ひらひらと動かしながら言った。

「黒木くん、ボクのお師匠さんが亡くなったらしいわ。どうやら葬式に行かなきゃならないみたい」

「は? お師匠さんというと……」

「よみごの師匠に決まってるでしょ」

 志朗はそう言って、また深い溜息をついた。


 二日後、志朗は事務所を臨時休業とした。無論、「お師匠さん」の葬儀に参列するためである。

 降って湧いたような休日のほとんどを、黒木は自宅でゴロゴロしながら過ごした。何をしていても集中できなかった。

 志朗は師匠の死を「病死」だと言った。

「ここ何年かずっとよくなかったからね。もうじいさんだったし、寿命だね」

 だからおそらく「きょう」は関係ない、と志朗は続けたかったのだろう。それでもよからぬことばかり思い浮かんだ。

 志朗から黒木に電話があったのは、その日の夕方だった。

『黒木くん、カセットテープ聞けるもの持ってる? なかったら悪いんだけどなる早で買って、事務所に持ってきて。精算はあとでするから』

 突然のことに黒木は困惑した。志朗は『ボクもなるべく早く行くから』と付け加えて、電話を切った。

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