夏-08
「やあ黒木くん、おはよう」
翌日事務所で顔を合わせた志朗は、気のせいか少しやつれたように見えた。口調は平静を装っているが、声がガサガサしている。調子が悪いと喉に出るのだ。
「志朗さん、大丈夫ですか?」
「何が? 普段どおりですよ、ボクは」
とはいえ、おかしな様子を隠しきれていないことは、当の志朗が一番承知しているだろう。それでもシラを切り通そうとすること自体に、黒木は強い拒絶の意を感じた。ジャケットの胸ポケットに入れたスマートフォンが重くなった気がした。
あの後、黒木は神谷と電話で連絡をとった。あまりに早い返事に神谷は戸惑っていたが、とりつく島もなかったということを聞くと、彼女は静かに『そうですか』と呟いた。黒木が役に立てなかったことを謝ると、神谷は『いえ、無理を言ってすみませんでした』と言い、電話を切った。以来、連絡はない。
おそらくもう神谷に会うことはなさそうだ。しかし、彼女のことは黒木の胸に質量のある影を落とした。
神谷があのまま諦めるとは思えない。志朗が駄目なら、ほかのよみごを探して依頼をするかもしれない。志朗が言う「もっと強いよみご」なら、彼女の願いに応えることができるかもしれない。
だが、もしもそんなよみごはいないとしたら?
そう考えると、背筋が冷たくなった。何かしら邪な、しかも強い力を持ったものが、何にも邪魔されずに存在しているということ自体が怖ろしかった。
黒木の心配をよそに、その日も事務所に客は訪れた。志朗は普段通りにふるまい、巻物を広げて何かを「よみ」、客に結果を告げた。幸い、冷茶をぶっかけるような輩はいなかった。
月に一度くらいの頻度で訪れる客が志朗を見るなり、「先生、今日はどうしちゃったんですか? 顔色が悪いよ」と声をかけた。不動産屋を経営している
「あー、すみませんね。大丈夫です。ちょっと体調を崩しまして」
「ああ、最近めっぽう暑いからねぇ。しかし、先生がお元気でないと困りますよ。私はすぐに『きょう』がくっつく性質だから」
きょう。
そういえばそのことについて聞いたことがなかった。昨日の志朗との電話を、黒木は思い出していた。
不動産屋が帰ると、志朗は例によって黒木の心を読んだかのように
「次の予約まで時間があるから、昨日話せなかった『きょう』の話をちょっとしようか」
と言った。
「その前に新しいお茶いれてもらっていい? ボク、疲れると喉に来るんで」
「きょう」というものにどういう漢字を当てるか、志朗も知らないという。
「おそらく当ててはいけないんだと思う。そしたら『きょう』という名前がいらん意味まで持ってしまうからね。下手をすると、これまでよりも厄介なもんになるかもしれない」
志朗はそう言うと、黒木が持ってきたカップを手にとって冷茶を一口飲んだ。
「きょうというのはそうじゃなぁ、昨夜も言ったけど、厄というのがわかりやすいのかもしれない。そいつは大抵、自然に発生する。あらゆるものの悪意のきれっぱしがその辺に落ちていて、それが風に吹かれてきたホコリみたいに集まって固まりになる。それがついてるとマイナスの影響が出る、いわゆるデバフ効果がある」
デバフと言われると、ゲームの話をしているみたいだ。
「大抵のきょうはそういう自然にできたホコリみたいなもんで、だからボクがいつもやってるみたいにポイッと取ってしまえばいい。でもたまにそういうものとは違うやつもいて、神谷さんに関係があるのはそういうやつ。どう違うかっていうと、それは自然にできたものじゃなくて、人間がわざわざ作ったものなんだよね。誰かにデバフ効果をつけるためにわざわざ作った……つまり呪いみたいなもんじゃね。こいつはかなり手ごわい。作り方は色々で、ボクが対処できるものももちろんある。ただ神谷さんのはやばい。相当えげつない方法で――おそらく術者の親族の遺体とか、もしくは本人の体の一部を使って作られてる。術のために自分の腕を切り落とすようなとんでもない奴かて、いるところにはいるからね」
その言葉に、黒木は背筋が寒くなった。志朗はうなずきながら続けた。
「そういうものは怖い。力が強いし、自分を排除しようとする相手を攻撃してくる。関わったらボクも、あるいは黒木くんも無事で済まないかもしれない」
志朗は顔を上げ、あたかもその目が見えているかのように、黒木の方をぴたりと向いて止まった。
「ボクね、黒木くんのことが好きなんですよ」
「はい?」
「ははは、変な意味と違うよ。ボク、目が見えなくなってから人の識別が難しくなって、それが結構寂しくってね。知り合いが誰もいなくなっちゃった、みたいな気がしたりして。だから黒木くんみたいな、わかりやすい人が好きでね」
黒木くん、でかいからねぇ。志朗はそう言ってニッと笑った。
「キミは動くときの空気の揺れが特別大きいから、すぐに『ああ、黒木くんがいるな』ってわかってほっとするんじゃ。ボクはこんなんだから薄情に見えるかもだけど、それでもキミに危ない目に遭ってほしくないなと思うくらいの情はあるんです」
もちろん、ボクも遭いたくないしね。そう言って志朗は口を閉じた。
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