夏-06
「そういえば、お姉さんの旦那さんはどうされてるんですか?」
他人様の家の事情に立ち入り過ぎだろうかと思いつつ、黒木は思い切ってそう尋ねてみた。
もしも彼が健在なら、神谷が霊能者に相談を持ち掛けていることをどう思っているのだろう。なにしろ、亡くなったのは彼の妻と息子なのだ。まるで無関係というわけにはいくまい。
「それが……義兄はあまりあてにならなくて」
義兄と言った途端、神谷の表情に怒りが浮かんだように黒木は思った。
「実はあの人、今よそに――たぶん、前妻さんのところにいるんだと思います」
「それは……」
なるほど、それはアテにならないと言われても仕方がない、と黒木は思った。
前妻がいるというからには、神谷の義兄はバツイチだったのだろう。結婚に際して「風当たりが強かった」というのは、それが原因だったのかもしれない。
神谷の義兄と姉、そしてその前妻の間にどんな揉め事があったのか(あるいはなかったのか)は黒木の知るところではないが、何にせよ妻子が亡くなってからまだ数か月だというのに、別の女性のところにいるというのはいかがなものか――少なくとも、神谷からすれば心穏やかではないだろう。
「というか私、その前妻って人が、姉たちを呪って自殺させたんじゃないかと思っててるんです。だって前に……」
神谷は突然中腰になり、テーブル越しに黒木にぐっと近づいた。
「お、落ち着いてください」
突然顔が近くなったので、黒木はぎょっとして止めた。神谷は「あ」と声を上げた。
「すみません。つい夢中になって……私、昔から猪突猛進と言われることが多くて」
神谷は中腰のまま謝った。「今回だって、いきなりその前妻さんのところに乗り込んでない分、私慎重なんですよ」
「そ、そうですか……」
自分の臆病なところを自覚している黒木は、その思い切ったところがちょっと羨ましい、などと思ってしまう。
「ていうか、変ですよね。すみません。いきなり呪いがどうだのこうだの言って……」
「あ、いやそれは全然。普通です。いや普通ではないかもしれませんが……でもあの事務所に来る人は、そういう用事の人も多いですから」
少なくとも志朗にお茶をかけなかった分、神谷はまともである。
「ああ、そっか。霊能者の先生の事務所ですもんね」
ようやく椅子に座り直しながら、神谷は笑った。あまり幸福そうな笑みではないが、やっぱり笑顔の似合う人だと黒木は思う。可愛らしい顔立ちも相まって、愛くるしい魅力がある。
だが、例の「厭な感じ」は相変わらずだった。神谷そのものというより、彼女の周囲に漂っているような気がする。彼女の周りに視線を泳がせた黒木はふと、その視線の先が彼女の持っている紙袋に導かれるような気がした。甥の遺品が入っている袋だ。神谷は黒木の様子に気づいてはいないのか、
「とにかく義兄のことは気にしなくていいんです。あの人には最初から期待していません」
きっぱりと吐き捨てるように言って、グラスを傾けた。
しばらく話をした後、素面のまま居酒屋を出て神谷と別れた黒木は、そこから歩いて自宅に戻った。何をしたわけでもないのにやけに疲れていた。食費を抑えるために普段は滅多に買わないコンビニ弁当を買い(神谷の話を聞いている間は食事どころではなかった)、帰路をとぼとぼと辿った。
彼が一人暮らしをしているアパートは鉄筋コンクリート造りの二階建て、こじんまりとしたワンルームで、図体の大きな黒木にはやや狭い。とはいえ交通の便はいいし、職場である志朗の家にもごく近いので、当分引っ越すつもりはなかった。
ワイシャツとスラックスを脱ぎながら、風呂で体を洗いながら、買ってきた弁当を食べながら、彼は神谷実咲の思いつめた顔と、彼女に向かって白髪頭を下げる志朗のことを考えていた。その合間に、神谷が事務所で取り出した子供用の靴が頭の中をちらついた。
何歳かは聞きそびれたが、まだ小さな子だっただろう。神谷の義兄という人物がどんな男であれ、その息子は彼女にとって、たったひとりの甥っ子だったのだ。そうでなくても、幼い子供の死は胸に堪えるものだ。たとえ顔も知らない子であったとしても。
(ひとつ救いがあったとすれば)
頭の中に、神谷の声が蘇った。
(甥は即死で、苦しむ間もなかっただろうということです。でも姉は少し息があって……その、あとで病院の方に聞いたのですが、意識があった間――とても嬉しそうに笑っていたそうなんです。なぜかはわかりませんが)
黒木は首を振った。厭な夢を見そうだ、と思った。
やはり志朗に報告しなければ、と黒木はひとり決意する。とりあってもらえるかはともかく、この話はひとりで抱えておくには重すぎる。第一、神谷とそのように約束したのだ。そのために連絡先まで交換し、何かあれば報告することになっている。
(とりあえず、今日聞いたことを忘れないようにしないと)
コンビニ弁当のプラスチック容器を片付けると、黒木はスマートフォンを取り出した。メールの下書き機能を使って、神谷の話を思い出せる限り書き留めていく。理由のわからない親子の心中。神谷の義兄。その前妻、それから――
そのとき、黒木の大きな掌の中でスマートフォンが震えた。着信だ。
画面に表示されていた相手は、志朗貞明だった。突然だったので戸惑ったものの、黒木は画面をスワイプして電話に出た。
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