夏-04

 神谷が事務所を去ってから十数分後、マンションのエレベーターにひとりで乗り込みながら、黒木は割り切れない気持ちをまだ整理できずにいた。

 ひとまず、神谷実咲を無理やりつまみだすような羽目にならなくてよかった、とは思う。あのとき志朗の最後通牒を聞いた神谷は、自分からさっと立ち上がると、「お邪魔しました」と一礼して去っていったのだ。しかし、垣間見えた表情からは明らかに怒りと失望が滲みだしていた。

 霊能者としてなんらかの修行を積んだ様子はあるが、確かに志朗は「聖人」ではない。黒木が見たところは、むしろ俗っぽい人物だ。だが、神谷のように切羽詰まった様子で訪れた客を、あれほどすげなく追い返したことは、少なくとも彼の知る限り一度もなかった。

 神谷がいなくなると、志朗はすぐにスマートフォンを取り出した。読み上げ機能が、登録された連絡先を凄まじい速度で読み上げる。黒木のことなど眼中にないという様子で、志朗はどこかに電話をかけ始めた。そして相手が出るとろくに挨拶もせず、一気に話し始めた。

「あのねぇ加賀美さん、とんでもない人が来たよ。いくら加賀美さんの紹介だってね、あれはボクなんかの手には余るよ。逆に加賀美さんとこでやった方がいいんじゃないの? ――いやそれは確かにボクらの担当ではあるけども、あれですよ、普段ウサギやシカしか捕らない猟師に、猟師なんだからでっかいクマを退治してこいって言うようなもんですよ。違うかなぁ。いやでもほんと、大袈裟じゃないんだから――だから、ほかのよみごに繋げるもんならとっくに繋いでますよ。何でこんな離れた土地で一人でやってるか考えてみたら、すぐにわかるでしょうが」

 何度か「無理」と繰り返した挙句、電話を切ると志朗は大仰に溜息をついた。「頑固なオバさんで困るよ」

 電話の相手が、神谷にここを紹介した「加賀美」という人物であろうことは、黒木にも見当がついた。だが肝心の内容がどのようなものだったのか、彼にはこれ以上のことがわからない。

 おまけに志朗はこの後、「今日の予約入ってるお客さんはあれで最後だから、黒木くんも帰ってええよ」と言って、黒木までも追い出してしまった。「ボク女の子呼ぶから早いめに出てもらっていい?」と言っていたのは本当なのかどうなのか。それほどの気力があるようには見えなかったが――とにかく、普段の様子とはかなり違う。

 エレベーターのドアが開いた。考え事をしながらエントランスを歩いていると、突然隅の方から「すみません」と声をかけられた。

 先ほど出て行ったはずの神谷が立っていた。その姿を見た途端、黒木は再びあの「厭な感じ」を覚えた。

「シロさんの助手の方ですよね?」

 神谷はまっすぐにこちらを見ながら、小走りに寄ってきた。

 人違いです、という嘘が通用しないことは、黒木が一番知っている。友人知人に「歩く仁王像」とまで言われた容姿は、そこら中にゴロゴロしているようなものではない。しかたなく彼は、きちんと彼女に応対することにした。

「確かに私は志朗に雇われていますが、助手というほどのものではありません。ただの雑用係です。『よみご』という人たちが何ものなのかすら、よく知らないんです」

 そう言うと、神谷は残念そうに「そうですか」と呟いた。

「でも、何かご存じだったりしませんか? どんなことでもいいんです。シロさんって、普段からあんな感じの方なんですか?」

「いや、そういうわけでは……」

 どこまで話していいものか――困っていると、ロビーのドアが開いて、年配の夫婦が一組入ってきた。おそらくここの住人だろう。切羽詰まった様子の神谷と、ヌッと立っている黒木とを、不安そうな目でチラチラと見ている。

 ここで長話をするのはあまりよくないな、と黒木は思った。最悪、不審人物が女性にちょっかいをかけていると勘違いされるかもしれない。強面が災いすることもあるのだ。

「すみません、神谷さん。お話があるのなら、どこかに場所を移しませんか?」

 ダメ元でそう申し出ると、神谷はためらうことなく「わかりました」と応じた。

「こちらこそ急に呼び止めてすみません。よかったら私の話をもう少し詳しく聞いていただけませんか? できるならそれを改めて、シロさんに伝えていただきたいんです」

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