夏-03
黒木省吾と志朗貞明が知り合ったのはおよそ一年前、黒木が新卒から四年勤めていた会社が突然倒産したのがきっかけだった。
零細の印刷会社だったが、ある朝出勤すると青い顔をした上司がいて、「社長飛んだぞ」と聞かされた。確かにこのところ、会社の業績はじわじわと下がっていた。しかし、かといってこれほど急に会社がなくなるとは、少なくとも黒木は思っていなかった。
前触れなく無職になった彼に、知人が奇妙な仕事を持ちかけたのは、それからまもなくのことだ。
「雑用と、それから部屋の隅に立ってるだけの仕事があるんだけど、やる?」
それが志朗貞明との出会いになった。
初めて志朗の住むマンションを訪れたとき、黒木は彼を一目見て(胡散臭い男だな)と思った。知人の紹介がなければとって返していただろう。その内心を見抜いたかのように、志朗が「ボク、別に悪いことをやってるわけじゃないから。安心してくださいよ」と言った。
「ボク、この通り目が見えないでしょ。だから色々面倒事があってね。特に面倒なのが、タチの悪い奴に舐められるんですよ」
普通の相談者のように振る舞っていた相手が、堂々と窃盗を働こうとしたこともあったという。加えて「凶事のみを告げる」という特性上、怒ったり、取り乱したりする客も少なくない。そういうときに手を煩わせず、穏便に追い出してくれる係がいれば助かる、ということらしい。
「足音でわかるんだけど、黒木くん、相当ガタイがいいよね。顔も恐いって言われない? いいねぇ。ボク、そういう人を探してたんですよ。いるだけでお守りになるような見た目で、かつ真面目な人」
特に事細かな個人情報を当てられたわけでもないのに、志朗と対峙していると何もかも見透かされているような気分になった。ともあれ提示された条件は決して悪くなかったし、ほかに再就職のあてがあるわけでもない。知人の顔を立てることも考えて、結局黒木はこの仕事を引き受けることにした。
志朗自身、妙な魅力のある男だった。特に美形というのではないが、どこか人を惹きつけるところがある。実際モテるようで、
「客のふりしてボクを刺しにくる女がいるかもわからん。その時もよろしくね」
と言われたこともあった。よろしくと頼まれても困る、と黒木は思ったが、幸いそのような機会もまだない。
こうして出会ってからおよそ一年、毎日のように顔を合わせていながら、実のところ黒木は志朗のことをよく知らない。
彼が一部の地域で活動する「よみご」と呼ばれる類の霊能者だということは聞いたが、よみごについてはなんの情報も得ていない。志朗の正確な年齢も、家族構成も、出身地すらも知らない。
ただ、志朗の力はどうやら本物らしい、ということはわかってきた。それがどういうものであれ、彼には凶事を言い当て、またそれを防ぐことができるのだ。
少なくとも今回のように、すぐに「無理」と結論づけるところは、これまで一度も見たことがなかった。
神谷実咲は揃えた膝の上で、両方の拳を、白くなるほどぎゅっと握りしめている。彼女なりに気持ちを落ち着かせようとしていることがわかる。
志朗は座ったままではあるが、彼女に向けてまだ深く頭を下げている。両手はまだ、広げた巻物の上に置かれている。
「なんでですか」
神谷がしぼり出すような声を出す。「えっ、なんか、その、それだけなんですか? もう少し見ていただいてもいいんじゃ……」
「すみません。もう見ました。ボクでは無理です。手が出せません」
顔を伏せたまま、志朗は言う。
「えっ、えっ、おかしくないですか。だって私」
神谷は必死に言葉を続ける。「まだ話だってほとんどしていないのに。こんなちょっとのことで、何がわかるんですか?」
「わかるんです。こればっかりは理屈じゃない。ボクのような者でないとわからないことです。申し訳ありません」
「でも、加賀美さんがおっしゃったんですよ。あなたの案件だって」
あなたの案件。そう神谷は言った。
「そう言われればそうだと言えます。でも、ボクには無理です」
志朗はかたくなに頭を下げたまま、「黒木くん、お客さんにお帰りいただいて」と告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます