夏-02

 事務所を訪れた女性は、神谷実咲かみやみさきと名乗った。黒木と同年代の二十代後半だろう。薄手のワンピースの上に半袖のカーディガンを羽織っている。小柄で、いわゆるタヌキ顔の愛くるしい顔立ちだが、今その表情は硬い。

「はじめまして、神谷と申します。よろしくお願いします」

 彼女が目の前に現れた瞬間、黒木はなぜか空気がひりつくような不快感を覚えた。神谷実咲は美人だし、彼に挨拶をした態度も丁寧で好感が持てる。なのに何とも言い難い「厭な感じ」がしたのだ。

 とはいえ、彼の一存で依頼主を追い返すわけにもいかない。自分でも奇妙だと思いながら、黒木は神谷を部屋に案内した。

 神谷は殺風景と言っていいほど片付いたモデルルームのような室内と、後ろで一つに括った白髪頭にアロハシャツの志朗を見て、遠慮がちに「失礼ですけど、『よみごのシロさん』というのはあなたのことでしょうか?」と尋ねた。どうやら志朗もこの部屋も、彼女の抱いていた「霊能者」のイメージから相当に遠かったらしい。

「はい、ボクが志朗です。よろしく」

 志朗は気軽な調子で返事をしたが、その実ひどく緊張しているということが、黒木の目には明らかだった。何しろ、神谷がこの部屋に入ってきた途端、彼は普段閉じている目を数秒パッと見開いたのだ。仕事中は欠かさず入れている義眼が、まるで神谷の姿を捉えたように見えた。

 初対面の神谷の方は、特に志朗の行動に違和感を覚えることもなく、ただ黒木にしたのと同じように一礼をして、「よろしくお願いします」と言った。

「どうぞ、おかけください」

「失礼します」

 黒木は部屋の隅に立って、ふたりの方を眺めていた。

 神谷実咲は今のところ他人に冷茶をかけそうには見えないが、それでも相当思いつめている様子ではあった。黒木がこの事務所に雇われてから一年が経とうとしている。その間、様々な人物が「よみご」を頼ってここを訪れた。今では黒木にも、深刻な理由があってここにやって来る人間と、そうでない人間との区別が何となくつくようになっている。

 しかし――と彼は心の中で首を傾げる。神谷実咲に対するこの「厭な感じ」は一体何なのだろう? 無視すればすぐに忘れてしまうほどのものだが、それでも第一印象が彼に与えた影響は少なくない。なぜ彼女のことを厭だと思ったのだろう?

加賀美かがみさんのお知り合いですよね」

 志朗はやはり霊能者の類だという知人の名前を出す。黒木も何度か聞いたことがある名前だった。神谷は深くうなずく。

「はい。加賀美春英はるえさんの紹介で来ました。私の姉と甥のことで――あっ、これ必要かもしれないと言われたので、持ってきました」

 神谷は手元の紙袋から、一足の靴を取り出した。

 小さなスニーカーだった。新幹線を模した配色と模様で、サイズといいデザインといい、幼い子供のものと見て間違いないだろう。それなりに使い込んだものらしく、爪先などは合皮があちこち剥がれ、黒っぽい染みが付着している。なおも話を続けようとする神谷を、志朗はいったん遮った。

「いや、大丈夫です。それ、ちょっとしまって、神谷さんが持っていていただけますか」

「わかりました」

 神谷は紙袋に靴を戻し、大切そうに膝の上に置くと、緊張したように唇をなめた。

「では、さっそくやりましょう」

 そう言うと、志朗はテーブルの上に例の巻物を広げた。神谷が「えっ」と小さく声を上げる。

 豪華な表紙を裏切るように、その中身には何も書かれていない。文字も絵もなければ、点字のような凹凸もない。ただ白い紙が、広げるにつれてするすると机の上に伸びていく。

 志朗は閉じていたまぶたをさらに固く閉じ、紙の上に両手を置く。それから手探りで何かを探すように手を動かし始めた。

 紙の上を志朗の手が這う。常人にはわからない何かを、まるで特殊なセンサーで読み取っているかのように見えるその行動が、彼らを「よみご」と称する由縁らしい。神谷も、見慣れているはずの黒木までもが一種異様な雰囲気に飲まれて、一言も声を発せずにそれを見つめていた。

「あ」

 少しして、志朗が声をあげた。演奏を終えたピアニストのように両手をすっと上に上げ、慣れた手つきで巻物をくるくると巻く。

「あ、あの」

 神谷が声をかけた。「あの、何かわかったんでしょうか……」

「申し訳ありません」

 志朗は座ったまま頭を下げた。「これ、ボクには無理です」

 神谷は「え」と声を上げたまま、大きな瞳を開いて、目の前の志朗をじっと見つめた。黒木は何も言わなかったが、その実、彼も志朗の様子に驚いていた。

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