「よみご」のシロさん

夏-01

「口論の末、男に水をかける女」というものを生まれて初めて見た。

 と、黒木省吾くろき しょうごは他人事のようにそう思った。

 実際には女がかけたのは水ではなく水出しの緑茶であり、ふたりの口論というのも痴情のもつれによるものではなかった。ついでにいうなら黒木にとって、それは「他人事」ではなかった。

 彼は今しがた緑茶をかけられて、尖った顎の先からしずくをポタポタ垂らしている男・志朗貞明しろう さだあきのいわゆるボディーガードとして雇われているのであり、本来なら何らかの危害が加わる前に彼の身を守るのが仕事だ。だから本来なら、お茶をかけられるのを黙って見ているべき立場ではない。

 幸い、雇い主である志朗はニヤニヤしていた。なかなか帰ろうとしない面倒な客を強引に追い返すための大義名分が出そろったと言わんばかりで、実際彼はこの直後、黒木に向かって「お客さんにお帰りいただいて」と嬉しそうに命じた。

 黒木は言われたとおりに女を追い出した。四十絡みの化粧の濃い女は、ふたりを罵倒しながらマンションを出て行った。

 黒木はどちらかといえば臆病で温順な性質で、ガードマンのような仕事が向いているかと問われれば正直向いていないと言わざるをえない。

 ただ体格はいい。身長190センチ、体重108キロの巨体で目の前に立たれると、何もしなくても相手は威圧感を覚える。なればこそ、志朗の個人事務所に雇われることになったのだ。

 この2LDKのマンションの一室は、志朗貞明の自宅兼事務所である。彼を頼ってきた人々は、ほぼ例外なく玄関に一番近い応接室に通される。その部屋の隅っこに立って、客人が不審な行動をしないか見張るのが黒木の仕事だ。幸い、警察を呼ぶような大捕物になったことはまだ一度もない。

「しょうもない客だったねぇ、あんなの客じゃないよ」

 黒木が玄関から戻ってくると、志朗はすでに洗面所の棚からフェイスタオルを取り出していた。後ろで括っていた髪をほどき、頭を拭いている。濡れた顔をきれいに拭っても、両目は閉じられたままだ。だから志朗はいつも笑っているように見える。

 どう上に見積もってもまだ三十代であろう彼の髪は、雪のように白い。脱色したのではなく、自然にそうなったのだという。そうなるまでの道のりを黒木は知らない。かつては彼と同じように見えていたらしい志朗の両目がなぜ全盲になったのかも、教えてもらったことはない。

「一瞬、志朗さんがプライベートで揉めたことのある女性かと思いましたよ」

 黒木が半分冗談、半分本気で言うと、志朗の方はまるきり冗談らしく大袈裟に「ないわぁ〜」と返す。

「確かにボクは年上好きだけど、あれはないよ。最近はセフレと揉めてないし」

「今も昔もやめてくださいよ……あっ、志朗さん! 巻物は?」

 黒木は突然大声を出した。志朗の商売道具がテーブルの上に出ていたことを思い出したからである。しかし志朗は慌てる様子もなく、閉じた瞼をぎゅっと歪めてへらへらと笑った。

「あんなことでどうにかなるようなもんじゃないよ。『よみご』の道具だもん」

 黒木はさっきまで女が座っていたソファの前にある黒いローテーブルに目をやった。

 そこには一巻の巻物が置かれていた。金襴表紙の太い巻物は最初の方が開かれ、中途半端に巻き戻りつつ未だテーブルの上に広げられている。

 表紙にも、真っ白な本紙にも、緑茶のかかった跡などはなかった。


 志朗は自らを「よみご」と称する。彼の生まれた地方特有の霊能者の名前である。

 彼らは皆一様に盲目であり、そして扱うのはもっぱら凶事とされている。


「確かにボクは厄落とし専門ですけどね? さっきの女性に何で私が結婚できないのかと聞かれたら、それは厄でなくてあなたの性格のせいですとしか言いようがないがな」

 志朗はどこか西の方らしいアクセントが残る口調でそう言いながら、洗面所の棚を開いて着替えを取り出す。彼は持ち物の定位置をきっちりと決めていて、それがずれることは滅多にない。たまに黒木がスリッパを置く位置などを間違えると、「黒木くん、そこと違うよ」と目ざとく指摘してくる。目が見えないはずなのになぜ気づくのか、黒木にはさっぱりわからない。視覚以外の感覚が優れているにしても、志朗は異様に勘が鋭いと思う。

「それにしたって言い方があるでしょ。大体志朗さんは結婚のアドバイスとかするのに向いてませんよ」

「ボクは婚活アドバイザーではないからなぁ」と言いながら、志朗は慣れた手付きで髪を結び直す。

「ところで黒木くん、次のお客さんが来るまでにソファの辺り拭いといてくれる? 予約まではまだ時間があるけど、何か、ちょっと早く着くような気がする」

 それは志朗の言う通りになった。今日最後の客は、約束の時間よりも二十分早くこのマンションに到着した。

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