8.遅咲き魔女の恋愛事情「引き続き、よろしくおねがみっ(噛んだ)」
「プロジェクトおつかれさま」とでかでか書かれた横断幕を固定する。少し離れた位置からまっすぐになっているか確認してから、マリィは「はー」と息をついた。
とても、感慨深い。
季節は初夏と言ってもいい頃合に移った。三ヶ月という短期プロジェクトだったベルテを中心とする「新型人工精霊開発」は先日最終報告書を協会に提出して終了した。結果は、大成功と言っていい。
人工精霊はホムンクルスの身体に定着し、消滅することなく今日も元気に過ごしている。科学的・魔術的な計測でも異常値は見られず、マリィが見たところ魔法的にも問題はなさそうなので、ホムンクルスの活動限界まで――大精霊とは比べるべくもないが、一般の精霊と同程度には長生きするだろう。
成功の大きな要因になったのは、マリィとシリウスが共同で設計したホムンクルスだ。「人造人間」と呼ばれる通り、ホムンクルスは本来人間を模している。だが、人間と精霊では、見た目こそ似ているが、様々な部分が根本的に異なっている。
そこでマリィが注目したのが自分自身だ。魔女は、妖精や精霊に近しい。何が近しいのかと言えば、魔女や魔法使いは同じく魔力を扱う魔術師とは違い、魔力をため込むだけでなく自分と外の世界の間で循環させることができるのだ。
これまで、魔女や魔法使いが閉鎖的で錬金術に協力的でなかったせいか、「魔女型」のホムンクルスというのは実用レベルでの研究がされていなかった。
自分の内で魔力を生み出すとともに、全身および体外とも魔力を循環させる仕組みを組み込んだ「魔女型」、そこから精霊たちの希望に従って軽量化した「精霊型」ホムンクルスを開発し、それを人工精霊の身体として使用した。
結果、人工精霊はその身体に定着し、この研究成果には画期的な新技術であると業界各所から称賛の声が寄せられた。いくつかの実用化や商業利用についての話も来ているらしいが、利権の問題についてはベルテとパトロンだった企業が調整してくれている。
「魔女型」や「精霊型」のホムンクルスの製造技術についても、それ単体での商業利用や更なる別の技術開発への流用について打診が来ていると聞く。功績や利権についてはシリウスひとりのものにすればいいと思ったのだが、シリウスはがんとして首を縦に振らなかったため、マリィにも一定以上の権利が生じる、らしい。
あまりこういったことには不慣れなので、最近はいくつもの書類にサインをしたり、説明を受けたり、とにかく言われたままに動いていた印象だ。
とにかく、それもひと段落。それをみんなで祝うための「おつかれさまパーティ」だ。
「ママ!」
どんっ、と背後から腰のあたりに抱きつかれ、思い切りよろめく。なんとか転ぶことなく踏ん張った。
「シャラナ」
振り返り、とがめる声で呼ぶと、マリィの腰に腕を巻き付けていた少女が顔を上げて「えへへ」と笑う。
肩で切りそろえられた金色の髪に、ルビーの目。年の頃は十五、六に見える、やんちゃな雰囲気の美少女だ。
彼女こそ、今回のプロジェクトで生み出された人工精霊。名前はみんなで考えて付けた。
シャラナを人工精霊として生み出したのはベルテだというのに、どうしてだかずっとマリィのことを「ママ」と呼んでいる。身体であるホムンクルスがマリィを模して作ったもののため、面影が自分と似通っているせいかもしれない。
甘えるように顔をすりつけてくる彼女の頭をなでてやりながら、なるべくやさしく声をかける。
「前から言っているけど、シャラには身体があるんだから、ほかの精霊がやっているようにいきなり私に抱きついちゃだめ」
生まれてまだひと月程度なのだ。いろいろわからないことがあるのは仕方ない。でも、このままではいつお互いに怪我をするかわかったものではない。
転んじゃうからね、と言い含めると、シャラナはむくれながらも「はーい」と返事をしてマリィの腰から離れた。隣に移動してくると、いそいそと手をつないでくる。
「これならいい?」
上目づかいでそんなことを言われ、否と答えられるはずもない。
ママ、と呼ばれるのは複雑だが、年の離れたかわいい妹のようには思っている。
「あと、ベルテがそろそろ始めるよ、って」
「先生ってつけなさいっていつも言ってるでしょ」
どうしてベルテのことは呼び捨てにするのだ。
「ベルテはいいって言うのに」
つーんと唇を尖らせたシャラナだったが、すぐさまぱっと顔を輝かせる。
「ベルテ!」
マリィとつないでいないほうの手をぶんぶん振る彼女の視線の先には、「おつかれさまパーティ」の主催者であるベルテと、彼の背後から料理を運ぶメンバーたちがやってくる。
会場班だったマリィたちが整えたテーブルに次々と料理が並び、いい匂いがあたりに漂った。
「マリィくん、今日の料理、ローストビーフも手伝ったでしょ」
近づいてくる恩師の片手に早くもはフォーク、片手には驚異的なバランス感覚で山盛りにされたローストビーフの載った皿が持たれている。
まだパーティは始まっていないのだが。
「少しだけですけど……」
今回のパーティは昼なので、食堂に食事の用意を頼んだ。学院の食堂は普段から研究室の打ち上げパーティのケータリングなども請け負っているので、そのこと自体は珍しくもなんともないのだが、ベルテ研究室からの注文はふつうの研究室の打ち上げの数倍の量が必要になるため、食堂から数名の手伝いを出せと要求されたのだ。
ちなみに、ベルテは食堂の料理人の間では、ひそかに「紳士の皮をかぶった暴食の魔人」と呼ばれている。
「やっぱりね~。謎がかっておいしいわけだ」
謎がかるとはいったい何ごとだ。
下品に見えないのに、高速で皿の上のローストビーフが減っていく。あいかわらず不思議で、神秘的ですらある光景だ。
「ベルテ! ベルテ! あーん」
口を開けたシャラナにねだられ、ベルテがローストビーフを一切れ分けてあげているところに、ロムが駆け寄ってきた。
「先生! 乾杯前のつまみ食いはもう今さら責めませんけど、その量はダメですよ! あと、ちゃんと食べたいなら、まず挨拶してください!」
はい、みなさん注目、と手を打って、部屋のメンバーたちの注目をベルテに集める。最近の彼はベルテの秘書のような役回りらしいし、卒業後は研究員として残るらしいのでしばらくはベルテのお世話係が定着しそうだ。
立派になったなぁ、と後輩の成長をしみじみ感じている間に、ベルテはさっさと「おつかれさまパーティ」開始の挨拶と乾杯の音頭をとってしまったらしい。さっさと食事に移りたいのが透けて見える彼らしい態度に、部屋のメンバーが皆苦笑を浮かべているが、当人は気にせず再び残り少なくなった皿のローストビーフをぱくついている。
ぺろりとそれを平らげたところで、ベルテはおかわりを取りに行く前の雑談、とでもいう気軽さで問いかけてきた。
「ところでマリィくん、シリウスくんと婚約したって本当? なんで教えてくれなかったの?」
「え」
「は」
「ぶー」
マリィ、ロム、シャラナの順に何とも言えない声をもらす。
「え、ええ、え、マリィ先輩、婚約、婚約、っすか、そんなぁ」
おろおろ瞳を揺らし、ロムが青ざめ。
「いや、待って、ロム、違う。落ち着いて、違うから」
自分も動揺しながら、マリィは彼の肩をつかんで揺する。
「違うからー」
不服げなシャラナも握ったままだったマリィの手をぶんぶん揺らす。
「ラムスさまが、そうおっしゃってたんだけど、違うの?」
そう言ったベルテの視線をたどれば、アリシアや他のプロジェクトメンバーの会話の輪に平然とした顔で加わっているラムスがいる。
なんでいる!
「ラムおばあちゃま、また勝手に入り込んで! しかも先生になんてこと吹き込んでるの!」
精霊母としての正体をマリィに明かして以来、ラムスは周囲には正体を伏せてちょこちょこマリィの職場に現れている。最初は戸惑っていたメンバーだったが、いつの間にか「マリィの親戚」扱いでなじんでしまった。マリィが彼女を「おばあちゃま」と呼ぶのもあだ名のようなものだと思っているらしい。
誰も、自分の目の前に伝説級の精霊がいるなんて知らないのだ。いや、なぜかベルテだけは察している気がするが、彼は動じなさ過ぎてよくわからない。
「あら、シャラ、調子はどう?」
アリシアたちにひとこと断ると、ラムスはマリィたちのそばへ寄ってきた。ばっちしー、と笑うシャラナに頬ずりする。
「何かあったら、このひいおばあちゃまに言うのよ」
そしてどうしてだか曾祖母気どりなのだ。
「婚約は時間の問題でしょう? 指輪までもらっておいて」
ちらっとマリィの左手の薬指にその場の全員の視線が集まる。マリィの頬が赤らみ、ロムの顔がますます青ざめた。
「結婚式のスピーチはボクに任せてよ。やっぱり、ふたりの初めての共同作業はすばらしい研究成果として結実しました、っていうのは外せないと思うんだよね」
うんうん、とうなずきながらベルテがシャラナの頭をなでれば、シャラナはうれしそうに目を細める。
黙っていなかったのはマリィとロムだ。
「先生! 違うんです!」
「先生、俺の気持ち知ってますよね? なんでシリウスさんの後押しばっかりするんですか!」
特にロムは涙目でベルテに迫っている。
「そんなつもりはないんだけどねぇ。あえて言うなら、ふだんわがままを言わない子のお願いは聞いてあげたくなっちゃうんだよね」
ひげをちょいちょいとつまんでから、考え込むように口元に手をやった。
「あと、ロムくんは、精霊たちに舐められてるらしいから、まずはそこからなんとかしなきゃ」
「う、ううう。俺、まだあきらめませんから―――!」
何かがロムに痛恨の一撃を与えたらしく、彼は涙目のまま走り去っていった。
よくわからないが、なんだかかわいそうだった。
心配で後姿を見送っていると、隣に人がやって来た気配がして振り返る。ばちり、とこちらを見下ろす藍色の目と視線が合い、一瞬息が止まった。
先ほどまで多数のメンバーに取り囲まれていたはずのシリウスが、いつの間にかそこに居た。
「なんの話をしてるんですか、先生」
すごく自然に話に入ってきた彼に、ベルテはちいさく笑う。
「ん? ロムくんに、ボクがキミのことひいきしてるって怒られてたの」
「ひいきしてくれたんですか?」
「ううん、そこまで特別なことはなにも」
はっきり首を横に振ると、ベルテは何かを思い起こすように目を細めた。
「だって、このプロジェクトに最適な魔女は最初からマリィくんだと思ってたし、キミたちは仕事の性質上組むことになるに決まってたし」
結果、成果も出たわけだし、とうなずき、首をひねる。
「やっぱり、ボク、何もしてないよね」
責められるのは心外だなぁ、とぼやく。
「確かに、ボクはシリウスくんがマリィくんのこと気に入るって思ってたけど」
「え」
「先生!」
目を瞬かせたマリィと、あわてた様子のシリウスが同時に声を上げる。
黙っててください先生、とシリウスが必死に目で訴えている気がするが、それが通じるベルテではない。既視感がありすぎる。
「去年の今頃ね、今年度の学院の講師に内定してたシリウスくんに卒論の講評手伝ってもらったんだよね」
卒論の評価をつけるのはゼミを預かる教授や助教授だが、その前段階を助手や講師が請け負うことはままある。内定が出ていたなら、誓約書を書けばシリウスが講評の手伝いをするのを学院がとがめることはなかったはずだが――。
「マリィくんの卒論読んだシリウスくんが『この人に会いたいです』って言い始めてねぇ。でも、評価をつける担当教授以外には名前を伏せて講評つける決まりだから、もちろんマリィくんの名前も教えなかったんだけど」
ひ、とマリィは血の気が引くのを感じた。
「シリウスさんが私の卒論読んだんですか……?」
「読んだねー」
「今、はっきり教えてもらいましたけど、はい」
にこにことうなずくベルテと、申し訳なさそうにうなずくシリウスに気が遠のく。
「いやぁ、あの卒論、甘いところは多々あったけど、おもしろい、いい論文だったよ」
ね、シリウスくん、と同意を求められたシリウスも大真面目な顔でうなずく。
「魔法と魔術・錬金術の違いを論じた上で、双方を組み合わせ、互助的に作用させる実用化案――すごく興味深かったですし、今回のシャラナのことにも応用できたと思います!」
やめて。たった一年少し前のことだが、今となってはなんて未熟な論だったのかともんどりうちたい出来栄えだというのに、そんなにほめないで。
毎回言うが、ほめても、なにも、でない!!
「どっちかというと魔法に苦手意識があったみたいなシリウスくんが魔法系のこと論じてる論文に興味示すなんて初めてのことだったからね。できればあの時点で引き合わせてあげたかったんだけど」
軽く肩をすくめ、ベルテは白状する。
「まあキミたちふたりとも優秀だから、そのうち機会はあると思ったんだよ。思ったより早かったけどね」
だからロムくんに責められるようなことは何もしていないね、と改めて結論づけ、ベルテはうなずく。
「じゃあ、ボク、おかわりに行ってくるけど、マリィくん、ローストビーフ以外何手伝ったの?」
「え、ミートローフとロールキャベツと、キャロットラペを」
「わかった。食べてくるね!」
意気揚々と料理の載ったテーブルに突撃していく恩師を見送り、マリィはちらっと隣のシリウスを見上げた。
わずかに頬を染め、気まずそうに眉を下げている。
その気持ち、よくわかります。ベルテは火種をまくだけまいて去っていくのだ。
「あの、マリィさん」
おずおずと声をかけられ、なぜだかマリィまで緊張してしまう。
「マリィさんの卒論を読んだとき、自分がいかに想像力に欠如し、狭い考え方しかできていなかったかということを思い知ったんです。自分よりふたつも下の学生がこんな風に考えているのに、っていう悔しさと、こんなに色鮮やかに世界を見ることができる人がいるのかと、驚いて。ずっと会っていろんなことを話したかった」
まっすぐに見下ろされ、真剣な表情で告げられる。
「今回の件で先生に紹介してもらって、少し話をして、すぐにマリィさんがあの論文の書き手なんだって気づいて、すごくうれしかったんです」
マリィの顔がどんどん紅潮しているのに、彼は気づいているだろうか。
「マリィさんといっしょにいると、世界がこれまでよりずっと輝いて見えるんです」
それはマリィもいっしょだ。
シリウスといると、まるで果実の皮をむくように新しい自分を見つける。そのたび、甘い香りとともに世界は新しい姿を見せる。
そうか、自分たちはいっしょなのだ。
こんなに違うのに、お互いの中に知らない自分と知らない世界を見つけた。それに惹きつけられた。
マリィにとってシリウスが「未知」であるように、シリウスにとってマリィも「未知」。
マリィとシリウスでは、「未知」に対する、姿勢が違うだけ。
マリィは臆病者だ。
知らないから知りたくて、でも、知らないから逃げだしたい。
知らないから触れてみたいのに、知らないから足がすくむ。
だって、知ったら、自分は変わってしまう。
知る前には戻れない。
ずっとうじうじと進まない理由を数え上げていた。
まばゆく活躍するシリウスは自分とは違うのだと思っていたし、彼は高根の花で、マリィなんかには手の届かない人なのだと自分に言い聞かせていた。想うだけでじゅうぶんなのではないか、と。
でも、もし、違うなら。
シリウスもマリィと同じように感じる、「違う」けれど「同じ」なのだとしたら。
彼が変わることに喜びを見出すように、マリィも踏み出せるだろうか。
こわくても、恥ずかしくても、彼に手を伸ばして自分から触れてもいいのだろうか。
彼がマリィに向ける感情がたとえ恋にならなくても、何かは通じ合うだろうか。
「今はマリィと同じものも見えるしね」
シリウスの目を見つめていたマリィは、割り込んできたラムスの言葉に目を瞬かせる。そう言われて見れば、シリウスの藍色の目に、ちらりと魔法の色がよぎった。
「――越境の魔法?」
これを全身にかければ、招かれていない人間でも妖精の国や精霊の里といった彼らの領域へ入ることができる。目だけならば、彼らの姿を捉えるくらいだろうけれど。
錬金術師であるシリウスは多少の魔力は扱えるが、魔女のように妖精や精霊のことは見えない。が、この魔法があればマリィとほぼ変わらない視界を有することができるはずだ。
「そうそう。あいつのところに乗り込むときにかけてあげたのよ。喧嘩売るのに相手が見えなきゃどうしようもないでしょう?」
やたらと好戦的な精霊母は最初からティル・リンドルと一戦構えるつもりだったらしい。
「これからもあったほうが便利でしょ。太っ腹な私に感謝なさいね」
ふん、と胸を張ったラムスに苦笑を浮かべ、シリウスは「ありがとうございます」と礼を言う。
「ところで、ラムおばあちゃま」
ふと気になったことがあり、マリィはラムスに問いかける。
「ラムおばあちゃまは、なんで私に会いに来ることができたの?」
あの晩、マリィが占い小屋へたどり着いた夜、あの時はまだシリウスへの恋を自覚していなかったし、魔力はたぶん成熟しきっていなかった。
あの段階でマリィに会うのは、シンシアとの契約に違反する。
「ああ、シンシアとの契約なら私は対象外なのよ。生前のサラと別の契約を結んでいたから」
内容はシンシアも知らないけど、とラムスは控えめに笑う。どこかさみしげな表情は、今はもういないサラのことを思い出しているからなのかもしれない。
「サラが、私にだけ持ちかけたお願い。ううん、契約、ね」
契約なんて形をとらなくてもかなえてあげたのに、とつぶやく。
「私は、マリィ、あなたの守護精霊になるってサラと契約した。だから、あなたの望まない出来事からあなたを守るのよ」
人間の一生は短い。マリィを守ることなど、ラムスにとっては一瞬のことなのかもしれない。でも、精霊母ほどの存在がたったひとりの人間を守るなんて、ふつうだったら考えられない。
それは、きっとラムスにとってサラがとても大きな存在だった証。
「対価は――」
「サラからもうもらってるわ。内容は――私たちだけの秘密」
寂しげな表情をぱっと消し去り、ラムスはいつもの華やかな笑みを浮かべる。
「だから、私のことは警戒しなくていいし、精霊側は私が可能な限り抑えてる。マリィに何かあれば飛んでいくわ」
髪ももらったからね、とラムスが掲げた彼女の右手首には金色の髪を数本編んだものがブレスレットのように結ばれている。
あの晩に占いの報酬として渡したマリィの髪は、何かあったときに――今回のようにマリィが妖精の領域に囲い込まれたときなんかに――ラムスが気配とたどって飛んでいくための呪物だったらしい。
「あなたのことも、認めてる。仮初とはいえあなたがマリィの婚約者であることに異存はないし、マリィが望むならそのまま本物の婚約を交わしてくれてかまわない」
シリウスに向かってラムスはほほえみかける。
「だけど、マリィのことを泣かしたら排除するから」
笑みを崩すことなく告げられた言葉にぞっとする。
そう。妖精も、精霊も、本質的には変わらないのだ。ラムスも、ティル・リンドルも、一部を除き人間に興味はない。
もしかしたら、ラムスにとって本当に価値があるのはサラだけで、マリィすら本当はどうでもいいのかも。
「心得てます」
うなずいたシリウスに「よろしい」と満足げに笑い、ラムスはシリウスが来てからマリィにべったり張り付いていたシャラナの手を引く。
「ほら、シャラ。少しだけパパをママとふたりきりにしてあげましょうね。パパ、けっこうかわいそうな人だから、私たちが応援してあげないと」
「シャラにパパはいないもん」
うふふふ、含み笑いするラムスに対して、シャラナはむくれて抵抗する。絶対離すまじ、と強い意志を感じる力で腕にしがみつかれ、マリィは首をかしげる。
シリウスのことを「パパ」なんて呼ぶラムスもラムスだが、マリィのことは「ママ」と慕ってくれるシャラナが、どうしてだかシリウスのことは毛嫌いしている。
どうしてだろう、と首をかしげたのだが――。
「しかたないわねぇ。いいこと、シャラ。ママがパパのこといらないって言ったら、ポイするのはシャラがしていいから、今は心を広く持ちなさい」
ね、ととんでもなくおそろしいことを言って納得させようとしているラムスに、ひっと顔を引きつらせマリィは抗議の声を上げた。
「ポイってなんです、ポイって!」
情操教育的によろしくないことを言っている気がする!
「えー……じゃあ、いいよ」
「犯罪、ダメ、ゼッタイ!」
しぶしぶ、といった風に離れたシャラナにも注意したものの、シャラナはそっぽを向いた。
基本的に素直なシャラナだが、シリウスに関することだけやたらと意固地になることがある。
「ママ、早くその人いらなくなってね」
シャラ、ポイする方法いろいろ考えていい子で待ってるから、とすねたように言う人造精霊に向かって、マリィは力いっぱい首を横に振った。
「なりません! いい子はそんなこと考えないの!」
「えー」
むくれたシャラナをラムスが半ば引っ張るようにしてもぐもぐタイム中のベルテの方へ行くの見送り、マリィはぐったりと肩から力を抜いた。
もうやだ、精霊の考え方こわい、っていうか、このやりとり、占い小屋でのラムスとのやりとりを思い出す……。
それでも精霊や妖精に歯止めをかけられるのは魔女であるマリィだけだ。絶対シリウスに手出しはさせない。
よし、と決意を新たにしていると、シリウスが苦笑を浮かべてつぶやく。
「なんで嫌われているのか、わからないでもないんですけどね」
「え」
なんで魔女であるマリィにわからないのにシリウスに精霊のことがわかるのだ。
目をぱちくりさせて疑問をあらわにすると、彼は苦笑を深める。
「これは精霊だから、って問題ではないんですよ、マリィさん」
じゃあいったい、どういう問題なんだ、と首をひねっていると、指輪の嵌まった左手をとられる。
「たぶん、まだマリィさんにはわかりません」
馬鹿にされている、と感じてもおかしくない言葉だが、シリウスの目がやさしい色を浮かべて弧を描いていたのでマリィは口をつぐんだ。
「それより、すこしダンスにお付き合いいただけませんか?」
誘われて初めてパーティ会場の中央でダンスが始まっていたことに気づく。部屋の隅にあったピアノをロムが軽やかに奏でていた。後輩はなかなか多芸なのだ。
ついっと手を引かれ、マリィの身体はシリウスに寄り添う。つないでいるのとは反対のシリウスの手がマリィの腰に添えられた。
少し顔を上げれば目の前には、穏やかな笑みを浮かべた整った顔立ち。流れるような優雅なエスコート。
あの夜に想像した――それ以上の現実に、マリィの顔は煮え立つように赤く染まる。心臓だって、今にも飛び出しそうなほどに脈打つ。
それでも、マリィの心臓は破裂したりしない。
ドキドキするのは当たり前。
だってマリィは恋をしている。
恋をして、シリウスを知って、新しい自分を知って、変わろうとしている。
それを認めたなら、あとはほんの少しの勇気をもって一歩を踏み出すのだ。
あの夜のことを思い出していたせいか、脳内の鬼コーチに「物理的にぐぐいっと!」と活を入れられ、ぐいっと本当に力強く一歩踏み出してしまったマリィはシリウスの胸にぶつかった。
間違えた。違う、そうじゃない。
今詰めるべきは「一歩」は心構え的な意味で物理的距離じゃなかったはずだ。
あわてて距離をとろうとしたマリィだったが、腰を支えていたシリウスの腕がより深く回され、近づいた距離がそのまま固定されてしまう。
「シリウスさん?」
恋人どうしのダンスであれば特におかしくない距離感ではあるのだが、自分たちは婚約者と言っても偽物だ。この距離はどうなのだ、とうわつくマリィに、シリウスは至近距離からにっこりほほえみかけてくる。
まるで、何の問題もない、と言わんばかりの輝く笑顔に、マリィは口をつぐんだ。
いや、シリウスがいいなら、いいのだ。たぶん。彼がマリィとの関係を周囲に勘違いされてもいいなら。
いいのか?
「そういえば、マリィさん。新年度から先生のところの助手にって誘われてるって聞きましたよ」
どうするつもりなんですか? とゆったりとしたリズムに合わせてステップを踏みながらシリウスが訊ねてくる。耳元にかすかにかかる彼の吐息に身をすくめながら、マリィは数日前に恩師から受けた打診を思い出す。
『新年度から、ボクのところで助手をやらない? もちろん今の仕事と掛け持ちでも構わないし』
実は卒業前にも一度された話だった。学費を払って学院に残る研究生とは違い、助手は教授の雑事を手伝うかわりに給金と少額ながら研究費用が受け取れる。
だが、在学中のマリィは魔法もろくに使えない落ちこぼれの魔女だった。ベルテの推薦とはいえ学院の審査を通るとも思えなかったし、何より恩師の足を引っ張ることになりそうでこわかった。
『やっぱりマリィくんは研究に向いてると思うんだよ。今回のプロジェクトに誘ったのだって君ならできると思ったからだし、君はちゃんと結果を残した』
ベルテの言葉に、ぐっと気持ちをわしづかみにされた気がした。
今回のプロジェクト参加は正直とても楽しかった。資金が潤沢なケースだったこともあるが、さまざまなトライ&エラーを繰り返し、目標に近づいていく過程には胸が躍った。
マリィはやはり勉強が好きだ。
それに、今なら魔法だって思うように使える。
いや、それは本来なら関係なかったのだ。やりたいなら、去年だって勇気をもって引き受ければよかった。魔法がろくに使えなくても、理論研究はいくらだってできるのだから。
ベルテへの返事は「考えさせてください」と保留にしているが――。
「お引き受けする、つもりです」
シリウスの腕の中で、マリィは初めて自分の意思を言葉にした。
これまで臆病風に吹かれて二の足を踏んでいたこと、すべて、とは言わないけれど、間に合うならばやりたかったことには勇気をもって踏み出していきたい。
変わりたい。
「そうですか。よかった」
シリウスの声がうれしそうに弾む。
「またいっしょに共同研究ができるといいですね」
シリウスも、来年度も引き続き学院の講師に任命されることが内定しているのだという。
つまり、立場はあいかわらず違うけれど、マリィとシリウスは学院所属の研究者――同僚、ということになるのか。
「引き続き、よろしくおねがみっ」
噛んだ。
最近はどもることも噛むこともほとんどなくなってきていたというのに。
気合を入れて挨拶をしようとしたとたんこれだ。かっと頬に血が上る。
落ち着け、というどこかからのお告げだろうか。
これまでの自分を一気に変えようとしたってうまくいくはずもない。少しずつ、がんばっていけばいい。きっと変わっていけるから。
目の前の彼との関係も、少しずつ。
ふ、と息をつくと、マリィは赤らみのまだ引かぬ顔をあげて、ほほえんだ。
「……引き続き、よろしくお願いいたします」
そんなマリィに一瞬目をみはり、すぐにシリウスはやさしく目を細める。
「初めてお会いした時を思い出しますね」
そうだった。
マリィは挨拶を噛んで、でもシリウスはやさしく笑ってくれて。
あの時から、きっとマリィは彼のことが好きで。
短い間にたくさんのことがあって、自分たちは今こうしている。
握手で精一杯だった自分が彼とダンスをしているなんて、あの頃の自分に教えたら、きっと卒倒してしまう。
そんなことを思ってくすくす笑うなんて、自分もそれなりに図太くなったではないか。
「マリィさんに出会えてよかった」
もちろん今だって激しくドキドキはしているけれど、と自分の考えに沈んでいたマリィは、耳元でささやかれて硬直した。
思考が完全に一時停止する。
なんなら心臓も一時停止したかもしれない。
熱っぽい、わずかにかすれた声。これまでもたまに聞いていたあの声に似ているけれど、いつもはにじんでいる穏やかさすら潜ませた、真剣で、力強い声。
ここに来て初めて聞くような調子でささやかれるなんて。
「ひえ」
思わず喉の奥から情けない悲鳴をもらしてしまった。
シリウスはマリィとつないでいる手を引き寄せ、ぴたりと動きを止める。そこはちょうどダンスの輪から外れたところで、足を止めたところで誰の迷惑になる場所でもなかったけれど、自分たちは疲れたわけでも足をひねったわけでもない。何ごとか、とおそるおそる真っ赤に染まった顔を上げれば、藍色の目がまっすぐにマリィのエメラルドの目を射抜いた。
引き寄せられた手が、そのままゆっくり、鋭く見えるほど真剣な顔つきをした彼の口元に運ばれていくのをマリィは呆然と見つめていた。
ちゅ、と指輪の上に彼の唇が触れて離れていくさまが、まるで時間が何倍にも引き延ばされたかのようにゆっくり目に映る。
直接触れたわけでもないのに、指輪の下の薬指が焼けるように熱い。ついでに顔も、全身も、ゆだったように熱い。
「こちらこそ、マリィさんさえよろしければ、末永くよろしくお願いします」
にこっと至近距離からまばゆい笑顔を向けられ、悶絶する。
前言撤回。
これはマリィの手に負えない。
恋が実る前に、心臓が音を上げるに違いない。
ああ、でも、と昔読んだ小説の言い回しを思い出し、遠ざかる意識の中マリィはほほえんだ。
だから人は「恋に殉ずる」なんて言うのかもしれない。
恋って命がけなんだな、と。
「え、マリィさん、マリィさん! すみません、調子に乗りすぎました!」
あわてふためくシリウスの腕の中、限界を迎えたマリィはすぅっと意識を失った。
迷える魔女の恋愛事情 なっぱ @goronbonbon
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