7.みっつめの言いつけ「ドキドキしすぎて死んじゃいます」

「わかったら、マリィのこと、解放してちょうだい」

 互いをにらみつけて固まってしまった男性ふたりの脇からラムスがせっつく。

「正式に結婚していなくとも、婚約は契約よ。こちらに結びつきのある魔女を私たちは連れていけない」

 さあ、と迫る彼女を、ティル・リンドルは忌々しそうに見やる。ため息をひとつこぼしてから、彼はラムスではなくシリウスに向かって意地悪そうな笑みを向けた。

「確かに君たちは婚約しているのかもしれないけれど、マリィからは君の印は感じとれない。そうだとしたら、状況は私と大差ないのではないかな」

「印?」

 怪訝そうに眉をひそめたシリウスに、ティル・リンドルはうなずいてみせる。

「そうだよ。君の濃厚な気配、と言ってもいいけれど」

 さっとシリウスの頬に朱が刷かれる。

「そ、れは、結婚まで清らかな関係で、と誓ったからです」

 わずかにいつもより口早に告げられたシリウスの返答に、遅ればせながらマリィもティル・リンドルの言わんとしていることに気づいて真っ赤になる。

 なななんなななんてデリカシーのないことを!

 もうもう、と目の前の胸板をポカポカ殴ってやる。

「ティルおじさまのばか!」

 思わず幼いころの呼び名でなじってしまった。

「ははは。ごめんごめん。でもね――」

 まるで小猫にじゃれつかれたみたいに楽しげに目を細めていたティル・リンドルだったが、すっとまなざしからも声からもぬくもりを消し去ってシリウスを一瞥した。

「ただの人間が万が一にも私に嘘だなんて、許されることではないんだよ」

 よくよく考えて発言してほしくてね、と続けた彼は、どんなにマリィに甘くても、やはり妖精なのだ。魔女や魔法使い以外の人間にはほとんど興味を抱かないし、彼らを自分と同等のものだとは一切思わない。

「私とマリィを奪い合うなら、それなりの覚悟を決めてもらわなくてはならないし」

 それはあからさますぎる脅しであり、宣戦布告だった。マリィをあきらめるつもりはないのだ、と。そして、人間相手であっても容赦はしないのだ、と。

 シリウスは気丈にもまっすぐティル・リンドルをにらみ返していたが、顔色は青ざめている。当たり前だ。妖精王がその気になれば、人間なんて簡単に消し去れる。

 でも――。

「ティルおじさま。彼は本当に私の婚約者なんです。失礼なこと、おっしゃらないでください」

 ぎゅっと両手を握りしめ、マリィは目に力を込めてティル・リンドルを見上げた。

 胸にちいさくぬくもりが宿る。

「私が、お願いしていたんです。くちづけも、それ以上のことも、待ってほしいって」

 シリウスは、マリィを連れ戻すために来てくれた。そのせいでティル・リンドルに脅されている。それなのに、マリィが何もしないなんてあってはならない。仮にも今の自分たちは婚約者という設定なのだから、彼を守るのはマリィの役目だ。

 胸のぬくもりはふわっと広がって、マリィの身体の隅々まで満たしていった。これまで知らなかった、身体の奥深くに隠れていた魔力が全身を包み、しっくりとなじんでいく。欠けていたものが戻ってきたような、ずっと求めていたものを手に入れたような安堵感にひそかに息をつく。

 今まで、魔法を使うたびにどこか不安だった。何か加減を間違ってしまうのではないか、と。それなのに、今なら何でもできそうだ。

「マリィ?」

 マリィの変化に気づいたのか、ティル・リンドルがうわずった声を上げた。彼の目元が赤く染まって、見惚れるようにこちらを見ている。

「でも、それでティルおじさまに疑われるくらいなら、ちゃんと私たちが想い合う婚約者なのだってお見せしますから」

 ふん、と鼻息荒くマリィの言い放った言葉に、ぽーっとした様子だったティル・リンドルは我に返ってあわてふためいた。

「マリィ。待って。そんなつもりじゃ――」

 そんなつもりもこんなつもりもあるか。つまりはシリウスやマリィの言葉だけじゃ信じられない、ということなのだろう。

 ティル・リンドルの言葉をぴしゃりとさえぎる。

「お黙りになって。そこで見ていてください」

 言葉に魔力を込めて放つ、魔法とも呼べないおまじない。それなのにティル・リンドルの動きがぴたりと止まる。ぴゅう、とおもしろそうにラムスが口笛を吹いた。

「完全にサラの魔法も解けたわね」

 マリィの魔力を抑え込んでいた祖母の魔法。つまり、今、感じているのがマリィ本来の魔力、なのだ。

 動かぬ身体にティル・リンドルが困惑し瞳を揺らしている。マリィだって、自分が妖精王の自由を封じられるだなんて思わなかった。ちょっとでも動きをとめてくれたらその間に拘束から抜け出そう、と思っただけなのだ。

 想像以上の効果だが、都合はいい。ありがたく自分を囲っていた腕の中から外へ出る。

 いまだかつてないくらい自然に魔力が自分の中を巡り、寄り添い、思ったとおりに動く。これまで感じられなかった膨大な量の魔力が脈打っているのを感じる。

 少しこわいくらいだ。

 が、今はそんなことに怖気づいている場合ではない。

 つかつかつか、とシリウスの前まで歩み寄って行き――あと三歩、というところで足を止めた。

 成り行きを目を丸くして見守っていたシリウスの顔を直視したとたん、ティル・リンドルへのいらだちと、シリウスを守らなくてはという使命感と、目覚めた魔力の高揚感で高ぶっていた気持ちが、すっと醒める。

 同時にティル・リンドルに向かって己が言い捨てた言葉が脳内にこだまする。

『ちゃんと私たちが想い合う婚約者なのだってお見せしますから』

『婚約者なのだってお見せしますから』

『お見せしますから』

 お見せしますから!!?

「ふぁ!」

 自分、なんてことを言ったのだ!

 ぼぼぼんっ、と顔から湯気でも出さんばかりに赤くなったマリィに、シリウスが苦笑する。

「何を妖精王さまにお見せするつもりだったんですか、マリィさん」

 からかうような軽い口ぶりは硬直してしまったマリィの気持ちをほぐすためなのだろうが、問われたマリィはさらに赤くなる。

「えっと、そのぅ、くちづけなどを?」

 言うは易く、行うは難し。自分で口にしておいて頭を抱えたくなる。

 疑問形でもにょもにょ答えたマリィに、シリウスは声を立ててちいさく笑った。

「なるほど。確かに『想い合う婚約者』っぽいですね」

 でも、と彼の目が心配するように細められた。

「マリィさんは、いいんですか?」

 ティル・リンドルに言い放ったときには、彼が自分たちの関係に疑問を持たないよう、くちづけでもなんでも見せてやればいいと思った。頭が一種の興奮状態で沸いていたとしか思えない。

 こういう行為は、双方の同意があってこそ、だというのに。

 あやうく一方的にシリウスの唇を奪うところだった。セクハラ、ダメ、ゼッタイ。

「そう、ですよね。シリウスさんだって――」

「僕はかまいませんよ」

 シリウスは、おそらくおもしろがったラムスにここに連れられてきただけだ。義理でそこまで付き合う必要はない、と猛省しようとしたのだが。

「ほわっ?」

 思わぬ答えが返ってきて、思考が止まる。

「僕はかまいませんけど――」

 真剣な表情のシリウスが首をかしげる。

「マリィさんも、いいんですね?」

「え、あ、はい?」

 形のいい薄紅色の唇が動くのを眺めながら、自分の耳が捉えた気がする音を反芻していたマリィは問いかけに生返事をして――ぎょっとする。

「へ、いえ、ちがっ」

 勢いよく前言を撤回しようとしたところで、こちらをにらみつけるように凝視しているティル・リンドルの視線に気づき口をつぐむ。

 ここで思い切り否定するのはまずい。婚約者というのが根も葉もない嘘だということがばれてしまう。

 あああああぁ、だからと言って、このまま進むのもいろいろと問題が――。

 もうどうしたら、と再び硬直したマリィに向かって、やわらかくほほえんだシリウスが両手を差し伸べる。腕の中に飛び込んで来い、とでも言わんばかりだ。

 ごきゅりと喉が鳴る。ぐちゃぐちゃに混乱している頭は、簡単に理性的な選択を放棄しようとする。

 勝手にふらふらとシリウスの元へ向かいそうになる足を必死に抑え、泣きそうな顔で立ち尽くすマリィに、シリウスは静かな声で問いかけてくる。

「僕のこと、こわいですか?」

 はっと、顔を上げる。視線を巡らせると、いたずらっぽく目を輝かせたラムスがこちらに向かってうなずいてみせた。

 みっつめの、言いつけ。

 これには、確か――。

 ふるふるふるっ、とマリィは首を横に振った。素直に、と言われても、これが今できる精いっぱいだ。

「触れられるの、いやですか?」

 これにも力いっぱい首を横に振る。

 彼に『怖い?』『いや?』って聞かれたら、その時の気持ちを素直に言うこと。

 気恥ずかしすぎて言葉にはできなかったけれど、どこかほっとしたようにシリウスが肩から力を抜いたのを見て、マリィも胸をなでおろす。

 こわくないし、いやでもない。ただ、気恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまうだけなのだ。彼が嫌いなわけでは絶対にないし、彼を傷つけたいわけでもない。

「だったら、僕が君に触れること、どうか許してください」

 迷惑をかけているのはマリィの方だというのに、マリィの反応に力づけられららしいシリウスそんなことを言う。

「マリィさん」

 やさしく呼びかけられ、胸がきゅううううぅぅん、と締め付けられる。

 こんなの、逆らえるはずがない。

 おずおずと残りの三歩をつめて彼の前に立つ。

 先ほど泣いたせいで赤くなった目元に、そっとシリウスの指先が触れた。

 そのぬくもりを感じたとたん、触れられたところに熱がともり、じわじわと全身へ広がっていく。それに従ってじりじりとも、ぞくぞくとも表現しがたい感覚が、皮膚の表面から内側へ、内側から骨の髄へ駆け抜けて、たまらずマリィは身をすくめた。

 ティル・リンドルに触れられた時とも、誰に触れられた時とも違う。シリウスが触れたときだけ、触れられたところから自分が今までとは違う「何か」に作り替えられてしまうような気がするのだ。

 それは心細くて逃げ出したい、同時にすべてを彼にゆだねてしまいたい、相反する感情をマリィの中に生む。

 目を泳がせ、顔を背けようとしたものの、それはやんわり阻止されてしまった。目元から移動してきたシリウスの指は、おとがいに触れてかすかに力を込めただけだったのに。

 まっすぐにこちらを見下ろす目は、何度も見たあの熱を宿している。ティル・リンドルの一瞬ごとに揺らぐ青とは違う、静かで深い藍色はどんな感情を浮かべていようといつだってマリィの目をくぎ付けにする。

 そこに映る自分は、途方に暮れているようにも、ただ彼に見惚れているようにも見えるけれど、実際のところどちらかなんて、自分でもわからない。

 ただ、今、この瞬間、彼の視界に自分しか映っていないことに胸が激しく高鳴る。

 マリィの様子をうかがうように目をわずかに細めてから、シリウスはマリィが繊細なガラス細工か何かであるかのように丁寧な手つきで顔を上向かせた。それから身をかがめ、どこか緊張をたたえた顔を近づけてくる。

 あぁ、こんなに近づいてもやっぱり整った顔立ちなんだな。まつ毛長いし、肌もきれいだし、唇、形いいな。薄いけど、しっとりやわらかそうで、触れたらきっと――。

「ま、待ってくださいっ!!」

 あと指一本分に満たない――何なら互いのぬくもりの気配がほんのり感じられるほどの――距離に近づいたところで、マリィはとんっとシリウスの胸を押してのけぞり、距離をとった。

 あ、危なかった。欲望に負けるところだった。

 でも、くちづけなんて交わしたら自分たちは特別な関係なのだときっとマリィは勘違いしてしまう。そのせいで傷つくのはマリィ自身なのに。理性では気持ちのないただの「接触」なのだとわかっていても、知ってしまったら知らなかった頃には戻れない。

 両手で顔を覆い、ぜーはーぜーはーと深呼吸を繰り返していると、シリウスが問いかけてきた。

「……そんなに、泣くほどいや、でしたか?」

 泣き顔を隠すために顔を覆ったと思われたらしい。

「ち、ちがいます」

 両手を口元まで下げ、マリィは弁明を試みる。

 確かに目は潤んでいるが、これは混乱と緊張とはしたない興奮の表れであって――とそこまで考えたところで、マリィはシリウスの浮かべる表情に気づいて目を瞬かせた。

 眉を下げ、きれいな藍色の目を曇らせ、何かに耐えるように唇を引き結んでいる。思えば、たった今聞いた声もずいぶん沈んだものだった。

 しょも、と効果音をつけたくなるほど落ち込んでいる、というか傷ついている? まさか、マリィがくちづけを拒んだせいで?

 いつも穏やかで余裕があるように見えるシリウスがそんな表情を浮かべているのは珍しくて、ついまじまじと見つめてしまう。

 なんだか、かわいい……。

 つい浮かんだ感想にぶんぶん頭を振る。いやいや相手を傷つけたかもしれないのに、そんなことを思ってはいけない。

 きちんと弁明を続けねば。

「いや、あの、そのう、そのぅう」

 しかし恥ずかしい。

 再び顔を覆うと、蚊の鳴くような声で伝える。

「……いやじゃ、ない、んですけど」

「けど?」

 気配でシリウスが顔をのぞきこむように動いたのを感じる。

 こんな、近づく気配だけで心臓は破裂しそうに動くのだ。もし、唇に触れたりなんかしたら――。

 指の隙間からちらっと確認し、やはり至近距離にあった彼の顔に息を呑む。赤らみっぱなしの顔が、さらに熱を帯びる。

 困らせたり傷つけたりするばかりなのに、マリィの言葉を一言も聞きもらさないように、とでも言うように真剣に耳を傾けてくれる。

 やさしい人。

 大好きな人。

「……こんなの、ドキドキしすぎて死んじゃいます」

 ぼそりとつぶやくと、シリウスは目を丸くして、それから花がほころぶようにほほえみ――。

「それに――シリウスさんのご厚意に甘えるにしても、限度があると思います、し」

 マリィがティル・リンドルに聞こえないよう小声で付け加えた言葉に笑顔を凍りつかせた。

 彼がかまわないと言ってくれたからといって、やはりくちづけはやりすぎだ。ティル・リンドルを納得させるのはむずかしいかもしれないが、とりあえず一時的に追い返すことくらいは何とかなるはずだし、その間に対策を考えればいい。

 そうだ、それがいい。

 マリィはそう結論づけようとしたのだが。

「へ」

 シリウスがマリィの手首をつかんで顔から手を引きはがし、全身で覆いかぶさるように身体を傾けてきた。

 近づきすぎて焦点を失い、彼の整った顔がぼやける。

「シリウスさ――」

 あわてふためいたマリィの呼びかけは、熱い吐息まじりのささやきにさえぎられる。

「思う存分、ドキドキして――」

 僕の気持ち、思い知ってください。

 耳元でそう告げた唇は、いったん少しだけ離れてから、今度は正面から近づいてくる。

 どうして、なんて、もう訊ねる隙もない。

 先ほどよりも感じる体温が近い。近い。近い。

 思わずぎゅっと目をつむる。

 ちゅ、と触れたものはやわらかく、やけどしそうなほど熱い。触れられた瞬間はそのまま彼我の境界線が消えて溶けてしまいそうだと思ったのに、それはすぐにあっけなく離れていった。

「ん」

 名残惜しさに、無意識に止めていた息をもらす。

 膝から力が抜けたせいでへたり込みそうになったマリィの腰を、手首を解放したシリウスが抱きとめた。

「マリィさん、生きてますね?」

 いたずらっぽい口ぶりで問いかけられ、ふわふわ余韻にひたっていたマリィはぱちりと目を見開く。

「!!?」

 瞬きを繰り返してからマリィはぱっと両手で三度口元を覆った。

 え、え、え、ええええ。

 声にならない悲鳴を上げつつ、ちらっと上目遣いにシリウスを見上げる。

「ドキドキ、してくれましたか?」

 にっこり笑いかけられ、まばゆさに焼き尽くされるかと思った。

 ドキドキどころではない。心臓はドンドコドンドコ踊り狂っている。

 ふるふる震えるばかりのマリィに目を細め、シリウスはティル・リンドルに向き直る。

「妖精王さまも、これで文句ありませんよね?」

 いまだマリィのおまじないに身体の自由を奪われているのか、ティル・リンドルは一言も発さない。ただ、苦々しい顔つきでシリウスをにらみつけている。

「マリィさんは恥ずかしがりやなんです。試すような真似はご勘弁願います」

 そんな妖精王にひるむことなく、シリウスは自分の腕の中にいるマリィを見下ろし、いつくしむように頭をなでる。

 すごく、こなれた、恋人っぽい……!

(足に力が戻らないため不可抗力で)シリウスの胸にもたれかかりながら、後頭部の髪をすく指先の感覚にぽーっとなりかける。

 ドキドキはあいかわらずだけれど、こうやって甘やかすようになでてもらうのは抵抗するのが馬鹿らしく感じるほど心地いい。

「それに、印、ということでしたら――」

 マリィさん、手を出して、とささやかれ、首をかしげながらも左手を差し出す。ちなみに右手は身体を支えるためにシリウスの腕をつかませてもらっている。

「差し上げるつもりで用意していて、本当に良かった」

 そう言いながら、シリウスはマリィがつかんでいるのとは反対の腕を動かし、ジャケットの内ポケットからちいさな瓶を取り出した。

 彼の親指ほどの大きさしかない瓶の中には、とろりと光る液体が入っている。光を透過することなく、独特の光沢を放つそれは、錬金術によって液体状態に保たれた金属だろう。

 シリウスが親指で瓶の留め具をはじいて、ふたを開ける。

「すみません。すこし、ひんやりしますね」

 ひとこと断ってマリィの手の上で傾けられた瓶の中身が、とろとろと落ちてくる。くろがね色の液体金属が月や星の光を反射してきらきらと輝いた。

 マリィの左手の薬指の上に落ちたそれは確かにひんやりとしたが、すぐにマリィの体温になじむ。同時に薬指にくるりと巻きつくと、するすると形を変えていく。

 マリィが目を丸くしている間にもそれは形を変えていき、あっという間に繊細なレースを模した指輪に姿を変えた。

 もともとこの姿に変わるよう術式が与えてあったのだろうが、こんな細やかなデザインを自動再現するなんて、とんでもない技術だ。

「婚約指輪として受け取っていただけますか?」

 指輪を見せつけるようにうやうやしく手を持ち上げられ、小首をかしげて問いかけられる。

 婚約、指輪!

 あまりに破壊力の強いワードに思考が停止する。

 再び硬直したマリィが口を開くより先に、ずっと黙っていたラムスがたのしげに声をあげた。

「鉄の指輪ね! 妖精よけにはぴったりじゃない!」

 妖精たちは一部の者をのぞいて鉄を嫌う。さすがに妖精王ともなれば追い払うには至らないが、並みの妖精はマリィに触れることすら叶わないだろう。

「それにすごく純度の高い、いい鉄だわ」

「はるか東方の国で精製された高純度の鋼を取り寄せました」

 こだわりました、と胸を張るシリウスを、ラムスが「よくやったわ」と謎の上から目線でほめている。

 こちらを見るティル・リンドルの視線がますます険しくなる。

 もちろん婚約者などではないマリィにこの指輪を受け取る権利はないのだが、それを口にしてしまえばもろもろ角が立つ。

「あの、ありがとう、ございます」

 覚悟を決めて婚約者のふりを徹底したほうがいい、とは理解しているものの、シリウスに向ける笑みはどうしてもこわばってしまった。

「気に入ってもらえましたか?」

「も、もちろんです」

 満面の笑みを浮かべるシリウスと、ぎこちなく口の端をつり上げるマリィにうんうん、とうなずいてからラムスがティル・リンドルに最後通牒を突きつける。

「これなら婚約の印には十分でしょう?」

 そして契約の印が、楔がある魔女を、妖精は簡単に連れていけない。

 歯噛みするティル・リンドルにはもう打つ手がない。

「ティルおじさま」

 いまだふわふわ力の入らない全身を励まし、マリィはシリウスにもたれかかっていた身体を起こす。さりげなく背中を支えてくれたシリウスを見上げれば、力づけるようにうなずいてくれた。

「マリィ……」

 改めて呼びかけたことで「おまじない」は解けたのか、ティル・リンドルがこいねがうように手を差し伸べてくる。

「君は、魔女としても破格の存在だよ。魔力を抑えるものが消えうせた今、ここにとどまっても生きづらいだけだ」

 それは、そうなのかもしれない。

 自分の内から湧きあがり、全身を巡る魔力。世界の循環の中からマリィの意識ひとつで寄り添ってくる魔力。今のマリィが指先ひとつで動かせる魔力は、人間のものとは思えないくらいに膨大だ。

 もしかしたら、世界の法則を一時的に、ではなく永劫変えてしまえるくらいに。

「それでも、ティルおじさまとは行けません」

 自分のような人間は妖精の国に行った方がこの世界のためになるのかもしれない。

 だが、マリィには先を歩いてくれた人がいる。

「私、おばあちゃんみたいに、ここで生きたいです」

 不世出の大魔女と呼ばれ、それでもおだやかにこの世界になじんでいた祖母。晩年まで妖精王や大精霊をはべらせていたことを知った今、本当に「おだやかに」「なじんでいた」のか若干疑問に思わなくもないが、少なくとも、マリィの目にはそう見えていた。

 それがどれほど難しいものだったかは今のマリィにはわからない。でも、不可能ではなかったのだ。

「だから、ティルおじさまのお后さまにはなれません」

 どうかあきらめてください、と頭を下げると、ティル・リンドルはおもしろくもなさそうに唇を尖らせた。

「ほんと、サラにはまいったものだよ」

 いなくなってからも困らされるなんて、とぼやいてから、金色の髪をくしゃりと乱した。

「君を欲しがるのは当然私だけじゃない。これから、何度だって同じようなことがあるだろう」

 私なんて紳士的な方なんだから、と告げ、彼は薄く意地の悪い笑みを浮かべて見せた。

「そうなったとき、婚約者って肩書があろうと、ただの人間なんかに君を守り切れるのか、見物だね」

 ちらりと一瞥を投げかけられたシリウスがきゅっと唇を引き結ぶ。

「つなぎとめてみせます」

 シリウスの長い指がマリィの指と絡み合わせられ、手がつながれる。けっしてほどけないように、という意思をしめすように、しっかりと。

「せいぜいがんばるがいいよ、人間」

 思ってもいなさそうな言葉を贈り、ティル・リンドルは笑みを深める。

「ほかの誰かに奪われるくらいなら、私が奪いに来るから」

 今は引いてあげるけど、と彼は大きく蝶の羽を羽ばたかせる。

 どこからともなく濃厚な花の香りを含んだ風が吹き寄せてきて、鱗粉が散るように魔力が金色の粉になってティル・リンドルの周囲を舞う。

「じゃあね、マリィ。また、遠くないうちに」

 そう言うと同時に、彼の姿は金色の風に巻かれ、消え去った。

 ちらちらと宙をちらつく魔力の残滓を眺めながら、マリィは腹の底から息を吐きだす。隣ではシリウスが同じようにしていた。

 自然と視線が絡み合い、互いに力の抜けた笑みを浮かべる。

「なんとかなりましたね」

「はい。なんとか」

 妖精王に穏便にお帰りいただいたのだ。上出来の結果と言えよう。

「疲れましたし、戻ってお茶にしませんか?」

 シリウスの誘いに「いいですね」とうなずく。

「甘いものも食べたい気分です」

 うめくように答えたマリィに、彼も「同感です」とうなずき返してくれる。

「ラムスさまも、いっしょにいかがですか」

 誘いを受けたラムスは「上等なやつ出してちょうだいよ」と軽口をたたきながらもいそいそと同行する姿勢を見せる。

「先生がいただいたとっておきのお茶をわけてもらいましょう。この間戸棚に入れてたのを見たんですけど、どうせ先生は飲みませんから」

 お茶はお腹がふくれないんだよねってぼやいてましたから、といたずらめいた色を藍色の目に浮かべた彼は屋上の出入り口に向かって歩き出す。

 つないだ手を離すのを少しもったいなく感じて、シリウスが何も言わないのをいいことに絡めたまま彼の隣を歩く。ちらちらと彼の顔を見上げながら、マリィはつないでいるのとは反対の右手でそっと自分の唇の右脇に触れた。

 今でも、思い出せば、じんとしびれるような熱がそこに宿る。

 あれは確かにくちづけだったけれども――シリウスの唇が触れたのはマリィの唇ではなかった。ティル・リンドルの位置からはシリウスの身体が陰になって見えなかっただろうが、シリウスの唇が触れたのはマリィの唇のすぐ脇、正確には頬と唇の間とでも言うべき場所だった。

 どうして、彼は唇にしなかったのだろう。

 安堵したような、残念なような。指先でふにふにと自分の唇をつついていると――。

「マリィったら、えっち」

 いつの間にか隣に来ていたラムスにささやかれて息が止まるかと思った。

「な、どこが――」

「そんな物足りなさそうな顔をしていたら、ぺろっと食べられてしまうわよ」

 自分で言ってから、彼女はポンと手を打つ。

「あら、マリィのことはペロっといってもらった方がいいんだったわ」

 にこにこしている見た目ばかりは絶世の美女である精霊に声をひそめて言い返す。

「シリウスさんはそんなことしません!」

 ティル・リンドルといい、ラムスといい、下世話なことばかり言う。

「えー? 人間の男は飢えた狼だって言うじゃない?」

「そんなことありません」

 じっとりとした目つきで睨みつけると、ラムスはため息をこぼした。

「よくぞここまでおぼこく育ててくれたわね、シンシア」

 うらむわよ、と口早につぶやき、きょとんとするマリィの鼻先をぴんとはじく。

「まあ、あなたの場合、鈍感なのをどうにかするのが先でしょうけど」

 さっさと気づいてあげなさいね、と心底気の毒がる口ぶりのラムスに、マリィは首をかしげる。

「何に?」

 まるでマリィが何か目の前にあるものを見落としているかのような言い草だが、心当たりがないのだが。

 は――――っと息を吐き、ラムスはぼそぼそ会話するマリィたちを見守っていたシリウスの肩をポンポンと叩いた。

「〝幸いあれ〟」

 唐突に精霊の祝福を与えられたシリウスは、すぐに何かを察したらしく苦笑を浮かべる。

「僕は、マリィさんに出会えただけでじゅうぶん幸運ですから」

 あとは祝福がなくてもなんとかします、と請け合うと、マリィとつないだ手にぎゅっと力が込められた。

「すこしずつでも、ちゃんとたどりつけるはずですから」

 錬金術師は粘り強いんですよ、と笑ってうなずいたシリウスの顔がまばゆくて、マリィは目を細めた。

「シリウスさんなら、きっとどんなことだって乗り越えられます」

 いまいち話の流れがわからないながらも励ますつもりでそう口にすると、彼はきょとんと目を丸くしてから笑み崩れる。

「そうですね。マリィさんがそう言ってくれるなら、きっと大丈夫です」

 どうしてだか目頭を押さえたラムスが「……幸い、あれ」と再びつぶやいていた。

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