6.何がどうしてそうなった「―――!!?」

 がつんと頭を殴られたような衝撃だった。目を見開き、ただ瞬きを繰り返すマリィの姿にティル・リンドルは喉を鳴らして笑う。

「そんなに驚くことかな」

 これに驚かず、何に驚くと言うのだ。

「ああ、もしかしてマリィはこれまで私たちが君を欲しがらなかったのは、自分に魅力がないからだと思ってたのかな」

 内心を読んだように言い当てられ、マリィはきゅっと唇を引き結んだ。

「違うよ、マリィ。むしろ逆なんだ」

 くすくす、くすくすくす。

 笑い声をもらしながらも、ティル・リンドルの青い目がどこかぎらついた光を浮かべる。

「君はとっても魅力的だ。サラに勝るとも劣らないくらいに」

 彼の指先が、触れているマリィの指の腹をそっと撫でる。ただそれだけのことなのに、なんだかいけないことをされている気分になってそわそわしてしまう。

 そっと指先を引き抜こうとしても、やわく絡みついていると思っていた彼の指はびくともしなかった。

 獣がゆっくりと口を開いていくのを眺めているようなじれた気持ちで、目の前の美しい存在がとうとうと語るのを聞いていることしかできない。

「僕たちが君に首ったけになることは、君がシンシアのお腹にいた頃からわかりきっていたんだ。本当だったら、生まれた瞬間にでもさらってしまいたかった」

 ぎょっと目を見開いたマリィにティル・リンドルは肩をすくめてみせる。

「もちろんサラに阻止されたよ。出産に立ち会って君を取り上げたのはサラだからね。ついでにすぐさま強力な守りの魔法をかけるもんだから、子どもの君には手が出せなくなった」

 魔女や魔法使いでなくても、物心つく前の子どもは妖精にさらわれやすい。人間の世界になじむまえの子どもは簡単に妖精の仲間に引き入れられるからだ。

 さらわれた人間の子どもは妖精の国の空気と水と食べ物で育ち、やがて妖精と大差ない存在に変わっていく。

「まあ、結果的にサラには感謝してるよ。赤ん坊のころにさらっていたら、こんなに甘く香る君の魔力は堪能できなかっただろうから」

 ぐいっと指先の力だけで引き寄せられ、マリィはティル・リンドルに抱きとめられた。軽く身をかがめた彼は、マリィのつむじのあたりに鼻先をうずめる。

「ああ、いい香りだ。ずっと、ずっとこの時を待ったかいがあった」

「な! やめてください!」

 今日はまだシャワーを浴びていないのだ。春先でまだ汗ばむような陽気ではないとはいえ、一日の終わりを迎えようとしている今の髪がいい香りのはずがない。

 かなり必死の抵抗をして、なんとかティル・リンドルの顔を押しのけることに成功する。

「私が言っていたのは魔力の香りの話だけれど、君の髪の毛だっていい香りだったよ? それ、サラも使っていた香油だね」

 ぜーぜー息を切らしているマリィの腰に手を回したまま、ティル・リンドルは懐かしそうに目を細めた。

 確かに湯上りには祖母から母へ、母からマリィへと調合方法が引き継がれた香油を髪に使っているが――。

「……魔力の香りって、なんのことですか?」

 さっきからティル・リンドルの言葉にたびたび出てくるが、マリィにはそれが何なのかわからない。

「ああ、マリィ! サラやシンシアは君に何も話していなかったんだね!」

 痛ましいものでも見たように顔をゆがめた彼は片手でそっとマリィの頬をつつむと、そのなめらかさを確かめるようにゆっくり這わせる。

「慣れれば君たちにも感じ取れるはずだけれどね、魔力には香りも、それに味だってあるんだよ」

 顔を這うティル・リンドルの指先が鼻先に、唇に触れては離れていく。

「君たちは私たちに近いから。私たちと同じように世界を認知することができる。でも同時に決定的に違っているところもある」

 とっておきの秘密を語るように、彼は声をひそめた。

「生まれた瞬間から完成している私たちとは違って、君たちは未完成なのさ」

「それは……私たちは人間ですので」

 人間は未熟に生まれる生き物だ。それは当然のことのはず。

 ティル・リンドルの言いたいことがわからず、マリィは困惑に瞳を揺らした。

「そう! 君たちは人間なんだ。だから変化する」

 一方のティル・リンドルは上機嫌に、今にも歌いだしそうな調子で言葉を紡ぐ。

「君たちの魔力は成長とともに変化していくのさ! まるで、上等な酒が熟成していくみたいにね」

「魔力が、熟成する?」

 そんなのは初耳だった。

 軽く眉を寄せたマリィに、妖精王は愉快そうに声を上げて笑う。

「どうしてただのヒトの子は子どものころにばかりさらわれるのに、自分たちは大人になってからも私たちに連れていかれるのか、考えたことはなかったの?」

 魔女や魔法使いは、二十をいくつか超えても独り身だと、妖精や精霊にさらわれやすくなる。

 そういえば、それはなぜだ。

 自分には関係ない、とこれまで真剣に考えたことはなかった。マリィたちの中でそれは常識で、常識にとらわれていたことにも気づけないくらいだった。

「君たちの魔力はね、いろいろな経験をして、少しずつ深味を増していく。魔力の質も、香りも、味も」

 より私たち好みになっていくんだ、とティル・リンドルは何かを確かめるようにうっとり目を閉じた。

「そうして、家族以外にかけがえのない存在を見つけたとき、君たちの魔力は成熟し、君たちは魔女や魔法使いとして完成する」

 それは恋愛かもしれないし、深い友情かもしれない。もしかしたら忠誠心かもしれない。

 それは人それぞれだけれど。

「私たちはそれを指をくわえて待ちわびている。特別な守りさえなければ未熟な君たちを連れ去るのは簡単だけれど、私たちの国に連れてきてしまうと君たちの魔力の変化も性質を変えてしまう。私たちの好みから外れてしまっては意味がないんだから。君たちにはこの世界で成長してもらわなくちゃならない」

 妖精たちの国は永遠の国。時間の流れがあいまいな世界だ。成長や変化がないわけではないけれど、それはこの世界とは少し異なっていたりする。

「だからね、マリィ、私たちは二十二年、ずっとこの日を待っていたんだよ」

 そっと開かれたティル・リンドルの瞳の青がぐっと深くなる。

「君の魔力の香りは幼いころからくらくらするくらいいい香りだった。サラのものに似て甘くて、でもどこかさわやかな、甘酸っぱい香りで。ずっと嗅いでいると理性を手放して品なくむしゃぶりつきたくなるような。もちろんそんなことサラが許してくれなかったし、君の魔力は彼女の魔法で抑え込まれていたから感じとれるのはよほどの大物だけだったけれど」

 そんなこと、マリィは知らなかった。

「まあ、サラやシンシアの気持ちはわかるよ。君は素直でかわいい、善良な子だから。祖母や母としては何も知らせず、幸福に過ごしてほしいと思っていたんだろうね」

 過保護だとは思うけれど、とぼやきながらティル・リンドルの指先は手持無沙汰にマリィの髪の毛をすく。

「でも、人間は永遠には生きていられない。サラがこの世を去ってしまえば、シンシアだけで君を守るのは不可能だった」

 母は優秀な魔女だが、祖母のような常識外れの能力はない。

「だから、シンシアは私たち――君の魔力の真実の魅力に気づいていた高位の妖精や精霊相手に契約を持ちかけたんだ」

「そんな無謀な」

 思わず声を上げたマリィに、妖精王は「そうだねぇ」と笑ってうなずく。

「サラならともかく、普通だったらシンシアが複数の高位存在との契約を結ぶなんて無理だろうけれど、シンシアはそういうのの見極めはうまいからね」

 契約は成ったよ、という結論に目を瞬かせる。

「どうしてですか?」

 妖精や精霊にお願い事を聞いてもらうことと契約では雲泥の差がある。魔女や魔法使いのお願いをよろこんでかなえてくれる彼らだが、自分たちの行動を制限されることは大嫌いだからだ。

 契約を成立させるためにはよほど彼らに溺愛されているか、彼らにとって魅力的な対価を用意しているか、どちらかが必要となる。

 妖精王のような存在を――それも複数相手取るとなるとそのどちらもが必要となるだろう。

「シンシアの提案は、私たちにとっても都合がいいものだったから、だよ」

 彼女が求めたのは、マリィの魔力が成熟するまでの接触禁止だった。

 それの何が彼らにとって都合がよかったのだろう。

「ほら、私たちってこらえ性がないだろう?」

「は――そうなんですか?」

 またしても反射で「はい」と答えそうになり、今度はぐっとこらえた。

 いくら気安く接してくれているとはいえ、相手は妖精王だ。言動には気をつけるべきだろう。

 事実、妖精が刹那的なところの多々ある存在だったとしても。

「そうなんだよ」

 うれいを帯びた表情でうなずき、ティル・リンドルはしんと静まり返った深い青の目でマリィを見つめた。

「サラはこの世を去ったけれど、君の魔力を抑え込む彼女の強力な魔法は残った。でも、それも永遠じゃないし、漏れ出てくる魔力の気配だけでも私たちを酔わせるには十分だ。そんなものが目の前にちらついていたら私たちは我慢なんてできないのさ」

 ついっとティル・リンドルの唇の端がつり上がる。

「でも、せっかくなら、いっとうおいしくいただきたいじゃないか」

 シンシアの契約は、彼らにとって都合が良かった――彼ら自身を律し、彼らのうちの誰かがまだ魔力の熟しきらないマリィに手を出さないよう、互いに抜け駆けを禁止するのに。

 ならば、その後は――。

「ねえ、マリィ、君は恋をしたね」

 自分を見下ろすティル・リンドルの目がとろけるのを、彼がちいさくのぞかせた舌がちろりと唇を舐めるのを呆然と見つめ――気づいた事実にマリィはぞっと全身から血の気が引くのを感じた。

 それは、まるで収穫だ。

 自分たちの仲間にする予定の枝は幼いうちに元の世界から切り取って自分たちの世界に接ぎ、より甘くより香り高く育つはずの果実は食べごろまで待ってからもぎとる。

 今の自分はシリウスに初めての恋をして、「ちょうど食べごろ」になったのだ。

 マリィの魔力は成熟し、母と彼らの間の契約は消え失せ、もう誰もマリィを守ってくれない。

「シンシアはこうなる前に君を誰かと結婚させるつもりだったんだろうけれど、間に合わなかったね」

 今ならわかる。結婚は魔女たちにとって契約であり、楔だ。

 契約を交わせば、マリィたち魔女と結婚相手の間にはつながりができ、そう簡単に引き離すことはできなくなる。妖精や精霊にさらわれないように打ち込む楔として機能する。

 シンシアは、自分の契約が切れる前にマリィを守る新たな契約を結びたかったのだ。もしかしたらマリィの魔力が熟しつつあることを妖精や精霊の噂話から察していたのかもしれない。

 あの彼女らしくもない電話は、そのせい。

「……そんなの、言ってくれなきゃ、わからないよ」

 情けなく震える声でつぶやく。

 説明してくれたところで信じられたかはわからないが、でもあんな突き放し方しなかったのに。

 膝から力が抜けたが、腰に回ったティル・リンドルの腕に支えられ、へたり込むこともできない。

「ふふ、シンシアは過保護にしすぎたね」

 打ちひしがれるマリィを目の前に、彼は至極ご機嫌だった。

「サラが残した魔法も消えかけているし、もう誰も君を平凡な魔女だなんて呼ばないよ」

 私たちの誰もが君の特別になりたくてひざまずくんだ、ととろけた目のまま告げる。

「だけど、そんなことはさせない。私がいちばんに君にたどり着いたのだから」

 腰に回っていたティル・リンドルの手がゆっくりとマリィの背中をたどり、首筋を撫で、頬を包み込む。まるで戦利品の品定めをするような丁寧で執拗な手つきにとっさに顔を背けようとしたが、手に込められた力にはかなわなかった。

「君は、私だけの魔女――私の后だ」

 美しい妖精王が、そう宣言する。

 彼は、このままマリィを自分の国へと連れ去るつもりだ。そうなれば、もう二度とこちらへは戻ってこられない。

「……いや」

 ぽつり、と言葉がこぼれた。

 母に思いやりのない言葉を投げかけたままだ。

 幼いころから「マリィが結婚するときお父さん号泣するけど嫌いにならないでね……」と言い続けていた父は、いきなり行方不明になったらやはり泣くだろう。

 故郷の友人たち、ナッジに来てからできた友人たち、心配をかけてしまうかもしれない。

 プロジェクトを途中放棄することになって、ベルテや他のメンバーに迷惑をかけてしまう。

 それに――まだシリウスに好きだと言えていない。

「いやです。離してください」

 身をよじっても、何ひとつマリィの思い通りにならない。

「いや……」

 子どもみたいにぽろぽろと泣き始めたマリィの頬をぬぐいつつ、ティル・リンドルは困ったようなほほえみを浮かべる。

「どうして、マリィ」

 怖くないよ、大切にすると約束する、どんな望みだってかなえるから、とこちらの機嫌をとるように、駄々をこねる子どもをなだめるように声をかけてくるティル・リンドルはわかっていない。

 彼がマリィのことを大切にすることなどわかっている。怖いことだって何ひとつしないだろう。

 ティル・リンドルについていけば彼の后として尊重され、愛され、甘やかされ、どんな望みもかなえられ、妖精たちにかしずかれ、こちらにいたら一生かなわないような生活を送れるだろう。

 ただ、自由だけが与えられない。

 マリィにとっていちばん重要なものだけが、そこにはない。

 ふと、マリィが一歩身体を引けばいつだって簡単に離れてしまうシリウスの指先を思い出す。

 マリィはずっと彼に大切にされていたのだ。

 怖がらせないように、意思を尊重するために、シリウスはいつだって逃げてしまうマリィを許してくれていた。

 それがどういう気持ちからくる「大切」なのか突き詰めるにはまだ自信が足りないけれど、彼のやさしさと誠実さにいまさらながらマリィの気持ちはますます育つ。

 シリウスが好きだ。

 彼がいとしい。

 マリィは、彼のそばにいたい。

 だから行けない。

「行きたくない」

 むずがるように首を振ったマリィに、ティル・リンドルも悲し気に首を振る。

「ダメだよ、マリィ。それは許してあげられない」

 彼が許してくれないことはわかっていた。だからこそマリィの気持ちが離れるとも知らず。

「私は君を誰かに奪われたくないんだ」

 奪われないかわりに、愛されないとも知らず。

「さあ、もう泣かないで」

 ティル・リンドルはマリィを自分の思う幸福の中に閉じ込めようとする。

 どう言葉にしたら自分の気持ちが伝わるのか、マリィにはわからない。

 大切にしてもらうだけじゃ、だめだ。

 愛してもらうだけでも、いけないのだ。

 もちろん好きな人にそうしてもらえたら天にも昇る気持ちになるけれど、マリィだって与えたい。

 気持ちを、言葉を、行動を。

 マリィが望んで、そうするのだ。

 そして、そうしたい相手はティル・リンドルではない。彼にとって認めがたいことかもしれないけれど。

「かわいいマリィ。幸せにするよ」

 結婚の誓いのように厳かに告げ、ティル・リンドルがマリィへと自分の顔を傾ける。

 妖精のくちづけは、印。

 自分のものだと主張する印だ。

 くちづけられてしまえば、そのまま彼の后になることを定められてしまう。

「だめ」

 マリィがとっさに自分の中の魔力を爆発させようとするのと、やたら勢いのある声が夜空に響いたのはほぼ同時だった。

「呼ばれてなくても飛び出るわ!」

 高く、硬質な音と同時に夜空が、星々が、月がひび割れる。正確には夜空がひび割れたように、空を覆っていた透明な何かが砕け散り、光のかけらのように降り注いだ。それはマリィや妖精たちの身体や地面に触れた瞬間ちりちりとちいさな鈴のような音色をたてて弾けて消えてゆく。

「じゃじゃじゃじゃーーーん! 白馬の王子様と守護精霊さまの登場よ!」

 ひれ伏しなさい小物ども、と高飛車に言い放ちつつ、それは砕けた月の向こう、本物の月を背に降ってきた。ちなみにちいさな妖精たちは突然の闖入者に恐れおののき恐慌状態に陥っているため、ひれ伏すどころではない。

 人影はふたつ。

 逆光のせいではっきりとしないが、若い女性と、彼女に腕をつかまれた若い男性のようだ。

 すたっと着地すると、女性のほうが一歩前に出る。満面の笑みを浮かべた顔立ちが月明かりに照らし出される。

「遅くなってごめんなさいね、マリィ」

 ちょっと陰険妖精の魔法が陰険すぎて破るのに手間取っちゃって、と朗らかにこちらに笑いかけてくる彼女を見つめ、マリィは困惑をあらわにした。

 声には聞き覚えがある。先日占ってもらったあのスパルタ占い師だ。

 そして、今日は何にもさえぎられることなくさらされている顔立ちにも見覚えがある、のだが――。

「ラムおばあちゃま……?」

 まさか、そんな、とおそるおそる呼んだマリィに、彼女は「はぁい」と手を振って見せる。

「よくわかったわね、マリィ。かわいこちゃん」

 ばちこん、と音がしそうなくらい大きくウインクをした彼女にめまいがする。

 ああ、もう、今日は何が起こってもおかしくない。

 彼女もまた祖母の家をたびたび訪れていた客の中のひとりだ。

 長い黒の直毛は後頭部で複雑な形に結いまとめられており、骨格は華奢でありながら肉感的な身体はゆったりとした黒の装束に包まれている。すずやかな目元が特徴的な華やかな美貌に、金色に輝く目。年齢は三十前後に見える。

 記憶の中の面立ちと重なりはするが、どうしてだか記憶よりもずっと若い。祖母の家に来ていた時の彼女は美しい人だったけれど白髪もあれば皺だってある、祖母と同年代の人に見えた。声だって、話し方だって、もっとずっと落ち着いたものだった。

「……なんで若返ってるんですか?」

「あぁ、これ? サラが生きていた時はサラと見た目年齢を近くしていたから」

 別に見た目や声なんて簡単に変えられるでしょ、と言っている間にも彼女の見た目は見知った白髪交じりのものになり、すぐに若い姿に戻る。

 と、いうことは彼女も人間ではないのだろう。

 全然気づかなかった。子どものころはともかく、あの占い小屋でもまったくわからなかった。

「精霊母ラムス」

 マリィを抱き寄せていたティル・リンドルが硬い声で彼女をそう呼んだ。マリィを彼女の視線から隠すようにわずかに身体の位置を変える。

 それにしても、彼は今、「精霊母」と呼んだのか。

 すべての精霊たちの母、元始の精霊、世界の始まりと同時に生まれたとも呼ばれる大精霊――精霊母ラムス。歴史書を紐解いてみても召喚に成功した例はいくつもない。

 それがまさか祖母の家に遊びに来てはお菓子をくれ、「おばあちゃまって呼んでちょうだい」とマリィを困らせていた人だったなんて、誰に話しても信じてもらえそうにない。

 この調子でいくと、祖母の家に集まっていた他の客人の正体も推して知るべし。完璧に人間に擬態していたけれど、人間ではなかったのだろう。

 若いころのみならず、晩年になっても妖精王や大精霊をはべらせていたなんて、祖母はとんだ大魔女だ。もはや苦笑しか浮かばない。

「人の魔法を乱暴に蹴散らして、いったい何の用なんだい?」

 不機嫌をあらわにしたティル・リンドルにラムスは肩をすくめた。

「邪魔が入らないようにガチガチの空間隔離魔法を張っておくとか、あいかわらず陰険で狭量よね」

 小馬鹿にする口ぶりで言ってから、彼女は表情を真剣なものに改める。

「マリィを解放なさい」

 両手を腰に当て仁王立ちになり、自分の要求が当然のことのように言い放った。

「いやだよ。彼女には私の后になってもらうんだから」

 マリィを囲い込む腕にぎゅっと力がこめられる。

「私がいちばんに駆けつけたんだ。彼女は私が連れていく」

 ティル・リンドルにきつく睨みつけられてもラムスは動じず、彼の主張を鼻先で笑い飛ばした。

「お呼びじゃないのよ、ティル・リンドル」

 この負け犬妖精が、と挑発的な嘲笑を唇にのせる。もちろん誇り高い妖精王がそれを無視できるはずがない。

「誰が負け犬だって?」

「あら、お前のことよ、ぼうや」

 果てしなく長い時を生きているはずのティル・リンドルであっても、ラムスからすれば幼子扱いだ。

「だって、マリィにはもう心に決めた相手がいるんですもの。結婚も秒読みの婚約者よ。何の権利があって連れていこうとしているのよ」

 丁々発止のふたりのやりとりをひやひやしながら見守っていたマリィだったが、話が思わぬ方向に転がり始めて眉をひそめる。

 結婚の秒読みの婚約者? そんなものがいたらこんなことにはなっていないはずだ。

「ほら、王子様、出番よ! ずばっと言ってやってちょうだい!」

 背後を振り返って声をかけているラムスの姿に、そう言えば彼女には同行者がいたことを思い出す。

 どういう事情でマリィの窮地を知ったのかはわからないが、ラムスはマリィを助けに来てくれたようだし、婚約者、という設定を演じてくれる人を連れてきたのだろう。

 ここは黙って話を合わせておくべきだ。そう思ったのだが――。

「―――!!?」

 ラムスの隣へと歩み出てきた人の姿に思わず動揺をあらわにしてしまい、彼女に思い切り睨まれた。自分の婚約者が来てくれたのに、「なんで!?」みたいな顔をしたら怒られて当然だ。あわてて表情をとりつくろったものの、脳内は疑問符でいっぱいである。

 何度見直してみても彼女の隣に居るのは白銀の髪に藍色の目の美青年、マリィの同僚にして想い人――シリウス=フェザーだった。

 なんでよりにもよって婚約者役に彼を連れてくるのだ、とラムスをちらりとにらみつけても、彼女はこちらの動揺を見透かすようににやにやと笑っている。あの表情は絶対おもしろがっている!

 少しばかり緊張した面持ちだったシリウスはマリィと、彼女を抱きしめたままのティル・リンドルを見てきゅっと唇を引き結んだ。何か覚悟を決めたような真剣な表情であごを引くと、まっすぐに妖精王に対峙する。

「今、お話にありましたとおり、マリィ=コットンテイルは僕の婚約者です。お返し願いたい」

 少しも震えることのない声で、はっきりと言い放たれた言葉の衝撃に、マリィは思わず顔を覆って震える。

 演技だとわかっていても、何これ、もだえる……。

 心にもないことを言わせてしまい申し訳ない気持ちと、だらしなく顔がゆるみそうになる気持ちでぐらぐらだ。

 このままじゃ顔を上げられない。

「君が? マリィの?」

「ええ。結婚を前提にお付き合いしています」

 なんとか顔を引き締めなくては、と苦戦していたマリィは、ティル・リンドルとシリウスの間で飛び散った火の粉を見逃したのだった。

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