5.春の夜の再会「君を口説きに来たんだ」

 最近は気づけはため息がこぼれてしまう。

 あの散歩をした晩から二日。なんと仕事は大幅に進展していた。

 あの散歩の後に行った実験で、とうとう人工妖精がマリィの説得に応じ、シリウスの用意した身体に入ってくれたのだ。結果は「うーん、いまいち」とのことでさっさと消滅してしまったが、進展は進展だ。

 次の実験では「こんな重い身体やだー」との言葉を得たため、次に作る身体は人間に似せるのではなく、もっと根本的な設計からやり直すことになった。

 真剣な表情で錬金術のための組成配分や術式を再計算しているシリウスのわきで、そこまで専門性の高い作業は何も手伝えないマリィは席に座ってため息をこぼしながらお茶を飲んでいた。

 錬金術は科学的な法則と魔術的な法則、双方を組み合わせて物体を別のものに変質させたり、通常ではありえない状態にとどめたりする。

 初歩的な錬金術ですら膨大な知識と細やかな下準備が必要だ。学院の必修単位に設定されていたため、錬金術の初歩は学んだマリィだが、作業の煩雑さと精密さに錬金術の実践は自分には向かないと早々に匙を投げた。

 ホムンクルスの合成なんて高度な錬金術を行使できるのは世界の知識の最先端であるナッジでも十数人といったところだ。二十四という若さでその域に到達したシリウスがいかに優秀かということがよくわかる。

 気安く接してくれているけれど、ベルテの声かけがなければ一生接点もできなかっただろう雲の上の人だ。

 それなのに――マリィの視線に気づいたシリウスがふわりと笑い、「どうかしましたか」とでも言うように首をかしげる。マリィが「なんでもない」と頭を振ると、そのまま作業に戻っていく。

 あの散歩の後から、どうにもシリウスとの距離感が変わってしまった気がする。何が、とは言えないが、決定的に、何かが違う。

 なんだか話をしているときの距離が近い気がするし、シリウスの雰囲気がふんわりしっとりしている気がする。

 悪い気分ではないのだが、どうにも落ち着かなくてソワソワする。

「ううーん」

 うなっていると、ひょっこりと顔を出したベルテにのぞきこまれた。

「どうしたの、マリィくん」

「ぅひゃ」

 恩師は昔から神出鬼没だ。気づくといつの間にかそばにいたりする。今だって部屋の扉を開ける音すらしなかった。こちらの進捗状況を確認に来たのだろうが、入室の際に一言くらい声をかけてくれればいいのに。

 そのせいで「善き教授は瞬間移動魔術を完成させているが、自分だけでこっそり使っている」なんて噂を流されるのだ。「急に現れて学生をびっくりさせるのがたのしくて、完成した魔術を秘密にしているのだ」なんて。

「悩み事があるなら聞くよ?」

 すっとんきょうな声を上げたマリィに動じることなくベルテは首をかしげた。気持ちははありがたいが、自分の中にあるこのもやもやを言い表すことすらできずにいるのに、誰かに相談なんてできそうにない。

 と、いうか、この悩みは言語化できたところで恩師に相談すべき内容ではない、気がする。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「そう?」

 ベルテは自分の髭をちょいちょいと整える。

「まぁねぇ、恋のお悩みはボクみたいなおじいちゃんに話してもしかたないもんねぇ」

「へっ」

 またしてもすっとんきょうな声を上げたマリィに向かってうんうんとうなずいてみせる。

「いいねぇ。青春だねぇ」

 存分に迷走しちゃうといいねぇ、なんて温かい目でこちらを見てくる。

「え、いや、先生?」

 そんな勝手に納得されても。

 違います、とも言い切れずあわあわしているうちに、ベルテが目を細める。

「マリィくんの雰囲気が変わった気がするのも、そのせいなのかな」

「……変わり、ましたか?」

 そんなこと言われるほど浮かれて見えるのだろうか。

 頬を両手で包んでひええぇ、と赤面していると、作業に一区切りつけたらしいシリウスが近づいてきた。

「なんのお話ですか?」

「な、なんでも――」

「いやね、ちょっと最近、マリィくんの雰囲気が変わったよね、って話をね」

 黙っててください先生、と必死に目で訴えかけてみても、ベルテには伝わらなかった。

 一方、シリウスはぱちくりと瞬きをしてからまっすぐにマリィを見つめてくる。

「そう、ですか?」

 考え込むように首をかしげている彼を見るに、それほどわかりやすく顔がゆるんだりしているわけではなさそうだ。少なくとも当人にはばれていない。

 そう、胸をなでおろしたのだが――。

「マリィさんは初めて会ったときから今までずっと変わりなくかわいらしいですよ」

 何を当然のことを、と言わんばかりの大真面目な口調で言い放たれ、一瞬自分は何を聞いたのかとマリィは呆けた。

 ズット、カワリナク、カワイラシイデスヨ?

 何語かな?

「シリウスくんは、それを照れることなく言えるのがすごいよねぇ」

 ベルテはくすくす笑いながらシリウスの肩を叩く。

「先生はおもしろがってますよね?」

 そのまま肩にのせられた恩師の手を見下ろしながら、シリウスはため息まじりにぼやいた。

「否定はしないけれどね。頼みがあったら遠慮せずに言うんだよ? キミも、マリィくんも、甘えるのがびっくりするほど下手くそだから心配してるの、これでも」

 そう言い残すと、ベルテはひらひらと手を振って去っていってしまう。

 いや待って、この流れで二人きりにしないで。

 再び必死な視線を遠ざかっていく背中に送ったものの、やはり恩師には通じなかった。あえて無視されている可能性も否定できない。

 気まずい。気まずすぎる。

 いや、こないだの夜にも「妖精みたい」だとか「きれい」だとか言われたけれども! 「かわいい」だなんて言われ慣れてないのだ。顔があげられない。

「あ、でも、マリィさんのことを知れば知るほどかわいいところが見つかりますから『変わりなく』じゃありませんね」

 日々更新されてます、とかげりない笑顔を浮かべた彼から更なる追い打ちがなされた。

「んんん~」

 もはや何か恨みでもあるのだろうか。顔から火を吹きそうなんだが。

「マリィさん?」

 顔を覆って机に突っ伏していると、心配そうな声をかけられた。

「どこか調子でも悪いんですか?」

 調子は問題なく良好だ。単に羞恥心が悲鳴を上げただけで。

 親切で紳士なシリウスのことだ。このまま黙っていたせいで返事もできないほど調子が悪いなんて思われたら、マリィのことを抱き上げて医務室へ運ぶくらいやりかねない。

 それは阻止せねばならぬ。

 心臓に負荷がかかりすぎる。

 本気で床につく事態になりかねない。

 しぶしぶマリィは口を開いた。

「……シリウスさんはわたしを調子づかせてどうしたいんですか」

 それでもまだシリウスを直視するのは気恥ずかしいし、顔は熱を帯びている。身体は起こしたものの、顔はそらし、ちらっと恨みがましく彼をにらみつけた。

「そんなこと軽々しく言っていたら、誤解されちゃうんですからね」

 きれい、だとか、かわいい、だとか、ふつうはただの仕事仲間には言わない。いや、言ったとしても、一般的なお世辞の範囲だとわかるように言うはずだ。

 加えてシリウスには自分が他人から好感を持たれやすいという自覚が足りない。こんな調子で「かわいいね」なんて言って回っていたら、このプロジェクトが終わるころには自称恋人がごろごろ発生していることだろう。

 そこまで考え、マリィはむっと唇をとがらせた。シリウスは確かにマリィにとって高嶺の花で、(脳内の占い師に活を入れられようと)両想いになるなんて難易度高すぎると思っているけれど、やたらめったら周囲に甘い顔をしてほしいわけでもないのだ。

 ああ、恋ってめんどくさい。

 そして自分って意外といやなやつだったんだな。

 ムカムカしていた気持ちがしゅんっとしぼんでじくじくする。

 はあ、とため息をついて、上体をくったり机の上に伸ばしたところで、こちらを見つめるシリウスの視線に気づく。まずい、やっぱり調子が悪いのかと思われる。

 姿勢を正し「元気ですっ」と宣言しようとしたところで、彼の様子がおかしいことに気づいた。

 まなじりが朱に染まって、それに、目が、熱っぽく潤んでいて――。

「マリィさんこそ、そんなにかわいいなんて、僕をどうするつもりです」

 軽く眉を寄せた表情は悩ましくて、色っぽくて。

「僕は軽々しいことをマリィさんに言ったことはないし、ほかの人に誤解を与えるようなことを言ったこともありません」

 見つめられると、ドキドキすると同時に、どうしてだか身がすくむ。

「あなたにだけ、です」

 あの、甘い声。でも、同時に今日はどこか切羽詰まったような、いらだったような色を帯びている。

 こわい、とは少し違って、でも、ここでこのまま彼の言葉を聞いていたら取り返しのつかないことになってしまいそうで、マリィはとっさに座っていた椅子から立ち上がった。そのままシリウスから距離を取ろうとしたところで、手首をつかまれる。

「え」

 自分の手首を拘束する指の思わぬ熱さに驚いて顔を上げれば、シリウスの藍色の目にとらえられる。

「逃げないで」

 そんなこと懇願するようにささやかれたら、身体から力が抜けてしまう。

 手首をつかむ指の力は強くない。思いっきり力を込めれば振りほどけるだろう。でも、そんなことをしたら、きっとシリウスを傷つける。かといって、彼が口にするだろう言葉を聞く覚悟もない。

 あああどうしよう、どうしたら、と内心わたわたしている間にも、シリウスは少し身をかがめて真正面からマリィの目を覗き込んでくる。

「マリィさん」

 彼の目の中に、途方に暮れたように立ち尽くすマリィの姿が映り込んでいる。

「僕の言葉や態度の意味、ちゃんと伝わってますか?」

 意味? 意味??

 きれい、とか、かわいい、とか言ってくれる意味。

 朝一番に会えばうれしそうにして、夜の散歩に誘ってくれる意味。

 困っていたら手を差し伸べてくれて、落ち込んでいたら励ましてくれる意味。

 都合のいい予想がちらりと頭のすみをよぎったけれど、頭をふって追いやる。シリウスは誰にだってやさしいのだ。それに優秀で、マリィなんかとはぜんぜん違う。

 だから、どんなにうれしく感じても、誤解しないようにって気をつけて――。

「にぶくって、臆病なマリィさん」

 そういうところもかわいいですけど、とシリウスが困ったように笑う。

 あ、いつものやさしい笑い方だ、と見惚れていると、互いの額がくっつきそうなほど近くに彼の顔が近寄ってきた。

「僕は、あなたのことが――」

 シリウスの吐息が、まつ毛の先を震わせる。その甘酸っぱい振動に耐えかねて、マリィは目を閉じようとした――その時だった。

 コンコンコンッ、と勢いよくドアがノックされ、「あのー」と外からロムの元気な声がする。

 心臓が止まるかと思ったし、実際呼吸をするのを一瞬忘れた。

「マリィ先輩、シリウスさん、そろそろミーティングの時間ですよ!」

 とっさにシリウスから距離をとると、つかまれていた手首の指もほどける。時計を見ると、確かに夜の実験のためのミーティング予定時間が近づいてきていた。少し早いけれど、わざわざ呼びに来てくれたらしい。

 ふ、ともらした息がやたらと熱っぽくてマリィは自分がいつの間にか全身に力を込めていたことに気づく。

「僕はどうにも間が悪いな」

 ひとり言らしく、いつもよりも砕けた口調でぼやいたシリウスが、くしゃりと後頭部の髪を乱してから外へ向かって声をかけた。

「少し片づけをしたら向かいます。ありがとう」

「えー、じゃあ手伝いますよ」

 その言葉と同時に、ドアを開いてロムがひょっこり顔をのぞかせる。

「なーんだ、十分きれいじゃないですか」

 前に質問しに行った錬金術の先生の部屋すごかったですけど、と言いながら中に入ってくると、ちらりとシリウスと、なぜかマリィを一瞥した。

「えっと、机の上のもの、片付ければいいですか?」

「うん。そっちの本を棚に戻してもらえると助かります」

 苦笑を浮かべたシリウスは指示を出すと、自分はミーティングに持っていく資料を手元にまとめ始める。

 一方のマリィはといえば、いまさらながらバクバクし始めた心臓をなだめるように押さえ、震えそうになる膝に力を込めた。

 全身をすごい勢いで熱い血が巡っているのを感じる。ごうごうと音まで聞こえてきそうだ。

 さっきまで彼の手とつながっていた手首が熱い。彼の吐息を感じた顔の皮膚がピリピリする。ささやかれた耳がじりじりする。

 彼といっしょにいると、こんなことばかりだ。

 全身の感覚が敏感になってシリウスの存在を感じとっていたのに、頭はふわふわしていた。

 でも、それは居心地が悪いけれど、悪い気分になるものではなくて、むしろとても気持ちのいい――。

「マリィさん?」

「マリィ先輩?」

 シリウスとロムのふたりから同時に声をかけられ、はっと我に返る。

 見れば彼らは机の上の片づけを終えている。時間ももう出なければミーティングに間に合わない時間だ。

「あ、ごめん、なさい」

 ぼーっとしてて、と言いつつドアへ向かう。

「顔、ちょっと赤くないですか? 体調悪いなら無理しないほうがいいですよ?」

 先に立って歩くロムにそう言われ、マリィは反射的に言い返した。

「そ、んなことないし! 元気だし! ちょっと代謝が良すぎるんじゃない」

 さっき薬草茶飲んだからそのせいかもしれないね! と言いつつ部屋から廊下へと出る。

「へー、薬草茶ってそんなに効くんですか? うちの母さん冷え性がつらいって言ってるから、それあげたらよろこぶかも」

 どこで買えるか教えてください、と笑う後輩に、今度調合してあげる、と約束する。もちろん、先ほど飲んでいたのとは別のものだ。今日飲んでいたのは心を落ち着ける効果のある薬草を中心にしていたので。

 あんな急転直下の事態には何の効果もなかったが。

 ちらっと隣を歩くシリウスの顔を見上げると、ふんわりと笑い返される。いつものシリウスさんの笑い方、と胸をなでおろして笑い返したところで、彼の唇が動く。

「また、あとで」

 無言で伝えられた言葉に、顔にかっと血が上る。

 また、あとで? 何が、と考えるまでもなく、きっとさっきの続きを、だろう。というか、さっきの続きって、さっきの自分たちはいったいどういう状態だったんだ。

 脳内の鬼コーチもとい占い師がゴー、ゴゴゴゴゴー、とすごい勢いでゴーサインを出しているが、ちょっと待ってほしい。人には心の準備が必要なことが往々にしてあるのだ。

 チッと脳内の鬼コーチが舌打ちをした。

『恋は殺るか殺られるかよ。殺られるくらいなら殺りに行きなさいな』

 気合見せなさい、と言われても(言われた気がする)。

 ちょっとだけ待ってほしい。

 覚悟は決めるから。

 後生だから、覚悟を決めるための時間をください。


 と、いうわけで、ミーティングを終え、夕食の時間まで、とにかくマリィはシリウスを避け続けた。そうは言っても、ミーティング中は誰も私語なんてしないので少し離れた席に座っていただけだし、今日の夕食はシリウスが当番だったので自動的に別々になった(食事の席もそのままの流れでシリウスが同じ班の主に女子に囲まれるため)。ちらちらとこちらに向けられるシリウスの視線には気づかないふりをした。

 本来であれば食後に特別な用もないマリィは片づけを手伝うべきなのだが――この作業からはあからさまに逃げた。チキンと呼んでくれてかまわない。

 次にやってくるのは自由時間だ。

 今夜の実験術式には夜明けの光を使う。仮眠をとって明け方に全員実験室に集合する予定だ。このまま借り受けている仮眠室に行ってしまえば、実験のときまでシリウスと顔を合わせることはないだろうし、実験やその後のデータ解析や問題点の洗い出しをしているときには私語なんてできない。

 しばらくは平穏に過ごせるはずなのだが――。

「んー、目が冴えて眠れそうにない」

 ぼやきつつ、マリィは人気のない廊下を進む。

 明日のことを思えば無理にでも身体を休めておくべきなのかもしれないが、眠れないのにベッドでごろごろしているのはあまり好きじゃない。

 少しだけ散歩でもするか、と足を向けたのはプロジェクトチームの一員としてふだん過ごしている研究棟ではなく、廊下でつながっている講義棟だ。

 学院の建物の中でも一、二をあらそって古い建物で、赤レンガの外壁とそこに這う蔦が歴史を感じさせる。学生時代の多くの時間を過ごした場所でもある。勝手知ったる足取りで古めかしい手動のエレベータを動かして最上階である五階まで上がると、そこから廊下の端にある階段をさらに上る。

 上った先の突き当りのドアは、学院側も鍵を紛失し、錠自体が壊れてしまい、もう誰にも開けられない、と学生どころか学院からも「開かずのドア」呼ばわりされているが、なんてことはない。

「開けてくれる?」

 マリィがちいさくノックをすれば、すぐに『いいよー』と声が返ってくる。ドアノブに手をかけて回せば、あっけないくらい簡単にドアは開いた。

 抜けた先では、妖精たちが月光を浴びて思い思いに踊っている。

 いつの頃からか、講義棟の屋上は妖精たちの縄張りになってしまい、彼らがドアのカギを盗み、彼らの許可がなければ開かない魔法をかけてしまったせいでぴくりとも動かない「開かずのドア」が完成してしまったのだ。ドア自体には何の問題もない。

 マリィは他の場所で出会った妖精に誘われてここの存在を知って以来、たまに人間から離れたいときに利用させてもらっている。

 きらきらと光の粉をまき散らしながら踊る彼らに目を細め、ふと空を見上げてため息をこぼす。

「満月、今夜だっけ」

 周囲に視界を遮るものがないせいか、夜空に浮かぶまんまるの月は大きく見える。

 夜の女王、と人は呼ぶけれど、魔女たちは他にも「妖精たちの銀の盆」や「むこうの国の永遠の泉」と呼んだりする。

 呼び名の由来ははっきりしないが、月が妖精たちの国と縁深いのは確かだ。彼らの国への扉は月の照る夜に開く。

 そして暦が春を迎えた、最初の満月の夜は特別。

『待ってた、待ってた』

『この春を待ってた』

 ちいさな妖精たちが輪になって歌い踊る。大きな輪になったかと思えば、分かれてちいさな輪になる。

『ずっとずっと待っていた』

『蕾は』

『開き』

『酒は』

『香る』

『やっとやっと』

『時は満ちた』

 空を舞うちいさな妖精たちに手をとられ、マリィは踊りの輪の中にいざなわれる。

「今年はいつもよりずいぶんとうれしそうだね?」

 例年春いちばんの満月の夜は妖精たちが浮かれ騒ぐものだが、いつもと比べてもずいぶんとたのしげだ。

「何か特別なことでもあるの?」

 そう問いかけたマリィに答えたのは、目の前の妖精たちではなかった。

「それはそうだろう、ちいさなマリィ」

 足元で踊るちいさな妖精たちも、たった今まで宙を舞っていた妖精たちも、いっせいに地面に膝をつく。

 まるでこの上なく貴い相手が現れたかのように。

 視線を上げたマリィは、屋上の手すりに腰かけてこちらを見つめている青年と目が合った。

 マリィのものよりきらきらと輝く金色の髪。こちらを見つめる青い目は、一刻ごとにその色合いを深く浅く変える。中性的な顔立ちは過ぎたるも及ばざるもなく、月も青ざめるような完璧な美しさだ。細身だけれどしなやかで俊敏そうな体躯は、仕立てのいいシンプルなシャツとズボンに包まれている。

 たった今まで、こんな目立つ存在はいなかったのに。

「あぁ、もう『ちいさな』とは呼べないな。君は立派な淑女だ」

 聞いただけで魅了されそうになるような、艶のあるテノール。

 浮世離れした美青年だ。

 だが、マリィは彼を知っていた。

「ティル、おじさま?」

 ずいぶんと古い記憶だ。

 あの、あたたかい祖母の家での思い出。

 祖母を訪ねてきていた不思議なお客のひとり。いつだってマリィを「かわいいかわいいマリィ」と高い高いしてくれた。

 あの頃は彼がずっと年上だったから「おじさま」なんて呼んでいたけれど、今相対してみれば今のマリィといくつも変わらない年頃に見える。

「良い晩だね」

 混乱するマリィにかまわずありふれた挨拶をしてくる彼の見た目は、あの頃から何も変わっていない。

 それに――。

「覚えていてくれてうれしいよ、かわいいマリィ」

 にっこりと、見たものを骨抜きにするような甘い笑みを浮かべた彼の背には、かつてはなかったものが生えている。

 巨大な蝶の羽。

 そう、羽だ。オパールのように見るたび色を変え、ありとあらゆる色を浮かべる羽。

 黄金の髪、揺らめく青の目、そして千変万化の彩りを放つ蝶の羽――その特徴は、かつて祖母の蔵書で読んだある存在を思い出させる。

「――最果ての妖精王ティル・リンドル、さま」

 つぶやいたきり立ち尽くしていると、目の前の美しい存在はむくれてみせた。

「いやだな、マリィ。そんな他人行儀な。確かに私は王と呼ばれる存在だけれど、君の前ではただのティルだよ」

 ほら、昔みたいに高い高いしてあげよう、と手を差し伸べてくる。

「いえ、結構です」

「えー、遠慮しないでいいんだよ?」

「いえ、もうちいさくないので」

 残念そうに頬をふくらませている相手に反射で答えつつ、マリィは必死に現状を把握しようとする。

 ティル・リンドルはこれまで存在が記録されている妖精たちの王や女王の中でも古く、強い妖精王だが、祖母なら確かに交友があってもおかしくはない。だが、彼女の死後、彼の姿を見た記憶はない。

 それが、なぜ、今、ここに?

 ぞわぞわと、首筋に鳥肌がたつ。

 何かがまずい気がする。

 とんだ見落としをしているような、いやな予感だ。

 どうしてだか勝手に逃げようとする身体をその場にとどめて自分の中にある違和感を見極めようとしたのだが、手すりから降りたティル・リンドルに目の前へ立たれると思考が散る。

 どんな質素な格好をしていようと、妖精王ともなると存在の華やかさが違う。

 と、ふと気づいたことにマリィは首をかしげた。

「今日はずいぶんと軽装なんですね」

 記憶にあるティル・リンドルはいつだって古き良き貴族のような華やかな装いだった。こんな、上着も羽織っていない彼の姿を見たのは初めてだ。

「当たり前じゃないか。起きた瞬間、待ちに待った時が来たのを知ったんだ」

 冬の間閉ざされていたこちらの世界への扉が開き始め、淡い花の香りとともにずっと待ちわびていた香りが彼の鼻先をくすぐった。

「もちろん君に会うのに最低限の身だしなみは整えて来たれど、飾り立てている間に他の奴らに先を越されたりなんてしたら目も当てられない」

 おかげで私がいちばんのりだ、と満足げにうなずくティル・リンドルを見つめ、マリィはぽかりと口を開いて呆けた。

「私に会いにいらっしゃったんですか?」

 そこらへんにいる妖精や精霊には魔女らしくちやほやされてきたマリィだが、妖精王なんて高位の存在がわざわざ訪ねてきたことは今までなかった。

 やっぱり、おかしい。

 何かが変だ。

 今度は本能に従ってティル・リンドルから距離を取ろうとしたマリィだったが、それより先に指先を囚われる。

「そうだよ」

 かつてはただやさしく、慈しみを浮かべていた美しいかんばせに、それとは違う色が浮かんでいるのを信じられない思いで眺める。

「正確には、君を口説きに来たんだ」

 そして爆弾は落とされた。

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