第4話 結
それからは鬼の案内で倒れた人々の元を巡った。幸路はついてきたが、珠緒と巡は集落内の様子を見て回るから、と別行動になった。
倒れている人を野ざらしにすることには心が痛んだが、蔓を引きちぎっても安全かどうかがわからない以上このままにしておくしかない。暦の血が作用している限りはどんなに過酷な条件下だろうと肉体が損なわれることがないので、これは気分的な問題だが。
暦が背負ってきたリュックから採血針やチューブ、輸血パックなどを取り出しててきぱき自分の血液を採取し出したときには鬼がぎょっとした顔を見せたが、渋い表情を浮かべたきり何かを言うことはなかった。
作業自体は幸い、と言っていいのか、蔓が人々の体内に潜り込むために口はこじ開けてくれていたので、そこを開かせる苦労はなかった。血液採取済みの輸血パックから伸ばしたチューブの先を口元へ運び、だいたいの必要量を蔓を刺激しないようにそっと流し込む。むせてしまう人もいたが、おおむね作業は順調に進んだ。
うつぶせに倒れてしまっている人だけは鬼が身体をひっくり返して蔓から逃げる、という手間が必要だったが、すばやく獲物に絡みつく蔓もさすがに人とは違う鬼の動きには追いつけない。と、いうか本気を出した鬼の動きは暦たちの目には捉えられなかった。
結局彼とは正面からぶつかることにならなかったが、相手が蔓の繭ではなく彼だったとしても暦たち四人では手に余っただろう。
すべてが一通り終わったときにはあたりはすっかり暮れていた。集落のある一帯すべてあの蔓の支配下にあるのか、闇に沈んだ山は死に絶えたように静まり返っている。
「あとは半年後くらいに様子を見に来る感じかなー」
幸路がうーんと伸びをする。
「半年も猶予があれば医療チームも設備もなんとかなるでしょ、たぶん。っていうか、なんとかしてもらおー」
順調に栄養補給を続けた繭から変なものが孵ってないといいな……と遠い目になった彼だったが、ぱっと表情を切り替える。
「おっ、刑部女史からだー。はいはーい」
本部と連絡を取り合っていた奈々から通信が入ったらしい。
事務的なやりとりをしている幸路をはた目にぼーっとしていた暦は「おい」と声をかけられてすぐ後ろにいた鬼を振り返った。
「調子は、平気か?」
不機嫌そうな――ただこちらを案じているだけだろうに不器用なせいでそう見える――顔つきの彼に、暦はちいさく笑った。
「平気だよ。というか、何も変わらないよ」
わかってるだろうに心配性だ。
「身体と、心は、別だ」
彼の眉間のしわがより深くなった。
「平気だよ」
暦はもう一度繰り返した。
口にはしないけれど、不老不死になってからもっとひどいことだって体験したのだから。
「……そうは見えないから言っているんだ」
すっと伸びてきた鬼の手が、黒く尖った爪が触れないように手の甲の側で暦の頬をなでる。その手つきは、少しだけ玉兎を思い出させた。
はるかに年長のものが、庇護すべき相手を慈しむ、そんな手つき。
見た目は若いけれど、彼は確かに千年近く生きる「大妖怪」だった。
「平気だってば」
いつだって過保護だった保護者を思い出す。
『おさない、ちいさい、かよわい、はかない、けれど限りなくいとしい私の娘』
玉兎はよくそう言って暦を抱きしめた。あの腕の中なら、暦は安らげた。怖いものは何もないと信じていられた。
触れている鬼の体温は、記憶にある玉兎のものよりわずかに高い。失われたものを意識すれば、どうしても心細くなる。
「――平気、だけど。ちょっとだけ疲れた、かも」
ぽそり、と本音がこぼれた。
平気なのは本当だ。身体には傷ひとつ残っていないし、痛みも苦しみも一瞬だ。自分にできることがあるなら、それで誰かが救われるなら、当然そうすべきだとも思っている。それでも、たまに、自分がどこにも行けないような、身体に鉛を流し込まれたような、疲労感とも絶望感ともつかないものが身体を満たす。
「はは、睡眠だってほんとうは必要ない身体なのにね」
変だよね、と目を伏せてつぶやく。暦の顔に浮かんだ表情に鬼はぎゅっと眉間にしわを寄せた。その瞬間の彼女は、見た目よりも、実年齢よりも、ずっとくたびれてみえた。
「不老不死など、人の子には過ぎたものだろうに。あの馬鹿が」
鬼のこぼした言葉に、暦ははっと息を呑んで顔を上げる。
彼が、「馬鹿」と呼んだのは――。
「鬼薬師、玉兎を、知っているの?」
身を乗り出せば、鬼は心底いまいましそうな渋い表情を浮かべてのけぞった。
「知っている、というか、あれは――」
眉間のしわが、もはや峡谷のようだ。
「あれは、おれの師だ」
彼の語った「し」が「師」であると気づくのに少しかかった。
「師? 師匠ってこと? え、玉兎が? 何の?」
暦はすっとんきょうな声を上げる。いまだ奈々と通話中だった幸路が目を丸くしてこちらを見た程度には大きな声を上げてしまった。
暦にとって玉兎は一時の保護者ではあったが、彼が具体的にどんな特異存在なのかは知らないままだった。多くの「妖怪」たちに慕われ、敬われていることは見てきたので、強大な力と立場を持つことは察していたが、それだけだ。玉兎は語ろうとはしなかったし、暦も聞こうと思ったことはなかった。
そんなことが気にならないくらい、彼と過ごした日々はひとえに満たされていたし、暦の前での玉兎はただの娘に甘い「お父さん」だった。
そんな玉兎が、目の前の鬼の「師」だったのだという。
「……生まれてすぐの頃に世話になったんだ。生きるために必要なことと、ある程度の薬の知識を叩きこまれた」
性格が合わなさ過ぎて二百年程度で飛び出したが、と付け加え、鬼はがしがしと頭をかく。
「地上で変若水を持つのはあいつだけだし、禁じられているというのに人の子に与えるなんて馬鹿もあいつだけだろう」
遠慮のない口ぶりからも、鬼と玉兎が気の置けない関係であることが伝わってくる。
「もしかして、今、玉兎がどこにいるのかも知ってる?」
「いや。あいつ、ころころハザマの出入り口を移すから、捕まえるのは至難の業だぞ」
もしや、と希望を込めた問いかけは、あっさり否定される。
そううまくはいかないか、と肩を落とした暦に鬼は眉を下げる。
「放っておいても、そのうちあっちから会いに来ると言っていたんだろう?」
なだめる口ぶりの彼にむくれてみせる。
「そんなの、玉兎の時間感覚じゃ、いつになるかわからないよ」
玉兎のことは「親」とも慕っているけれど、勝手に変若水を飲ませたことには文句を言ってやりたいと自分の身に起こったことを理解した日からずっと思っている。
そもそも拾ってくれたくせに、突然放り出すなんて無責任だ。
地災対に入ったのだって、玉兎の情報がつかめるのではないか、と期待したからだというのに、今のところ有力な情報は何も手に入れられずにいる。
「ほんと、どこにいるんだろ」
ぼやいてみれば、鬼は肩をすくめた。
「さぁな。だが、今回の件についてはあいつの知恵を借りたいところではある。ああ見えて俺の知る中でいちばん古い存在だからな。蓄えている知識も並外れているんだ」
あの繭のことも何か知っているかもしれん、さてどうしたものか、と考え込もうとしたところで、彼はふと顔を上げた。何事か検討するようにあごに手を当てて数度瞬きしてから、暦を見つめて目を細めた。
ここまで身にまとっていた神経質なまでに真面目な雰囲気を霧散させた、ひどく高慢な笑みだ。先ほどの慈しみ深いしぐさとは違うけれど、同じように年経た「大妖怪」らしい表情だった。
「賭けをしないか、小娘」
唐突な申し出に、反応が遅れた。
「どうせ互いに玉兎を探しているんだ。どちらが先に玉兎を見つけられるか、ひとつ、賭けてみないか」
もちろん見つけた方はもう一方にも教えるということで、と続けられ、暦はやっと口を開いた。
「……わたしが勝ったら?」
「お前の命が尽きるまで、お前の願いを聞いてやる」
なんてことないことのように鬼は言った。人に縛られるのが嫌いな特異存在らしくない破格の申し出だ。
「君が勝ったら?」
彼らは往々にして人間に賭けを申し出る。もちろん賭けなのだから、天秤の双方には互いがものを載せねばならない。勝てば得て、負ければ失う。
自分の自由なんて、それだけのものを差し出して、では、彼は何を求める?
息をつめて返事を待つ暦に、鬼は口の端をつり上げた。尖った牙がのぞくせいで、やたらと邪悪に見える。
「お前を寄こせ」
口にすることも、その顔つきにふさわしい邪悪さで――。
「血の一滴も余さず、おれに捧げろ」
不死の肉体。その有用性は計り知れない。どんな非道な行いをしようと、暦は損なわれない。無限の資源だ。
でも、今日出会ったばかりの暦ですらすでに知っている。
「二度とお前がお前自身を粗末に扱わないよう、おれが管理してやる」
彼は、とてもやさしい「妖怪」なのだ。
もし暦が賭けに負けたとしても、目の前の鬼は何の無茶も言わないだろう。ただ、暦がすこやかであるように、自らを傷つけないように心を砕くだろう。
だけれど、それは認められない。
望まずとも、暦は力を手に入れた。何もできず、立ち尽くすしかない自分から変わることができた。
だから、彼のやさしさには身をゆだねられない。
「ことわ――」
「賭けを受けるなら、おれが調合した薬の一部をお前たちに提供してやる」
ばっさり断ろうした暦の思考を先回りして、鬼が告げる。
「ぐ」
「鬼薬師」と呼ばれる彼の調合する薬は量産こそできないが、尋常ならざる効果を発揮する「仙薬」だ。めったに人手に渡るものではない。
欲しい。正直喉から手が出るほど欲しい。たぶん研究班に提供すれば狂喜乱舞するだろうし、特異災害現場で調査員が時に負う「人の世ならざる怪我」に効く薬もあるはずだ。
「お前が賭けに勝てば、おれが知るすべての薬を提供するぞ」
「ぐ、ぐぐぅ」
追い打ちのように告げられ、暦は唸った。
「えー、いいじゃーん。乗っちゃいなよー。悪い賭けじゃないじゃーん」
ぽん、と肩を叩かれ顔を上げれば、奈々との通話を終えた幸路がにこにこと笑っている。
ずいぶんと軽く言ってくれるな、とにらみつけても、彼は笑みを崩さない。
「勝てたらすっごいもうけもんでしょー?」
それはそうだけど、と口をもごもごさせる暦に向かって、幸路はさらにとんだ爆弾を投下した。
「まあ、おれは『鬼薬師』のこと応援するけどー」
「はあっ!?」
何だそれは、と目をむいた暦の背後から、さらに声が続く。
「それ、あたしも一口乗らせてよ。もちろん『鬼薬師』の方に」
「ぼくも同じく」
村の様子を確認していた珠緒と巡がいつの間にか戻ってきていた。
なんだこれは。同僚が――弟も――みんなして暦の敗北を祈っているとは何事だ。
「がんばってよねぇ。期待してる」
打ち震える暦をわき目に、珠緒は長い足ですたすたと歩み寄るとなれなれしく鬼の肩に腕を回した。
「あのきかん気のつよーいわからずやを、ちゃーんとしつけてよね、オカーサン」
うっとうしそうに珠緒の腕を――それでも傷つけないように慎重に――外しながら鬼は眉間にしわを寄せる。
「もちろんおれが勝ったら徹底的に意識改革をしてやるつもりだが―――なんだ、そのお母さん、というのは」
おれの性別はお前たちの言うところのオスだが、といぶかしげに言う彼に、珠緒はけらけら笑う。
「なんていうか、お節介で過保護で面倒見がいいところがオカーサンっぽいんだよね。それが嫌なら、オカン? それともオッカサン? ママとか?」
「ははは、わかるー」
どうせ名を名乗らないなら、こっちの好きに呼んでもいいでしょ、と肩をすくめた珠緒に幸路が同意して笑い転げ、鬼は渋い表情を浮かべる。巡は何も口にしなかったが、傍らで苦笑を浮かべていた。
そんな和気あいあいとしたやりとりを見つめつつ、暦は決意した。
「いいよ」
短いながらもはっきりとした言葉に、全員の視線が集まる。
「受けてたとうじゃない」
暦が勝てないと思っているのか、それとも暦を真綿にくるむようにただ大切にしたいと思っているのかは知らないけれど。
どちらも暦を馬鹿にしている。
「そのかわり、わたしが勝ったら、そっちからももらうからね」
覚悟しておいてよね、と鬼だけでなく、幸路と、珠緒と、巡の顔も順繰りににらみつける。
「ぜったい負けない」
そう言い放った暦の目に宿る熱に見開いてから鬼は笑み崩れた。
「いい顔するじゃないか」
生きている人間はそうでなくては、と。
***
雪の中、ひとり立ち尽くしていた少女はもういない。
不老不死――人の子が抱えるには重すぎる、「ササラ」と呼ぶには大きすぎる力を身に宿して、どこにも行けず、どこにも帰れず、それでもひとりではなくなった。
弟、同僚、それから賭けの相手。
身体の時間は進まなくとも、彼らとの時間は確かに暦の身体を流れ始めた。
銀月より変若水したたる十二月 なっぱ @goronbonbon
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