第3話 転

 かつては手が入っていたのだろう杉林は、今ではうっそうとして日の光をさえぎる。

 花粉の季節は、ある種の人々にとって地獄に等しい様相となるだろう。

 通るもののいない車道の中央を堂々と進み、杉林を抜けたところが日目先の集落だった。山の斜面に家々が点在し、家の周りには畑と大きめの車庫が見てとれる。塀や生け垣がないから、どこからどこまでがどの家の土地なのか、初めて来た暦にはちっともわからない。集落の中心あたりにある鉄塔のようなものは、鐘のついた火の見やぐらとしてかつては働いていたのだろう。今は防災無線のスピーカーがついている。

 日は傾き始めたものの暮れるには早い。まだ外で作業している人がいてもおかしくない時間帯なのに、見渡す限り人の姿がない。そもそも、風に吹かれる木の葉のざわめき以外、物音らしい物音がほとんどしない。

「どうなってるの?」

 あたりを見回した珠緒がきゅっと眉を寄せる。

「……すぐにわかる」

 ちらりと彼女を一瞥した鬼が、それだけ言うと道を進んでいく。

 暗渠を渡り、坂道を登っていくと妙なものが見えてきた。道を蔓の束のようなものが伸びている。ビルの配管スペースで見る配線の束ような見た目だが、緑色だし、ハート形の葉もついている。ただ、なぜか、わずかにうごめいているような――。

「ちょっと! あれ!」

 珠緒の声にはじかれたように視線を上げる。彼女が指さしていたのは、坂道の上から這ってきた蔓がいくらか枝分かれして向かった先――道のわきに建つ民家の玄関だった。

 そこには家の住人だろう人がうつぶせで倒れていた。

 たぶん六十は過ぎている男性で、背はそれほど高くないが長年農業に従事してきたせいかがっしりとした体格をしている。これから畑へ行くところだったのか、作業着を身に着け、頭には帽子をかぶっていた。

 よく見れば、坂を下ってきた蔓の一本が男性の足元から這い上がると首にくるりと巻きつき、そこで可憐な紅紫色の花を咲かせていた。蔓の先はそのまま男性の唇をこじ開けて口の中へと潜っている。

「触れるな!」

 駆け寄ろうとした珠緒と幸路を鬼が一喝する。

「触れれば、お前たちも仲間入りだぞ」

 険しくも、痛ましいものを見る視線で倒れている身体を見つめると、鬼はゆるゆると頭を振ってつぶやいた。

「……もう少し進む。蔓と、倒れている人間や動物に触れるなよ」

 そう言って歩き出した彼の後を暦たちはこわばった顔つきで追う。

 仕組みはわからないが、あの蔓に巻きつかれると倒れている人たちと同じことになる、ということらしい。

 坂を上っていく途中、同じように倒れている人間を何人も見た。倒れた相手を心配して近づいたのだろう人が折り重なるように倒れていることもあった。犬や猫、時に鳥も地面に倒れている。その誰も彼もに蔓が巻きつき、あの紅紫色の花が咲いていた。

『蔓は積極的には襲ってこないんですね~?』

 この場にいるはずのない女性の疑問の声に視線を巡らすと、タブレットを掲げ持った幸路を目が合う。いつの間にか奈々に回線をつないでカメラで様子を送っていたらしい。

「いちおう人間のいる場所に向かって伸びてはいるようだが、そうだな、蔓本体はそれほど激しくは動かない。ただ――こっちにこい。触れるなよ」

 鬼に手招きされ、タブレットを構えたまま幸路が道端に倒れた中年の女性に近づいていく。

「人や動物に絡みつくのは道の蔓から分岐した少し細い蔓だ。こっちのほうが少し赤みがかっている」

 幸路の後ろから暦たちも鬼の手元を覗き込む。

 確かによく見れば道を這う蔓から分かれた蔓はやや細身で、赤っぽい。巻きついたところに花はついているが、葉はついていない。

「こっちは絡んでいる獲物に触れると反応して絡みついてくるし、とげがある。蔓に触れると飛び出る仕組みになっていて、おそらく刺されたものを昏倒させる」

 そう言いながら鬼は道端で拾った小枝で倒れた女性の腕に触れた。そこは蔓が巻きついた首から離れた場所だったが、小枝が触れた瞬間、何もなかったはずの蔓の表面から新たな細い蔓が分岐し小枝に絡みつく。小枝に触れた蔓の表面には、鬼の説明通り薔薇のものに似たとげがあった。

「触れない限りは問題ないが、触れれば瞬時に餌にしようとしてくるぞ」

 餌。ぽいっと小枝を投げ捨てながら彼の口にした言葉に、ぞくりと背筋に寒気が走る。

 改めて蔓が巻きついている首のあたりを見れば、まるで皮膚の下で根が張っているようにでこぼこしている。先ほどの男性と同じように口から体内に入った蔓の先も、同じように体内に根を張っているのかもしれない。

『あ~、確かに人間はいい栄養分でしょうね~』

 それなりの大きさありますし~基本飢餓状態じゃないですし~とうんうんうなずいている奈々には悪いが、そんなに冷静に言ってもらいたくない。倒れているとはいえ、目の前の女性の胸はわずかに上下しており、彼女がまだ生きていることを示している。

 つまり、生きながらにして「喰われて」いるのだ。

『それで~これは栄養を確保するための末端なんですよね~? お食事をしている本体は~どこなんです~?』

 それ潰すわけにはいかないんですか~? との問いかけに、鬼はため息をこぼした。

「……上だ」

 彼が言ったのはそれだけだった。

 進み続けると、やがて坂道が緩やかになり、道沿いに並ぶ民家の数がこころもち多くなる。周囲の民家より立派な家が一段高い場所に構え、少し離れた場所にかつての村役場だろう建物と、日目先で唯一だという商店が建っていた。このあたりが日目先の中心、なのだろう。先ほどは遠くに見えた火の見やぐらがすぐ近くに――商店の隣にある消防団のガレージの後ろに見えた。

 このあたりまで来ると道を這う蔓の数がずいぶんと増え、踏まないようにするに苦労する。あちこちに住人も倒れている。

 日目先の住人で蔓にとらわれていない人は、もういないだろう。

 もともと若い人は少ない集落だとは聞いているが、皮膚から潤いが失われ、実際の年齢以上にしおれて見える人々の顔を見るのはつらい。青白い顔色で意識を失って動かない彼らの表情が安らかなことだけが、わずかな救いだった。

「こっちだ」

 鬼は道から外れると、商店とガレージの間に足を向けた。狭いスペースでほとんど足の踏み場もない蔓の隙間をひょいひょい飛び跳ねながら進んでいく。人間とほぼ変わらない見た目に見えても、やはり膂力は人並外れている。

「来い」

 そう言われても、鬼でも天狗でもない身では同じように進むことはできない。

「ちょっと、幸路」

 珠緒にあごをしゃくられ、幸路は苦笑を浮かべた。

「はいはいー。あ、ちょっと避けてくださいねー」

 鬼に向かって手を振ってから、幸路はそっと目を伏せた。すっと虹彩の色が淡く揺らぎ、白銀色にほのかに光る。大きく息を吸った彼が細く長く息を吐くと、呼気はきらきらと光を反射しながら蔓に埋まった地面の上に漂った。ひやり、と鼻先と頬を冷気がなでる。吸い込んだ空気の冷たさに、思わずせき込みそうになった。

「これでどうかなー」

 そう言った幸路の虹彩の色はいつもの濃い茶色に戻っている。

「大丈夫そうね」

 蔦の上、商店の壁とガレージの壁の間に厚く張られた氷の床に足をかけ、何度か体重をかけて強度を確かめた珠緒が満足げにうなずいた。

 幸路のササラとしての能力は冷気を操ることだ。物を氷結させることや、がんばれば局地的に雪を降らせることもできると聞いている。何もないところであっても局所的なものであれば氷の床をつくるくらい朝飯前だ。

 全員で氷の床を踏んで進み――透けて見える床の下で蔓がもぞもぞとうごめいているのには肝を冷やしたが――鬼のもとまでたどりつく。

 そこは火の見やぐらのふもとであり、少し広い広場のようになった場所だった。

「うげぇ、何あれ」

 開口一番嫌悪感をあらわにした珠緒に、口にはしなかったが暦も同意する。

 火の見やぐらの根元、離れた場所からは商店やガレージの陰になって見えなかった場所に蔓の塊がある。だが、それは蔓というよりも、繭と呼んだほうが近い。火の見やぐらの四本の支柱に蔓を伸ばし、そこにぶら下がるようにぐるぐると楕円に丸まった中には何かが宿っているらしく、どくん、どくん、とゆるやかに脈打っている。

『わあ~。あれが諸悪の根源、ってわけですね~? わたしの記憶にはない特異存在の形態ですけど、ちょっとデータベース照会かけてみます~』

 幸路の持つタブレットから、ふんふんふ~んと鼻歌まじりにキーを叩いている気配がこちらにまで伝わってくる。

『ん~似たようなものの登録はありませんね~。「鬼薬師」さんはあれがなんだかご存じですか~?』

 奈々に問いかけられた鬼はゆるく首を横に振った。

「知らん。今日の昼前、日目先の異変に気づいたときには、もうあたり一帯を覆ってのさばっていた」

 苦々しげに言うと、彼は腕を振った。とたんに、繭が炎に包まれる――が、すぐに消え、繭は無傷で残っている。

「ごらんのとおり、炎が効かん。かまいたちも効かなかった。氷はまだ試していないが――」

 ちらりと一瞥された幸路は息を繭に向けて凍りつかせたが、それほど経たずに繭の表面を覆った氷は融けて元通りの姿となった。

「効きませんね」

 苦笑いした幸路に、鬼は半ばわかっていたのだろう「だろうな」とつぶやく。

『「鬼薬師」さんで歯が立たないとなると~、あれ、Sクラス以上ってことになりません~?』

 奈々の言葉に、地災対の全員でため息をこぼす。

 Sクラス――「国つ神」クラスの地災となれば、ここにいる四人だけでは対処しようもないし、そもそも室長から報告を上げてより上の判断を仰ぐことになる。

 二年に一度あるかないか、という大物案件だ。ついこないだやったばっかじゃんよ……と珠緒がぼやいているが、現実に目の前で起こってしまっているからには対応しないわけにもいかない。

『蔓の一部って、検体としてちょん切って持ち帰ってもらうことってできます~?』

 本部のラボで調べれば何かわかるかも~と言う奈々に、鬼ははっきり首を横に振った。

「おれでもとげで刺されればどうなるかわからないから直接は触れられないし、刃物は役に立たなかった」

 もうすでに試した後だったらしい。

 詳細はわからないし、持ち帰って調べることもできない。焼くことも、切ることも、凍りつかせることもできない。現時点ではお手上げだ。

「……だが、これ以上、あれを食わせてやるつもりはない」

 ぼそりとこぼされた鬼の言葉に、これからの作業を思って憂鬱になっていた暦たちは顔を上げた。

「ここをあらかた喰いつくせば、あれは蔓をより遠くへ伸ばすだろう。孵るまでにどれだけの贄が必要かはわからないが、これ以上被害を広げることも、孵らせることも、避けるべきだ」

 だから、彼はここを封じたのだ。結界を張って、矢面に立って、日目先に誰も近づけまいとした。

「まったく同意ですねー」

 何が孵るかわかったもんじゃありませんしー、とぼやき、幸路は手に持ったタブレットに声をかけた。

「刑部女史ー?」

『はいはい~。室長に日目先の隔離指定申請投げときますね~』

「ありがとうー。とりあえず、もう少し現状確認だけしてからいったん引くから、そのときまでに室長から返事があったら連絡よろしくー」

『いえ~す。了解で~す』

 そこまで話すと、奈々との回線がいったん切れる。本部とのやりとりを進めてくれるのだろう。

「と、いうわけでー、日目先は当面このまま隔離状態の維持ってことになりそうですけどー?」

 首をかしげた幸路に、鬼はほっとしたように目を伏せた。

「……頼む。包囲はおれが受け持とう」

「助かりまーす」

 ササラにも結界が張れる人材はいるが、「大妖怪」ばりにひとりで広範囲を受け持つことはできない。

「じゃあ、あたりを一周したら帰ろっかー」

 状況把握くらいしかできることないもんねー、と伸びをした幸路に珠緒と巡がうなずく。

 暦だけは、じっと地面をのたうつ蔓を見つめていた。

「鬼薬師」はこれ以上の被害が広まらないように日目先を封じていた。その必要性を暦たちは認識したし、おそらく上も認めるだろう。蔓の繭をどうするかは上の判断次第だが、このケースだと排除できずこのまま半永久的に日目先を「禁足地」扱いとする目算が高い。

 彼が橋をふさいだ理由はなくなった。

 だけれど、それだけでいいのだろうか。

 つかず離れず、ずっとこの地を見守ってきた「鬼薬師」は。

「……ここの人たちは――」

 ぽつりと暦のこぼした言葉に、全員の顔色がさっと曇る。

 おそらく集落が蔓に襲われてから、まだ半日足らず。しかし、道すがら見た人々は脈も呼吸も弱々しかった。このまま何もしなければ、おそらく遠からず繭に喰らいつくされるだろう。

 全員、そんなことわかっていて口にしなかった。

「……しかたない。おれの知る薬でも人体に食い込んだ蔓を枯らすことはできないし、滋養強壮薬を飲ませたところでわずかな延命処置にしかならん」

 鬼が苦い言葉をこぼす。

 自分にできることがないと知って、絶望して、それでも被害を最小限にするために彼は「内」を捨てて「外」を守ったのだ。

 ぶっきらぼうで、そのくせ甘い――やさしい鬼だ。

「鬼薬師」

 これまで多くを人に与えてきたのだろう彼に、暦もひとつだけ差し出せるものがある。

「わたしなら、ここの人たちの状態を止められるよ」

 やさしい彼は、きっと日目先の人々だって救いたかったはずだ。その方法を知っていたらおのれの何を犠牲にしても実践していただろう。

「ねぇさん!」

 こちらをたしなめようとする幸路より、叱りつけようとする珠緒よりも早く、ずっと黙って控えていた巡がたまらず、と言った風に悲痛な声を上げた。多分に避難の色を帯びた声よりも、彼の叫んだ言葉の方に鬼は反応した。

「姉さん?」

 せわしなく交互の姿を眺める視線に含まれる見慣れた疑念の色にうっとうしさを感じながらも、暦は険しい表情を浮かべている相手を見上げる。

 にょきにょきと伸びたものだから、もう幼いころの面影はほとんどない。でも、険しい顔をしながらも不安そうに瞳が揺れているのは昔から変わらない。

 昔から、姉思いの子だった。

 強力なササラを輩出する名家・八乙女の当主になるはずだった、優秀な弟。

 そう、弟だ。事情があって現在は別の名字を名乗っているが、血のつながった実の弟。

「めぐ」

 短く呼べば、彼はぐっと唇を噛み締める。

「ねぇさんが力を貸さなくても、本部に連絡して研究班から医療チームを編成してもらえばいい」

 そうすれば延命くらい、と思ってもないことを自分に言い聞かせるように口にする。

 これだけの勢いで衰弱していく人間の命をつなぐことは現代科学の粋をもってしてもむずかしい。この蔓から無理やり引きはがしていいものかもわからない以上医療設備をここに運び込むしかないが、ここは医者のいなかった集落だ。拠点となる場所がない以上時間はかかるし、確実に何人かは手遅れになるだろう。

「めぐ。この人たちには時間がないの。わかるでしょ」

 きっと、このままなら今夜すら越せない。

 巡の瞳をまっすぐに見つめて訴えれば、彼は視線をそらしてふるりと首を振った。

「それでも、ねぇさんが自分を差し出すような真似をするのはいやだ」

「自分にできることがあるなら、したいの。めぐがわかってくれなくても。ただ生かされるだけなんて耐えられなくて、ここにいるの」

 そう言い切れば、巡は泣きそうな顔で唇を噛み締めた。幸路も、珠緒も、渋い顔つきで吐き出そうとした言葉を呑み込んだようだった。

 かつての、幼かったころの暦は無力だった。

 雪の降る中、どこにも行けず立ちつくすことしかできなかった。

 でも、今の暦は違う。望んで得た力ではないけれど、確かに力はある。

 鬼に向かって暦はちいさく笑って見せた。時に中学生に見間違えられる容姿には不釣り合いな、おとなびた笑みを。

 先ほど彼の爪でみずから傷つけた頬にそっと触れて、静かな声で告げる。

「わたしね、さっきの傷も正確には治癒してるわけじゃないの。ただ、元に戻ってるの」

 治癒、というのは自身の身体の力で、自分の中にあるものを使って身体を修復することだ。暦のそれとは違う。

 暦の身体は、損なわれればどこからともなく――この世の理を無視して欠落が即座に補填される。

 まるで化け物――特異存在そのものだ、とかつて父母は言った。

 無能、出来損ない、役立たず――そう暦を呼んでいたころより、彼らはうれしそうだったけれど。

「七年前、変若水を飲んだの」

 暦の言葉に、鬼は息を呑む。

 変若水。月の神が持つという、不老不死の妙薬。

 神代にしか存在しないと思われていたそれを暦は口にした。


 十二から十六まで、暦は神隠しにあっていた。

 無理にさらわれたのではない。玉兎(ぎょくと)と名乗った彼についていくことを暦自身が選んだのだ。

 幼いころの暦は無能で、孤独だった。

 代々ササラを輩出し、その力を売って生計を立ててきた八乙女家にあっては、何の力も持たずに生まれてきた暦のほうが異端だった。一族から疎まれ、父母にも振り返ってもらえず、ふたつ年下の弟と離され、母方の祖母の家――岩長家に預けられた。祖母は手こそあげなかったが厳しい人で、八乙女家に見捨てられた「役立たず」の孫娘を嘆いていた。

 自分でも自分の価値を感じられずにいた暦を、玉兎はずいぶんと大切に扱った。

 暦を自分のハザマ――強力な特異存在が時空を捻じ曲げてこの世のどこかに作る自分だけの空間――にある屋敷に連れ行き、衣食住を与え、勉強を教え、うまくできればほめ、滅多にないことだが暦が危ないことをすれば叱った。実の両親や祖母がしてくれなかったことを彼はしてくれた。彼の屋敷に出入りする特異存在――「妖怪」たちも暦と親しくしてくれた。

 まるで、生まれて初めて親ができたみたいだったし、人間ではなかったが友人もできた。幸せで、幸せで、常春のハザマと同じように、死ぬまで変化なくこんなあたたかな日が続けばいい、と思った。

 四年と少しの日々は、本当にあっという間だった。

 それなのに、終わりは突然だった。

 少し前から、屋敷が騒がしいとは思っていた。それでも、それはこれまでもあったことだったし、いつも気づけは平穏を取り戻していた。今回もそうなるだろうと楽観視していた。

『暦』

 縁側に腰かけた玉兎に手招きされ、屋敷裏の家庭菜園へ向かおうとしていた暦は彼の元へ歩み寄った。

『どうしたの』

 ここのところ忙しそうだった彼がのんびりして見えるのがうれしくて、彼の隣に腰を下ろす。

『大変そうだったの、ちょっとは落ち着いたの?』

『残念だが、もう少しかかりそうだ』

 苦笑を浮かべた玉兎は傍らにあった盆の上の徳利から、お猪口へ中身を注ぐと暦へ差し出してきた。

『お酒は飲めないよ?』

『お前に酒はまだ早いよ』

 飲ませるわけないだろう、と苦笑を深めた彼に再度差し出され、お猪口を受け取る。

 じゃあ何だろう、と内心首をかしげながら、くいっと中身を飲み干した。

 躊躇することはなかった。それまで玉兎から与えられたものが、暦にとって悪いものだったことはなかったから。

 それは、とろりとまろやかで、清々しい香りのする、それまで味わったことのない甘露だった。じんわりと身体にしみわたっていくのを感じると同時に、ふわふわしてくる。

『これ――』

 なぁに、と問うより先にがつんと殴られるような眠気に襲われ、暦は縁側にくずおれるように横になった。手から落ちたお猪口が靴脱ぎ石に当たって高い音を立てて割れる。

 必死にこらえても、まぶたは勝手に落ちそうになる。狭まっていく視界の中、こちらを見下ろす玉兎を見上げれば、いつものやさしく、そのくせ何を考えているのかいまいち読み取れない白銀の目がこちらを見下ろしていた。伸びてきた手が暦の頭をなでる。

『暦。かわいいかわいい、私の娘。弱く、はかないお前が穢れた世界で損なわれたりしたらいけないからね』

 数え唄のように、その時の暦には理解できなかったことをささやいた。

 ひとつ、どんな毒も、お前を死に至らしめない。

 ふたつ、どんな炎も、お前を焼き尽くすことはできない。

 みっつ、どんな氷も、お前を芯まで凍りつかせることはできない。

 よっつ、どれほど飢えようとも、お前は倒れない。

 いつつ、どれほど眠れずとも、お前の頭は明瞭さを保つ。

 むっつ、息ができずとも、お前は壊されない。

 ななつ、刃に切り裂かれ、どれだけ血を流そうとも、お前は死なない。

 やっつ、骨が砕け、身体のあらゆる場所が潰れようとも、お前は息絶えない。

 ここのつ、どんな病魔に蝕まれようとも、お前の身体はそれに耐える。

 とお、どんな痛みや苦しみに襲われようとも、お前の精神は狂わない。

 とおあまりひとつ、お前から損なわれたものは、まばたきひとつの後にはよみがえる。

 とおあまりふたつ、お前の肉体は歳をとらない。

 お前の名と同じように、お前の命は永遠に巡る。お前が飲んだのは、そのために必要な十二の加護を与える神の水。

「これは私からの贈り物。――本当は人の子にあげてはいけないのだけれど」

 そう。彼はこれを贈り物と呼んだ。

『おやすみ、暦。すべてが片付いたら、また会えるから。どうか、その日まですこやかに』

 出会った日と同じあたたかな指先が、そっと暦の額にかかった髪をかきあげた。

 わけがわからない。何を言っているのか。

 文句のひとつも言いたかったのに、我慢ももう限界だった。まぶたは完全に落ち、意識は眠りの闇に沈んでいく。

 次に目覚めたとき、暦は玉兎と出会った山の頂上に横たわっていた。まるで長い夢でも見ていた気分だったが、身体はちゃんと十二歳から十六歳へと成長していたし、季節も冬から春へと移っていた。

 そして、暦は不老不死になっていた。


「あの時から、わたしは何も変わってない」

 十六のときから七年間何ひとつ変わっていない二十三の暦と、きちんと年相応に――二十一という実年齢にふさわしく成長した巡。巡が暦を「ねぇさん」と呼ぶと誰もが不思議そうな顔をするけれど、それでも暦が姉で巡が弟なのだ。たとえこの先、見た目が親子ほど離れようとも。

「別に望んで不老不死になったわけじゃないけど、いくつか、便利な力も付属でついてきたんだよね」

 それがわかるに至った経緯は思い出したくもないが、暦には自身の「不老不死」以外にも、それに付随するいくつか能力が見つかった。

「わたしの血を飲んだ生き物は、一時的に、ではあるけれど、わたしと同じように不老不死になる――肉体の状態を血を飲んだ瞬間でとどめることができるんだよ」

 あくまで一時的なものだが、地災対研究班の検証でも半年から一年程度は暦と同じように肉体が再生し、老化しないことがわかっている。

「日目先の人たちを救うことはできない。でも、死なせないことはできる」

 それがただの問題の先送りなのだとしても、こぼれ落ちそうな命をとどめることはできる。

「だから、まだあきらめなくていいよ」

 ずっと見守ってきた人々を見送ることしかできないと、嘆かなくていい。

 時間さえできれば、もしかしたら全員を救う道も開けるかもしれないから。

「……ここには六十三人、人がいるんだぞ。どれだけの血液が必要になると思ってるんだ」

 諸手を上げて大歓迎、なんて素直な反応は期待していなかったが、少しはよろこんでくれるものと思っていた鬼の反応が微妙で暦は首をかしげた。が、かつての研究班の検証結果を思い出しつつ問いに答える。

「んー、だいたい三〇㎖で効果が出るらしいから、六十三人だと――一八九〇㎖?」

 量にして大さじ二杯程度だ。これを多いとみるか少ないとみるかは人それぞれだと思うが、意識のある人間が口に含めば鉄錆びた味に「うえっ」となること必死だ。その点、日目先の人々には意識がないので反射で嚥下してくれるだろう。

「そんな量を短期間に失えば失血死するだろうが」

「ふつうの人間ならね」

 鬼の言葉に即座に言い返す。

「何回、何十回死ぬような傷をつけようとわたしは死なないけど、わたしがそうしなかったらここの人たちは死ぬんだよ?」

 思ったままを伝えたのに、その場の全員が思い思いに顔をゆがめた。

 命はひとりひとつだけで、失われたら戻ってこない。どんなふうに扱っても失われない命と、今にも消えてしまいそうな命――優先順位はわかりきっている。

 すずしい顔の暦をにらみつけ、鬼はさらにぎろりと幸路と珠緒へ視線を向けた。

「どうして弟以外止めようとしないんだ!」

 怒鳴りつけられたふたりは、おのおの不満げな表情を浮かべた。珠緒は腕を組んで眉間にしわを寄せているし、幸路は笑みを浮かべながらも明らかにいらだっている。それでも、彼らが何も口にしないのは――。

「わたしの身体の使用権利は地災対にないから」

 暦の言葉に、珠緒が舌打ちする。

 彼らは暦の力を鬼に告げようとしなかった。このまま日目先を立ち去れば、ここの人たちが死ぬとわかっていて。

 同時に今、力を使う暦を止めることもできずにいる。

 彼らにはその権利がないからだ。

 暦は不老不死の能力を持つササラとして登録され、地災対に所属しているが、ササラとしての能力を職務上使用することは求められていない。

 二年前、ある事件で暦はササラとして地災対に保護された。その際、不老不死のササラが確認されるのは初めてだったため、研究班への血液や一部の体組織の提供依頼はあったが、その後地災対に調査員として所属することを望んだのは暦自身だ。

 採用試験をパスして調査員として正式な地災対の一員になった際にも、暦の能力の一切は現場判断で使用することが禁じられた。理由は「能力の発現に際して必ず多少の苦痛が本人に生じるため」だ。つまり、ざっくり言えば不死の能力の発現を看過・誘発することは人道的ではない、とのことらしい。

 ただし、例外も存在する。内閣府内に独立して設置されている倫理委員会の許可を得た場合と、暦本人の判断で使用する場合だ。

「それは組織がコヨの能力を濫用しないための取り決めだよ」

 苦々しげに幸路が言えば、珠緒が鼻を鳴らす。

「そのくせ、本人がいちばん自分の能力を濫用するんだからやってらんないの」

 さらにむすっと表情をくもらせた巡を見て、鬼も事情を察したらしい。

「……なるほどな」

 深々とため息をつくと、わしわしと乱暴に髪をかき乱す。

「これは、いくら話したところで堂々巡りするだけだな」

 わかった、と疲れたようにつぶやく。

「……申し出はありがたく受けよう。だが、忘れるなよ。身体が損なわれないからといって、おのれの命を軽んじるな」

「別に軽んじてるつもりはないんだけど」

 首をかしげた暦を、彼は苦々しくにらみつけた。

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