第2話 承

 現場付近に設置してある計測器から送られてくるデータを解析するのが役目である奈々はテントに残し、四人で吊り橋へ向かう。

「すみませーん、地災対、入りますー」

 幸路が間延びした声をあげると、吊り橋周辺にいた人々がぱっと場所をあける。地災案件の現場における行動について地災対策室は最上位の優先権を持つからだ。

 吊り橋を前に並んだ暦たちの背後から、ぼそぼそと押し殺した声が聞こえてくる。

「あれが例の――」

「本当に若いやつらばっかりで――」

「どうせ化け物同士で――」

 いつものことだな、と聞き流した暦たちとは違い、珠緒はちいさく舌打ちするとにっこり笑みを浮かべて振り返った。

「正面からおっしゃっていただいて構いませんけど?」

 怒りを押し殺した美人の笑顔は恐ろしい。これ見よがしだった陰口がぴたりとやむ。

「中途半端に吠えるなっての」

 もう一度舌打ちすると、珠緒は前に向き直る。

「まあまあ、そのくらいにしておきなよー。タマポンも、あっちも、必要ないこと言って波風立てるのは馬鹿のすることだよー」

「タマポンて呼ぶなって言ってるだろ」

 何気にのんびりとした口調に似合わぬ毒を吐く幸路に、珠緒はあきれたように目を細めた。

「おれたちの仕事は地災対応だからねー」

 仕事だけやってなるべく早く帰ろうねー、と笑う幸路に、それぞれ「了解」と答える。

 地災対策室に敵が多いのは確かだが、難易度の高い地災対応における実績が群を抜いているのも確かなのだ。余計な口を利く相手はこれからも実績で叩きのめしていくしかない。

 ふ、と息をこぼし、暦は背を伸ばす。

「行ってくる」

「安全第一にー」

 しつこいくらいに念を押す幸路の言葉を背に、暦は吊り橋の中央に向かって歩いていく。

 吊り橋は片側一車線の計二車線に歩道が片側にだけついた幅で、長さは百メートル程度。吊り橋の下は深い谷になっている。

 そのちょうど中央あたりで、それは悠然と待ち構えていた。

 ぱっと見は人間と大差ない。二十をいくつか過ぎた青年に見える。

 長くのばされた艶やかな黒髪は首の後ろで結われ、背中に流れている。手足はすらりと長く、幸路ほどではないが上背もある。

 顔だって目と耳は二つだし、鼻と口はひとつずつ、人間と同じようにおさまっている。むしろ造作は「美形」と呼ばれる部類だろう。力の強い特異存在には美しいものが多い。切れ長の目がすこしきつい印象を与えるが、街を歩けば多くの視線を集めるはずだ。

 身にまとっているのが僧侶のような袍や袈裟であることや、肌の色が日本では珍しい濃い小麦色だというだけでも目を引くだろうが――美貌より何より目を引くのは両こめかみから生えている角だ。

 山羊のものほど長くはなく、ゆるりと前に向かって生えている。色は白ではなく古びた血のように赤黒い。

 角のある特異存在――それは一般的に鬼、と呼ばれる。

 彼は目の前に立った暦に向かって挑発的に口の端を上げて見せた。ちらりと尖った牙がのぞく。

「お前が、次の挑戦者か?」

 低すぎない、耳に心地いいテノールの声だ。

「保護者付きとは、ずいぶんと信用がないな」

 ついっと視線を暦の顔からそらし、上空へ向ける。その視線を追って暦も顔を上げてみたが、橙色に染まり始めた山あいの空が見えるだけだ。

 そこに何もないから、ではない。暦に、そこにあるものを感知する力がないから、だ。

 天つ神や特異存在は現代科学では説明できない異能を操るが、人間の中にも数は少ないものの同じような力を持つ者が存在している。千里を見通したり、人の心を読んだり、時に気象を操ったり――力の種類は様々で、力を持つに至った経緯も血統だったり突然変異だったりと様々だが、彼ら彼女らは「ササラ」と呼ばれた。

 一般社会では畏怖され崇め奉られると同時に「化け物」と忌避されることも多いササラだが、地災対応においては切り札となりうる。ある若き官僚の提言によって組織されたのが地災対策室であり、実際に特異存在と相対する調査・処理係にはササラが数多く所属している。珠緒もそのひとりで、彼女は自分の魂の一部を飛ばし、離れた場所の出来事を見聞きする。

 霊や魂といったチャンネルの違う場所にある存在を見てとれる特異存在やササラには珠緒の魂が白い鳥に見えるらしいが、見えたとしても肉体とつながった魂に干渉できる存在はめったにいないし、危険があれば珠緒は即座に魂を呼び戻すこともできる。自分の肉体をほとんど危険にさらすことなく偵察できる便利な能力だ。

 先ほど彼女が「見張っとく」と言ったのは物のたとえでも何でもなく、実際に暦が危ないことをしないか魂を飛ばして見張っているのだ。

「仕方ないよ。わたし、無茶しがち、らしいから」

 あんまり自覚ないんだけど、と首をかしげた暦に、鬼はへぇ、と目を細めた。

「まあ、子どもを守るのは大人の役目だからな」

 そんなことを口にする彼はずいぶんと良識的だが、「子ども」扱いにはむっとする。たとえ身分証を出しそびれて中学生と間違われ、現場からつまみ出されそうになった過去があろうと、だ。

「それで? 早速だけど始めていい?」

 ふん、と鼻を鳴らす。ここには雑談をするために来たのではないのだ。

 どうぞ、と言わんばかりに手のひらを返して見せた鬼は余裕の笑みを浮かべている。どうせ当たらないと思っているのだ。

 これまで名前あてチャレンジで使った名前は誰かがリスト化して地災対にも共有化されていた。その中身を思い出しながら、まだ出ていない名前を口にする。

「黒角(くろつの)」

「違う」

「黒丸(くろまる)」

「違うぞ。お前、おれの特徴、黒いことだと思ってるだろ」

 あきれたように言い、彼はにやりと笑った。唇の隙間から、人間のものより尖った犬歯がのぞく。

「残念だったな。ほら、かえ――」

「じゃあ、しゅあ――」

「待て」

 二回の失敗にこれまでの者たちと同じように帰ると思ったのか。ひらひらと手を振って追い返そうとした鬼は、そのまま言葉を続けようとした暦の口を勢いよくふさいだ。

「ふぁにするのふぁ」

「『何する』はこっちのセリフだ」

 もごもごと抗議すると、顔色を変えた彼に怒鳴りつけられた。肌色が濃いのでわかりづらいが、頬を紅潮させて怒っているようだ。

「だってチャンスは三回でしょ?」

 口元を覆う彼の大きな手を引きはがし、暦は眉をひそめた。

「三回失敗したら、両目をおれに奪われるんだぞ」

「そうだね」

 あっさりうなずいてみせれば、彼はますます信じられない、と言わんばかりに顔をゆがめる。

「なんで、おまえ、そんな……」

 そこまで口にして絶句した鬼に向かって軽く肩をすくめてみせる。

「だって、それは問題にならない」

「はあ? 問題だろう?」

 目だぞ、と彼は声を荒らげるが、そんなことはわかっている。

 握ったままだった彼の手を見下ろせば、角と同じ色の、人間のものより硬そうで少し尖った爪が目に入った。人間のやわらかい皮膚くらい簡単に引き裂けそうだし、目玉だって抉り取れるだろう。

「実際に見せたほうが早いかな……」

 まだ三回失敗していないので目玉はあげられないが。

「なにを――っ」

 つぶやき、鬼の爪を自分の頬に浅く突き立てた。ちりっと走った痛みにわずかに眉根を寄せる。そのまま頬をなでるように動かせば、痛みとともに赤い血のにじむ線が刻まれる。

「馬鹿か!」

 あわてたように吐き捨てた鬼が暦につかまれていた手を引き、改めて傷口を見ようとこちらの頭をつかんできた。爪が新たな傷を作らないように慎重に、だ。

 今度は顔から血の気が引いている。意外とわかりやすいな、と鬼の顔を見つめていると、こちらを見る漆黒の瞳が大きく揺れた。

「なぜ……」

 彼の指が暦の頬の傷の上を這う。

「消えてる……」

 ぬるり、とまだ固まらぬ血の感触はあるが、痛みはない。それもそのはずで、暦の頬にはすでに傷がない。確かめるように最初はそっと触れていた鬼だったが、本当に傷が消えていると確信すると遠慮なく袍の袖でごしごし血をぬぐってくる。

「ちょっと、もうちょっと丁寧に――」

「まやかし……? いや、ちゃんと皮膚を裂いた感触があった。だとすると、治癒、したのか、この短時間に」

 ぼそぼそとひとりごとを口にしてから、痕一つ残っていない暦の頬を改めて見て「ササラか……」と苦々し気な表情を浮かべる。

「先ほどの口ぶりだと、目玉を抉られても治癒――再生する、のか?」

「するね。すぐに元通りだよ」

 うなずいてみせれば、鬼の眉間にぎゅっとしわが寄った。

「……痛覚がないわけではないんだろう?」

 頬に彼の爪を立てた瞬間の表情の変化を見とがめたらしい言葉にうなずくと、鬼の表情が険しくなる。

「痕すら残らないのだとしても、自分の身体を痛めつけるようなまね、やめるべきだ」

 それとも苦痛に快楽を覚えるたちなのか、といぶかしげに見つめられ、暦もぎゅっと眉間にしわを寄せた。

「痛いのも、苦しいのも、嫌いだよ。すぐに治るからって平気なわけがない。当然じゃない。でも、それより嫌いなものが、あるってだけ」

 ふと、視界の端に白いかけらがちらついた気がして、大きく首を振って幻を追い払う。

 雪はきらいだ。しんしんと、身も心も、何もかも音もなく凍りつかせ、覆い隠してしまう。

 それを見つめるしかなかった幼いころの自分を思い出す。

 だが、それも今は昔の話だ。

 ふーっと息を吐き、理解不能だと言わんばかりに顔をゆがめている鬼にむかって首をかしげた。

「で、鬼薬師(おにやくし)、あなた何を隠してるの」

「鬼薬師」の名に、彼の目が見開かれる。

「どうして、その名を……」

「どうしてって。対象のこと調べるのは当たり前じゃない」

 それが暦たちの仕事でもある。

 強力な特異存在は往々にして歴史に記録を残している。彼らにとって真名というのは特別なものなのでそれが記されていることはほとんどないが、それでも何の事前情報もないよりはましだ。

 どれくらい前から存在しているのか、どういう性質を持つのか、能力的にどういったことができるのか、人間には友好的なのか、人間と関わりがあった場合どんな通称で呼びならわされてきたのか――資料によっては真名以外のことがだいたいわかることも珍しくない。

 このあたりの地史によれば、黒い肌と角を持つ法衣の鬼は鎌倉に幕府があったころから日目先近くの山中に出没し、積極的に人間と交流するわけではないが何か困ったことが起こったときには知恵を貸したという。特に薬の知識に秀でており、そのために「鬼薬師」と人々に呼ばれて敬われてきた。日目先は今でも医者のいない集落だが、それに代わる役割を担ってきたのは彼だ。

 今回の件が起こるまで、彼は人間に友好的な、強大な力は持ちながらも静かに暮らすタイプの「妖怪」だった。否、今も本質的に変わりはないだろう。

 では、彼はなぜこんな行為に出たのか。

 他人の顔色をうかがう生活を長らく送ってきた暦にとって、ほとんど人間と変わらない「鬼薬師」の言動から現在の状態を読み取ることはそれほど難しいことではない。

 落ち着いた調子に聞こえる声もどこか神経質で硬質な響きがにじんでいるし、何より彼はずっと背後を気にし続けている。

 この先に、日目先に何かを隠している。

 唐突に歩を進めると、暦は彼の脇をすり抜けた。

「待て!」

 伸びてきた腕に手首を捉えられたが、手首に絡みついた指はあまりにゆるい。思い返してみれば、口元を覆ってきた手も強く押し付けられる感じではなかった。とっさに反応してしまったものの、自分の爪が暦の肌を傷つけることを危惧したのだろう。

 今も、先ほども、彼は暦の身を案じてばかりだ。「三回で名を当てられなければ目玉を奪う」なんていうのもただの牽制であるとばればれだ。もちろん特異存在は口に出した制約に縛られがちなので、実際に三回間違えれば望むと望まざるとに関わらずきっちり目玉を奪いにきただろうが。

「待てと言っているだろう」

 自分の腕をゆるくつかんだままわめく鬼を引きずるようにして、暦は進む。少しでも力を込めて踏ん張れば引き止めることなど簡単だろうに、彼はそれを躊躇している。

 だが、それも暦が橋を渡り切ろうとするところまでだった。

「それ以上はだめだ!」

 ぐっと強く腕を引かれ、暦の上体はのけぞった。踏み出そうとした足先だけが、こつん、と何かにぶつかる。

「なにこれ」

 つま先でそのあたりを探れば、何も見えないものの、そこには明らかに壁がある。気づかぬまま勢いよくぶつかっていたら、と思えばぞっとしたが、わかっていたからこそ鬼は暦を止めたのだろう。やはり甘いのだ。

「鬼薬師」

「悪い」

 彼の言葉と向けられた視線に手首を見れば、わずかに血がにじんでいる。あわてて引き止めた鬼の爪がかすめたようだが、傷自体はいつもどおりすでに治っている。

「いや、それは別にいいんだけど」

 よくない、と言わんばかりに顔をゆがめた相手が口を開くよりも早く、姿勢を正した暦は鬼をじっと見つめた。

「これ、ずるいと思う」

 彼につかまれていないほうの手を握り、透明な壁をこんこんと叩く。

 こういった壁を見るのは初めてではない。俗に「結界」と呼ばれるもので、「大妖怪」クラス以上になるとかなり広範囲に展開することができる。

 鬼は言った、「おれの名前を当ててみろ。当てればおれはここを退く」と。なるほど、名前を当てれば、彼は橋の中央、先ほど陣取っていた場所から退いただろう。が、その先にはこの壁があるのだ。

 結局、この橋を渡りきることはできず、日目先には行くことができない。

 彼との「賭け」は、最初から何の役にも立たない徒労だ。

「……これは、保険だ。お前たちが、おれとのやりとりで、あきらめなかった場合の」

 つまり、最初からここを通すつもりはなかった、ということだ。

 よくもいけしゃあしゃあと、と眉をひそめると、暦は透明な壁の向こうを指さした。

「そうまでして、何を隠してるの」

 再びの問いかけに、彼は押し黙る。

「こっちのリスクも高いから滅多にやらないけど、うちに所属してるササラの中には神降ろしができる人もいるんだよ」

 天つ神の力を一時的に借り受ける「神降ろし」は降ろすササラの負担が大きいこと、降ろした力が暴走した場合もともとの地災よりも規模の大きい被害を出す可能性があることから滅多に行われないが、「大妖怪」や「国つ神」の力さえ無効化することができる。

 力づくで暴いてやろうか、とやんわり脅しをかけてやれば鬼は不快感をあらわに暦に詰め寄ろうとした。

「調子にのるなよ」

「それが嫌なら最初から白状しときなよ」

 退くことなく、暦はいまだつかまれたままだった手を振りほどくと、そのままこぶしにして鬼の胸板にこつんと当てる。

「わたしたちは確かに力づくで君たちを排除することもあるけど、本来の職務は双方の在り方の違いで生じた衝突を解決することなんだよ」

 人間の組織だから、人間にとって有利な結果になるよう動くことが多いことは否定しないけれど。

「ふつうの人間よりは、君たちのことも知ってる。隠してひとりで抱え込むより、教えてくれたら何か力になれるかもしれないじゃない」

 まっすぐ至近距離から鬼の顔を見上げ、漆黒の目を覗き込む。

「もしここを封鎖することが人間にとっても意味があることだっていうなら、わたしたちが責任をもって人間側の手続きをとる」

 相手の目が揺れたのを見逃さず、畳みかける。

「わたしたちはササラ――君や神々と比べれば些細な力しか持たない存在だけど、無力じゃないんだから。たまには頼ってくれたっていいんじゃない?」

 いつも人間に手を差し伸べてばかりだった「鬼薬師」だが、人間にだって人間なりの、弱いものには弱いものなりの経験の蓄積ややり方があるのだから。

 言いたいことを言いきったあとは、渋い表情を浮かべて押し黙った鬼の顔を見つめてじっと返事を待つ。

 谷間を吹き抜けていく風が少し冷たい。街はやっと秋めいてきたくらいだが、やはり標高が高くなると違うものらしい。日暮れも早いからそろそろ空気が染まって来たな、と目を細めたときだった。

「お前たちには、それだけの力がある、と?」

 こちらの言葉の真偽をうかがうように鬼の黒い目がすがめられる。対する暦は軽く肩をすくめた。

 過剰に期待してほしいわけではないし、暦自身は一介の調査員でしかないが、地災対策室は少し特殊な立ち位置にある。

「うち――地災対策室は、地災に対する対処・判断に置いて特権的な立場にあるし、うちで判断が下せない場合――政治的判断が必要になるような場合でもうちの室長がアドバイザーとして参加することになる」

 それに、とわずかに自嘲気味の笑みが唇に浮かぶ。

「君だって知ってるとおり、人間は弱いから臆病で、すぐ保身に走る生き物だよ。危ないものやあやしいものにふたをするのは得意なんだから」

 君が隠しているものが人間にとっても都合の悪いものならば、それは当たり前のように隠蔽されるだろう。暦が口にしなかったことは、鬼にも伝わったらしい。

 はー、と深いため息をこぼすと、つぶやく。

「そうだな」

 さらに、顔を上げて宙に声をかける。

「中の様子を見せてやる。お前たちだけだ。他のやつらには、そのまま残るように言え」

 やはり暦には見えないが、珠緒の飛ばしている鳥に向かって言っているのだろう。

 すぐに暦たちがいるのとは反対側の――幸路たちが待機していた橋のたもとで動きがある。幸路がほかの組織の者たちに声をかけてから、ほかの調査員たちと連れだってこちらへやってきた。

 隣に立った幸路の手がにゅっと伸びてきて暦の頬をつまむ。

「無茶したね」

 珠緒の飛ばしていた鳥を介してこちらのやりとりは筒抜けだったわけだが、暦は首を横に振った。

「無茶ってほどじゃない」

「とめてもらわなきゃ、目玉えぐられてたくせに」

 ここで「すぐに治るからいいじゃん」とでも言えば後々のお説教が長引くとわかっているので、下手な言い訳はせずに黙っておく。

 後で反省文だからね、と軽くこちらをにらみつけてから、幸路は鬼に向かって笑いかけた。

「じゃあ、行きましょうか」

 まるで旧知の仲のような態度だが、彼はいつだってこんな感じだ。初対面の人間に対しても、特異存在に対しても。

 そんな彼に戸惑っていたようだが、鬼はすぐに表情を引き締めた。

「集落に入ったら、おれから離れるな。それから、なるべく何にも触れるな」

 いいな、と念を押して歩き出した背中を暦たちも追う。

 先ほどまであった透明な壁は、当たり前のように消え去っていた。反対に、幸路の言葉を無視して追って来ようとしたらしいどこかの阿呆は、鬼が幸路たちの後方に張り直した結界にしたたか全身を打ち付けてひっくり返っている。

「あーあー……」

 後方の騒ぎにぼやいた幸路も、前に向き直って表情を引きしめる。鬼の後姿からびりびりと伝わってくる緊張感に、どうでもいいことで気を散らしている場合ではない、と嫌でも伝わってくる。

「厄介な感じしかしないわね」

 ぼそりとこぼされた珠緒のつぶやきが、全員の気持ちを代弁していた。

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