銀月より変若水したたる十二月

なっぱ

第1話 起

 帰りたくない。

 ちいさくつぶやいた言葉は、白い息になってふわりと消えた。

 雲に覆われているくせに空は仄明るくて、そこから次から次へと落ちてくる雪片は埃みたいだ。宙を舞っている間は灰色に見えるのに、地面に積もれば白に変わる。

 帰りたくない。でも、ほかに行くあてもない。

 空を見上げていた暦(こよみ)は、胸を浸す事実にそっと視線を前方へと戻した。

 自分で思っていたよりずっと長い間上を向いていたらしく首が痛む。

 人影ひとつ見当たらない、あたり一面の銀世界。それもそのはず。ここは祖母宅の裏山のてっぺんで、私有地で、暦がひとりきりになりたいときに来るとっておきの場所なのだから。

 でも、いつまでもここにいるわけにもいかない。手袋を忘れてきた指先が、じんじんと痛む。

 帰途につこうと一歩踏み出したところで、背後から呼び止められた。

「帰りたくないのに、帰るのかい?」

 雪の中でもやけにはっきり響く声は艶めいていて、そのくせいたずらっ子のような調子だった。

 はじかれたように振り返ると、そこには男性がひとり立っていた。若くも見えるし、同時にひどく年老いているようにも感じられる、不思議な雰囲気の男性だ。

 彼は十二になったばかりの暦の足で大股三歩程度しか離れていない場所に立ち、まっすぐにこちら見つめている。声をかけられるまで少しの気配も感じとれなかった。

 中性的な、甘く整った顔立ち。すらりとしなやかだが、上背のある体躯。こんなに寒いのに、身にまとうのは白の小袖と白の袴、足元は白足袋と草履だけ。

 何より目を引くのは、彼の純白の髪と、白銀の目。肌の色も真っ白で、このまま雪景色に溶けてしまいそうだ。

 ああ、これは人ではない。

 自然とそう理解できた。

「帰りたくないのなら、私がさらってあげようか」

 なんてことないように言うと、何の返事もせず彼の姿を見つめたまま立ち尽くす暦に向かって首をかしげる。さくさく、と薄く積もった雪を踏みつけて近づいてくると、そっと手を伸ばしてきた。

「来るかい?」

 白く細い指の先が、暦の冷え切った頬に触れた。雪のような色のくせに触れた場所からじんわりぬくもりが伝わってくるのを感じ――暦はこくんとちいさくうなずいた。

***

「足元気をつけなよー?」

 先に降りた幸路(ゆきじ)に声をかけられ、暦はむくれた。幸路のほうが年上なのは確かだが、彼はいつも暦のことを子ども扱いする。が、すぐに表情を取り繕う。不服をあらわにする方が子どもっぽいと気づいたからだ。

「平気」

 短く言い返し、ごつい4WDの助手席から降りたところで足元にあった石を踏みつけ、転びかける。

「だーから言ったのにー」

 のんびりとした口調に反し、さっと伸びてきた幸路の手が暦の腕をつかんで支えた。

 礼を言うべきだとはわかっているが、素直に言いにくい。

 ぐぬ、とうなっているうちに、4WDを止めた先に巡らされていた黄色と黒のテープをくぐって制服警官が出てきた。

「おつかれさまです。地災対の方ですね」

 ちらっと暦へ一瞥をくれながらも、ぴしりと敬礼で迎えてくれる。

 こちらの身元を確信している呼びかけなのは、ここへ至る一本道の途中で実施されていた検問の担当から前もって連絡が入っていたからか、それとも暦たちの羽織っている毒々しい蛍光グリーンのジャンパーの背に「地災対策室」とでかでか書かれているからか。

「地災対策室調査・処理係、係長の標野(しめの)幸路でーす」

「同じく地災対策室、調査・処理係調査員、岩長(いわなが)暦です」

 警察手帳によく似た身分証明をそれぞれ示すと、テープの内側へと案内される。

 騒々しくはないが、緊迫した空気の中、多数の人間が足早に行き交っている。

 現場のこまごまとした作業をこなしているのは地元所轄署の制服警官、物々しい装備の一団は機動隊、装備の点検やルート確認に余念がないのは地元警察の山岳警備隊か消防の山岳救助隊、テントの下で頭を抱えているのは地方自治体の担当部署の者たち、その後ろの背広組はおそらく中央の――今回のケースだと出張ってくるのは国交省あたりの――若手キャリア、暦たちに冷ややかな視線を送ってくるのは神社仏閣の関係者といったところか。自衛隊がこの場にいないのは、今回のケースの危険性がそれほど高くはないとの防衛省の判断か、もしくは別の場所からのアプローチをかけようとしているのか。

 ふと視線を感じて暦は顔を上げた。せわしない人々の一団の向こう、百メートルほど先にかかった鉄筋の吊り橋の中央、そこに立つ人影が目に留まる。

 あれが、今回の――。

「あの、こちらです」

「どしたー?」

 案内の制服警官と幸路にそれぞれ声をかけられ、意識がそれる。それと同時にこちらを見ていた視線も外れた。

 こちら、と示されたのは屋根だけでなくビニール製の壁も完備したテントだ。暦たちのジャンパーと同じ蛍光グリーンで、屋根と脇にやはりでかでかと「地災対策室」と書かれている。

「案内、ありがとございましたー」

 再度敬礼して立ち去っていく警官に声をかけ、幸路がテントの出入り口の垂れ布をめくって中に入る。入ったところで布をめくったまま暦が入ってくるのを待ってくれているので、あわてて後を追った。

「あれぇ、おれたち、遅刻しなかったうえに三輪っちとばみっちょより先についてるよー、コヨ」

 中にいた面子を一瞥し、幸路が暦に向かって「やったねー」とガッツポーズをする。

 一八〇オーバーの長身、とともすれば対面した相手を威圧しかねない幸路だが、いつも「ゆるん」と表現したくなる笑顔を浮かべているため「こわい」という印象は抱きにくい。太めの眉と垂れ目もあいまって温厚な大型犬、という表現がよく似合う。

「そういつも遅刻されてちゃたまらないわ」

 あきれたように声を上げたのは、先にテントの中にいた三人のうちのひとり――茶色く染めた髪をベリーショートにして少しきつめの美貌の中で猫のように輝く目で幸路をにらみつけている女性だ。ほっそりと長い手足といい、一七五近い長身といい、まるでモデルのようだが暦たちと同じ調査員で、名を白鳥珠緒(しらとり・たまお)という。揃いの例のジャンパーすら、彼女が身にまとえばファッショナブルな気がしてくる。

「標野さんの方向音痴はどうしようもありませんし~、暦ちゃんが運転するわけにもいきませんし~、標野組の遅参は大目に見てあげたらどうです~?」

 妙に間延びした声が珠緒をなだめたが、声の主の姿は見えない。テント内部の一角に山と積まれた謎の機材たちの陰にすっぽり隠れてしまっているのだ。

「おぉ、今回の担当は刑部(おさかべ)女史かー。直接会うのは久しぶりー」

「いえ~い、おひさしぶりです~」

 幸路に名を呼ばれて、機材の陰から顔がのぞく。おかっぱ頭に黒縁眼鏡、日の光を知らぬような白い肌――「インドア派」と言われれば十人が十人うなずくだろう。彼女も所属は地災対策室だが、肩書は調査・処理係ではなく研究班主任だ。

 彼女――刑部奈々(なな)をはじめとする研究班は基本的に本部勤務だが、当番持ち回りで現場に同行することになっている。

 と、それまで黙ってテントの隅でタブレット端末に視線を落としていた最後のひとり――はたち前後の青年が口を開いた。

「三輪さんと片喰さん、途中で別件につかまりました。難易度は高くないらしいですけど緊急性はそちらの方が高い、とのことで、合流がだいぶ遅れるそうです。本件はとりあえず標野班と白鳥班で着手するように、との室長からの指示です」

 淡々とそう告げ、彼――八乙女巡(やおとめ・めぐる)はわずかに幼さを残す端正な顔立ちでじっと幸路を見つめる。

「どうしますか?」

「ええー、メグ、それほんと? ばみっちょ来れないのー?」

 いてくれたらたぶん楽勝だったのにー、とぼやきつつ、幸路は自分でも支給品のタブレット端末を確認してため息をこぼした。

「しかたないか。じゃあ、とりあえず五人でミーティング始めるよー」

 彼の一声で、もともと着席していた奈々以外の調査員はテント内に運び込まれていた会議机に着席する。

 わずかながら場の空気が引き締まった。

「いちおう事前に現場からの報告書には目を通してくれてると思うけど――」

 それぞれが自分用のタブレット端末をとりだして目を落としつつうなずいたのを確認し、幸路は話を続ける。

「本件の第一報が入ったのは、本日の十二時三分。通報者はこの道の先にある日目先(ひめさき)集落の商店へ納品予定だった業者。通報内容は『日目先へ続く唯一の車道が走る橋に特異存在が陣取り、通行を妨げている』というものだった」

 報告書の内容を抜粋して概要を語る彼の横顔はふだんとは違って引き締まっている。

「その後、十三時十四分、本件は地災と認定され、関係各所へ連絡がなされて現在に至るってわけなんだけど――」

 そこまで話しを進め、幸路は眉を下げて頭をかいた。

 暦たちのもとにも当然連絡は来た。

 地災対策室――その名のとおり、地災対策に特化した内閣官房所属組織だ。

 天にまします神々の気まぐれで起こされる災い――天災に対して人間ができることはほとんどない。天つ神たる彼らの存在は証明されていても、「天」――彼らの領域に現在の人類の手は届かない。

 しかし、地災は違う。

 それを起こすのは特異存在――俗称では妖怪や精霊、時に国つ神と呼びならわされる――で、彼らには干渉が可能だ。たとえ彼らが現代科学では理解不能な力を振るおうと、一切手出しできない天災よりはずっといい。

 彼らの種類や力の強さは様々で、人間の子どもが勝てるような相手から天つ神に等しい存在までピンきりだ。地災の規模もピンきりだが、原因となる特異存在の力が弱ければ警察や消防による交渉や警告からの実力行使を試みることもあるし、地災の規模が小規模かつ短期間で終息することが見込まれる場合はそのまま放置することもある。

 地災対策室が出張るのは、地災規模が中規模以上、人命および国家・人民の財産に被害がおよぶと想定される、研究上の観点から希少なケースと判断される、等のいくつかの項目を満たした案件のみということにはなっているが、地災は交通事故ほど多くはないものの毎日どこかしらで起こっている。暦たちも常に本部から離れているといっても過言ではない。本部に顔を出すときにはスーツの着用が義務付けられているが、最後に袖を通したのがいつだったのか正直思い出せない。現場での作業着である蛍光グリーンのジャンパーが制服として定着してしまっている。

「本部による本件の地災規模判定は現段階でB+」

 幸路の声に、暦は先ほども車中で目を通した資料の文字を追う。

 日目先は山中にある人口六十三名の集落で、かつて林業が盛んだったころには「村」を名乗っていたが、ずいぶん前に周辺集落と合併して今は近隣の特急停車駅の名を市名としていただいている。過疎・高齢化の進む現在の主な産業は農業。集落内には日用品を扱う商店が一軒あるだけで、そこに来る外部の業者は週に一回だ。食料品は二日ごとに移動販売車が訪れている。多くの住人が畑を持つため野菜類の自給率は高いが、現在特異存在が封鎖している橋のほかに車が通れる道はないため、このままでは遠からず住民たちの生活に支障が出る。

 底に急流のある谷を越える道や険しい山道であれば日目先へ向かう徒歩ルートもあるが、こちらにも特異存在が何らかの力を働かせているらしく、踏み込んでもいつの間にか元の場所へ戻されるとの報告が上がってきている。ヘリコプターでの降下もすでに試みたらしいが、こちらも日目先に近づくと不自然な突風にあおられ機体の体勢維持がむずかしくなる、とのことで、住民の救出や補給物資の投下はもちろん、集落内の状況確認もできずにいる。

 特異存在の力の影響域――日目先集落周辺およびその上空をを含む――は広め、即座に住人の命が危険にさらされるわけではないが長期に渡ればその可能性は十分にある。以上のことから、地災規模判定は「B+:十分な注意を必要とする中規模相当」となった。

 そして、その規模判定の頭に「現段階で」とついていたのは――。

「で、原因となっている特異存在のクラス判定は――」

「A+以上ですよ~」

 幸路の言葉を引き取った奈々ののんびりとした声に、残りの三人は思い思いに苦い表情を浮かべる。

 特異存在の強さは様々で、便宜上S~Eにクラス分けされている。いちばん強いとされるSクラスは国つ神と呼ばれ古くから敬われてきたものたちで、いちばん弱いEクラスは何の能力もない人間が塩をまくだけで消えるようなものたちだ。A+ともなれば、歴史書に通り名を遺すような大妖怪クラスとなる。

 そのクラスがその気になれば、地災規模は「S:広域において多数の人命・財産に危害が及ぶ大規模相当」になりかねない。ゆえに「現段階で」だ。

「でぇ? そのA+様が橋を通せんぼした上に、ふざけたこと言ってるってわけ」

 珠緒が整えられた指の爪で、こつこつ、とタブレットの画面を叩く。

 吊り橋の中央に陣取った特異存在は、やってくる人間に言うそうだ。

『おれの名前を当ててみろ。当てればおれはここを退く。お前らのかけ金は目玉でチャンスは三回。当てられなければ両の目玉をもらいうけるぞ』と。

 まるで昔話のようだが、地災においてはおうおうにありがちなシチュエーションではある。彼らは人間から何かを得ようとするとき、賭けを持ちかけることがよくあるのだ。

「誰かチャレンジしたの?」

 おもしろがる口ぶりの珠緒に、奈々が肩をすくめた。

「何人か、二回まではやってみたらしいですよ~。もちろん、当たらなかったわけですけど~」

 当たっていたら、すでに地災は解決している。

 片っ端から名前をあげてみる、という方法は現実的ではない。今回のようなケースの場合、少しばかりずるをするか、それとも賭けやめさせる代わりに別の要求に振り替えさせる、というのがマニュアルだ。

 かたん、とちいさく椅子を鳴らして立ち上がった暦に、その場の視線が集まる。

「とりあえず、わたしが行ってくる」

「コヨ」

 とがめるような幸路の呼びかけに、暦はまっすぐ彼を見返した。

「無茶はしないし、この中だったらわたしが行くのがいちばん――危険がない」

 少し言葉を選んで、でしょ、と首をかしげみせれば、幸路は眉をひそめてため息をこぼした。

 ずるをする方法がない現在、彼だって暦の言うことが正しいことくらいわかっている。

「はいはい。ちゃんとあたしが見張っとくから、行かせてあげなよ」

 ぱん、と手を打った珠緒を見つめ、幸路は深々とため息をこぼす。

「無茶したら、反省文だからねー?」

「始末書」ではなく「反省文」と言うところが、やはり彼に子ども扱いされているような気がして、暦はむっと唇を尖らせた。

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