第9R 逸脱

夜風はようやく涼しげになって、火照った頬を撫でて冷やしていく。もうすぐ冬が来るな、とぼんやり思う。ふと気が付けば霜が降り、雪が積もり、氷柱が軒下に並び立つ。そして辺りは真っ白に染まる。ここはそういう土地だったな、と改めて考えさせられる。

小さな牧場は、柔らかい月の光に照らされて、ぼんやりと暗闇の中で浮かび上がっていた。奥へ奥へと進むと、広く囲われた柵の中に、見知った顔がのうのうと草を食んでいるのが見えた。相手はこちらに気が付くと、ゆったりと長い尾を振ってみせる。


「よう、ヨサリオーロ。久しぶり」

「ぶひひん」


指先を差し出せば、ふんふんと匂いを嗅がれる。唇を震わせて前歯を見せた馬、ヨサリオーロは、じとっとした目で男を見つめた。その仕草があまりに人間臭く、あからさまに怪しまれた対応に思わず笑いが飛び出した。


「『まーたお前か、何しに来たんや』……って思ってる?」

「ひん!?」


キャップをかぶり直し、男──高井空太は更に笑い声をあげた。少し伸びた茶髪がさらりと崩れ、風になびいてきらりと輝く。アイドルかなにかのような見目をしている空太に対し、ヨサリオーロはただただ、しらけた視線をくれるばかりだった。キザなやつ!と言わんばかりに、食んでいた青草をぺっと吐き出す。


「そう嫌ってくれるなよ、今日はお前を祝いに来たんだから」

「……ひーん」

「ふーん、あっそ……って?小生意気な奴だなお前……けどこれを見てもそう言えるかな?」


空太は鞄をまさぐって、あるものを取り出した。握ったそれをゆらゆらと揺らし、ヨサリオーロの目の前にちらつかせる。


「にんじん、食いたかろう?」

「ぶひ~ん……」

「ウソ、興味なし?じゃあほら、これ!りんごもあるぞヨサリオーロ!」


艶やかに光る真っ赤なりんごを何個か取り出した空太。しかしヨサリオーロは二、三度それを鼻先で嗅ぐと、顔を逸らして絶妙な表情をしてみせる。首を捻りに捻って、差し出されたりんごをぐっと押し返した。


「なん、だと……!お、おま、お前これ千疋屋でわっざわざ買ってきたんだぞ!?」

「ふひん……」

「なんだあ?てめえ……やる気か?この俺と……」


一触即発。ピリリとした火花が弾けるかのような雰囲気が漂う。ばちばちと睨み合い続けた一人と一頭の背後に、人影がまた一つ。


「……せぇい!」

「ボエーッ!!」


ぽこん!と気が抜けるような音がしたと思うと、空太は頭を押さえてその場に崩れ落ちた。ぎょっとした顔をしたヨサリオーロは、ひんひんとか細い声で鳴き始める。

顔に影を作って立っていたのは、騒がしさを聞きつけて急ぎこちらへとやってきた牧場主──彰である。空太の頭に勢いよく被せたバケツを掬い上げ、きょとんと目を丸くした。


「…………あれ、空太?」

「……突然背後からっ!バケツかぶせるやつがいるか、ボケ!」


茶髪の頭から、ぱらぱらと牧草が零れ落ちていく。不機嫌さそのままに彰を睨みつけるが、対して彰は「ごめんごめん、暗かったから誰だか分かんなくて」、と軽く謝罪の言葉を述べるだけに留めていた。ぱんっと手を合わせて、この通り、と頭を下げる。溜飲を下げた空太はすっくと立ち上がり、衣服に付いた土や草を手で落とした。柔軟剤の香りがふわっと漂って、ヨサリオーロが小さくくしゃみをする。


「ヨサリが泥棒に喧嘩売ってたらどうしようかと思ってさ」

「……あ、ヨサリオーロが売る側なのね」

「知ってる人なら歓迎するし、知らない相手なら大声で鳴いて威嚇するんだ。実際、彰には吠えてなかっただろ」


何を番犬みたいに、と思う。馬が吠えるという表現もおかしいが、それをすんなりと受け入れている彰もちょっと、怖い。微笑む彰は首を傾げて、バケツを抱えたまま問いを投げかけた。


「来るなら連絡してくれたらよかったのに」

「サプライズで祝いたかったんだよ」


むすっとしながらフルーツの籠を手渡してくる。おやまあ、とその豪華さに目を見張った。想像していたものよりも桁が一つ多いに違いない。ひとまずそれを受け取ると、キャップを脱いだ空太はにんまりと笑いかけた。


「ジュニアカップ、勝ったってな。おめでとう」

「ありがとう。ヨサリもすごく頑張ったし、なにより熊谷ジョッキーのおかげだよ」


他騎手からの妨害を受けながら、命を張ってのラストスパート、そしてゴールイン。その場では声を荒げずに、ただひたすらに、ヨサリオーロの勝利だけを見つめて駆け抜けたあの2ハロンは、近くで見ていた彰にとってもかけがえのない時間だったことは確かだ。

あの後、熊谷は妨害を受けたことをおおごとにはせず、本人と話し合って決着をつけたと言っていた。深くはない傷ではあったが、額であったために出血が多く、検査もかねてしばらく入院。一週間もすれば戻る予定で、その間は息子の智幸が代打で騎乗する、とのことだった。

空太は腕を組んで、途中でうんうんと相槌をしながら話を聞いていた。しかしその途中、ヨサリオーロが柵の内側からぐっと首を伸ばし、彰の上着をぐっと引っ張り始める。


「ふひん」

「お、にんじん?りんごも……貰ったの?」

「ひんっ」

「おお、よかったなあ。食べるか?」

「ふひん!」


ポケットから小さな果物ナイフを取り出して、りんごを半分に割ってやる。更に小さくしたそれを投げると、ヨサリオーロは器用にも空中でそれをキャッチして、美味そうに繰り返し咀嚼した。そんな様子を見て、空太は思わず憤慨する。


「こいつ!俺があげた時は『あっ、ふーん……りんご、ですか?でもまあ、今はそんなに空腹じゃないんで……』みたいな反応した癖に!」


わざわざ声色を変えてまで訴えた空太だったが、彰は「ああ」と納得の声をあげるばかりだった。


「昔は小さく切ってあげてたもんだから、今もこうしないと食べてくれないんだよね」

「馬なのに!?にんじんも」

「大きめの野菜とか果物だと、大体そうかも」


飼葉はそのまま食べるけどね、と呟きながら、くし切りにされたりんごを口元まで持っていくと、機嫌よくそれを口先で掴んで食べる。うっとりとした表情のまま、彰の肩へと頭を擦り寄せては鼻を鳴らす。今の様子を一目見て、あの強くてかっこいいヨサリオーロ号だ、とすぐさま答えられるようなファンは、そうそういないに違いなかった。

余韻に浸るヨサリオーロをよそに、居心地悪そうな空太に向かって笑いかける。


「わざわざ渡しに来てくれたんだろ?ありがとな」

「……おう、まあ、それぐらいはな」


素直なのか素直じゃないのか、よく分からない相手である。にこにこと見守っていた彰であったが、生ぬるい雰囲気に耐え切れなくなったのか、「ああーッもう!」と空太は叫び声をあげた。


「今日は祝いもあったけどそれだけじゃねえって!これからの話をしに来たんだよ!」

「……あ、もしかして」

「そう、正式に決まったから。中央競馬の馬主登録と、ヨサリオーロ号の移籍」


二通の手紙を取り出したかと思うと、目の前で焦らすようにひらひらと動かされる。ヨサリオーロが食いつきそうになったので、空太はさっとそれを懐へとしまい込んだ。彰と視線を交わすと、ぐっと親指を遠くへと向ける。


「飲み行かね?積もる話もある」

「……空太は話が長いからなあ」

「お前が筆不精、連絡不精なだけだっつーの!何年お前からの連絡を待ち続けたことか、お前は知らないだろうけどなあ……」

「分かった、分かった。冗談だから。行くよ」


この辺りに居酒屋はないため、車を出す必要があったのと、明日の仕事も早いこともあって酒は口にできないだろう。しかし、なによりも大事な話があるというのは分かっていたし、大切な旧友からの誘いを、にべもなく断ろうとは思わなかった。


「ヨサリ戻して、着替えてからでいいか?」

「いつでも。余裕あっから」

「サンキュー!ひかるにも声かけてから支度するから、ちょっと待ってて」


一足先に、建物内へと向かう彰。それを見て、空太も後ろからついていこうと足を進める。小さな小枝を踏んでしまい、少し立ち止まった。


ばきり。


周りに人はいないはずだった。振り返ってみても、そこには誰もいない。夕闇と、柵の中に未だヨサリオーロがいるばかりだ。


ばき、ぼき。


もごもごと口を動かすヨサリオーロ。よく観察すれば、違和感の正体は一目で分かった。細かくしなくては食べないはずのりんごも、にんじんも、その丈夫な歯で残りを丸かじりしていたのである。歯ごたえを感じさせる咀嚼音が響くなか、空太は驚きでわなわなと震えあがった。


「馬の癖して、猫、かぶってやがる……!」

「ぶひひん」


まるで煙草をくゆらせるかのように、ヨサリオーロはにんじんを咥え、鼻を鳴らしてみせる。若干ハードボイルドにも思えたその表情は、明らかに空太への嘲笑が含まれている。

──どうした、小僧。チクれるもんならチクってみろよ。


「……あれ、どうしたの空太」


ひかるへの連絡が終わったのか、一旦外へと戻ってきた彰。向かい合った空太は突如、びしりとヨサリオーロを指さして言った。


「こいつ、ひとりでにんじんもリンゴも食えるわ」

「ひッ!ひひん!?」

「え、ほんと!?うわあ、よかったあ!ヨサリももうすぐ三歳だしな、ひとりで食べられてえらいぞ」


嬉しそうに頭を撫でる彰と、どこか気まずそうなヨサリオーロ。ぎちりと空太を睨みつけるが、当の本人は口笛を吹いて知らないふりをしている。だんだんと耳が絞られていくが、柵があるので空太をどつこうにもどつけない。顔を綻ばせた彰がご機嫌な様子で言った。


「ヨサリのこと、子ども扱いし過ぎてたかもな。ごめんな、でもすごいじゃないか!」

「……ひ、ひん……」

「ぶふっ……」


失笑の声が小さく聞こえる。満面の笑みを浮かべた空太が体の震えを抑えながら口を開いた。


「彰に褒められて、よかったなあ……ヨサリくぅん?」

「ぶ、も、ももももも……」


ふてくされるような低い鳴き声を聞きながら、何も事情を知らない彰をよそに、空太は一人高笑いをしたのだった。



恨みたらたらのヨサリオーロの視線を一身に受けながらも、二人を乗せた車は町はずれの居酒屋へと向かっていた。へっぽこな音を立てる軽トラに揺られ、ゆったりとした雰囲気で話は弾む。


「いやあ、今年の秋天よかったなあ」

「そうだろそうだろ!一番人気の期待に応えての直線抜け出し、二馬身差だぜ?」


指を二本立て、空太は助手席で機嫌よく笑った。今年の天皇賞秋の勝ち馬は、空太が騎乗した五歳牡馬。しかもこれまた珍しい白毛馬である。以前までは激しい気性難が問題とされていたが、空太の騎乗では上手いこと序盤の折り合いに成功し、スピードも保ったまま直線抜け出し、人気に応えて快勝した。年末、中山の風物詩である有馬記念に出走後は引退の予定で、翌年には種牡馬入りするとのことでかなり注目が集まっている。ちかちかと光る赤信号でブレーキを踏みながら、ぼんやりとラスト四百メートルの走りを思い出していた。


「アマノカグヤマのさあ、あのピッチ走法がいいよね。朝日杯のグラスワンダーを思わせる感じでさ」

「ああ、分かる。明らかに他と脚の回り方が違うやつな。あとはバランスが良くて乗りやすい馬なんだよ、スタート前ちょっと……ごねはするけど」


その言葉に思わず苦笑する。実際、今年の天皇賞もなかなかゲートに入りたがらず、随分と後ろの馬を待たせていた記憶があったからだった。あの時鞍上で慌てていた騎手は空太だったか、と改めて考えてみると、どうも笑いをこらえるのは難しい。


「有馬も乗るの?」

「うん、乗る。ここ二年はずっと騎乗依頼が来てたから、最後までって。……これ言ってもよかったんだっけか?」

「……つい訊いちゃった俺も俺だけど、気を付けて」


長い赤信号がようやく切り替わり、話の区切りもついたところでまた車が動き出す。


「空太、あと獲ってないGⅠレースってあったっけ?」

「あー……っと、そうだな。フェブラリーステークスだろ。あと春天、桜花賞、ダービー、菊花、チャンピオンズカップ……障害は流石に抜いていいか?」

「免許ないっけ?」

「最初は持ってたけど今は平地だけ」


自虐気味に言ってみせるが、平地競争と障害競走、二つにおいて活躍する騎手はなかなかいない。勝手も違えば距離も異なる。さほど恥じることでもない。──とはいえ、ヨサリオーロの主戦であった熊谷は、中央競馬にて活躍していた時代に平地、障害どちらでも勝ち鞍をあげているらしいので、脳内の比較対象からはこっそり除外しておいた。

むしろ、彰はこの若さで八大競争のうち半分を制覇している、と考えれば、末恐ろしいほどの才能を感じさせるものがある。


「……あ、あとホープフルもまだかな」


年末、二歳馬の優駿が決まるGⅠ競争。その名前をぽつりと上げてから空太は己の指を三つ立ててみせた。


「ホープフル、ダービー、菊花。この三つは今年と来年中に獲れると思ってる」

「……すごい自信だな」

「当たり前だろ。期待するなって方が無理だろ、あの感じは」


空太がぐっと口元を引き上げると、白く尖った犬歯がちらりと見えた。どこまでも貪欲な獣だ、と思う。


「ヨサリオーロだ。ホープフルもダービーも菊花も──いや、三冠だ。無敗の三冠を、俺はヨサリオーロで獲る」


指が一本折られ、また立ち上がる。節くれ立った、一人前の騎手の手だった。


空太の父もまた騎手だった。歴代最強と呼ばれた三冠馬の鞍上も、彼の父親であった。だからこそ、息子である空太自身の背中に乗せられた夢や希望は、とてつもなく重い。


「ホープフル、皐月、ダービー、菊花。それから有馬。無敗でここを獲る。そうすることで、俺はやっと


ぎらつく双眸。言い聞かせるような、絞り出したような声が車内に響く。何を見ているのか、どこか遠くを見ているのか、一瞬開かれた拳は震え、宙を漂った後にすぐさまぐっと握り直された。


「……ヨサリオーロで勝ちたいんだ」

「気合、入ってるね」

「お前が育てた馬だから」


ぎょっとして、思わずよそ見をしてしまった。都合よくまた赤信号に引っ掛かり、急ぎアクセルから足を離す。空太は頬杖をつきながらまっすぐにこちらを見つめていた。


「約束、流石に忘れてないよな」

「…………それは」


視線が集中する。口の中がもたついたが、片手で額をノックしながらなんとか言葉を捻り出す。


「──覚えてるよ、そりゃ。忘れるわけがない」

「なら、言ってみろよ」

「……どちらかが、引退した後に、厩務員か調教師になったら……もう片方がその馬に乗って、GⅠで勝つ、でしょ」

「まさか、競馬学校を途中で辞めるとは思わなかったけどさ」


目を細め、くっくと喉を鳴らして笑われる。気まずさが相まってか乱雑に頭を掻く。フロントガラスの奥に見え始めた街灯を目に映しながら、ぽつりと空太は呟いた。


「でも、彰なら競馬こっちに帰ってくるって思ってたよ」

「……分かってるみたいな言い方して」

「だって、現にそうだったろ」


オーナーブリーダーとして。そして、今後は中央競馬の馬主として。生産牧場のまとめ役として。言い当てられて、彰は猫背になりながら運転を再開した。真一文字に結ばれた口と、くしゃっと歪んだ眉の形がそのまま感情を表していた。それを見て、また空太が笑う。


「だから最年少リーディング獲ったんだろ」

「……え、なに、どういうこと」

「いやだから、お前の馬に乗るために初年度からめっちゃ頑張ったの。勝利数足りなくてGⅠ騎乗できなかったら、だめだろ」


その言葉に、ぽかん、と口が開いてしまったのは仕方がないことだと思う。そうこうしている間に居酒屋の駐車場を通り過ぎてしまい、「おい、そこだろ」と脇腹を空太からどつかれる。奇妙な沈黙の中で車を停めると、彰ははあっとため息をついてからハンドルにもたれかかった。


「なんで騎手ってこうもキザなの?」

「カッコつけじゃなくて、これは俺とお前の約束だろうが」

「あーっ!照れもせずにそう言っちゃうところがほんとキザ!」


相手はウインクに投げキッス、サイン等のファンサービス豊富なアイドルジョッキーであり、実際のところかなりの人気を誇っている。そして、こんなことを照れることなくきっぱりと言い切ってしまうところや、彼自身の目標への高い意識と行動力が、数多の人を引き付ける魅力なのだろうな、と改めて思った。


どすん、と肩にうっすらと痛みを覚えた。助手席の空太が拳を掲げているのが見えた。おそらく、軽くはたかれている。


「言ったろ?約束を守る時が来た、って」


なんともクサい台詞だった。しかし、どうにも彼にはそれが似合うような気がしてならなかった。彰は思わず笑いをこぼしながら、片方の拳を相手に突き合わせた。コッ、と骨同士ががぶつかり合う音が聞こえて、それすらもなんだかとても可笑しく思えたのだった。


「じゃあ、勝たせてやってくれよな」

「もちろん。この天才ジョッキーこと高井空太に任せておけ、相棒」


居酒屋の赤ちょうちんが二人の顔を照らす中で、まるで子どもの時のような感覚がよみがえる。ワクワクする感情が抑えきれず、今にもどうにかなってしまいそうな。

空太はシートベルトを外しながら、ちょっといたずらな笑みを浮かべている。


「ともかくまあ、腹が減ってはなんとやら、ってやつだよ。これからの話はするけど、結構ここで食う飯も楽しみにしてるんだぜ」

「いや、まさかこんなド田舎の居酒屋で予約まで済ませているとは」

「席空いてなかったら困るだろ」

「…………たったの二人だよ?」


切れ長の目をにいと細めて、空太はぱちんと指を鳴らす。


「三人だ」

「え、だれ?あとからひかるが来るの?」

「違う違う。お前と一緒に組合馬主になる相手だよ」


臓器が飛び出すんじゃないかと思った。

口を両手で押さえる彰を見て、「大げさだな」と肩をすくめられる。しかし彰にとっては思ってもみなかった話であり、突然そのようなことを言われても対応できるはずがない。よろしくお願いしますの菓子折りも、牧場名義の名刺すらも手元にないのである。そのことを慌てて口にすれば、「必要ない相手だから」とひらひらと手を振られた。そうは言っても、と不満をもらした時。外から窓のガラスがコツコツと鳴らされた。


『すみません、ちょーっとすみません』

「……あ、はい。なんでしょう?」


窓を開けると、すぐそばに警官の格好をした男が二人、こちらを覗き込んでいた。制帽の取りながら真面目な顔で彰に話しかけてくる。


「すみませんお話中に。ちょっとばかし注意喚起に回ってましてね」

「注意喚起?……ああ、今日これから飲むのは彼だけで、自分はお酒飲みませんよ」

「そうでしたか。……ああいや、実は注意喚起というのはですね……いやどうしようもないかもしれないんですが」


警官は困った顔をしていた。何を言っているのか自分でも分からない、とでもいうような顔つきであった。


「出るらしいんですよ、今日この辺り」

「何がですか?」

「馬です、馬。ヒヒーンって鳴く」


彰はすっと目を細めた。突発的な動悸が心臓を襲ったからである。いやな予感というものは、本当によく的中するものだ。


「馬、ですか」

「ついさっき通報がありましてね、馬が歩いていたと」

「へえ、歩いてた」

「なんでも、真っ黒い馬なんだそうです」

「はー、なるほど。黒い馬」

「……なあなあ警官さん、もしかして馬が歩いてった方向ってさ、こっち?」


棒読みにも思える相槌に挟まって、助手席側から空太が首を伸ばす。警官は驚きで目を丸くした。


「そうなんですよ!こっちに歩いて行ったって話でね、一応注意して回ってたんですわ。馬もね、体重がね、えー……何キロでしたっけ?」

「三百から五百」

「そうそう、それくらいはありますんで、不用意に近づいて怪我してもいけないでしょ」


一瞬止まった答えに、別の警官が口を次いで言葉を続けた。彰は祈るような気持ちで携帯端末を取り出してみたが、液晶画面には不在着信の履歴がいくつも並んでいる。思わず、彰は空太と目を合わせる羽目になった。


「お兄さんたち気を付けてね。その馬、よく分かんないけど車を追いかけようとしてたみたいだから」

「ひひん?」

「そうそう、こんな感じの馬がいつの間にか傍に」


人差し指でつつく警官。ぷに、と柔らかい何かに触れる。白い手袋を、口元でにゅっと抜き取られ、もしゃもしゃと咀嚼をされる。

ブリキの人形のように、ぎぎぎ、とその場にいた全員の首がゆっくりと回された。


「──ででででッ!?出たァーッ!?」


青鹿毛の毛並みに、三日月形の流星。そして、ラムネ色の青い片目。

まごうことなきヨサリオーロ号がいて、彰はその場で失神しそうになった。



「──まぁさか、おたくのお馬さんだったとはねえ」

「すみません、本当にすみません、今後このようなことは一切ないように致しますので、なにとぞ」

「いやお兄さん、起こっちまったもんはしかたないよお」


誠心誠意頭を下げるほかない。通報された当の本馬はご機嫌で、くるくると彰の周りを回っている。スキップでも踏んでいるかのような身軽な動きに、最初に話しかけてきた警官もしどろもどろであった。


「お兄さんを探しにきたんだって?犬だか猫みたいだねえ。そもそも、こんな動きができるとは知らなんだ」

「いつもはこんなことないんですが……」


頻繁に脱走事件こんなことが起こっていれば、彰は買い物に出ることさえできないだろう。普段であれば勝手に牧場を抜け出すことなんてないのに、と悲壮な思いを抱えていた。

──とは言いつつも、預けた厩舎から抜け出して牧場へと帰って来た過去も少なからずある。ないとは言い切れないところが彰の胃痛を悪化させる。


「お兄さん、お友達と出かけたんでしょ?羨ましいとでも思ったのかねえ、あっははは!」


あからさまに空太が目を背けて、下手くそな口笛を奏で始める。さてはこいつ、なにかやらかしたな。


「……あのさあ、お兄さん」


ずっと後ろで腕を組んでいた、もう一人の警官がすっと前に出てくる。深く刻まれたしわとしかめっ面が相まって、人相が非常に悪く見える。流石に叱られるか、と首をすくめた。


「…………ヨサリオーロ号、か?」

「はいそうですすみませ……えっ?」

「ああ、やっぱりだ。こんなにべっぴんなさんな馬はそうそういねえ」


強面な顔をくしゃっとさせて、警官は嬉しそうに笑っていた。想定外の出来事に、またもや彰と空太の視線が噛み合う。


「それに騎手の高井だ、おいおいすげえな。見たぜ、この前の天皇賞」

「…………あ、マジすか。あざっす」

「おかげで儲けさせてもらってよ。アマノカグヤマ軸三連単、なかなかいい思いさせてもらったぜ」

「杉本さん、競馬してたのかい」

「……どでかいレースの時だけさね」


空太が「警察も競馬やるんだ」とぽつりと呟く。

年配の警官はばつの悪そうな顔をしていたが、開き直って鼻を鳴らした。


「公務員が賭け事しちゃいけねえって法律はねえだろ」

「奥さんに叱られても知らないよお」

「うるせえ!あっちはあっちで若いボートレーサーにお熱なんだよ、ほっとけ!」


にぎやかな警官二人組に、二人は思わず息を吐きだすようにして笑った。するといかつい方の彼が大きな咳ばらいをして、じっくりとヨサリオーロを見つめ直した。


「ヨサリオーロをこんなに間近で見られるとは思うてなかったわ」

「有名な馬なのかい、杉本さん」

「バカお前、これから中央移籍するんだぞ!こんな田舎の附田から、全国津々浦々で走るしテレビにも入るんだ!」


杉浦と呼ばれた警官は興奮気味で、歳に似合わずきらきらと目を輝かせている。彰は若干引き気味で、困ったように眉を下げて言葉を付け加えた。


「……まだ活躍できるとは限りませんけど」

「いいや、できるさ。俺が断言するね」


そう言って、会話に横入りしてきたのは空太だった。がっしりと彰の肩を組んで、にこにこと自信満々に笑っている。


「なにせ、俺が主戦騎手になるんで」

「そりゃ本当か高井騎手!」

「っちょ、空太!待っ……」


組まれた肩に力が入る。ヨサリオーロはステップを止めて、空太とは反対側──彰の傍に寄り添った。


「彰がヨサリオーロの世話して、俺がヨサリオーロに乗る。……来年のクラシックは、俺たちを本命にしといてくれよな!」

「ひひん!」


空太とヨサリオーロが、同時に片眼をいたずらっぽく瞑ってみせた。杉本と呼ばれた警官は嬉しそうに、何度も繰り返し頷いている。


「もちろん、応援するとも!」



警官二人組は、ぽこぽこと音を立てる古いパトカーに乗って来た道を戻っていった。手綱に繋がれたヨサリオーロを見て、彰は小さくため息をつく。


「……今日は挨拶だけで終わりそうだな」

「ヨサリオーロを居酒屋の外で待たせるわけにはいかないしなあ……」


ふんっ、とどこか自慢そうに鼻を鳴らすヨサリオーロ。空太はぴきりと血管を浮き立たせ、ぺしぺしとヨサリオーロの柔らかい口先を人差し指で連打する。吠える馬と叱る騎手、という奇妙な構図が完成する。


「……っふふ」


吹き出すような笑い声。振り返れば、いつの間にか彰たちの近くに一人見知らぬ相手がいた。少し開いた居酒屋の扉から顔を出して、口元を押さえている。こちらからの視線に気が付くと、はっとして目をビー玉のように丸くした。


「……あっ、すみません」


ピシャン!と音を立てて扉が閉まる。なんだったんだろう、と思っていれば、空太がずんずんと歩き出して居酒屋の中へと入っていく。それから数十秒経った頃、首根っこを掴まれるようにして先ほどの男性が現れた。

ちょっと野暮ったい黒縁眼鏡に、あちこち跳ね回る黒髪。背丈はそれなりにありそうなものの、猫背のせいか見た目よりも小さく思えるタイプだ。都合の悪そうな顔をして、おずおずと頭を掻きながらこちらへと近寄ってくる。


「空太、関係ない人を連れてきちゃだめだよ」

「違うわ!こいつがお前と馬主をやってくれる相手なの!」

「……あれまあ」


ふよふよと風になびく髪に興味津々のヨサリオーロを押さえながら、彰はひとまずその場で一礼した。並んでヨサリオーロもぺこりと頭を下げる。


「……こんな場所で突然すみません。須和と申します」

「あっ、どうも、ご丁寧に……」


男はこちらとヨサリオーロを交互に見つめていた。慌てて鞄をポケットをまさぐったかと思うと、きちんと名刺を手渡してくれる。


「申し遅れました、私は明石屋というものです」

失礼ながら、片手で名刺を受け取る。明石屋あかしや陽彦はるひこ、と書かれた素朴なそれを見て目を見張った。


「……作家?」

「すみません、本当にそんな大したものでもなくて……」

「いやいや、流行りに弱い俺でも存じてますよ。確か、作品が実写映画化されてましたよね」

「……いえ、それはほぼ偶然みたいなものですから」


俯き加減な男、明石屋はそう答えた。謙遜ではなく、本当にそう言っているように聞こえた。 うろちょろと移動する視線が、彼自身の不安と自信のなさを表していた。

空太は相手が逃げ出すとでも思ったのか、がっしりと腕を掴んでこちらを向かせる。


「明石屋さんは、俺の小学校時代の先輩。っていうか家族同士で絡みがあってさ、懐に余裕があって馬主もしてみたいっていうもんだから連れてきた」

「……もしかして、かなりすごい人なのでは?」

「いや、本当にまだまだです。ですが、馬主のその、まあ費用のことはご心配なさらず」


ずれた眼鏡を戻しながら明石屋はそっと視線を逸らした。


「……私、極度の緊張しいでして。たくさんの人がいる場所にいると、どうも」


おかげで学生生活は地獄でした、と笑って言う。笑い事ではないのだが。 興味が湧いたのか、ヨサリオーロが一歩を踏み出してスンスンと鼻を鳴らしている。少し驚いたようだったが、明石屋はそっと指先をヨサリオーロに近付けた。彼は己自身の気が済むまで相手の匂いを嗅ぐと、小さくくしゃみを一つしたので、明石屋はそれを見てほんのりと笑っている。


「……そんな私が、オータムセールに一人で行けるわけもなく。なので、合同馬主の話は渡りに船だったんです。既に馬を一頭所有しているというのですから」

「なるほど、そういうことでしたか」

「はい。そういうことなので、本当はこちらがお礼を言いたいくらいです。……ジュニアカップ、拝見しました。素晴らしい馬ですね」

「見てくださったんですか?ありがとうございます」


ここでやっと視線がかち合った。確かに深く刻まれたくまを拵えた顔は、人前に出るには向いていないだろう。しかし、下がり気味の眉やアーモンド型の大きな目は、彼自身の優しさを映し出す鏡となって表れていた。


「……ヨサリオーロくんに乗っていた、あの騎手も見たことがあります。最後の直線はドキドキしながら見てしまいました」


良い組み合わせですね、と呟く。隣で空太が少しむっとしたのが目に見えた。次にヨサリオーロに騎乗するのは自分だと豪語していたので、「俺ならもっと上手く乗れる」とでも思っているのかもしれない。空気を読んでか、空太は口を閉じたままむっつりと黙り込んでいた。

彰は思わず苦笑いをして、ヨサリオーロを撫でていた。撫でるたびに、馬耳がぴるるっと震えてゆっくりと横に倒れていく。


「……須和さん」

「はい、なんでしょう」

「……突然なんですが、オグリキャップ、分かりますか。高知の競馬場から中央に移籍したアイドルホース。平成の三強の一頭。ミーハーと思われるかもしれませんが、私は彼が好きでしてね」


芦毛は走らない。そう言われていたあの時代に、二頭の芦毛の馬が鎬を削った。風か光か、白い稲妻タマモクロス。そして、高知競馬出身のシンデレラホースこと、オグリキャップ。あの時代の馬たちは、どこかエネルギッシュな雰囲気に満ち溢れ、不屈の闘志に燃えていた。


「……ダービーに出られませんでした、その馬は。申請が間に合わなかった。もしかしたら、あの歳のオグリキャップには長すぎる距離だったかも分からない。たらればを言ってもしかたないけれど」


競馬にたらればを言っても仕方がない。そう人は言うものの、どうしても「もしこうだったら」を考えてしまう。サイレンススズカやトウカイテイオー、フジキセキが故障をしていなければ。グランアレグリアやコントレイルが、引退をもう少し遅めていれば。ディープインパクトが、もし二年連続で凱旋門賞に出走していたら。

そう思わざるを得ないのは、結局心のどこかで、何かしらの贔屓がどこかしらにあるからなんだろう。

明石屋はグッと拳を握り締め、逸らした視線をもう一度。ヨサリオーロと彰をかわしてみせた。


「須和さん、馬主としてお願いをします。ぜひ、ヨサリオーロくんに出て欲しいんです──クラシックに」


皐月賞、日本優駿、菊花賞。三歳馬の頂点を決める戦いだ。出走権を手に入れるまで、おおよそ七千頭の仲間達から、頭ひとつ抜け出さなくてはいけない。

七千分の十八。ホースマンであれば一度は夢見る大舞台。遠い夢かもしれないけれど、大きな目標として持つ分にはきっと悪くない。

彰は小さく、しかし確かにこくりと頷いた、


「……俺にできることは、少ないかもしれませんが」

「大丈夫です。ヨサリオーロと須和さんに、お任せします」


そっと手が差し出される。手綱をどうしようか迷っているうちに、ヨサリオーロがスッと前に出た。明石屋の手に、ぽすんと音を立ててヨサリオーロの頭が乗せられる。

真顔であった明石屋の顔が、クシャッと崩れて笑い声を上げた。


「……ふふ、よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ──明石屋オーナー」

「ひんっ」


日が落ちた夜空の真下で、握手を交わした。それはなんだか突拍子もなくて、熱くて、どうにもしばらくは目に焼き付いて忘れられそうにない一日だと。そう思った。


その後、「人が全部馬だったら緊張しないのにな」と呟いた明石屋の顔がどこまでも真面目だったので、その場にいた全員で思わず吹き出すようにして笑ってしまった。


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週末、夜さりに夢を見る。 藤見 ときん @mizu_kkym

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