第8R 附田ジュニアカップ

鋭く太陽が照り付けている。暦では秋になるのだろうが、熱はまだまだこの場に残っているようだった。じっとりと滲み出て、ぽたぽたと雫となり始めた汗を片手で拭う。


「代わりましょうか?」


近くに寄ってきた弥助が言う。薄い水色のタオルを手渡されて、礼をしつつそれを受け取った。須和牧場の勝負服になぞらえた、特製のオリジナルタオルである。


「大丈夫です。……これで最後になるかもしれませんからね」


隣ではヨサリオーロが気取って、しゃなりしゃなりとパドックを歩いて回る。まるでアニメ映画のキャラクターのように、リズミカルに歩幅を刻んでいた。

弥助はにっこりと笑って、手綱を求めた手を引っ込める。パドックの外側では、多くの人々がカメラや端末機器を携えて、こちらをレンズ越しに見つめていた。それに応えるように、ヨサリオーロは機嫌よく視線を交わしてみせる。黒と水色の二つの瞳があらわになるたび、歓声が見惚れるような声に沸いた。


「調子良さそうですね、ヨサリ」

「そうですね、夏バテしなくてよかったです」


汗は出ているものの、そこまでびっしょりと濡れるほどではなかった。むしろ暑さにダレることはなく、涼しげな瞳がやる気に満ちて照り輝く。切り揃えられた長い尾は高く上がり、規則正しく揺れる。

──調子良好、闘志も伴ってベストコンディション。これ以上の死角なし。


附田競馬の代名詞、附田二歳ステークスことジュニアカップ。発走まであと、残り僅かの時間となっていた。

閑散としている附田競馬場も、今日に限っては多くの人で賑わっているようだった。所狭しとカメラを構え、シャッターを切る人々がパドック前の観客席に集っている。しかし、それに動じることもなく。二歳馬たちは至極冷静にパドックを回り続けている。まずはなにもトラブルが無かったことに、彰は少しほっと一安心していた。


──でも、やっぱり目立つな。

観客席の近くを通りがかるたびに、黄色い歓声が上がる。ヨサリオーロがちらりと視線を動かすたび、レンズが向けられる。

オッズこそ二番手ではあったものの、パドック内の人気で言えば間違いなく、ヨサリオーロが一番だった。


「…………なんか、嫌な予感がするな」


ぴり、と静電気が肌を走るような感覚。ただの緊張からくる違和感だ、とも言えるだろう。それでも、この感じにはどこか覚えがあったのだ。

──だからといって、今何を出来るか、と問われたら、何も答えられなくなってしまうのだが。


「どうしました?須和オーナー」

「あー……いいや、なんでも。何事もなく今日が終わってくれたらいい、と思って」


手の甲で眉の上に落ちた汗をまた拭う。不安な気持ちを察したのか、ヨサリオーロはそっと顔を近づけ長い舌で器用にぺろりと舐めてくる。嬉しい気持ちの反面、塩分補給を人の汗で補うのはどうなのか、とも思う。

弥助はにっこり笑って、こちらになんてことなく言葉を返した。


「大丈夫ですよ!というか、何事もなく終わるわけないじゃないですか!」

「…………えっ」

「ヨサリオーロがこのレース、優勝して終わるんです!ウイニングランも、口取りもあります!……これ以上、何もないわけないですよ」


若々しい相貌が、きらきらと輝いていた。「な!」と声を掛けると、ヨサリオーロも機嫌よく鼻を鳴らしている。


「大丈夫です、オーナー。今はみんな、ちゃんと、いますから」


両親が亡くなった時は、幼馴染であったひかるが呼び戻してくれた。そして、幼き頃のヨサリオーロが彰に決意を抱かせてくれた。

今も、調教師の工藤が、助手の弥助が、騎手の熊谷が。自分自身だけではなく、みんながヨサリオーロを見守ってくれているのだ。

ヨサリオーロはかけがえの無い、馬になっていた。


それが何だか無性に嬉しくて、レース前であるにもかかわらず目頭がじんと熱くなる。親指で滲んだ涙を拭って、手綱を引かれる愛馬と、弥助を見つめ返した。


「楽しみ、だな」

「はい!すごく、レースが楽しみです!」


ひん!と頷くように鳴かれる。不安も緊張も、彼らのおかげで何処かへたちまち消え去っていってしまった。



だから、その時は気付かなかった。影からこちらを見つめる視線と、痛いほどに冷たい舌打ちの音に。

気付きたくなかったのかもしれなかった。


「……見てろよ」


棘を伴ったその言葉は、誰にも聴き取られることなく。



「とまーれー」


パドックに響いた声に従い、皆進む足を止めた。ざわつきが一際大きくなる。見てみれば、出入り口から騎手たちが現れて一礼していた。


続々とやってきた彼らは、手慣れた様子で自身の馬へと乗り込んでいく。少し後ろから見覚えある姿が近づいてくるのを見つけて、大きく手を振った。

「熊谷ジョッキー!」

「よーっす、須和オーナーにヨサリくん」

弥助君もおつかれ、とゴーグルを傾けて見せた。いつもであれば重ねて着用するそれは、今日の最終レース前だからか既に残り一つのみになっていた。薄い闇色の向こう側に、いつも通りの悪戯っぽい光が見える。


「よろしくお願いします」


手綱を手渡す瞬間はいつも緊張する。本馬場に出るまでまだ時間こそ少しあったが、いつもとは違う重みに手が震える。

指先を、ぐっと握られた。相手は熊谷だった。手綱ごとこちらの手をぐっと力強く握られる。グローブ越しに熱が伝わって、火傷しそうな程だった。

言葉は要らなかった。理解し得ていたからであった。


「任せておけ」


短い言葉ではあったが、彰にとっては非常に心強い言葉だった。


地下馬道へと向かう道で、ヨサリオーロに騎乗した熊谷はこちらに向かってニッカリと笑いかけた。白い歯を見せて、トントン、と自身の胸元を人差し指で叩く。


「オーナー、ネクタイ曲がってるぜ」

「え、ええ?」


急いで胸元を見る。確かに少しばかり緩んで曲がっていた、と思ったが、そもそも生地が裏表逆になっていた。とにかく、慌ててくるりとネクタイをひっくり返す。いつからこんな状態だったのか、と頭が混乱していた。

すると、それを観察していた熊谷がまたにんまりと笑う。ヨサリオーロは目を細めていて、「何してんの」というような顔をしてみせた。


「……はっはっは!まあ、それやったのは僕だけどね!」

「え、ちょ、はあ!?」

「結び直しておいた方がいいと思うよー!」


トン、と熊谷が軽く腹を蹴る。金属を噛むような音が小さく聞こえて、ヨサリオーロはその歩みを速めていった。厄除けの塩が尻から落ちて、ぱらりと白い道を作る。声が、一人と一頭の姿が、どんどん彰から遠のいていく。


「──口取りでネクタイが曲がってたら、決まらないだろう?」


にっかりと笑う熊谷。いつもであれば離れがたさから切なげに鳴くヨサリオーロだが、今回だけは違った。軽くウインクを一つ投げかけて、すっと馬場へと駆けていく。

「心配しないで、待ってて」。そう言っているに違いなかった。


曇り始めた空を遠くから見上げ、彰は己の拳をぎゅっと握りしめた。




『附田競馬第11R、重賞競走、第24回、附田ジュニアカップ。ダート1600メートル、全10頭立てでの出走となりました。

えー、既に枠入りは始まろうとしております。ここでそれぞれの枠順を確認していきましょう。


① 1 サルサニードル


② 2 アルファフレイバー


③ 3スバルタンザナイト


④ 4スクエアバルト

 

⑤ 5レッドオレンジミニ


⑥ 6ヴァニラソルト


⑦ 7アスノノゾミ

  8ブルームーンダーク


⑧ 9ヨサリオーロ

  10ティーチャリティ


以上十頭となっております。奇数番の馬たちから枠入りを──』



「ようヒロ。調子はどうだ」


空がだんだんと薄暗くなり始めた頃。人馬ともに集中をしているタイミングだった。突如声をかけられて、周りにいた鞍上の騎手たちも声の出元をじとりと睨みつける。熊谷は視線を交わした相手を見かねて、首を斜めに傾げてみせた。


「……あ?どうした、カズ」

「いやなに。ちょっと言っておこうかと思ってな」


それは同じ附田競馬に所属する騎手だった。同期というほどでもないが、長く競馬をやっていると顔見知りも増える。その中でも、彼は誠意的な騎乗をするタイプの人間だったから、人間関係が希薄な熊谷でも名前と顔だけは覚えていた。

カズ、と呼ばれた男はぐっと首に力を入れて、できる限り熊谷に近づいてきた。口元に片手をやって、囁き声にも近いそれで語りかける。騒がしい観客席から離れていたせいか、少し遠目から放たれたその言葉はなんとか聞き取ることができた。


「──注意しておく。お前は覚えとらんだろうが、面倒な奴がこんなかに一人いる」

「面倒なやつだあ?」


指をぐっと逸らして、カズと呼ばれた騎手は別方向を示して見せた。


「一番人気の鞍上さ」


ぽつぽつと小雨が降り始めて、雫がゴーグルの表面を滑り落ちていく。ダートコースに点々と水玉模様が作り出される様を、じっと熊谷は見つめている。そしてその先に、2枠2番のアルファフレイバー号がすっくと立って枠入りを待っていた。


「用心するに越したことはねえ。命あってこその競馬であって仕事だ。なにがあったとて、ムキになんなよ」


男はそう言いつつも、今の助言は無駄であることは分かり切っていた。熊谷はどんなときでも冷静沈着で、無理に競馬を進めることがほとんどなかったからであった。危機回避が上手かったのだ。

巻き込み、巻き込まれての故障や予後不良はほとんどない。それが熊谷弘成という男の競馬のやり方だった。


しかし、それでも伝えなくてはと思った。騎手たちの待機部屋では会えなかったことから、勝負直前のギリギリで知らせることにはなってしまったのだが。


「ネズミに咬まれたらどうなるか、分かったもんじゃないからな」


一番人気、アルファフレイバーに乗る騎手。異様な雰囲気を纏う彼をちらりと見て、熊谷は小さく頷いた。

チャカつき始めたレッドオレンジミニ号をなだめながら、助言をくれた男はゲートへと入っていく。


「……確かに、一筋縄ではいかなそうだ」


ぶるる、と小さく鳴かれた。ヨサリオーロだった。メンコもなにもないそのままの馬耳だけが、器用にこっちを向いている。馬の癖して盗み聞きしたな、と熊谷は思わず眉をしかめた。


「おめーは心配すんな」

「ひんっ」


ぷい、と顔を背けられる。別に心配なんてしてません、と言いたげな反抗的な態度だった。そう拗ねるな、と呟いて、ぽんぽんと首を軽く二回ほど叩いてやる。


「無事に須和オーナーのところへ帰るまでが、僕とお前にとっての競馬だからよ」


名前が聞き取れたのか、首を捻らせて熊谷を見つめたヨサリオーロは、くっと口元を引き上げた。嫌がることなく、スムーズに9番のゲートへと歩みを進め、そのまま静かに収まる。

ぴこぴこと動く耳に近付いて、そっと呟いた。


「……今日は出遅れなくていい」


がきん、とハミを噛み直す音が、熊谷の耳にしっかりと聞こえていた。




『──最後に、大外10番ティーチャリティが収まります。……ゲートイン完了!此度の未来の優駿たちが、今日このレースで競い合います!

第24回、附田ジュニアカップ……


ッスタートしました!


今回は出遅れもなく一斉にスムーズなスタート!やはりここは逃げます、アルファフレイバーが前に出た。続いてスバルタンザナイトと外レッドオレンジミニまで先行集団。


……あっとヨサリオーロは下がりました鞍上熊谷弘成がすっと下げて後方しんがりへ。前方集団から少し離されまして、サルサニードル、その外アスノノゾミ、1馬身ほど切れましてブルームーンダーク。その後ろに4番スクエアバルトがいて、外を回るのは10番ティーチャリティ。そして9番ヨサリオーロとなっております。


やはりここは逃げるか2番アルファフレイバー!鞍上は千年康文ですがぐんぐん首を押して差を広げていきます!スバルタンザナイトも負けじと追っていきます、対して2馬身離されレッドオレンジミニは好位につけてまだ様子見と言ったところか。


更に離されてサルサニードル、アスノノゾミ。内ブルームーンダークは少し下がって内から外に出しました。スクエアバルトからまた1馬身離され、さあピンクの帽子ヨサリオーロはこの位置だ!どのタイミングで前に食って掛かるか息を殺して待っている!


ここで前半ラップタイムは──35秒5 !?


2歳馬のレースとは思えない速過ぎる流れ!アルファフレイバーがどんどん前を引っ張りタイムがかなり速まっています!これは想定外だ皆少し苦しいか──!』


こりゃあ垂れるな、と熊谷は直感した。ちらりと斜め前方の先頭を見つめる。と思うほどに、一番手のアルファフレイバーは爆走していた。他の馬も同様に、前方集団はかなり消耗しながらついていこうとしていたし、後方はややゆったりめとは言えども、普段のそれに比べたらあまりにもペースが速い。

ヨサリオーロを見てみると、なんとあちらも熊谷をちらりと見返していた。脚色は衰えず、息も既に何処かで入れてきたのか荒れていない。水色の目が、騎手に対して訴える。


『──行く?』

「いいや、まだだ。でも今回は早めに仕掛けよう」


もはや頭を撫でるだとか、そんな暇は一切ない。しかし、あたかもヨサリオーロが人間であるかのように、熊谷は舌を噛まぬよう一つ一つ、小さく言葉を口にした。


「ラストはちょい苦しくなるぞ」


頑張れけっぱれよ。そう言うと、ヨサリオーロはぶん、と大きく首を振った。


『第3コーナーをカーブ。先頭は未だアルファフレイバー……いや!レッドオレンジミニがすっと上がってきてスバルタンザナイトに並んだ!先頭は三頭が並んで叩き合いに、アルファフレイバーしんどいか!後方下がり気味で3番5番が前に……


いいやッ来た!

ヨサリオーロだ!

皆さんご注目ください!ピンクの帽子ヨサリオーロがじわじわと伸びてきて中団まで上がってきた!熊谷弘成ゴーサインを出したか!

最終コーナーを前にしてヨサリオーロ既に4番手!先頭抜け出したのはぐんっと上がってきたレッドオレンジミニ──


いや!

違う!


アルファフレイバーが踏ん張っている!千年康文、渾身の鞭が入った!400の標識を過ぎて先頭アルファフレイバー!ヨサリオーロ隣に並ぶか……!』



気に食わなかった。初めから。

どうしても腹が立って仕方がなかった。

ちゃらんぽらんなあの男が、どうして中央で勝鞍を上げられるのだろうと、疑問でいっぱいだった。あの男は私と同期で、同じ学校を卒業した。卒業した時の成績は私の方が上だったはずで、乗り方も粗暴だったあれは、どの厩舎からも嫌われていたのだ。


だから、下に見ていた。見下していた。そんな相手が、時を超えてダービージョッキーになった時。私はすっかり衰えて地方競馬の騎手になり果てた。金もなければ程度も低い、おもちゃみたいな馬に乗って、走らせたならばすぐに足を故障した。

地方競馬のレベルが上がっているとは言うが、それは大井や園田、岩手辺りの話だ。本当に田舎の附田競馬なんて、月と鼈のようなものだった。

中央にいたままであれば顔も合わせずに済んだのに、あいつはまた戻ってきた。附田でまた気まぐれに乗って、気まぐれに勝ちをかっさらう。騎乗依頼が全てあの男に飛んで、自分は緩い体の馬ばかりに乗っている。


風の噂で聞いた。あいつの馬は中央に行くらしい。地方でのラストランを、ジュニアカップで華々しく勝利を飾ると。


憎たらしい。


憎たらしい憎たらしい、憎ッたらしいったらありゃしない!さっさと中央に出て良血統馬に潰されてしまえば良いものを!


私の顔も名前すら憶えていなかったあれに、勝ちを譲ってやるものか!


「行かせるか!!ここは絶対に行かせねえぞ熊谷ィッ!!」



「なるほどね、そういうわけね」


ようやく、の意味を理解した。どうやら自分は、先頭のアルファフレイバーに騎乗する彼に随分と恨まれているらしかった。怒涛の足音に紛れて聞こえた己の名と、呆れたようなヨサリオーロの鳴き声が耳に痛い。

しかし、それでも。手綱をぐっと握り直して、不敵に見えるよう笑ってみせた。


「けどこっちだって、負けられない理由があんだよなあ……!」


直線に入るかどうかといったところで、全身全霊でヨサリオーロの首を押してやる。今にも落ちそうになりながら、慣れた動きで爪の痕が付くほどに握った鞭を一つだけ振るった。

馬にとっては痛みを感じない、特別な素材で作られているにも関わらず、鞭は高く鋭い音を伴って合図となった。ストロークが広くなり、ぐわっと砂を力強く踏み切ってどんどん加速していく。

これだ、と思った。この加速力。エンジンでも積んでいるんじゃないかと思うほど、すさまじい勢いで周りの景色が後ろへと流れていく。

並ぶか、かわすか。いや、もっと加速できる。


そう思った瞬間だった。

本能的に熊谷は手綱を引っ張った。大外へ膨らむように、ふわっとヨサリオーロの体が揺れ動く。一瞬で、黒い何かが、突如目の前に現れた。


バシィン!という音と、衝撃。


真っ白な視界に、星が舞った。



「熊谷ジョッキーッ!!」



──どこからか聞こえた声に、意識が覚醒する。気が飛んだのはコンマ数秒の出来事であったが、熊谷は「しまった」、と思った。鞍上の熊谷を懸念して、ヨサリオーロの加速が少し緩んだのだ。

前方から飛んできたのは紛れもない、鞭だった。時速50キロを超える風に流され、熊谷の目元へと勢いよく飛び込んで、強かに顔を打ったのだった。どこか額を切ったのかも分からなかったが、ゴーグルの一部が曇っている。


最後に見えたのは、わざわざ振り返ってまでこちらを向いた、嘲笑うかのような、歪んだ三日月型の口元。


「…………誰だか、知らねえが」


ぎり、と奥歯を噛む。欠けた歯がまるで砂のようにじゃりっと口内で玩ばれる。

ヨサリオーロは無事だった。咄嗟に外へと膨らませるようにして動かしたのは、結果的に見ても正解だったのだろう。現に、ヨサリオーロが走っていたであろう位置に鞭が飛んできていたのだから。

こちらを確認するかのごとく寄せられた瞳が、赤々しい感情で燃え滾っている。彼の持ち主以外のことで、ここまで感情が露わになるのを見るのは初めてだった。

とん、と腹を軽く蹴る。鞭を使う必要などなかった。


「おいたをし過ぎたようだな」


ドン、と砂が塊となってその場で飛び跳ねる。



「…………ッはは、!」


それは、歓喜の声か、それともやってしまったという後悔の呟きか。男は軽くなった手をぐっと握りしめ、アルファフレイバーをぐんぐんと前へ押す。

一瞬ぐらついた熊谷に驚いてか、ヨサリオーロ号は加速を緩めた。半馬身程度に縮められた差も、いまや1馬身程に伸びてしまっている。ここで留められていなかったら、ゴール手前で差し切られていただろう。うっすらとかいた冷や汗がぬめって気持ちが悪かった。


「いいや、俺の勝ちだ、お前の負けなんだよ……!なあ、熊谷ィ!」


「……っははは、そうか?」


はた、と体の動きが止まる。男は後ろを見ることができなかった。ビリビリと痛みを覚えるほどの、電撃のような威圧感が背中を覆っていたからであった。流れる汗は興奮からではなく、いつの間にかぬるりとした脂汗に変わっている。


「──アルファーッ!!」


鞭は無い。ガシガシと手綱を押すしかなかった。手が、足が震え、目線すらまっすぐに保つことがままならない。息も絶え絶えといった様子ではあったが、アルファフレイバーは指示に従い懸命に砂を蹴り続けた。半ば根性で走らせているようなものだった。


「こうなったら、こうなったら!違反でいい降着でいいなんでもいい!斜行して道を塞いで──」


ギュン、と音がすれ違う。気が付けば、真っ黒な馬体が斜め前方を駆け抜けていた。思わず口が開いた。騎乗中にも関わらず、バカの一つ覚えみたいに唖然とする。


あの馬は、外ラチギリギリにも思えるほどの、のだ。中継カメラに映るか映らないか、そんなところまで大きく膨らみながら加速していったのだ。

斜行が間に合わないほどの加速と、大外をぶん回すようにして一頭の牡馬が駆け抜けていく。


「…………ッばかな!俺が斜行するの、分かって……!?おい頭イカれてんのかスタミナどんだけ残ってッ」

「有り余るさね!この!ヨサリオーロならば!」


──安全第一、出発進行!

「ヒイイィィンッ!」


妨げるものを悠々と躱して、ヨサリオーロは駆けた。ゴール板の前を通ったのは、二番手から5馬身以上離してからの出来事であった。




『──さあ逃げる2番アルファフレイバー!外から接近するのは9番ヨサリオーロ3番手はレッドオレンジミニとサルサニードルか!


先頭アルファフレイバー2馬身のリード、外から迫るぞ9番ヨサリオーロが……これは加速が鈍いか!?いつもの末脚ではない様子!

3番手争いはレッドオレンジミニとサルサニードル!後方集団はスタミナ切れたか末脚伸びない!残り400!


アルファフレイバーリードを伸ばす!


しかし!

大外だ!


カメラに入らないほど大外からヨサリオーロだ!!


手綱が動いた熊谷弘成!アルファフレイバーも粘るが!


ここから!伸びるぞ!ヨサリオーロ!

抜けた抜けた抜けたッ!大外をぶん回して!セーフティリードを保ったまま!


1着は末脚鋭く突き刺して!9番!ヨサリオーロ──!』



──勝った。

ゴール板を一番速い速度で駆け抜けたのは、一頭の黒い牡馬だった。


まず全身で感じたのは、歓声だ。

それから、痛みだ。雨が素肌を流れ落ちていく感覚だ。

そして、得意げな顔をしたヨサリオーロの、熱いほど体温だ。


もう二度と、これからそれを感じることはない。


「──ッぐ、う」


『あっと熊谷弘成、泣いているのでしょうか?感極まって顔を抑えているように見えます!

着順確定しました、1着は9番ヨサリオーロ、2着は直線で伸びましたサルサニードルです。3着はアルファフレイバーとなりました……』


「熊谷ジョッキー!」


駆け寄ってきたのは、オーナーである彰と調教助手の弥助だった。ヨサリオーロは足取り軽く、跳ねるようにして彰の元へと駆けていく。調教師である工藤はおそらく後から出てくるだろう。人馬無事に戻ってこれたことを、まず第一に嬉しく思った。


「熊谷ジョッキー、血が……!」

「…………あ?」


手の甲で拭うと、頬にのっぺりと血糊が引っ付いていた。やはり額を切っていたらしい。さほど深くはないだろうが、醜い見た目にはなっているだろうな、とは思った。

彰はそれを見て心配そうに表情を歪めたが、グッと唇を噛み締めて熊谷に手を差し出した。


「…………っありがとう、ございました……!」


彰からは、鞭が前から飛んできたのが見えていたのだろう。無視してなお走り切ったことを知っているのだろう。後検量を行うまで、騎手である熊谷に対し、なにもできることがないのが心苦しく思ったのだろう。

だからこそ、最大の尊敬の意を込めて握手を交わしたのだ。

熊谷は差し出された手を握り返した。今度は熊谷の手が震える番だった。それを両手で包み込んだ彰は、更にグッと力を入れて上下に振った。


いつもであれば彰に飛びつくはずのヨサリオーロも、今回ばかりは穏やかな目をして、騎手を乗せたままゆったりと歩いていく。


「……なあ、須和オーナー」

「っ、はい」

「…………本当にいい馬だなあ、ヨサリオーロは」


つうっと、熱が頬を滑り落ちていった。赤色の雫となったそれは、顎から地面に落ちて模様を象る。その上を更に小雨が洗い流すようにして流れていった。

ぺっしょりと雨に濡れたヨサリオーロのたてがみを撫でる。未だ血管が浮き出て、湯気が立ち上りそうな美しい馬体に、熊谷はぎゅっと腕をいっぱいに広げて抱きついた。


雨が地面を打つ音。それと一緒に、歓声が聞こえる。誰かが鼻を啜るような音だって聞こえる。

勝利を分かち合う相手が、たくさんいた。


「お前はッ!最高の馬だ!あっちでも、がん、ばれ……がんばれ!がんばれよぉ……!ヨサリっ……!」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を押し付ける。嫌がられるかと思ったが、ヨサリオーロは黙ってそれを聞いていた。雨の音と嗚咽にかき消されたかも分からなかったが、ヨサリオーロの耳はピンと伸びて、熊谷の方をくるりと向いていた。


「──ヒヒィィィン!」


嘶きが辺りに響いた。高く、高く、誇りが鳴き声となって皆の耳に突き刺さる。たった一度だけ応えたその嘶きは、熊谷の涙を溢れさせるのに充分だった。


今日この日。秋が近づく薄曇り空の下で、一頭の牡馬が地方重賞を制した。それは競馬関係者の全体から見た、ごく僅かの人物しか知り得る話題ではなかっただろう。ましてや、地元の人間ですらそのことを知らないまま日々を過ごす者も多かっただろう。

しかし、それでも。ヨサリオーロ号は、二歳という若さで勝利を挙げる。これは終わりではなく、遥か彼方の大きな目標への第一歩に過ぎない。


しかし、彰は。中継を牧場のスタッフと見ていたひかるは。調教師の工藤は、助手の弥助は。馬券を購入した者は、騎手の熊谷弘成という男は。


この美しい夜に夢を見せてもらえたことが、何よりも嬉しかったのだ。





──2〇××. 10.4  附田ジュニアカップ 重賞レース10頭立 


1着 ヨサリオーロ オッズ2.4  1:37:01 騎手:熊谷弘成 (サルサニードル)






……まずいことになった。


冷や汗が止まらなかった。一巻の終わりだとも思った。もうどうにでもなれとまで考えていたが、一度ことが済むと、まるで憑き物が落ちたかのように自分のした悪事が、己のちっぽけな脳みそを支配した。

ペース配分を無視した暴走。落としたように見せかけ鞭を後方の騎手に投げつける。そして、ことには至らなかったものの、斜行。騎乗禁停止どころの話ではなかった。


ヘルメットから雫が滴り落ちていく。ポツポツと音を立てるそれは、まるで自分の残りの寿命を知らせる秒針の音のようにも思えたのだった。


例の男は周りの騎手から、厩務員らしき男から、調教師からの祝福を受けている。だらだらと血を流してはいるものの、今のところ意識ははっきりとしているようだった。

ほっとする反面、意識があるということは鞭を投げつけられた記憶も彼に存在するということ。毛穴が全て開いたような、薄気味悪さが全身を支配していた。


「千年」

「──ッあ」


気がつけば、目の前にあいつが立っていた。熊谷だった。検量を終えて、今はもらったタオルで額の傷を押さえているところだった。周りの騎手はとうの昔にこの場を立ち去っていて、賑やかさがたち消えた無機質な空間だけが広がっていた。


「千年、であってる?」


何も言えず、ただこくっと頷いた。タオルで濡れた髪の毛も乱雑に拭き取りながら、熊谷はこちらを見ていた。怒っているようにも見えたし、何故だか困っているようにも思えた。どうやら、本当にこちらの名前を知らなかったらしい。反発する感情を抑え込む必要もなく、恐怖に駆られたまま言葉を待つことしかできなかった。


「何かしら、僕ぁ君に気分を害させるようなことをしたんだろ。悪かったな」


でもよ、と熊谷は口を開いた。


「僕への恨み一つだけでこのレースをぶち壊そうとしたこと。ヨサリオーロに、アルファフレイバーに、謝るんだ」


かあっと体全体が言葉の一つ一つに発火していくようだった。今はただ己の醜さと向き合う時間だった。自身の怪我については何一つ口にしないところが、きっと彼の美徳であり過ちなのだろうともぼんやりと思った。


「…………わるか、った」

「言うのは僕じゃねえって言ってんだろうが。怪我していたかもしれないヨサリオーロと、お前を落とさねえように必死になって走ったアルファフレイバーにだ」


ガクガクと顔を上下に振った。とにかくその場をやり過ごそう、という気持ちではなかった。今はもう己の醜態を挽回すべく、次のことを考えなくてはいけなかった。


「いい馬だよ、アルファフレイバー号は。お前があんだけ走らせても三着だ、人が大好きなんだろうよ。たくさんの人間が愛情込めて育ててやったんだろうよ」


鋭い目線だった。痛く、焼きつきそうなほどに灼熱の色を伴った目をしていた。それだけのことを自分はやらかしたのだと分かる。そして、馬への愛情が深いのは、間違いなく熊谷の方だった。恥じるしか、なかった。

熊谷はこちらに背中を向けて、言うだけ言って去っていった。滂沱する私の姿を見ないようにしてくれたのかもしれない。


──向き合わなくては、と。そう思った。

罪も、自分の燻った情熱も、サラブレッドへの愛情も。


これから。


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