Lock me

もやし

第1話

 終礼が終わると、真っ先に教室を飛び出す。……というのくらいの勢いではあるけどさすがに走ったりする訳ではない。早足に教室をみっつ横切って、下足に向かう人の流れに逆らいながら階段を上る。

 二階から三階に上がってすぐ、一輪の花を見つけた。花は胸に私と同じ色のリボンをつけている。

 こちらに歩いてくる花と目が合って、小さく手を振る。そのまま隣に並んで、人混みの中に入っていく。


「おつかれ、海鈴」


 そう言って笑う、花。


「おつかれ、蒼花」


 こんな定型文みたいな挨拶は、何故だか私たちの間に定着している。きっと二人とも話すのが苦手だから、口を動かし始める儀礼のようなものになっているのかなと思う。

 特に話が始まるでもなく、下足まではすぐに着く。私と蒼花ちゃんのロッカーは少し離れているので一旦別れて、別の列に入っていく。

 今日は置き勉が多くて少し整理に時間がかかった。靴を履いて出口の方を見ると、蒼花はもうそこで待っていた。

 風に吹かれたスカートがはためく。長い黒髪は陽光を受けて輝くよう。私を見つめる二つの眼も、眩しいくらいにきらきらと。快晴の空を背景にそれはかすかに青みがかって、睫毛の先まではっきりと分かる輪郭を映し出す。


「……どうかした?」


 どうやら見つめたまま固まってしまっていたらしい。いつの間にか少し近づいてきていた蒼花がそう声をかけてきた。


「ん、ちょっと見惚れてただけ」

「見惚れてたって、何に?」

「蒼花があんまりにきれいだから」

「そう? ふふ、ありがと」


 口元を手で隠して笑う蒼花も、やっぱりどこまでもきれいだった。



 学校から見た通学路はしばらくの間大通りをまっすぐ。通りには桜が沢山植えられていて、今はちょうど花びらが舞う時期だ。

 ふと蒼花が呟いた。


「なんか、急にあれ思い出した」

「あれ?」

「ほら、中学校の国語の教科書に載ってた、俳句。バスを待ち──、えっと」

「──大路の春をうたがはず。だっけ」

「そうそれ。私この句好きなんだ。覚えてなかったのに言うのもあれだし、評論みたいなことは言えないけどね。なんとなく、綺麗なのが伝わってくる」

「ちょうどここの情景そのままだね。ほら、バス停もある」

「春だなぁって感じ。学年も変わったし」

「蒼花とクラス離れちゃったのは寂しいけど」

「寂しい! けどまあ、こればっかりはどうしようも……」


 急に立ち止まって、首筋に手を当てる蒼花。

「ん、どうしたの」

「あぁ、ごめん。ちょっと花びらが首のとこに入ってきて、びっくりした。くすぐったくて」


 話しながら、細い脇道に入っていく。私の知る限りこの道の先に住んでいるのはこの学校の生徒では私たち二人だけだ。学生に限らず人が少ないから、下校時の時間でも人とすれ違うことはあまりない。二人だけになったみたいでこの道は好きだけど、恥ずかしいから蒼花に言ったことはない。


 曲がりくねって、たぶん他のところに住んでる人なら迷うだろうなといつも思う道を歩いていく。私と蒼花の家は隣同士で、この路地の奥の奥にある。

 この辺は坂が多いから登下校も一苦労。10分くらい歩いて、ようやくといった気持ちで我が家を視界に収める。


「それじゃ、さよなら」

「うん、また明日」


 二人の家の真ん中で、私と蒼花はいちど別れる……といっても、毎日帰ってすぐに通話を始めるから、このさよならも定型文だ。


 道路から見て左手側、加木野と表札の掛かるのが私の家。右手側、砂条と書かれているのが蒼花の家。周りの他の家は全部空き家。



 砂条蒼花。

 私、加木野海鈴の幼馴染で、一番の友達。

 物心ついた時から一緒に遊んでいて、まるで双子の姉妹ようだとよく言われた。高校に入ってお互いそれぞれの事情で一人暮らしになってからは、ますます一緒にいる時間が増えた……と思う。

 二人とも人付き合いは苦手だから、もしかしたら唯一の友達なのかもしれない。蒼花にだけは、何も考えないで接せられる。きっと蒼花もそうなのかなって、なんの根拠もないのに思える。


 着替えもしないでベッドに寝っ転がる。スマホに充電器とイヤホンを繋いで、通話をかける相手は一人しかいない。

 特に何か話すわけではない。さっきまでの下校路の続きみたいに、話すことがあれば喋るしそうでなければ喋らない。ただ同じリビングにいる家族みたいな感じ。

 そして今はとくに話題はない。微かに衣擦れの音が聞こえる。蒼花は家に帰るとすぐに着替えるタイプだ。


 目を閉じて蒼花のことを想うと、私はいつも一輪の花を幻視する。水平線の向こうまで続く塩湖のような空間の真ん中に華やかに咲く、ただ一輪の名前も知らない蒼い花。あんまりにも名前の通りすぎるからはじめは自分の想像力のなさに呆れたりもしたものだけど、今はそうは思わない。

 私にとって、蒼花はこの花そのものだ。他に何もない場所に咲く、唯一で随一の存在。触れたら崩れてしまう氷華のようでありながら、だからこそどこまでも広がる世界の全てを覆い隠す美しさを湛えている。

 そしてその茨の棘は、私のてのひらを貫いている。


「あ、そうだ」


 想像を遮るのも、蒼花の声。後ろに聞こえるのは多分ポットのお湯が湧く音。


「海鈴さ、次の土日空いてる?」


「うん」


 確認するまでもない。確かバイトが入っていたような気はするけど、蒼花に優先する用事なんて無い。ちなみに今日は金曜日だ。


「……そっか」


 聞いた事のない声だった。暗い、暗い闇の中にいるような。底冷えするような恐怖さえ、いっとき感じてしまうような声。

 よりによって蒼花に、こんなことを思ってしまうなんて。


「あれ、悪かった?……何かあったっけ」


「いや、違うの。……じゃ、明日の朝でいい?」


 二つ返事で了承すると、以降何も話すことはなくて、それで通話は終わってしまった。



 さっきのはなんだったんだろうと考える。

 蒼花のことはなんでも分かってるつもりでいたのに、あれがどういう事なのか全然分からない。

 なにか諦めたみたいな声だった。絶望すら滲み出ていたように思う。

 何かが変わってしまうような気がして、どうしようもなく怖かった。

 あの声が怖かった。それよりもっと、私の知らない蒼花がいるということが。

 得体の知れない黒いものを抱えたまま、夜を越える。


 ──────────────────────────

 通話を切って、肺の中の割れそうなくらい張り詰めた空気を全部吐き出す。

 私の声は、震えていなかっただろうか。

 できるだけ普段通りになるように、努めたけど。たぶんそんなにうまくはできてない。

 今通話越しでこれなんだから、明日はもっと大変だろう。

 気合い入れなきゃな、と顔を上げる。


 視界に入るのは伸びきったカップ麺と、積み上がった洗い物。薄暗いキッチンに、眩く灯るスマホの画面。

 仄青い静寂に残酷に響く、私の嗚咽。

 ──────────────────────────


 私たちの特別なんて関係なく、世界は廻って明日がやってくる。

 いつもよりちょっとだけおしゃれして、おろしたての靴を履いて扉を開ける。

 弾けそうなくらいに透き通ったみずいろの空。全身を貫く陽の光。季節外れに暑くって、間違って出てきちゃった蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。

 今度はすぐ近くから、がちゃり、と音がした。

 音の鳴る左側に振り向くと、いつもの花が咲いている。


「おはよ」


「おはよ。じゃ、行こっか」


 蒼花はドアを閉めて振り返って言う。


「行こっかって、どこに?」


「内緒。ま、ついてきて」


 言われるままに歩いていく。いつもと同じ通学路をまっすぐ歩いて、バス停に着いて足を止める。バスは土曜にしてはすぐに来た。運がいいなと思いつつ乗り込む。乗客は私たちのほかには誰もいない。一番後ろの席に二人並んで腰掛ける。


「で、どこ行くの」


「まだ秘密。もうすぐわかるよ」


 バスは大通りの坂をまっすぐに下っていく。それで一つのことに思い当たる。この路線でこの先、このバスが向かう先といえばほとんど一つしかない。


「もしかして、海のほう?」


「お、正解」


「えー、水着なんて持ってきてないよ?」


「大丈夫。私も持ってきてない。何の用事なのかは、着いてから話すから」


「むむ、気になる」


 内緒、とまた茶化してはぐらかされる。多分言ってくれないなぁと、引き下がることにした。


 それから十五分くらいすると海が見えてきた。私たちの家からごく近い、毎年夏にはちょっとした観光地になっている場所。と言っても今は四月で観光客らしき人は全く見当たらないし、海水浴場も開いてない。


 開いた窓から潮風が入り込んでくる。夏以外にそれを感じることはあまりなくて、そのせいかなにか新鮮な違和感がある。少しひんやりとするそれを浴びながら、窓の外に目を向けてみる。


 風に舞う花びら、春らしい陽気の日差し。きらきらとまぶしい海面と、気のせいかやけに高く見える雲。なんでもないような、通学路と大して変わらない街並みでも、なぜだか不思議と美しく見えてくる。


 だけど外の景色を見る前に、どうしても目を奪われるものがある。毎日のように見て、それでもいつまでも見飽きることのないもの。

 輝く黒髪。薄ら紅いほっぺた。この距離ならはっきり見える長い睫毛。夜空みたいに真っ黒な瞳。ぴったり詰めて座っているから私のと触れ合う細い太ももの、お日さまよりもあったかい体温。時々聞こえてくる息遣い。

 そういう全部が、私を掴んで支配する。



 終点に着く。バスを降りると、海は目の前。強烈な海のにおいが私たちを包み込む。

 やっぱり人の気配はない。静かな、波音と自分たちの足音だけが聞こえる中を、蒼花について歩いていく。

 まっすぐに、海へ向かって。海水浴場からはちょっと離れた砂浜に、二人で足を踏み入れていく。こんなところに来るつもりじゃない靴だからだいぶ歩きにくい。何度かこけそうになって、蒼花はそれを心配して手を繋いでゆっくり歩いてくれる。


 歩いていく。穏やかな波が足首にかかるくらいまで。

 そこで立ち止まって、蒼花はにわかに振り向いた。その目は私の目を貫くように見据えている。

 その口が開かれる。


「海鈴、あのさ」


「?」


「……ちょっと、だいぶ言いにくいんだけど」


「うん」


 蒼花はいっしゅん目を伏せて、それから不意に気合いを入れ直すみたいに自分の両頬を手で叩いて、大きく息を吐いた。

 そして、一歩、踏み込んで、二人の距離は無くなって。

 私の肩に頭を乗せて、耳のすぐそばで囁いた。


「私と一緒に、死んでくれる?」


「…………えっと、?」


「あ、ごめん、そうだよね。いきなり言われても何が何だかだよね。ちゃんと説明するから、ごめん、ちょっと待って」


 さっき詰めた分を飛び退いて、あわあわという擬音が似合う感じで全身で慌てている。


「わかった。わかったから、落ち着いて? ほら、深呼吸。吸ってー、吐いてー。すってー、はいてー」


 私の声に合わせて、胸に手を当てて息を整える。最後に鋭く息を吐き出して、蒼花は語り始める。


「えっと、なんて言うか、私は、死にたいと思ったの。……ああ、別に何か悩みがあるとかじゃなくてね? むしろ逆で、あんまりなんの悩みもないうちに、きっぱり終わっときたいなって。それで、どうやって死のっかなーって考えてたんだけど」


 改まったようにして、きっと今の蒼花には私しか見えていない。


「私は、人生のいちばん良いところで死ぬの。だったらその時その横に、海鈴がいないのは、ぜったいに違うなって」


 私は息を呑んで──私の知らない考え方を正面から受け止めて、思考の処理に少し時間がかかっていた。

 それでも、蒼花が何か話し始めるより前に私の答えは決まっている。私が蒼花を拒むなんて、空と海が入れかわってもありえない。


 それに蒼花の言葉はとっても嬉しかった。私は、蒼花の人生の中で大きな部分を占めてるんだなって思えた。私にとって蒼花がそうであるように。


 ここまで色々考えていても、時間は一秒も経っていない。


「わかった」


 即答。さっきの仕返しとばかりに抱きついて、耳元で囁く。


「大好きよ、蒼花。一緒にいこ?」



 お互いにそれ以上なにも言えなくて、痛いくらいに抱き合いながら鼓動と息遣いだけを聴いていた。しばらくして、蒼花が盛大にため息をつく。


「…………なんてね。冗談よ、冗談!」


「え」


 あまり見たことがないくらい大きく笑って続ける。


「さー、満足! 帰りましょう! 」


 ──────────────────────────

 そんな、なんにも考えることなんてないみたいに純粋に応えられてしまったら。

 遠いのに眩しい星光みたいな声がすぐ隣にあるって分かってしまったら。

 私の決意らしきものなんて簡単に揺らいでしまうんだ。

 ──────────────────────────


 砂浜をじゃりじゃりと踏み歩きながら思う。

 今日の蒼花はテンションがおかしい気がする。

 急に海なんて言い出すし、全体的に行動がよくわかんないし。

 手を繋ぐことはあっても今みたいにぶんぶん振り回されることはなかったし。


「あー、海鈴、にやにやしてる」


「え、ほんと?」


「ほんとよ。 ふふ、可愛いなあ、もう」


「蒼花だって、口緩んでる」


 ふわふわ微笑んでいた蒼花は、そこでふいに真剣そうな顔になって、歩みを止めてこっちを見つめてくる。


「ね、海鈴」


 波の音。青空と白砂。沖に浮かぶ深緑の島。太陽。入道雲。鳶。逆光。桃色に華やぐ名前も知らない満開の花。

 潮風に吹かれて広がるやっぱり綺麗に輝く長い黒髪。

 潤んだ瞳。ほころびた唇。

 この世界の全部を着飾ったように。

 わらって。



「私も。大好き」

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