第17話

数日ぶりに、恵理子は街中に出た。H村から車で三〇分にある、郊外型の大型ショッピングセンターは、午後は買い物とレジャーの客でごった返している。

 地元の人間も、他所からくる人間が混在する場所だった。ここなら人目を気にすることもない。完全に周囲に埋没して、用事を済ませることが出来る。

 人里離れた無人の村にこもっている、気晴らしが目的ではなかった。むしろ、恵理子としては閉ざされた空間で、碧と二人の方が良い。

 しかし、外に出て、情報収集と食料の調達は必要だ。それに、碧としても、いつも人間が調達できるとは限らない。

 情報収集のために、ネットカフェに入った。

 恵理子は、個室でインターネットを閲覧していた。国内ニュースをつぶさに見る。碧が関係している二つの事件の進捗状況、そして掲示板のスレッドも無視はできない。

 新着ニュースがある。その内容に、恵理子は目を見張った。

『K市有名私立女子学園の敷地から、行方不明の女子生徒二人の制服が発見!』

 聖光女子学院……碧が通っていた学校ではないか。

『一八日未明、私立聖光女子学園の敷地内から、四か月前から行方不明になっている同校の女子生徒二名の制服と靴などが発見された。衣類などは、学園が書類整理などのため、焼却に業者に引き取りを依頼した全部で五六箱ある段ボールの内の一つに入っており、分別のために中身を仕分けした作業中に係員が発見し、学校に連絡して発覚したもの』

『学園側の話では、段ボール箱は資料室に今まで保管してあった古い資料や書類などで、先週保管期限が切れたものから、順次業者に引き取りを依頼していたもの。なお、資料室は誰でも入れるとのことだった。警察は、二人が何らかの事件に巻き込まれたものとみて捜査している』

 碧だ。

 恵理子は直感した。

 急いで駐車場に停めている車に戻った。

 碧は人込みが嫌だと、車の助手席で待っていた。

「ああ、そういえば、あの落ちていた二人ね」

 慌てていた自分が、間抜けに思えるほど碧は悠然と述べた。

「資料室には、ずっと前から日にちが来たら順番に廃棄する書類があって、箱の中身はもう誰も開けないし、その中に適当に入れたんだっけ。でも、もう中身は全部食べちゃったもの。見つかったのは制服だけでしょ」

「骨はどうしたの?」

「学校のカフェの裏側に、調理場用のポリバケツがあってね。残飯や野菜くずと一緒に捨てたわ。もうずっと前の話よ。もう焼却場で灰ね」

 話を聞いて、ふう、と恵理子は息をついた。

「ホントに、碧ってすごいわね」

 褒めたつもりだが、碧は笑わない。それ以上言う事を止めて、恵理子は運転に専念した。今日の外出も、部屋は別とはいえ、藍と建物の中に一緒なのが、気が進まないという理由だった。

 いい気味だと、藍へ恵理子は思う。

 弱小動物が、碧の首を絞めようとしたというばかりか、ずっと反抗的態度を崩さない藍に、ついに碧が我慢できなくなった。どこまでも思い上がっているからだ。

 碧はようやく『お仕置き』を実行する気になったのだ。

「そろそろ、三日経つけど、いいの? ずっとほっておいたら死んじゃうわよ」

 死んでしまえばいいけど、その本心を隠した恵理子の言葉に、碧は答えた。

「三日くらいじゃ、死なないわよ」

「ふぅん」

「それにね、そろそろ、あの子にとっておきのご馳走を呼んであげようと思うの。お腹が空けば空くほど美味しいでしょ」

「ああ、そうか」

 恵理子は頷いた。

「やっぱり、食べさせるのね」

「そうよ、ちゃんと分からせてやらなきゃ」

 それがいい。あの子を苦しめるためにも、碧が楽しむためにも。

 村に着いた。尾行する車も人影もない。

 根城にしている廃病院に二人は入った。食料品などの荷物を診療室に置いて、三階へ上がっていく。

 元々個室だった病室の前に立ち、碧はつっかい棒を外して引き戸を開けた。中に入る碧の後ろに、恵理子は続いた。

「ご機嫌はいかが?」

 部屋の中央に、藍はいた。

 荒縄で後ろ手に両手を縛られて、床の上に転がされていた。

 さるぐつわをかまされている口が、抵抗するように動いた。

 この三日間、食事を与えずこのままだ。

 まるで、床に放置されたボロ雑巾のようだった。このまま、干からびて死ねばいいのにと恵理子は思う。

「お腹空いたでしょ? 藍」

 碧の指先が、藍の頬を撫でた。藍は電流を流されたように震えた。

「これから、ご馳走を呼んであげる」

 涙をためて、震える藍の姿は、無力な弱者以外の何物でもなかった。

 これでこそ、碧だと恵理子は思う。 

 妹だからといって、情けをかけるような、そんなのは碧らしくない。もっと超然として、情けや憐みといった、鈍くさい感情を一切排除した純粋な残酷さと我儘さ。それが強さとなり、不敵となって、極めて華麗に表現されている存在。

 芋虫のように、藍が身じろぎした。猿ぐつわをかまされた口から、呻きに似た声が漏れる。

 碧に、そして恵理子へと、目が悲壮に訴えていた。碧はその視線を軽く流した。



――携帯を使う碧の姿を、藍はもがきながら見ていた。見ているしかなかった。

 出ないで、と藍は願う。

 お願い、出ないで。もう一生、無関係でいて。これ以上、関わるのは……

 願いは、破られた。

「もしもし、お久しぶり……速水君?」

 耳をふさぎたかった。しかし、手足の自由は奪われていた。藍は無力感と絶望の中で、碧の声を聞かされた。

「何でって……いつか、携帯の番号を教えてくれたでしょ。藍が入院していた時、お見舞いに行きたいとか言って」

 くすくすと軽やかに笑う声。しかし、その笑いを聞かせている相手は、自分が命を奪った家族の一人息子だ。姉の冷酷さに、藍は細胞が冷える思いだった。

「藍がねえ、食欲不振なのよ。このままじゃ、飢え死にしちゃう……速水君に会いたがっているの」

 違う、無音で藍は絶叫した。会いたくない、来ないで欲しいと念じた。届くはずはなくても、せずにはいられなかった。

「声を聞かせてあげるわ、遠慮しなくていいのよ」

 碧の合図に、恵理子が頷き、藍の猿ぐつわを外す。その前に、碧は携帯を近づけた。

「ハイ、藍」

……携帯の向こうに、由樹がいる。声はない。だが、息遣いが聞こえるようだった。藍は口をつぐんだ。

「何か言いなさいよ、変な子ね」

「……」

 声は出さない。絶対に。

 来ないで。藍は願う。声を聞かせて、由樹を揺さぶってはいけない。

 由樹も無言だ。

 それでいい、そう思った時だった。

「何か言いなさいよ、何を変な意地を見せつけて、腹立つわね」

 脇腹を、恵理子が蹴り上げた。藍は呻き声を押し殺したが、わずかに漏れた。

 その時だった。

『てめぇっ』

 聞き馴染んだ声が、藍の心に刺さった。

『何しやがる! 貴様の妹だろうが!』

「その大事な妹のために、速水君をご招待してあげようと思うのよ。どお?」

 一呼吸、間が開いた。

『願ったり叶ったりだね』

「そのために、私たちのことを警察に言わなかったんでしょ? ありがとう、おかげで自由なリゾートを楽しんでいるわ。こっちにいらっしゃいよ。空気がとっても良いわよ。私たち以外の邪魔ものはいないし、一緒に遊びましょ」

『ああ、せっかく警察に黙っていてやったのによ、バカ女が下手を打ちやがった』

「何よ」

気分を害した碧。由樹の投げやりな声が聞こえてきた。

『聖光学園で、行方不明になっていた二人の女の子の制服が、出てきたらしいな。どうせお前の仕業だろ。それ、もう警察には犯人バレているんじゃねえか?』

「そんなはずないでしょ」

 碧がせせらと笑い飛ばした。しかし、由樹の口調は冷めていた。

『制服や靴を処分するとき、ゴム手袋はめてした訳じゃないだろ』

「指紋が残っていたって、私のものと分かるはずないじゃない」

『お前バカぁ? 夏に事故に遭って、警察で調書取られてねえのか? その時に指紋取っただろ? 今はお尋ね者の身だろ? 指紋に名札つけて出回っているぜ』

「……」

『段ボールには、貴様の指スタンプがベタベタついているだろうな。そういえば、俺をぶん殴るのに使った壺、あれも指紋をちゃんと拭いたか? 拭き残してやしないだろうな』

 見る見るうちに、碧の顔が赤くなっていく。

『ああいやだいやだ、これだから自信過剰のブスは始末に負えないんだよ』

 由樹がさも厭そうに言い放った。



――女性に絶対言ってはならない、タブーの言葉だけはあった。

 しかも、相手は見下すことはあっても、逆の立場は考えたこともない女王様気質だった。並みの女性より、言葉の刃の傷は深かったらしい。

 今までは、人を小馬鹿する笑いのトーンだった。それが明らかに低く変わった。

 整体院の待合室に由樹はいた。受付の机は、すでに由樹の定位置となっている。

 由樹は壁時計を見た。午後四時を過ぎている。

『言ってくれるわね』

「へえ、傷ついた? そこんとこ、まだ無駄に人間だな」

 PC画像に出された、グーグルマップとストリートビュー、そしてネット市民から寄せられたH村の風景をチェックしながら、由樹は楽し気な声を押し出した。

「あんたみたいな悪食で根性曲がったブサイク、ホントに湖川の姉ちゃん? 妹とはタネ違いかハラ違いか、産院の取り違えだろ」

 品のない粗雑な口調で、楽し気な声を装う。

 由樹は耳と頭で冷静に、伝わってくる気配と、相手の感情を推し量っていた。最後の爆弾だった。さあ、爆発しろ。

『……あんたを藍に食べさせてあげようかと思ったんだけど、犬に食わせてやるわ。それとも、手足だけ斧で切って食べて、人間豚にしてやろうかしら』

「はいはい。それで、俺はH村のどこに行けばいいんだ?」

 明らかに、絶句の気配が漂ってきた。

 連想ゲームだ。空気が良い田舎、私たち以外の邪魔者はいない、そして人間豚。

 碧にとって、ある程度の見識のある土地。人は逃亡するとき、全く見知らぬ土地には行かないと、犯罪心理学で聞いたことがあった。 

「確か、夏にそこへ行った帰りに事故ったんだろ。廃村だしな。確かに当分姿を隠すのには丁度いいな」

 夏に、姉妹と学校の仲間が事故に遭った。その事故の直前、今は廃村で、有名な心霊スポットであるH村に寄ったことは、藍からの話、そして新聞記事や噂話で仕入れた情報だった。

 揺さぶり、なにがしかの動揺を与える。相手の余裕を奪う喧嘩の基本を、由樹は忠実に実行した。憎悪も執着も閉じ込めて、冷静な頭で、確かな手段だけを選び取る。

 由樹は、PCの横に置いた金属の箱に目をやった。中にはコルトが入っている。

『……分かっているなら、来れば?』

 通話がプツリと切れた。

 碧は、完全にペースを崩したようだった。

 しかし、彼女は由樹の弱みを良く知っていた。そして、握っていた。

 画像付きのメールが来た。

 灰色の床の上に転がる藍の姿。そして添付されたメッセージ。

『藍が死なないうちにね』

 由樹は立ち上がった。そして金属の箱を開けて銃を掴み、ソファに投げ出してあったリュックとヘルメットを持って外に出た。

 実家の裏に回ると、ガレージがある。父のワゴン車の隣に、カバーをかけたバイクが停めてある。

 叔父が置いていったバイクだった。四〇〇㏄、ホンダの黒のCBR。

 由樹はエンジンをかけた。


 藍は、驚くよりも呆然と碧の表情を見ていた。

 通話を切ってから、みるみる内に、表情が憤怒に染まる。

 初めて見る反応だった。いつもの超然としたものが、由樹の挑発によってすっかり崩れ去った。剥きだしの怒りだけが突き出していた。

 携帯が床の上で叩きつけられた。その携帯を足で踏みにじり、碧が呻いた。

「あのクソガキ!」

 自分に憎しみの目がスライドされる。真っ赤な目と、碧の震える拳を見ても、不思議と藍は怖くはなかった。それでも、由樹の危険が増したのには変わりはない。

 どうすればいい? 藍は自由を奪われた身で考えた。碧が、由樹との対峙に自分を利用するのは明白だった。

 これ以上、由樹を危険にさらしたくない。自分のせいで、傷つけてはいけない。

「この子を、見張っていて頂戴」

「分かっているわ。碧はあの子を待ち伏せるの?」

「そうよ。あのクソガキ、もうここに向かっているはずよ。あれだけ挑発しておいて、ハイ明日ってことはないわ。必ずさっきの餌にも喰いつく」

 恵理子が頷いた。笑顔が引き攣っている。度を越した怒りの、碧の様子に戸惑っているらしい。

 碧が個室を出て行く。建物全体が砕けそうな音をさせて、引き戸が叩きつけられて閉まった。床に転がされたままの藍の体に、振動が伝わった。

 ――藍は、覚悟を決めた。

 恵理子へ声をかけた。

「……見たでしょ? あれがお姉ちゃんの本性よ」

「……」

 恵理子が藍を睨んだ。その忌々し気な目を藍は見返した。

「ねえ、あんたって、お姉ちゃんをあれでもまだ、崇拝しているの? 年下の男の子にからかわれて、あそこまで取り乱すような無様な人なんだよ?」

「急に、元気になったわね。王子様の助けが来るから? どこまでも弱虫ね」

「あんたの次にね」

 三日間、何も食べずに冷たい床の上に放置され、体力は限界を超えている。腕の感覚もすでに麻痺していた。

 それでも、心臓が動く限りは足掻かなければ。

 藍は、声を張り上げた。

「じゃあ、あんたは何? 人に引きずられてきたばっかりで、やっているのは馬鹿なことか人殺しでしょ。お姉ちゃんのいう事をハイハイって聞いて、それでお姉ちゃんのご機嫌を取っているつもり? まさか、自分が大の親友って思ってやしないよね?」

「うるさいわね」

 藍は、じりじりと体を窓の下に移動させた。窓はガラスだった。

「そう思っているなら、あんたってすごいバカ。あの人は、たとえ自分が何をしてもらっても、誰も好きにならないし、誰も必要じゃない。あんたなんか、碧の犬よ」

「うるさいって言っているでしょ!」

 藍は、恵理子の足元、床に転がる錆びだらけのスチール椅子を見つめた。

「じゃあ、あんたは何よ? ここで縛られて、転がっているしか出来ないガキじゃないの」

「あんたは、そのガキを見張っているしか出来ない女じゃないの」

 さあ、怒れ。激高しろ。

 心に呪詛を唱え、恵理子を見る。攻撃しろと恵理子へ念じる。

「お姉ちゃんの、どこが強いの? あんな人でなしが強いって、何か取り違えていない? あんたなんか、ただの下女じゃない。ものすごく馬鹿で、便利だもの! ヒトゴロシ!」

「うるさぁぁいっ」

 恵理子がスチール椅子を両手でつかみ、振り上げた。藍は窓ガラスの下で、身を縮めた。

 頭のてっぺんすれすれに、冷たい鉄がかすった。

 鋭い破壊音。藍は頭を下げた。背中に、頭の上にガラスの破片が降り注いだ。

「……もう一度言ったら、殺すわよ」

 赤黒く変色した恵理子の顔が、パイプ椅子の足を両手でつかんで藍を見下ろしている。

 切れそうなほど、尖った空気の中でお互いに睨み合う。

 恵理子が背中を向けた。藍は座り直すと見せかけて、床に散乱したガラス片を後ろ手で掴む。

 恵理子は、藍に背中を向けたまま、黙って出入り口を向いていた。

 その背中を見ながら、藍はガラス片の切っ先を荒縄に押しつけ、動かした。ガラス片は時折皮膚を傷つけた。だが藍は、焦燥感と痺れる手に汗を滲ませながら、ひたすらガラスを動かし続けた。



 バイクは、高速道路を走り抜けた。県境の道路は民家が少なく、夜の下に畑や田んぼの風景が沈み込んでいる。

 速度は法定速度をとうにオーバーしていた。スピード違反で捕まる危険よりも、由樹の頭は違う事で占められていた。手がアクセルを回し、目の前の車を次々と追い越した。

幹線道路から、脇道に入る。街中であれば夜の七時はまだ明るいが、外灯がない田舎道は、すでに真夜中の暗さと静寂だった。

 樹々の間を走り、突然目の前が開けた。

 田んぼに畑、人家が月夜の下に浮かんでいる。しかし、人口の灯りは一切ない。

 H村の隅々にまで、自分の到着を知らせてやるために、由樹はバイクを思い切り噴かした。冬の夜空、無人の闇に、耳障りな排気音が響き渡った。

 由樹は、バイクを一旦停止させてヘルメットのバイザーを上げた。

 点在する、背の低い家屋。その中に一つ建っている、四角い箱。

 送り付けられてきた藍の画像は、コンクリートの床の上だった。民家ではない。

「あそこか」

 四角い箱は、ネットでも有名な廃病院だった。

 由樹はバイクから降り、リュックから取り出した銃を、後ろのベルトとズボンの間に挟む。

 半分開いて出入り口のガラス戸に、由樹は体を横にして入った。リュックから出していた懐中電灯で周囲を確かめる。椅子が転倒し、廃れた待合室。

 一気に嗅覚に押し入ってくる、カビと薬品の匂いの残滓、そしてホコリの匂い。

 耳を凝らす。

全身をセンサーにして気配をさぐり、動いている空気と、音があることを感知。

 恐怖より、緊張と闘争心が勝っていた。どこかで自分を見つめている悪意が、肌を刺している。

 ごとん、と音がした。

 続いて、いくつも続く音。

 由樹は振り返り、懐中電灯を向けた。上に続く階段がある。

 そこから丸いボールが、いくつも転がり落ちてくる。

「!」

 転がって来たボールに、由樹は懐中電灯を取り落としかけた。

 氷のおろし金が背中をすりおろす。由樹の足元に集結するボールには、全て頭髪があった。男も女もいた。

 生首に囲まれて、細胞が瞬間凍結を起こした。

 噴出した嫌悪感によって、冷えた頭が一気に沸騰した。由樹は絶叫した。

「化け物! どこにいやがる!」

 ベルトに挟んだ銃を引き抜き、階段を駆け上がった。一度踊り場に隠れ、気配を探ってから、二階の廊下に飛び出す。

「どこだ、糞女!」

 銃を構え、由樹はドアが並ぶ廊下を踏み出した。

「ここよ!」

 突然、背後でドアが開く音。由樹は後ろの襟くびを掴まれるのを感じた。

 しまったと思ったが、遅い。

 由樹は、床に叩きつけられた。ドアが閉まった。

 神経を逆なでするモーター音。

 由樹は床を転がった。さっきまでの位置に、のこぎりの歯が振り下ろされた。

 跳ね起きて、身構える。

「あらまあ、良い反射神経ね」

 鳴り響く電動のこぎりのモーター音。由樹は息を呑んだ。木を切り倒すための、本格的なチェーンソー。

 月の光が窓から差し込んで、それを手にした女のシルエットを浮かばせている。

 碧の後ろにドアがある。退路が断たれた。

「そこのお家でかりてきちゃった。便利なのよ、コレ」 

 油と脂、アンモニアと血が、肉と混じって腐った匂い。そして、揮発臭。

 おぞましい悪臭に、楽しげな声が混じる。由樹は一瞬吐き気をこらえた。酷い匂いが部屋に充満している。

 ショックを受ける隙を、由樹は与えてはもらえなかった。横殴りに襲い掛かるチェーンソーの刃を、由樹は後ろに飛んでよけた。

 右、左とチェーンソーが襲いかかる。少しでも当たれば、体の部品が一瞬で飛ばされる。

 落した銃を探そうにも、碧のチェーンソーから目を離せない。

 由樹は寒気がした。こっちは息切れしているというのに、重さは五キロ近いチェーンソーを振り回す碧は、息も切れていない。

「暗いせいかしらね、なかなか当たらないわね」

「鈍くさいからだろ」

 自分を鼓舞するための憎まれ口を叩いたが、碧はそれを軽く流した。

「明るい方が良いわね。それに、寒いでしょ?」

 ポケットからライターが取り出された。碧は火を点け、それを部屋の隅に放った。

「!」

 一気に立つ火柱に、由樹は反射的に目を覆った。揮発臭の正体と、その理由が分かった。

「明るくって、良いでしょう」

 一気に部屋の中が、業火に照らされた。

 錆びついたベッドの上は、赤黒く染まっていた。どこか内臓の一部が、落ちた生ごみのように床にこすりつけられていた。

 バケツがあった内臓で満たされている。

「ここはね、実はお台所。アレがまな板。分かるでしょ?」

 赤黒い寝台へ向けて、碧が顎をしゃくった。

 碧の手が、チェーンソーを振り上げる。

「早くかかっていらっしゃい、お肉さん。私、早く藍に食べさせてあげたいの」

 炎が部屋を赤く照らし、染め上げる。碧の後ろに、由樹は落とした銃を見つけた。あれを拾うには、碧の正面から突破するしかない。

……どうする?

 由樹は息を吐く。

どちらが優勢だ? チェーンソーを振り回す化け物と、丸腰の自分。

だが、喧嘩の場数はこっちの方が上。

――ようは、刃に当たらなきゃいい。

一気に腰を落とし、手を床について脚を伸ばした。旋風脚で碧の脚をなぎ払う。

「!」

 碧がバランスを崩した。チェーンソーがうなりを立てて床に落下し、ぐるぐる回る。由樹はその隙に脇をすり抜け、銃を拾った。そのまま碧に狙いを定めた。

 火の勢いが、強くなっている。炎が天井を這い始めた。

 じりじりと空気が焼かれている。

酸素が少なくなっている。一酸化炭素も発生し始めた。しかし、汗が流れ落ちるのは、熱さのせいばかりじゃない。

 由樹は、無言で銃の狙いを碧に定めた。碧も由樹を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。互いの距離は一メートルと少し。

 六発弾はある。一発くらいは当たるだろうと、由樹は撃鉄に指をかけた。

 どこにもためらう理由もない。殺すのは、人間ではなく人食い鬼だ。

 そして家族の復讐。 

 死ね、由樹は口を動かした。しかし、動いたのは口だけだった。撃てない。

「……私を殺した手で、妹を抱くの?」

 妖艶な声の毒が回る。銃を持つ指が固まった。その威力を悠然と楽しみながら、碧は着ているシャツの前を開けた。

「熱くない?」

 碧は、この場をあざ笑った。ゆっくりした仕草で、由樹に見せつけるように下着に包まれた、豊かな胸を突き出した。脱いだシャツを、片手に垂らす。

 動けない由樹へ、碧はシャツを振るった。シャツが風を切って、由樹の目を叩いた。視力を一瞬失った由樹に、碧が突っ込む。

 由樹の体は碧に押し倒されて、仰向けに転倒した。

 首に、碧の手がかかった。

「殺さないわ。生きたままゆっくりと手足を切断してあげる」

 由樹はもがき、振りほどこうとした。しかし、力は一向に緩まない。怪力は由樹の咽喉を潰し、呼吸を遮断しようとする。その時だった。

「速水君から離れて!」

 空気が叩かれた。碧の手が止まった。一気に酸素が流れ込み、由樹は咳き込んだ。

 ドアに立っている、二人のシルエット。

「……」

 碧が絶句している。由樹も驚いた。

 藍が、恵理子の咽喉にガラス片を突きつけて立っていた。


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