第18話
「速水君から、離れて」
恵理子の咽喉にガラス片を突き立てて、藍が碧に命令した。
「でないと、この人を殺す。本気よ」
……本気だ。恵理子は戦慄した。
まさか、この子に襲われるなんて思わなかった。自分を挑発して窓ガラスを割らせ、そのガラス片で荒縄を切るなんて。
そして、そのガラス片で脅迫されるなんて。
三日間、自由を奪われ、飢えの中で放置されていたのだ。体力的には恵理子が優勢のはずだった。しかし、この子を殺せば同時に、自分もこの子に殺されているだろうという予感があった。
碧が、由樹という少年の上に馬乗りになって、首を絞めていた。
そばで、スイッチが入ったままのチェーンソーが、振動で床の上をぐるぐると回っている。それに碧は手を伸ばそうとしていた。
恵理子は震えた。人に与えてきた恐怖と死が、つぎは自分をひねり潰そうとしている。
碧がこっちを見ている。タスケテ、恵理子は口を動かす。
碧、助けて。
藍の姿に絶句していた碧が、口を開いた。
「邪魔しないで」
その意味を、恵理子は捕らえかねた。
「勝手に殺せば?」
冷酷な言葉は、恵理子の理性を飛び越えた。
「勝手に殺しなさいよ。このクソガキのはらわたを、生きたまま引きずり出す方が、今は大事よ」
「!」
聞いた声が、恵理子の頭を素通りした。信じられなさに呼吸を忘れて、碧を見つめる。
石より簡単に見捨てられた、自分という存在を恵理子は俯瞰で見つめた。
何故? なぜなの碧?
絆は? たくさんの共有は?
絆どころか、人質ですらない。落胆というには黒すぎた。藍ですら呆然となっている。
チェーンソーが、うなりを立ててグルグル回る。
由樹の首を片手で絞め、碧の手がチェーンソーに伸びた瞬間だった。
恵理子は藍に突き飛ばされた。目の前に碧が迫る。
「きゃぁっ」
恵理子は碧に突っ込んだ。碧が由樹の上から転げ落ちる。
由樹がその隙に立ち上がり、床に落ちていた銃を拾い、藍の元へと走る。
碧ともつれあい、床に投げ出された恵理子は、のろのろと立ち上がった。碧の顔が目の前にあった。怒りと口惜しさを煮詰めた目が、自分を見ている。
「……みどり」
自分の声が遠くで聞こえた。心の中で、何かが割れた。
「ころせばって、なんで? わたしを?」
「邪魔しやがって!」罵声と共に、床に叩きつけられた。恵理子は碧に殴られて、身体が吹っ飛んだことに気が付いた。
手をついて床から立ち上がろうとして、恵理子は目を見開いた。
床の上で、くるくる回りながら自分に近づくチェーンソー。
刃が、右手首に当たった。
「ヴぁああああああ」
血しぶきが空を染めた瞬間、右手首が消えた。恵理子は咆哮した。切断部を押さえて転がりながら、チェーンソーから逃げる。
悲鳴を上げる藍、息を呑む由樹が目の端に入った。それよりも、碧を恵理子は探した。
タスケテ、碧。痛いよ、碧。
「うるさい」
碧の声でありながら、碧ではない声がした。
「邪魔よ、あんた」
あんた? 恵理子じゃなくて、私をあんたって言った?
自分という存在が、ひっくり返される。この場では、自分が恵理子ではなくなったのか、碧が碧ではなくなったのか、恵理子は混乱した。立ち上がろうとした。その時だった。
「あっち行って」
残った手首を、碧が掴んだ。恵理子は引き上げられた。身体がまた浮いた。恵理子は、自分がゴミ袋になった錯覚を覚えた。
恵理子は、部屋の中で燃え盛る炎の中へ放り込まれた。
藍は悲鳴を上げた。その悲鳴は、炎の中で焼かれる悲鳴と混じり合った。
「……そんな……」
由樹の嘆きが聞こえた。
「貴様、あのおんなは……」
藍にとって、恵理子を哀れに思うよりも、碧への驚愕が上だった。間違っていた形にせよ、あの恵理子は碧を愛していた。
その恵理子を、碧は文字通り捨てた。
「さてと、再開しましょ」
チェーンソーへ碧がかがむ。由樹は発砲した。
チェーンソーに銃弾が跳ねた。碧の手が引っ込んだ。
炎の勢いが強まっている。
「湖川、部屋の外に出ろ」
碧へ銃を構えながら、由樹が命令しながら咳き込んだ。
「このままじゃ、焼け死ぬぞ」
部屋の隅で火柱となった炎は、壁になっていた。天井を這い、部屋の備品にも燃え移っている。空気が減っていた。
藍は、顔を振った。いやだ。
「どうするの? 皆で一緒にバーベキュー?」
碧が歌った。
「私はイヤよ」
そばにあったバケツを、碧が突然掴んだ。由樹に投げつける。
「うわっ」
由樹の銃を、バケツが跳ね飛ばす。中身の内臓が飛び散った。由樹の手から銃が飛び、壁に当たって落ちた。碧がそれを、素早く拾い上げる。
碧は銃を構えた。発砲。
「がっ」
由樹が右足を押さえてよろめいた。続く発砲。
「……っ」
両足を撃たれた由樹が、床に崩れる。藍は由樹に飛びついた。碧から隠すように、由樹の前に立ちはだかった。
「どきなさいよ、藍」
「イヤ!」
「どけ! 湖川」
由樹の怒鳴り声に、藍は怒鳴り返した。
「イヤよ!」
終わりにしよう。藍は碧を見る。碧の背後には、炎の壁がある。
もう、碧は人間には戻れない。その碧を止める事。そのためには命が引き換えだ。ためらいはなかった。
――お姉ちゃんが、好きだったよ。
藍は碧に嘆いた。
甘えられなかったけど、お姉ちゃんの望むような妹じゃなかったけど、綺麗で何でも出来て、自慢だった。だから眩しすぎて、近寄りがたかった。大好きだった。
例え本性は冷酷であっても、碧が自分に優しかったのは事実なのだ。
優しい姉の思い出はいくつも持っている。それは確かだった。
しかし、由樹がいる世界に、碧を置いておくわけにはいかない。
それは自分自身も同様だった。啜った由樹の血の甘さ。いつかあの甘さが理性を壊し、狂わせるかもしれない。
この世界に、私たちは、いてはいけない。
藍へ、碧の顔が嬉しそうに歪む。
「そうそう、藍。その目よ。それよ、私が欲しかったのは」
大好きよ、藍。妹に向けた銃口に、ためらいはなかった。
藍は飛び出した。
わき腹に、鈍い衝撃と痛みが走った。
続いて、左胸に衝撃。息が止まる。それでも碧へと向かう。
驚愕に歪む緑の顔へ、藍は突っ込んだ。あと数歩、命を保って欲しいと願う。碧に抱きつき、そのまま炎の中へ押し倒そうと……
その時だった。
碧の背後で、荒れ狂う炎が動いた。炎が碧にしがみついた。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、碧が炎から逃れようとする。炎は二本の腕で、しっかりと碧に巻き付いた。手首が一本無かった。
腰に強い力が巻き付いた。藍は碧から引き剥がされた。
「お姉ちゃん!」
「湖川!」
燃え盛る恵理子が、碧を背後から抱きしめる。碧は咆哮した。肉の焼ける臭いが、濃い煙が部屋を侵略して、赤く塗りつぶしていく。
藍は、碧へ手を伸ばした。伸ばされた碧の指が触れ、離れた。
「焼け死ぬぞ!」
由樹の手が、藍を引っ張り入り口ドアへ走る。金属のドアを掴んだ由樹が、小さく悲鳴を上げて手を離した。
上着の裾で手を巻いて、由樹がノブを回した。ドアが開いた。藍を先に出そうと、背中を押す。
藍は、その手から逃れた。由樹の後ろに回り込み、思い切り突き飛ばした。
由樹がドアの外に転がり出た。藍は背中でドアを閉めた。
燃え広がる炎が目の前にある。
「こがわぁっ」
外で絶叫が聞こえた。ドアを叩く振動が、地震のように藍の背中に伝わってくる。藍はドアに体重を乗せた。
「こがわ、開けろ、湖川!」
煙が目に、鼻に入って来る。
「何を考えてる、開けろ、湖川、死ぬぞ!」
……ごめんね、速水くん。
この世界から、退場する決意は変わらない。
「私は、この世にいちゃ、ダメなんだよ。私も、お姉ちゃんみたいになるかもしれない……それに、ちゃんと償いはしないと」
私が、あなたの家族を奪ったも同然だ。
由樹の叫びが聞こえる。
「何を考えてんだ、出ろ、いいから出ろ!」
お姉ちゃん、一緒に逝こう。藍は迫る炎に語りかける。
姉妹二人で生きていく事は、叶えてあげられなかったけれど、一緒に死ぬことは出来る。
燃え盛る炎の中に、死の気配があった。あの奥で、碧と恵理子は共に沈んでいる。
行く先は、お姉ちゃんと一緒の地獄だろう。おじさんたちは天国だから、会ってお詫びは言えないけれど。
目の前は、赤と黒で渦巻いていた。空気だけで身体が焼けていくようだった。地獄もこうなんだろうと、藍は思う。煙はすでに肺から頭に回って、意識を奪いつつある。
この世で、最後に見るもの。藍は右手を見た。サツキの指輪。
サツキの言葉。
……由樹のお嫁さんになってもらえるかどうかは、分からないけど
「こんなこと、速水くんに言う資格もないけど……」
あの家に、ずっといたかった。速水くんとずっといたいと思っていた。
それが夢だった。
天井が崩れた。
由樹は二階から三階に駆け上がった。姉妹たちがいる部屋の、ちょうと真上の部屋に飛び込んだ。
読みは当たった。この部屋の床は抜けていた。二階の天井から、ここの部屋の床へ火の粉が吹き上がっていた。
熱風から顔を守りながら、下を覗き込む。燃えている、由樹は部屋を見回し、ベッドの上に置いたままのシーツを見つけた。木綿だ。それを持って、抜けた穴へ飛びこんだ。
三階の天井から、二階の床に着地。同時に、火の粉が舞い上がった。蒸発してしまいそうな熱気。開いた眼球が焼けそうだった。その揺れる火柱の裂け目に、藍の姿があった。
「こがわぁっ」
シーツで炎をブロックしながら、由樹は走った。藍を抱え上げ、部屋から転がり出た。
二人が出た瞬間、炎が鉄砲水のようにドアから噴出した。
廃病院から離れて、由樹は藍を降ろし、土の上に座り込んだ。
煙と焦げ臭い匂いが風に乗って運ばれてきた。
「湖川」
頬を叩いた。
「湖川」
呼吸がほとんどない。仰向けにして顎を持ち上げ、気道を確保した。人工呼吸の講習を、体育の授業で教わった通りに行う。
息を吹き込んだ。何も考えられなかった。祈りだけがあった。
藍が咳き込んだ。苦しげだが、呼吸と咳をくり返す。それは由樹にとって正に天井の音楽のようだった。
「湖川、俺が分かるか?」
藍の朦朧とした目が由樹を見つめ、やがて小さく頷いた。
――煤で汚れた顔が、自分を見下ろしている。
撃たれたはずなのに……藍は思い出した。わき腹と心臓を撃たれたはずだ。それなのに、生きている。そういえば由樹も、両足を撃たれたはずだ。大丈夫なんだろうか?
しかし、撃たれたようには見えなかった。由樹の顔にも上体にも、血が飛んでいるが、怪我でない、碧にかけられたバケツに入った内臓の血だ。
藍は、ほっとした。
同時に、口を動かす。何で、と。
償いも責任も果たす機会が潰され、決意が棒にふられた。由樹に対して理不尽だとは思うが、恨みがましい気さえこみ上がる。
由樹が言った。
「……死ぬなよ……何やっているんだ、何考えてんだよ」
お姉ちゃんと、同じだもの。私。
目的は、自分のおぞましい可能性を潰すこと。そのためには、死ぬ以外に手だてが思いつかなかった。
「速水君だって、分かっているはずだよ……」
由樹の顔が引き歪む。
背中に当たる土の感触と、由樹の腕の感触。その二つに挟まれ、藍は抱きすくめられた。
いやだ。呻き声が聞こえた。
「どうだっていいよ、そんなの」
取り残さないでくれ。
しんとした、深い声。今まで聞いたこともない声。それはまぎれもない、由樹の慟哭だった。それに触れた藍は、寒さに震えた。
「寂しいんだよ……傍にいてよ……」
お願いだから。
繰り返される由樹の懇願。藍は目を閉じた。自分にも、姉を失った空虚な闇が見えた。
――サイレンの音が、どこからか聞こえてきた。
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