第15話
今いる場所は、一番奥の端にある個室の病室だった。
個室だけあって、やや広い。錆びつき、もう使えそうもないスチール椅子とベッドがある。窓はあるが、鉄格子が付いていて外には出られない。助けを呼ぼうにも、裏は畑と山だ。どこまでも無人の風景しかない。
引き戸のつっかい棒を外して、恵理子は中に入った。
光源は月明かりだけの部屋。
かび臭い箱の奥に、少女のシルエットがうずくまっていた。
恵理子は、ランタンを置いて、今朝、部屋の中央に置いた皿の中身を見た。携帯用食のアルファ米に、チリビーンズをかけたもの。
「食べてないじゃない」
床に置いた皿の中身どころか、位置さえ変わらない。恵理子は背中を向ける藍へ言った。
「食事を持ってくるのも、無駄ね」
しばらく、間が開いた。
「でも、これなら食べられるでしょ……あんたの好きなお肉」
冷めきったアルファ米の横に、まだ湯気の立つ、良く焼けた人間の手を置いた。
藍が恵理子へ振り返った。皿の中身に、目を見開いた。
「……それは、誰の……?」
「ツカノ、とか言ったわね。さっき、そいつらとこの病院を歩き回っていたの、聞こえなかった?」
「……」
「気が付かなかったの? 随分鈍い子ね」
「……殺したの?」
「このお肉を見て分からないの? おててだけもらって、ハイさよならって訳にはいかないでしょう」
「ひどい……そんな、お姉ちゃんを……あなたは……」
愕然としている藍の表情から、徐々に表れる碧への恐怖と嫌悪に、恵理子の苛立ちが掻き立てられた。
「死にたいの? イヤなら食べなくっても良いのよ」
声を張り上げた。びくりと肩を震わせる藍に、恵理子はなお、言葉を顔に叩きつける。
「死ぬのなら、餓死なんてまどろっこしい事しないで、手っ取り早く、自分で勝手に死んでちょうだい! 食べない食料を、いちいちここまで持ってくるのも手間だし、食べ物だって勿体ないじゃないの」
「……死にはしない」
「じゃあ、何なのよ。碧に対して、拗ねてハンストしているだけ? 面倒くさい子ね」
ああ厭だ。何でこんなウジウジした子が、碧の妹なんだろう。こんな子のために、碧は傷ついて人を殺したのだと、恵理子は不甲斐なくさえある。
「あなたは、何でお姉ちゃんに付いてきているの?」
恵理子の目を、藍の表情が真っすぐに押し戻した。
腫れぼったい目には、涙の跡があった。
「どうして、こんな酷いことが出来るの? お姉ちゃんがしろって言ったから、人を殺すの?」
「そうよ。碧が言ったから、そう望んだからしてあげたの。私がそうしてあげたいって、そう思えるからよ」
藍が呆然となった。恵理子は続けた。
「碧はね、私の恩人なの。救世主なのよ」
「何が……」
「今まで、ずっとひどい目に遭っていたの。皆、優しくしてあげたら感謝してくれるどころか、逆に私を利用しようとする奴らばっかり。人に対する思いやりとか、優しさを持って他人に接しなさいとは言うけど、違う。優しさって、本当は弱い人間の自己防衛の手段よ。だから、強くてずるい奴はそこに目をつける」
貢が思い浮かんだ。そしてちふみ。
まだまだ、浮かんでくる。あんたは優しい娘だと、そう言って一番兄弟の中で、恵理子に犠牲を強いてきた母親。働かない父親は、お前は母さんより優しい子だと、小遣いをせびって来た。恵理子はいい人だから、私の苦労を分かってくれるよねって言って、借金の保証人を頼んできた同僚もいた。
「にっちもさっちもいかなくなって、ついに人を殺したの。酷い男で、そこのどぶ川に沈めて死んだって、誰も困らないような奴よ。それでも、殺したら警察に捕まる。クズでも真人間でも、命の価値は同じ。世間って理不尽よね」
藍が息を呑んだ。いい気味だと思いながら、恵理子は続ける。
「それを助けてくれたのが、碧よ。邪魔ならそれ頂戴っていうから、死んだ男をあげたの。そうしたら、とっても喜んでくれて……」
そうだ、法を犯した自分。それでも理不尽な裁きを受けなくてはならない。その災いから、碧が助けてくれたのだ。
「もう一人、女を殺したの。そいつもクズよ。殺した男の愛人だったんだけど、喧嘩別れして、男に慰謝料を寄こせって迫っていてね。男がいなくなったら、金が取れればそれで良いとばかりに、無関係の私を巻き込もうとしたの」
「……それも、お姉ちゃんが……」
「そう、私が殺して、碧が食べた。きれいさっぱりね。それから、私に教えてくれたのよ。恵理子は優しすぎるって。だからクズに目をつけられて、こんな目に遭うのよって」
動けなくなった貢が、最後に救いを求めてきた顔。
殺す前の、あのちふみの怯えた表情。
自分を傷つけた奴を殺したことに、全く後悔は起きない。それどころか、毎日のようにあの瞬間を思い出し、甘い飴のように舐り、留飲を下げている。
肉は喰われ、骨はゴミ箱。アイツらに相応しい末路だ。
『恵理子は、優しすぎる』
優しいままだったら、碧と出会わなかったら、今頃どうなっていたか。恵理子は考えただけでもぞっとする。
優しさというボロ布を体に巻いた、ただ搾取されるだけの女。最後には殺人という判決を受けて、社会的に抹殺されるところだったのだ。
「……そんなの、おかしい……」
恵理子が思った通りの、藍の反応だった。あまりに予測が当たっていたので、かえって恵理子は笑いながら腹が立った。
こんな子と、私が似ていると、碧は言ったのか。
どうせ、逃げるしか出来なかったくせに。碧と同じ血を引く妹でありながら、それを受け入れようとしないばかりか、碧から逃げようとした弱虫。
弱虫のくせに、他者を利用して庇護を受け、碧を捨てようとした卑怯者。
その結果、庇護者たちを殺したくせに、すねてハンストするしかない、死ぬことも出来ない奴なのだ。
「……どうして、あんたが碧の妹なのかなあ? 全然似てないし、強くもない」
それなのに、碧はこんな奴の為に、人を殺めてまで執着している。
妹だから?
恵理子は歯がゆい。碧の妹であること。それは自分の努力でもない、実力でもない偶然なのに、藍は碧に愛されている。
しかもあろうことにか、その幸せを忌避している。
「……違う」
「何が違うの?」
恵理子は吐き捨てた。この少女の存在を全て否定してやろう、そう決めた。
「私は、お姉ちゃんほど頭は良くないし、でも、お姉ちゃんの言葉は間違っていると思う。それは譲らない」
床に置いたランタンの光が、藍の顔を下から照らしている。その反射が、恵理子をゾッとさせる凄みに変えた。
「優しさと、弱さは同じじゃない。全く違うものだよ、あなたは過去の自分を優しいってそう言っていたけど、それは単なる弱さであって優しさの欠片なんか全然ない」
「面倒くさい事を言う子ね」
「ただ、他人に引き摺られていただけじゃない。気が弱いだけだ。そんなものを、優しさなんて言わないで頂戴」
藍の目が、真っすぐに恵理子を射抜いた。
「お願いされても、自分がイヤなら、イヤって言えばいいだけでしょ。イヤな目に遭いそうなのに、それを断らなかったから、予想通りイヤな目に遭っただけでしょ。それを、自分が優しいせいだって、それって違う」
「……」
「今は、お姉ちゃんに引き摺られているだけだよ。おまけに、関係ない人まで……」
藍の声が震えた。
「それで、強くなったつもり?」
思わず、手を上げていた。振り下ろした。
世界の端まで届くような音が破裂し、藍の体が、モルタルが剥げて、コンクリートむき出しの床に転がった。
「やかましいわね!」
身体が燃えるようだった。骨まで焼けつくすほど。
「あんたに何が分かる? そんな御大層なこと言っている、あんたの今の立場は何? 人が死んだのは、誰のせい? 碧はあんたの為に人を殺したのよ?」
「……」
「ほら、何か言いなさいよ!」
藍を引きずり上げ、体を乱暴にゆすった。
「ああ、そう。私が引きずられているって、結局、碧が悪いってあんたは言うのね」
引き歪む藍の顔を見ながら、恵理子は怒鳴る。
「でもお生憎さま、私は今、すっごく幸せ。あんたが何と言おうと、碧のおかげで、今が自由でいられるのよ。血を吸うダニから縁を切って、すっごく気分晴れ晴れよ。だから、例え私が碧に引き摺られているように見えても、それは私が望んだことよ。碧のためなら、何でも出来る。碧が悪魔だというなら、私は悪魔の手先よ。例えこの先、自分がどうなっても構いやしない。碧さえいれば、それでいいの」
「お姉ちゃんは、狂っているんだよ!」
藍の言葉は、悲鳴に似た叫びだった。
「どうして分からないの? 人を食べるって意味が分からないの? 同じ人間なのに、相手に生活や家族があったってことを、全く気にもしない。食用の牛や豚とごっちゃにして、ただ美味しいからって、自分の嗜好だけで命を奪うなんて、お姉ちゃんは酷過ぎる、そうは思わないの? どうしてそんな人に付き従うの?」
「言ったでしょう、救世主だって」
「だから、それも救世主なんかじゃない! ただ、その時に……」
「うるさいわね!」
藍の体を突き飛ばした。藍は背中から、再び床に倒れこんだ。
「これは、私の問題よ。あんたに口出しなんかさせない」
恵理子は言い放った。
間違っているも、正しいもない。これは信念だった。その前では、常識も良識も只の御託でしかない。
「あんたが、碧の妹だなんて、認めない」
「……じゃあ、何だというの?」
「ただの、弱虫。碧の足手まとい」
「……」
藍の顔が、苦し気に歪んだ。その表情をあざ笑いながら、恵理子はとどめを刺した。
「そう言って、自分は正しいと思っているんでしょうけど、実際に、今のあんたには何が出来るの?」
藍は口を閉じた。
ただ、睨みつける。
その目には、炎があった。しかし、恵理子にも負けないだけの炎を持っている。
「あんたが碧の妹だなんて、認めない」
恵理子は繰り返した。
「相応しくない。ここがイヤなら、死ねばいいのよ。どうせ、庇護者がいなきゃ生きてはいけないんでしょ? そんな弱小動物、ぐずぐず言わずにこの世から消えたら?」
「……」
「また他の誰かを、巻き添えにしないうちにね」
かっと藍の目が見開いた。手が伸び、皿を掴む。
さっと恵理子は顔を傾けた。皿の料理と焼いた男の手が、顔の横を横切った。
「食べ物を粗末にしないで。食べ物は命を頂く行為なんですからね」
「……さいてい……」
「弱虫に最低なんて、ステキな誉め言葉だわ」
恵理子は身をひるがえした。
「おやすみ」
藍が外に出られないように、部屋の戸につっかい棒をして、恵理子は碧の元に戻った。
裏庭に碧はいなかった。もう、火は消えていた。
碧は病院の前にいた。塚野という男が乗って来た車にもたれて、星を眺めていた。
月明かりに浮かぶ、碧の白い横顔に、いつもの無邪気さはない。どこか物思いに沈む、翳のある表情。
藍のことだ。
恵理子は直感した。
何で? と聞いてみたい。何であんな、ただの弱虫のことに気を取られるのかと。妹である、自然発生的な、血の繋がり。それ以上に何かあるの?
「碧」
恵理子は碧を呼んだ。
「何しているの?」
別に、と碧は身体を立て直した。
「藍、あの子、何か言ってた?」
「別に。まだ拗ねているだけ」
ふうん、と碧がつぶやき、恵理子に体を向けた。
次の瞬間、頬が鳴った。碧に頬をぶたれたことに、恵理子は愕然となっていた。
「……みどり……?」
「藍を、苛めちゃダメよって私は言ったわね」
「……いじめてなんか……」
「私にとっては、妹よ。忘れないで」
絶句しながら立ち尽くす恵理子の脇を、碧がすり抜けて歩いていく。
思わず、恵理子は振り向いた。碧の後ろ姿は、恵理子の言い訳など、聞かない決意を見せて離れていく。
ねぐらにしている病院の建物に入って行った。恵理子は追いかけることも出来ず、ただそれを見送った。
「……」
あの子が、憎い。
苛立ちは、腹の底でふつふつと煮えたぎり始めた。
藍のことで、あの碧が揺らいでいる。
それは恵理子にとって、あってはならないことだった。いつも超然として、不敵。それが碧の美しさの源であり、恵理子の崇拝する像そのもの。
それを、汚そうとするものは。
ゆるさない。口は勝手に動いていた。
窓から注いでくる月明かりだけが、部屋を照らしている。
散乱した食事と、ひっくり返ったステンレスの皿を藍は見つめた。男の腕に、赤い豆の煮込みがこぼれて、白い米が散らばっていた。
「……ごめんなさい」
声がこぼれた。
丸焼きにされた、手の持ち主に対してなのか、それとも速水家の人たちにか。
恵理子に投げつけられた「弱虫」が藍の臓腑をえぐった。見えない赤い血がずっと流れ続けている。
速水家にとって、自分は禍であり、災難そのものになってしまった。自分さえいなければ、速水家の人たちは今日も生きていた。明日も明後日も、ずっとずっと。
もう、失われた命は返ってこない。償う手段はない。
「速水くん」
由樹を思うと、身体が切り刻まれるようだった。恐らく、元凶である自分を憎んでいるだろう。いや、憎んで欲しい。自分を殺す理由と、権利を持てるとしたら彼しかいない。
その前に、姉を止めなくては。
藍は、手の丸焼きを見つめた。
この手の主は、まさか自分がこうなるなんて思いもしなかっただろう。何かをひっかくような、断末魔の形だった。
碧が、人間ではなくなっているのは明白だった。もう、人に対する共感も優しさもない、人をただの嗜好品としてしか、見えなくなっている。
速水家の人たちを殺害したのも、きっとそうだと藍は思う。妹を取り込んだ邪魔者、藍を苦しめる手段なのだ。
そんな軽い理由のために、三人が殺された。
母の佳子を、邪魔者として排除したように。
佳子を殺す前なら、病院へ連れていけた。
例え、精神病院で一生幽閉されても、碧は人間でいられたかもしれない。
でも、もう遅い。
明らかに、碧の心は人ではない。
人として、タブーを破るハードルは下がっていた。
「ごめんなさい……」
謝罪する資格もないかもしれない。
それでも藍は、速水家の人たちへ口を動かした。
指に咲いている小さな花が、月の光を受けて反射している。
大事な宝を藍は見つめた。
しかし、この宝を身に着ける資格は、もう自分にはない。
右の薬指にそっと触れた。指輪を押し上げて、指から引き出そうとして……
「!」
藍はうろたえた。
指輪が抜けない。
あの時、すっと入ったのだ。そんなはずはない。
藍はもう一度、指輪を抜こうと指に力を入れた。
抜けない。指輪が指に吸い付いたように、外れない。
何で? 藍は指輪を見つめた。
頭の中で、声が響いた。
――由樹のお嫁さんになってもらえるかどうかは、分からないけど……
丸々とした、陽気なサツキの声がよみがえる。
そして隣で微笑む雪代。
黙って見守ってくれていた定行の目。
藍は、ただ指輪を見つめた。
指輪は、月の光を吸い込み、藍の目の中で光を放つ。
由樹の声が浮かぶ。
――でも、いつかはちゃんと向き合わなきゃ。それは湖川だって、分かっているよな? すごく大事なことなんだから。
「……そうね、向き合わないと」
藍は思い出と対話した。
もう、逃げてはいけない。
私も卑怯だったんだ。あの恵理子という人の言うとおり、弱虫だった。
藍は思う。碧から逃げていた。会いたいと思って、街を探していても本心は違っていた。どこか遠くて幸せになって欲しいと、都合のいいことを考えていた。
速水家を、逃げ出す道具にした。姉を断ち切ろうとした。その薄情な狡さに、碧は怒ったのだ。
自分が卑怯だったからと、碧の行いを弁護しようとは全然思わない。だけど、藍には碧を止める理由と、義務がある。
母ですら出来なかった。自分に出来るのかは分からない。
しかし、それは義務だった。
碧の妹なのだから。
それまで生きなくては。
藍は、散らばった食事を見つめた。ここに連れてこられてから、水一滴も、米の一粒も食べていない。
男の肉が、旨そうな匂いをさせていた。
自分の中の、生命力の声に従って藍は肉に手を伸ばした。指が触れた。
はっと手を引いた。
唾がたまる。
生きる理由と義務を見つけた瞬間、体は栄養を求めて暴れ始めている。
「ダメだ」
藍は自分に言い聞かせた。
「ダメ……人間なんだから……私」
胃の中を荒れ狂う飢餓に、藍は抵抗した。生きなくてはという義務と、人間でありたい願いの針が、何度も揺れ動く。
針が大きく飢餓に触れた瞬間、藍の手は人肉へ伸びていた。その腕をつかんだ。
口に持っていく。豊潤な匂いが鼻腔に突き刺さった。口を開けた時だった。
目の端に、光が入った。指輪の石だった。
「……あ……」
すう、と頭が冷える。
藍は、人肉を手放した。思い切り口を開けた。
藍は自分の右腕に食いついた。激痛と赤い血がほとばしった。
「……っ……」
耐えた。人肉への欲望に。
激痛が、頭の中を駆け巡って自制心に変わった時、ようやく藍は自分の右腕から口を離した。
そして、散らばる赤い豆を拾い集めた。汚れた米を手で掴んだ。
一緒に口にほおばった。土の匂いと砂利の味とともに、食べ物を飲み込む。
生きなくては。
そして、ここから出なくちゃ。
藍は、鉄格子のはまった窓の外を見た。
「お姉ちゃん!」
この、かすれ気味の声が届くかどうかは、分からなかったが、藍は叫んだ。
「話をしたいの、どこにいるの?」
声は静寂の中に吸い込まれていく。まるで世界から切り離されているような空間だった。
「お姉ちゃん!」
何度も叫んだ。息が切れた。
数度目、声が枯れ、咽喉が切れそうになった、その時だった。
「うるさいわね」
ドアが突如開いた。
「なあに? ようやく感動の再会を喜ぶ気になった?」
「……えちゃん……」
ほら、と差し出されたコップ一杯の水を、藍は一気に飲み干した。
「何よ、話って」
腕組みをして自分を見下ろす姉へ、藍は目を向けた。
「お願いがあるの。これが、最後のお願い」
「何よ」
碧の目は、完全に冷えていた。怒っているのは明らかだった。
「お姉ちゃんを置いて、逃げて、ごめんなさい」
ふ、と碧の目が緩んだ。
「分かればいいのよ」
分かれば、許してあげる。碧は言った。
「そうよ。あの夜、せっかく二人だけでこれから楽しく過ごせるように、あの女を殺したのに、藍ってば、逃げ出しちゃって」
「……」
「勝手に警察へ行って、好きな男の子の家に住んで、お姉ちゃんを忘れて幸せになろうとしたんだもの。ひどいわよ」
拗ねる口調で、碧は続けた。
「別に、好きで殺したんじゃないわ。藍がお姉ちゃんよりもあの人たちが好きなんだって、それが口惜しかったのよ。分かってくれた?」
やっぱり、そんなつまらない理由で。
もう、人の顔ではなくなった姉を、藍は見つめた。
「お姉ちゃんが、好きよ。嫌いになるはず、ないでしょう」
心の底から、そう思っている……今でも。
「……だから、お願い。病気を治そうよ」
「病気って、何よ」
「おかしいよ……人を食べるのが好きだなんて。駄目だよ、お姉ちゃん」
一緒にいるから、と藍は繰り返した。
「もう、逃げない。お姉ちゃんとずっと一緒にいるから、警察へ行こう。そして、事情を話して病院で検査を受けて、治療しようよ。ずっとお姉ちゃんと一緒にいる。一緒に牢屋に入ったっていい。一生、病院でもどこでも、お姉ちゃんとずっと一緒にいるから、お願いだから……もう、これ以上人を食べないで」
碧の表情が、苛立ちに変わった。
それでも、訴えるしかない。藍にとっては、碧に向き合う手段は、これ以外に思いつかない。それしか償う方法が分からない。
「お願い」
万感の、全ての祈りを込める。それだけは、分かって欲しかった。
「分かってないわね」
碧のため息は、部屋の闇を濃くした。
「まるで、異世界の人と話をしているようだわ。言葉は通じるけど、心は通じないってこういう事をいうのね」
藍の言葉を、碧は切り捨てた。
「本当に、昔からそう。何で藍は、私と一緒に共有ってことをしないのかなぁ」
「……共有って……」
「考えたら、私たち姉妹なのに、一緒におままごとも人形遊びもしたことないのよね」
「……それは……」
子供の頃から、階級があったからだ。祖父母と母の間で、姉妹間は線引きされていた。
だから、どうしても藍は碧には甘えられなかった。
お姉ちゃん、一緒に遊んでと、碧にせがんだことはない。
「一緒にお習字教室、一緒にピアノのお稽古や絵画の教室へ通ったけど、全然私たち、一緒じゃなかった。藍は私の後ろを付いてきているだけで、楽しくも嬉しくもないのは、私にもよく分かっていたわよ。そうでしょ?」
藍は、思い出す。
そうだった。厭だった。
習い事の師匠や先生、周囲から、碧と比べられること。それが嫌で、全てだった。
習字もピアノも、絵も、自分で自分の技術の上達や、磨かれていく感性を楽しむことが出来なかった。
「私が隣にいたから、楽しめていないのは、よく分かっていたわよ」
何も言い返せない。その通りだった。
「それは、藍は言わないわよね。でも分かるのよ。どんな気分だと思う? 自分自身が、疎まれているって」
「疎んでなんか……」
疎んではいない。碧の実力は本物だった。絵でも習字でも、ピアノでも、何でもこなしてしまうその姿は、憧れでもあった。
「憧れていた。お姉ちゃんを疎んでなんかいない!」
「でも、教えてって言ったことはないわね」
「……それは、邪魔をしたくなかったからよ。私に合わせて、お稽古ごとのおさらいに付き合わせていたら、お姉ちゃんの上達が遅くなるから、ダメよって、お母さんがそう言って……」
「あの女の、言いなりね」
ふう、と碧はわざとらしいため息をついた。
「本当に、それだけ?」
藍は、碧に心の中を読み取られた気がした。
近寄りがたかった。馬鹿にされたくなかった。
こんなことも出来ないの? 分からないの? 碧にそう思われたくなかったのだ。
「私はね、取り巻きなんか、別にどうだって良いの。いつか言ったわね」
そうだった。いつか碧が言った事を、藍は思い出す。
――好かれているのは尊いとか、好いてくれた相手を大事にしなきゃいけないって、決まっているの?
――好かれるのと、好きになるのは別問題よ。別に、勝手に憧れられたって、私の知ったことではないわ。
「藍ってね、まるで私の取り巻きなのよ。私のご機嫌を伺って、嫌われたくないって遠慮して、崇拝して、憧れているだけ。一番近くにいるけど遠いの。私はね、妹が欲しかったの。分かる?」
ざっくりと、心が切られた気がした。
「ただ一緒に楽しんで共有する妹が欲しいのよ。別に喧嘩したっていいわ。妹が欲しいのよ」
「……」
「あの日の事故で、こんな嗜好に目覚めた。こんな美味しいものがあったんだって、目が覚めたわ。美味しいものを食べる幸せって、特別よ。藍も同じだと分かって、私は嬉しかったのよ。やっと妹と共有できるものが出来たって。一緒に同じ幸せを共有して、話し合うことが出来るのよ? それは秘密性が高ければ高いほど、共有する密度が高くなる。二人の秘密が出来て、これで本当の姉妹らしくなるってね」
……お姉ちゃん。
言葉は、言葉にならなかった。
言葉が届かないのではなかった。最初から、二人とも違う方向にいたのだ。
「物凄く、美味しいのに、それでもイヤだっていうのよね。藍ってば」
「だって……」
「そうそう、同じ人間なのにってね。でも、同じ人間だからどうなの?」
碧は小首をかしげた。
「たまたますれ違ったり、同じ場に居合わせる相手って、同じ人間なのかしらね」
「……え?」
「別に、私だって鬼じゃないわ。誰彼見境なく食べようとは思わないわよ」
食べる相手と、食べない相手は別よと、碧は述べた。
「自分と関係もない相手まで、人間として認める必要はないじゃない。そいつがいようといまいと、別に私になんの影響があるわけでない。これからも、関わりもない相手であるのが、私にとっての歩く肉よ」
「……お姉ちゃん……」
「生きているというなら、食肉にされる動物も同じよ。じゃあ藍は、牛や豚に感情移入する? 言い換えれば、感情移入の無い相手は、牛や豚と同じでしょ」
不意に、藍は思った。
元々、碧は共感性が薄い人間だったのではないか?
綺麗で優等生、皆の憧れの的だったが、本当に心を許している友達がいたのか。
思えば、碧には対等な相手がいなかった。
「残念ね」
碧の声から、感情が失せた。
「やっと、本当に姉妹になれるって嬉しかったのよ。本当よ」
「……それは……」
「お姉ちゃんはね、自由気ままに生きたいのよ。それが人ではないというなら、それで結構よ。それなのに、藍ってば、一緒に牢屋や病院なんていうんだもの。がっかりよ」
碧の心が、手からすり抜けていく。藍は虚脱感とともに、それを眺めた。
頬に白い手がかかった。気が付くと、碧の顔が、藍のすぐ目の前にあった。
「まだ、何かに未練があるのかなあ? それは、お姉ちゃんと一緒になりたくないってことよね? 人間でいたいって」
そうよ、と藍は言葉に出さずに、目で答えた。
「でもねえ、お姉ちゃんは妹が欲しいのよ。可愛い藍ちゃんがね」
「わたしだって、おねえちゃん……」
「藍は人を食べたくない、そして私は自由に生きたいし、人を食べる。そうなると、何を共有出来るのかしらね」
碧が笑う。諦めでもなく、自嘲でもない。
藍は、慄然とした。笑顔であって、笑顔ではない。凶を煮詰めた表情。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
「何を、考えているの?」
藍は震える手で、碧の両腕を押さえた。
「お願い、もうやめて……私は、お姉ちゃんを嫌いになりたくない。憎みたくない」
「憎しみは、愛情の裏返しよね」
直感的に、不吉の意味が分かった。脳裏に浮かんだそれに、藍は悲鳴を上げかけた。
「速水君は、やめて!」
「あの子と、お姉ちゃんとどっちが好き?」
「そういう問題じゃない! やめて、お姉ちゃん。速水君はもう関係ない!」
「そうでもないわよ」
目の前が白くなった。先に身体が勝手に動いた。碧の首を両の手で掴んでいることに気が付いたのは、後だった。
真っ赤に燃えた姉の目と、顔が藍の目の前に迫っていた。自分のしていることが分かった後でも、藍には止めることが出来なかった。
姉を止める、たった一つ残された方法、そのはずだったが。
猛烈な力が横殴りに藍の体を襲う。重力が消えた、そう感じた瞬間、藍は体を床に叩きつけられていた。
したたかに背中を打ち、後頭部を打った。意識が一瞬暗くなったが、襟首をつかまれて、意識ごと引き摺り起こされる。
目の前に、殺意と憤怒を凝縮した表情があった。
生温かく、荒々しい息が顔に吹きかかった。
「……分かったわ」
激痛とショック、罪悪感で混乱する藍の思考に、碧の声が黒い水のように染み込む。
藍は捨てられた人形のように、再び床に放り捨てられた。
「あんたは、妹じゃない。裏切り者よ」
その言葉に、藍は凍りつく。それでも腕で身体を支え、藍は顔だけを起こした。
ランタンの灯りの中に浮かぶ碧の姿は、まさに幽鬼だった。
無表情の中に、色々な感情を混ぜ合わせて自分を見下ろしている。恨み、悲哀に殺意と憎悪。藍は、自分のしようとしたことに戦慄し、そしてその結果に恐怖した。
「やめて、お姉ちゃん……」
速水君だけは。
力を振り絞って、口を開こうとした時、碧がランタンを持って立ち上がった。
碧の顔は闇の中に溶け込んだ。
無力は承知だった。それでも離れていく背中と、ランタンの灯りに向かって藍は叫んだ。
「お姉ちゃん!」
病室を出て行く寸前に、碧が振り向く。その言葉に藍は総毛だつ。
「あの子は、あなたにとっても美味しいはずよ」
……心の底から、嬉しそうな笑いだった。
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