第14話

ドライブの途中、塚野が思い出したように由香に心霊スポットに寄ろうと提案した。

「まだ夕食には早いし、ちょっと寄り道するだけ、な?」

「どこなの、それ?」

「ほら、ここ。H村っていうんだけどさ」

 塚野はハンドルから片手を外し、カーナビを指差した。確かに、進行方向から少しずれた場所に、集落を示すマークが点いていた。

「もう誰も住んでいないんだけど、すげえ有名な心霊スポット。村人のほとんどが突然狂い死にして、生き残った人たちが逃げ出しただの、狂い死にした人は、そのまま家に置き去りにされてミイラ化していたとか、実は大量殺人だったとか」

「やだあ、それいつの話?」

「それがねえ、つい最近。ほら、鳥インフルって流行ったじゃないか」

「最近何て、なんかやだあ。怖くない?」

 由香が行くとも言っていないのに、塚野は突然、ハンドルを切ってわき道に入った。

 暗くなるまでの時間稼ぎだ、と由香は直感した。

 塚野とは、先月の大学の合コンで知り合った仲だ。爆発したようなヘアスタイルに細い目と、決してハンサムでもないが、軽いノリでやたらと女慣れしている。

 その軽さが、気が楽だった。数日後、塚野は由香にメールで、休日のドライブに誘ってきた。由香もそれに乗った。

 話も面白いし、いっしょにいても退屈はしない。大学もそこそこ偏差値が高い。

 付き合うには良いかもなと、思い始めていた頃だった。

 心霊スポットとはいっても、まだ黄昏時で明るさはあった。まさかそんな早い時間から、不埒な行為には及ばないだろう。

「H村」昔は養鶏が盛んだったという。数年前の鳥インフルの流行で、中心産業が廃れて村人たちが出て行った、と表向きは言われているが、最強の心霊スポットにされているだけあって、塚野が言うとおりの血なまぐさいエピソードが、ネットで流れている。

 車が一台、ぎりぎり通れる田舎道。舗装されていない道に揺れながら、樹々のトンネルを抜けると突然目の前が開けた。

 誰も歩いていない。

 灰色の畑には、何も植えられていなかった。土だけがあった。

 打ち捨てられ、屋根の崩れた鶏舎と、バラックの壁と瓦が落ちた屋根。捨てられた村は、昔は人が住んでいた、灰色の忘却の中に沈んでいた。

「不気味ね」

 由香は呟いた。時は止まり、風化した生活の場はうすら寒い。

 その向こうに、トタンと瓦やかやぶきの民家の間に、場にそぐわない、三階建ての、小さなコンクリートの四角い箱が見えた。

 車はそこへ向かう。

 塚野はその建物の前に車を止めた。

「へえ、何だか、ここだけ立派に見える」

「ネットじゃ、ここが最強スポットらしいぜ。元精神病院だとか」

「ここに入るの?」

「いいじゃん。まだ明るいんだしさ」

 ひびは入っているが、この村の中では一番背が高い。白い壁が夕日に照らされて輝いていた。反射で入り口であるドアの奥は黒い。

 陰気なベールが建物を覆っている。何もないのが、かえって不気味だ。

入りたくない。どうやって塚野の気を変えるか、由香は考えた時だった。

「?」

 洞くつのような建物の入り口から、突然二人の女が出てきた。どちらも若い。

 こっちに向かって手を振っている。塚野が車を降りて彼女らへ向かうのを、由香は急いで追った。

「やったぁ! 人が来た。あー良かったあ」

 由香や塚野と、あまり年の違わない女が嬉しそうに言った。

「どうしたの、キミたちも探検?」

「ネットで評判を見て、ここに来てみたのは良いんだけど、いざ入ろうとすると、やっぱり怖くなっちゃって、ねえ?」

「明るいけど、やっぱりなんだか怖いのよね、女二人だけだし」

 女二人は、年上の方がエリコ、年下がミドリと名乗った。友達らしい。

 年上の方はまあまあの器量だったが、由香はもう一人の方に危機感を感じた。人目を惹く娘だ。現に、塚野の態度が怪しくなってきた。

「女の子二人で、勇気あるなあ。凄いじゃん」

 でもね、とエリコが笑った。

「来る前に、二人でホラー映画観ちゃったのがいけなかったのよね」

「怖いから、やっぱり帰ろうかなんてね」

「そりゃあキミ達、ヤバいでしょ。ここまで来て何やってんのって」

 由香は気分が悪くなった。二人に対する塚野の態度が、やけにべとついている。

「俺らも、ここに興味あって来たんだ。でもこの人も怖いって言うし、どう? 俺らと一緒に入らない?」

「いいんですかあ?」

「やったー」

 この人、と言われたことも、自分に断りもなく、見も知らぬ女二人を誘ったのも腹立たしいが、車が無ければ由香は家に帰れない。

「じゃあ、私ここで待ってる」

 由香はぶっきらぼうに言い放った。

「彼女たちと行けば?」

「駄目、一緒に入りましょ」

 いきなり、ミドリと名乗る方が由香の腕をつかんで引っ張った。その無遠慮さに由香はついかっとなって、振りほどこうとする、その時だった。

「そうだよ、一緒に入ろうよ。俺、何のために由香ちゃんをここに誘ったの」

 自分の失態に気が付いたらしく、弁解じみた声と顔で、塚野が由香の手を引っ張った。

「行こうよ、な? 後で由香ちゃんの好きなもん御馳走するから」


 入り口から入った瞬間、由香は後悔した。

 外はまだ夕暮れの光はあるものの、建物の中は暗かった。カビと土、その中に、わずかな薬品臭が混じって、荒れ果てた空気の中で流れていた。

「懐中電灯、持ってくりゃ良かったかも」

 塚野がぼやいた。由香は提案した。

「何なら戻る?」

「いや、スマホの光があるし、目もすぐ慣れるだろ。外はまだ、明るいんだしさ」

 塚野が事も無げに言った。

 まず、進んだのは奥にある診察室だった。寝椅子が中央に置かれ、割れた瓶やチューブなどの医療道具が散乱していた。注射器も落ちている。

 スマホの動画を取りながら、塚野が実況する。後でネットに上げるつもりだ。

「ハイ、本日一二月七日。午後十六時半。我々探検隊、ネットで評判のH村にあります、謎の建物に侵入、調査しております。村の住人が狂い死にしたとも、大量殺人が起きて死に絶えたとも言われる、この謎の廃村。その中にそびえたつ、一種異様な建物。この中に、消えた村の秘密が隠されているのでしょうか?」

 乱れた薬品棚の中へ、塚野が実況を続ける。

「寝椅子に薬品棚、生々しい痕跡が、我々にこの場所で起きた真相を語りかけてくるようです」

 そして、落ちているさびたメスを拾い上げ、つくづくと見る。

「この診療所には、一体何があったのでしょう……さび落としたら、使えるかなコレ」

「やめてよ、気持ち悪い」

 由香は周囲を見回しながら、寒気をこらえた。気分的なものなのか、温度が下がっているのか、底冷えする。

「ねえねえ、上に行きましょ」

 ミドリが塚野の腕を引っ張った。

「みんなでいれば、怖くないし」

 一度診察室から出て、待合室の横にある、狭い階段を上がった。

 二階は両脇にドアが並んでいた。全部で六部屋。

「病院っていうより、診療所だな、こりゃ」

 塚野が周りを見回しながらつぶやいた。

「病院と診療所はどう違うの?」

「ええとね、まず入院患者用のベッドの数が二〇〇以上が病院でね……」

 何を得意げにうんちくを語っているのよと、由香は塚野に苛立った。

 この建物に流れる、厭な感覚が分からないのだろうか。蜘蛛の糸のような視線に、身体に絡まっているのが分からないか。

 だが知らない女二人に挟まれて、由香の前を歩いていく塚野は、きっとそれに気が付いていない。

 ドアを一つ一つ開けて、中を確かめて歩く。

 二階は、入院患者用の病室の階のようだった。

「マットレスや毛布、枕が残されています」

 吸い飲みや花瓶も転がっていた。ここで闘病生活していた患者の気配が、確かに息づいている。

「この病室にいた患者は、どうなったのでしょう? 無事に彼は、家に戻れたのか、それとも……」

 残された汚れたマットレスや枕、ボロ毛布が生々しい。

「怖いの?」

 突然、黒く長い髪を振り払うように、ミドリが後ろの由香に向かって顔を向けた。

「さっきから、大人しいわね」

 何だか、この子が嫌だ。

 由香は思う。何だか、禍々しい空気をまとっている。綺麗な子だけど、何ていうか……

 不意に思う。

 この人たち、どこから来たの?

 二人とも、手ぶらだった。この近所の人間? 

「あのさあ、キミ達どこから来たの?」

 塚野が呑気に声を出した。

「近所の人? ここって交通機関遠いし、車でも無さそうだし」

「秘密」

 何もったいぶっているのと、由香はミドリに苛立った。

「ねえ、二手に別れない?」

 エリコが突然提案した。

「何だか、外も暗くなってきたでしょ。早く探検すませて帰りましょ」

 確かに、鉄の格子のある曇りガラスの向こうは、徐々に光が弱くなっていた。廊下の奥が薄いベールをかぶったようだ。

「そうしようか」

「じゃあ、私たち三階へ行くわね」

 突然エリコに腕を取られ、由香は仰天した。

「え? 何で?」

 ついさっき会ったばかりの、通りすがりの人間なのだ。しかも由香は、塚野という連れがいる。それを何故、わざわざ引き離すのか?

 いいようもない気持ち悪さが這い上った。もしかして、私たちを待ち伏せていたのではないか? という突拍子の無い事まで考えてしまう。

 しかし、塚野は全く臆することはないようだった。

「じゃあ、俺たち二階ね」

 俺たち? 俺たちって、そのミドリって子と一緒にいるという意味?

 あんた、誰と一緒にここに来たのよ、ここに誘ったのはどっちの方よと、苛立ちを通り越して、怒りが由香の頭の中を焼きかけた。

 もういいと塚野を置いて、ここから走って出て行こうとすら考えたが、出て行っても一人ぼっちで車の中にいるだけだ。

「行きましょ」

 くすぶる苛立ちを抱えたまま、三階へ連れて行かれた由香は、後の二人から十分離れたところを見計らってエリコに噛みついた。

「あんたたち、何を考えているの? 初めて会った人間に図々しくない?」

「何がって、何が?」

「割り込んでこないで。元々、私たち二人だったのに、何をあんたたち、塚野さんと私を引き離そうとしているのよ」

 言いながら、うっすらとイヤな膜が背中を覆う。

 気味の悪さが拭えない。目の前にいる若い女は、どこまでも若い女でしかなかった。

 しかし、ずれた距離感に、何か目的があるのかと勘ぐってしまう。塚野と自分を引き離して、一体に何があるんだ?

 エリコが小首をかしげた。

「別に、強盗とかそんなのじゃないわよ」

 奥に進む。二階と同じように、ドアが並んでいた。そのうちの一つをエリコが開けて入った。由香の鼻先でドアが閉まった。

「何なの、もう!」

 閉められたドアを開けて、由香は中に入って急に立ち止まった。

 背中を向けて、恵理子が部屋の中に立っていた。

 窓もなく、真っ暗だ。何も見えない。

「……なにやってるの?」

「穴が開いてる。危険だわ」

 エリコが床を指さした。目が慣れてくると、二メートルほどの真っ黒い穴があった。

「……ここ、もしかして崩れたりしないよね?」

 イヤな想像をしながら、恐る恐る由香は中を覗き込んだ。闇が蠢いている。

「?」

 突然、首に何かが巻き付いた。思わず首に手をやる。荒縄だった。

「!」

 状況の意味を理解し損ねた。首に縄、ひょっこりと顔を出した「殺される」というイメージが頭に駆け巡るが、理性がそれを拒否した。思いもよらぬ「死」由香は戸惑う。

「……?」

 どん、と恐ろしい力で突き飛ばされた。由香の体が崩落した床の穴から転落した。

 頸椎がショックで砕けた。それでも由香は、自分の身に起きた意味が分からなかった。



 ドスっとどこかで、腹に響く音がした。

 一瞬、塚野は病室で立ち止まり、窓へと走った。しかし、病室の窓から見える外は、何の異常もなかった。駐車場を見下ろしても、乗って来た車は無事だ。

「あのさあ、どこからきたの?」

 さっきの質問を、塚野はやり直した。

 純粋な疑問だった。彼女がどこに住んでいるのか、今後会える距離なのか?

「あなたと同じところ」

「誤魔化さないでよ、でもさあ、同じとこなら住んでいるところ近いだろ。メアド交換しようよ。次はもっと賑やかな場所で会おうか」

 瀕死寸前の光が病室に差し込む中で、少女は声を出さずに笑う。塚野にとって、女の子を笑わすことが出来れば、半分落したも同然だった。

 由香は世間標準から外れない無難なタイプ。受け答えにズレがなく、そこそこ可愛い。付き合うとしたら、それが長所と安心感でもあるが、面白味がなく、退屈という欠点でもあった。

 しかし、目の前にいる『ミドリ』は、ルックスだけではなく、どこか規格外の空気を漂わせている。初めて会ったばかりなのに、塚野にとって、彼女の持つ、その吸引力が気になって仕方がない。

 由香とは別に付き合っている訳じゃない。脈があれば、こっちのミドリに乗り換えても全然良い。

「全部、同じ部屋ね」

 病室を回りながら、ミドリが言った。

「この後、どうすんの? 一緒に車乗ってファミレスへ行かない?」

 由香の機嫌が悪くなるのは目に見えていたが、由香に気を使う事を、塚野は捨てた。

 合コンで出会った、ドライブに誘った。由香にはまだ二段階しか踏んでいないので、カノジョ候補としても、今なら引き返せる初期段階だった。

「そうねえ、どうしようかな」

「せっかくだしさ、大勢の方が楽しいじゃん」

 軽いノリで相手に踏み込み、自分のペースに引きずる。いつもこの手で成功している。

「いこいこ、じぶんのトモダチ、今どこ行った?」

 薄い微笑みを浮かべながら、ミドリが次のドアを開ける。

 部屋の奥に、何かがぶら下がっている。

 塚野は、喋るのを止めた。

 口がぽかんと開いた。突然目に入った光景を、頭で処理する方が先だった。

 部屋には、箱が積み上げられていた。倉庫だ。

 窓一つない。開けたドアから入ってくる光だけがすべて。その光が部屋の奥へ届き、室内を浮かび上がらせている。

 天井から伸びているロープ。その先にだらんとぶら下がっているものが、惰性でくるくると回っている。

 さっき、別れたばかりの由香。数分前に生きていた女が、首を吊って死んでいる。

 首は胸へ折りたたむように折れていた。

 塚野は、ただ見ていた。

 自分が何を見ているのか、何が起こっているのか、どうして由香が死んでいるのか、全てを把握するのには、時間がかかり過ぎた。

 声だけが出た。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」

 ミドリに振り向く。声を発する。

「あ、部屋を間違えちゃった」

 ミドリは小首をかしげた。そして上へ向かって叫ぶ。

「エリコー、ごめんなさい、こっちの部屋に入っちゃった」

 しょうがないなあ、と上から声が落ちてきた。

 死体への恐怖が暴発し、塚野の頭を吹き飛ばした。

 恐怖を奇声に変えて、塚野は部屋から走り出た。下へ降りる階段に向かって走る。

「うぐわあああ」

 階段があると思った場所は、壁だ。反対方向へ走ったのだと、塚野の頭は絶望と戦慄に染まった。

 階段の方向には、女二人がこちらを見ている。

「ぢぐじょうう」

 生存本能に闘志が混じった。女二人、こっちは男だ。何を恐れることがある?

「どげええ」

 怒鳴りながら、二人の間に突進する。今の塚野は、暴走する機関車だった。

 さっと二人が道を開ける。勝利感がわずかに起きた、その時だった。

 足に、何かが引っ掛かった。

 塚野はバランスを崩し、前のめりになった。暴走の惰性で足をもつれさせて走る。

 目の前に、壁があった。その横に下り階段がある。

「ぎぐっ」

 肩から斜めに体勢で、塚野は壁に激突し、床に放り出されるように転がった。突然重力が消えた。視界が斜めになった。

 ゴロゴロと、樽のように塚野は階段を転がり落ちた。背中から前正面、全ての角度に渡って段差が食い込み、床に叩きつけられた。痛みをゆっくり味わうヒマもなく、激痛が重なりかぶさってくる。

「ヴぁあ、ああぁ……」

 出る声は、全て泣き声だった。ゆらゆらと塚野は立ち上がった。足に激痛が走った。捻挫だ。階段の上から、自分を見下ろす二人の女。

 塚野は片足を引きずりながら出入り口へ走った。ガラスの外、自分の車がまんべんなく見えている。希望が見える。助かる。

 そして見えない壁に再度激突し、床に放り出された。

 涙と鼻水が、罵声と共に咽喉からほとばしった。塚野は神を呪い、ココに来ようと提案した自分を憎悪した。

「あげろおお」

 ガラスを叩いた。何か壊すものはと探した。

 ふ、と首筋に吐息が吹きかけられた。

「むだよ」

 殺人者の吐息。

 背中が、氷の毛虫で埋め尽くされた。

 塚野は背後に立っていたミドリを突き飛ばして、逆方向へよろめき駆け走った。診療室、あそこに窓があったはずだ。

 飛び込んだ室内は、真っ暗だった。塚野は、入り口傍に会った薬品棚を倒してバリケードにした。足の痛みを考える暇もない。

 キャスターワゴンを押し、簡易ベッドを押して入り口をふさぐ。

 スマホを取り出した。これで通報する。

 こっちは男、向こうは女とはいえ、二人だ。しかし女どもはそろって狂っているし、こっちも足を捻挫している。必ず勝てるとは思えない。

 指が震える。心臓が壊れるほど脈打ち、背中も頭も、汗がしたたり落ちていた。

 何故、あの二人は由香を殺したのか。

 絶対に自分は殺されたくない。

 塚野は、今は生存本能だけに支配された獣となっていた。

 心臓が縮み上がった。バッテリー残量が少ない。

 さっき動画を取ったからだ。だが、助けは呼べる。

 警察は何番だ? 指が震えて、画面がスクロールしない。

「ナニしているの?」

 心臓が、口から飛び出しかけた。

 後ろにいるのは、エリコ。

 信じられない光景が、塚野の目を貫いた。

 目の前にあるバリケードの薬品棚が、音を立てて動いた。まるで、位置をずらすかのように滑らかに。薬品棚はワゴンを押し、簡易ベットごと動く。

 診察室が開いた。

「食事に誘ってくれたくせに」

 息を切らせるようでもない、ミドリのシルエットが部屋に入って来た。

「じゃあ、お食事しましょ」

 逃げようにも、塚野の筋肉はショック死していた。

 猫の首を掴まれるように、塚野は髪の毛を掴まれ、ガラスのドアの前に連れて行かれた。

 恐ろしい力だった。頭皮ごと髪を剥がされそうだった。

「いわないよ……だれにもいわない……」

 あれに乗れば、こっちのものだ。逃げることが出来る。

 ガラス戸の向こうは、薄闇に包まれつつあった。その奥にある、希望の残り滓となった自分の車を食い入るように見つめ、塚野は涙と共に誓った。

「ゆかは、きえたんだ、だれもしらない、おれもいわない……」

 何故、由香が殺されたのか、塚野にとっては、もうどうでも良い話だった。

 自分が生きる、逃げるのが先だ。後はどうでもいい。

「たすけて、だれにもいわないから……」

 塚野は繰り返した。

「おねがい、たすけて……」

「部屋さえ間違わなきゃねえ」

 ミドリがため息をついた。

「こいつに気付かれずにやれたのに」

「なんで、なんで? べつにおれ、きみたちになにもしてないよお、なにかのまちがいだよ、はじめてあったんじゃないかあ」

 塚野をよそに、二人は会話する。

「そういう事もあるわよ」

「そうは言っても、せっかくエリコは綺麗に仕留めてくれたのに」

 懇願も命乞いも、すべて素通りする。塚野は自分が鳴いているだけの、屠殺前の牛かブタになった気がした。

 自分の命に、価値は無い。

「せめて、せめてさあ……殺される理由、教えて……」

 もう、助からない。

 塚野は死の気配を、肌で感じ取った。

 だが、納得が欲しい。どんな理不尽な理由でもいい。何も分からずに殺される方が、塚野にとってよほど理不尽だった。

「お食事って言ったでしょ」

「……分からないよ……一緒に食事をって、それがどうして……?」

「あなた自身が、お食事なのよ」

 結局、塚野は意味が分からないまま殺された。


 首吊りさせたままだと、糞尿や体液で肉が汚れてしまう。

 恵理子は由香という女を、床の上に降ろした。こうしてみると、何も知らずに意味も分からないまま、殺してやれたのは一種の功徳だった。

「あんまり、ストレスをかけずに殺してやるのが一番なんだけど」

 二つの死骸を一人で軽々と病院の裏庭に運びながら、碧が言った。

「肉の味がねえ、変わっちゃう気がするの。なんだかこう、雑味が入るというかね」

 裏庭に、木の切り株がある。斧も倉庫の中で見つけた。

 日は落ちていた。樹の枝にランタンをかけて、明かりの下で塚野の体を切り株に置いた。

 碧は斧を振り上げた。

 脚、腕、首が切り落とされた。腹は切り裂いて、後で内臓を取る。

「なんかこう、キャンプをしている気分ね」

 散乱する手や足を前にして、呑気に言う碧の姿が随分シュールだ。

 恵理子は苦笑した。このシュールさに慣れてしまった自分に呆れるところもあるが、それでないと碧に付き合えない。

 そして実際、自分もこの生活を、おままごとのように楽しんでいる。

 火を起こした。かまどを作って肉を焼く。

 ぱちぱちと燃える炎で、自分の食事を作った恵理子は、塚野の心臓を串焼きにする碧に聞いてみた。

「ねえ、あの子は?」

「食べたくないんだって。まだ拗ねてる」

 妹に向かって微かに混じる、碧の苛立ちに恵理子は嫉妬しつつも、話題を変えた。

「街に出て、買い物ついでに、ネットカフェに入ってニュースを見てきた。あの事件、警察はやっぱり、あなたの家と結び付けているみたいね」

「ふーん」

「……何で、あの男の子殺さなかったの? 目撃者なのに」

「藍への切り札」

 曖昧に、ふうんと恵理子はつぶやいた。

 炎を見ながら、碧は続けた。

「殺しといたほうが、良かったと思う?」

「可哀想だけど、目撃者は殺しておくほうがベストね。どうせ三人も四人も同じだし」

 言いながら、恵理子は自分の変化に気が付いた。昔の自分なら、言わなかった言葉だ。

 人を傷つけたら、必ず自分にも返ってくる。そう思うと、怖くて人を攻撃することすら出来なかった。

 優しさは、自分を守らない。それに気が付いたから、強くなったのか。視線から他人を外すことによって得た、これが自由というものか。

「別に、殺すのが目的じゃなかったもの」

 碧は火を棒でかき回した。

「私を忘れて、姉の私を捨てて、あの家族に身を売ろうとした。藍にお仕置きをする、それが目的よ。あの家族を殺したのは手段」

「……」

「あの子を殺したら、藍は絶対に私を許さない。でも、生かしておけば色々切り札に使えるわ」

「その男の子だけど、犯人を見なかったって、警察でそう証言しているらしいわ」

 あら、と碧が目を見開いた。

「それ、本当?」

「本当よ。新聞も買って来たから、後で読んでみて」

 碧が考え込みながら、串を回す。ぱちぱちと炎が爆ぜた。

「面白くなってきたわね」

 くすくす笑う。

 罪を犯したその後、どうするのか、どうやって警察の手から逃れるのか。碧には一切その陰は見えなかった。ただ、この状況を楽しんでいる。

 まるで子供のような、しかし不敵な無邪気さ。罪の意識のない透明な残酷さに見惚れながら、恵理子は藍を思い、苛立った。

 最初、藍は呆然としていた。ショック状態だったのだ。だが、ここに到着した途端、藍は滅茶苦茶に暴れた。

 碧に掴みかかり、止めようとした恵理子を殴った。碧の首を絞めようとした。

 碧から引き剥がし、大人しくさせるのに、どれだけ骨が折れたか。何度殴りつけたか。

 今は、病院の倉庫室に閉じ込めている。

 その後は、打って変わって大人しくなった。暴れるでもない、泣くでもない。しかし、碧へ静かな憎悪を育てているのだろう。当然、恵理子にも。

 人を食べることを拒否し、今もああやって倉庫室に閉じこもっている。

 死にたいなら勝手に死ねばいいのに。

 恵理子は思う。

 反抗的な態度を取るだけなら、子供でも出来る。

 自由で不敵で、強い碧の妹でありながら、何でああも違うのだろう。しかし、碧はそんな藍に執着している。妹というだけで。

 碧と何も共有していないのに、今は碧を憎んでいるのに。

「ねえ、それ取って良い?」

 恵理子は碧用の串焼き肉に、指さした。

 どこの部位かは分からないし、誰の肉かも憶えていない。顔の見えない肉なら、自分でも食べられそうな気がした。

 妹の藍が拒んでいることを、碧のためになら自分は出来るという、パフォーマンスでもあった。

「無理しちゃダメよ」

 年下なのに、碧の口調はまるで、子供に酒を飲ませる大人のような口ぶりだった。

「でもまあ、ハイ」

 焼いた人肉の歯応えは、食べ慣れている焼肉そのものだった。

 不思議な味だ。酸っぱいような、甘いような、辛いような。舌の味覚を戸惑わせるような味。美味しいとは言えないけれど、これが碧の美味なのだ。

 味わって食べる恵理子を見ながら、思い出したように碧は言った。

「後で、藍に食事を持って行ってやらなきゃね。どうせ持っていくなら、せっかく手に入った、こっちのお肉にしましょ」

 どうせ食べないわよと、恵理子は思ったが言わない。

「私が持って行くわ」

 買って出た恵理子に、碧が口だけいたずらっぽく、しかし真剣な目で言った。

「苛めちゃだめよ」


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