第13話
『一二月二日、午後七時十一分、○○県雨ヶ崎市の民家で、一家が死んでいると一一〇番通報がありました。警察が駆けつけると、一家の世帯主である速水定行さん(四五)との妻のサツキさん(四五)定行さんの母親雪代さん(七〇)がそれぞれ刃物で切られ、部屋の中で死亡しているのが見つかりました。一七才の長男は命を取り留めましたが、体を強く打ち意識不明の状態です。警察は、周辺に事件当日の様子の聞き込みをするとともに、目撃者の情報を追っています』(テレビ毎日系(TAG))
『整骨整体院一家惨殺事件』の捜査本部は、生き残りである長男が、事件の次の日に意識を取り戻したと連絡を受けて、刑事二人を病院に行かせた。
長男の由樹は、ベッドの中で天井を見つめていた。うつろな目に、光はない。
刑事の丸谷は、ベッドの横に椅子を引っ張り、腰を下ろした。園田は立ったまま、由樹を覗き込み、隣に立つ看護婦と主治医に質問した。
「彼と話は、出来ますか?」
「目が覚めたばかりで、ショック状態ですから」
看護婦が控えめに刑事を牽制した。
「無理に聞こうとはしないで下さい。打撲だって、軽くないんですから」
「分かっていますよ」
整骨整体院を経営する速水定行は、腕も良くて繁盛していた。評判も良い。助手も受付の女性も、泣きながら口をそろえて、定行とその家族を慕っていた。
定行は、一八時十三分頃、もう受付時間も終わり、患者もあと二人というところで家に呼び出されて帰ったらしい。慌てていた様子だったという。
その後、近所の聞き込みによって、無視できないことを聞かされた。
その一週間前、どこかの不良が由樹に刃物で切り付けようとして、失敗したこと。
それに、九月末に発生した、近所で同様の殺人が、記憶に新しい。それは『主婦串刺し殺人』と世間で騒がれていた。まだ捜査は続いている。
事件の被害者、湖川佳子の娘である藍が、同級生の速水家で滞在していたのだ。
姉は行方不明のままだった。そして次は妹が行方不明。関連性は途方もなく高い。
この息子が、二つの事件の犯人を見ているかもしれない。壊れた壺に、位置がずれたテーブル。部屋には明らかな格闘の跡があった。
由樹は空手をやっている。間違いなく、犯人と格闘している。
「由樹君、聞こえるか?」
丸谷は顔を近づけた。空手部というより、文科系のような繊細な顔立ちだが、空手部のレギュラーで、相当強いらしい。
由樹の口が動いた。丸谷は耳を近づけた。
「……こがわ……」
もう一つの事件の関係者の名。緊張が走る。
「……こがわは……?」
「湖川藍さんの事か?」
由樹の顔が小さく動いた。
「行方を追っている。分かっているのなら、教えてくれ。君は犯人を見たか?」
由樹の顔が、雄弁に引き歪んだ。息子は知っている、と丸谷は色めき立った。
「教えてくれ、どんな奴だ? 湖川藍さんは、最初に消えたお姉さんと同じく行方不明だ。湖川家の事件にも、関連性があるかもしれない。僕たちはそれを調べている。協力してくれ、ご両親やお祖母さんも、このままじゃ浮かばれない」
「……」
由樹は顔を横に向けて、窓の外を見た。この総合病院の五階の病室から、家の屋根や四角のビルが見える。
自分の家の屋根を探しているような目だった。この場所は、速水家からそう遠くない。
やがて、由樹の口が開いた。突然襲われたから、と。
「……犯人を、見ていません……おぼえてないです」
小学五年生の教室で、ウサギを飼っていた。
白い毛に灰褐色が混じっている、ふかふかのパンダウサギだった。
名前は『ピョン』
皆で可愛がって、当番で世話をしていたのに、ある朝、登校したら死んでいた。
病気だった。
あれだけ可愛がっていたのに、死骸は怖かった。そして気持ち悪かった。
そして、そんな事を思う自分が後ろめたかった。
皆と一緒に、小屋を遠巻きにしてみている中で、ピョンを小屋から出したのは湖川藍だった。
ピョンを抱きしめて、藍は泣いた。先生が来ても、ピョンを離さなかった。
大人しく、目立たない少女の見せた激情と愛情が、由樹には衝撃的だった。
病院の屋上のフェンスは網が細かくて高い。てっぺんが湾曲している。簡単には登れないように工夫しているらしい。自殺防止だ。
風は穏やかで、青空は光を含んだブルーだった。随分暖かい。由樹はフェンスに背中を預けて、寝間着の上に上着を着て、屋上に直座りし、空を眺めた。
手元の携帯端末の着信は、次々と件数を更新している。学校の友達、部活の後輩や先輩の名、メアド交換した女の子の名が、次々と液晶に浮かぶが、見る気にはならなかった。電源を切った。
感情が麻痺した。自分の身に何が起きたのが、理解しているはずなのに分かっていない。
精神の自己防衛だ。現実を思い知りたくないのだ。
今でも、まだ信じられなかった。家族はもういない。
テーブルの前で、首を切られた父、母と祖母。
いずれも、即死だった。
父の右腕は死後にもぎ取られ、喰われた鳥の手羽のようだった。
悪夢から覚める術がない。
家族を殺された悪夢は、現実と地続きにこれからも続く。
決して変えられない事実。
由樹に残されたのは、家族の喪失感ではなく、虚無だった。
殺人者の妹、湖川藍が要因を背負っていたのは、明らかだった。藍を速水家に連れてきたのは、他ならぬ自分だ。だが、その要因が分からない。
どうして、殺されなくちゃいけなかった?
理由はなんだ?
何があった? 何が悪かった? 何をどうすれば良かったんだ?
犯人には逃げられた。目が覚めたら病院で手当てを受けていた。
まだ犯人は見つかっておらず、行方もつかめていない。
湖川藍も連れ去られた。
事情を知る人間は、目の前にはいない。それでもただ、問いかけるだけだった。答えはない。しかし、問い続けるのを止めたら、気が狂ってしまうだろう。
「……しきくん、よしきくん」
名前を呼ばれた。由樹は顔を向けた。国井という若い男の主治医だった。
「そこにいたのか。看護師が探していたぞ」
屋上の出入り口から顔を出し、こっちを見ていた。
「明日退院だからって、無理するな。大人しく寝てなさい」
「リハビリですよ」
「座っているだけだろ。寒くないのか?」
白衣姿のままで、国井医師はよっこらせと由樹の隣に座った。
「医者なら衛生に気を付けてください。白衣が汚れる」
「白衣の替えならロッカーにある」
……叔父さんが、迎えに来てくれるそうだねと、国井は言った。
「有名な画家さんだって?」
「でも、すげえ変人。携帯もPCもないから、こっちから連絡出来ないし、あちこち流浪して家も電話もないから、連絡は一方通行で、たまに来る絵葉書で、どこにいるのか知らせてくるんですよ。今回も……」
叔父はスペインから、たまたま日本にいる知り合いの画商に国際電話をかけて寄こし、それで事件を知ったのだ。
「先生」
「あん?」
一家惨殺事件の生き残りに対する同情の念、周囲の共感や慰めの言葉に、由樹はすでに疲弊した。今はこの、国井の通常の態度が一番心地よい。
少し悩んだが、思い切って口を開いた。
「心の病で、人間を……食べることがあるんですか?」
訝し気な国井の目を、由樹は真っすぐに押し戻した。
「異常な力を出したり、突然、人の肉を喰いたくなる病気って、あるんですか?」
「人間の肉って、そりゃ共食いじゃないか」
「はい」
しばらく間が空いた。
国井は質問の意味を考えていたのか、それとも質問の裏を覗いていたのか。
「……食人は、世界的に、歴史的に見れば、そう珍しい事でもないけどね。復讐や宗教的な要素や、呪術や医学的な治療法として、そして裁きという意味合いを持つもの。勿論、飢餓や貧困、災害時の緊急避難的な食糧もあるし、まあ、性的な嗜好だってあるよな。でもなあ、大抵は歴史の流れの中や、習慣のなかにあって、突発的なものはほとんどないよなあ。病的な性的嗜好だって、人食いに至るまでに、何らかの前兆があるわけだし」
じゃあ、何なんだ。あの女は。
湖川だって言った。突然、心の病でお姉ちゃんが狂ったと。
「心の病っていうより、腫瘍というケースもあるかもなあ。抑制機能に影響を及ぼす脳腫瘍や神経系の疾患で、今まで正常だった男性が突然、小児性愛っていう性的に逸脱したってケースもある。彼の場合、腫瘍を切除したら正常に戻ったらしいけど」
「でも腫瘍って、違う人間に、同時期それぞれ発症するってことはありませんよね。それに、腕力の増強はないでしょう」
あの信じられない、碧の怪力の理由はなんだ。
父と二人で移動させた、あの床の間の大壺を片手で振り回した腕力は、少女のものじゃない。
「それなら、あとはまあ……ウィルス感染かな」
「!」
「バイオハザードって映画知っているだろ」
「でも、あれは映画……」
「あれは、ウィルス感染によって、脳が狂って代謝機能やホルモンが変調をきたし、人間を襲うって話だろ。人間の嗜好や筋肉のコントロールを行っているのも、人の脳だからね。それをやられたら……まあ、そんなウィルスがあれば、だけど」
「……」
「ウィルスって、まずは媒体となる動物に感染し、徐々に感染力の高いものへ形を変えてから人間に感染する。そしてまた形を変化させて広がっていくわけだから、どう形のパターンが出来上がるか、予測がつかない訳よ。インフルエンザがそうだろう?」
ウィルスか。
愕然とする思いだった。
思い出した。姉妹が遭った自動車事故。
確か、H村という廃村へ面白半分に寄ったらしい。数年前、鳥インフルエンザのウィルスが蔓延し、養鶏業が全滅。
もしも、そのウィルスが形を変えてまだ残っていたら? 何らかの形で、姉妹が感染したとすれば?
『あの事故で、お姉ちゃんは狂った』
藍は確かにそういったことを、由樹は思い出す。そうと決まった訳じゃない。だが、国井医師の仮説は信ぴょう性が高すぎた。
「でも、ウィルスなら人から人へ感染するはずですよね」
そうだ、湖川と一緒に暮らしていたのだ。だが、感染はなかった。
「ウィルスの感染力にも色々あるからね。同じ部屋にいるだけで感染するウィルスもあれば、噛まれて発症するのもあるし、でも抗体を持っていたら、噛まれても平気か、症状が軽くて済むし、人それぞれ」
「治るんですか?」
「ワクチンが出来ればね」
あっさりと国井は言った。
「でも、そんなウィルスがそもそも存在すれば、という話だけど」
「……有難うございます」
由樹は立ち上がった。突如、右足に痛みが走った。よろけた体を、素早く立ち上がった国井が支えた。
「無茶するな」
「すみません」
素直に謝る由樹に、国井は聞いた。
「さっきの話……何か、気になる事でもあるのかい?」
「忘れてください」
「そうか。病室に戻ろうか。一緒に行こう」
国井の背中に、由樹は続く。その白衣の背中は、父を思わせる。
原因の仮説は、ただ知りたかっただけだった。どちらにせよ、ウィルスでも心の病でも、自分の家族を奪ったことには変わりはない。
両親と、祖母のどこに落ち度があった?
由樹は拳を握る。
父親は頑固で、時には口うるさくさえ思う事もあった。母と祖母はいつも仲良く喧嘩して、時にはうんざりするほどだった。あの騒々しさが、速水家の平和だった。
もう、あの騒々しさは消えた。三人とも口を利くことはない。三人の声を聞けない。
……殺してやる。アイツらを必ず殺す。
家族を奪われた虚無の中に、たった一つだけ残されていたのは、復讐への執着だった。
それだけが、由樹の立ち上がる支えであり、歩く杖だった。
犯人の顔を知らない、見なかったと。そう警察に証言したのは、捜査の主導権を警察に渡さないためだった。警察に渡せば、法の範囲でしか裁けない。
裁きたいのではない。復讐してやりたいのだ。
ウサギを抱いて泣いていた少女の姿が浮かんだ。由樹はそれを頭から振り払った。
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