第12話
恵理子は、図書館の壁に隠れて、碧の妹と少年を見ていた。
抱擁する二人に、思わず吐き捨てる。
「子供のくせに」
碧の妹は、全然姉に似ていない。碧が気高い豹なら、妹はおどおどした気弱なウサギだ。
そのくせ、ちゃっかりと姉以外の守護者を手に入れている。
碧に、あんな顔をさせておきながら……計算でも天然でも、気に障るのは同じだった。
あの少年は恵理子に貢を思い出させた。タイプは全く違っているが、キラキラして、自分にとって異国の王子さまだったころの貢。
マンションに戻ると、碧がリビングのソファで寝そべっていた。
「お帰りなさい」
大きすぎるシャツを一枚着て、長い手足を伸びやかにさらしている。
どこの部位なのか、食べかけの骨付き肉が、皿の上にあった。
骨の太さからすれば男だ。恵理子は聞いた。
「それ、誰の肉?」
「知らないわ」
非番の日になると、碧は中身は空の、大きなトランクケースを一つ持って、一晩留守をする。
そして帰ってくると、自室の冷蔵庫にトランクの中身を移し替えていた。
その食料調達方法を、碧は「家出少女ごっこ」と言っている。
碧の手が、皿に伸びて骨部分を掴む。白い米粒のような歯で、名の知れぬ人の肉を食いちぎり、咀嚼した。
白い咽喉が動いた。その姿は野性的で妖艶ですらあった。
「恵理子、さっきまでどこに行っていたの?」
「碧の妹のところ」
「ふうん……ご親切に」
碧の声がこもった。妹の顔を隠れて見に行って以来、ひどく機嫌が悪い。
「あれから一週間経つけど、妹さんのところへそれっきりじゃない。それでも気になるんじゃないかと思ったの。だって、碧はあの近所では、堂々と歩けないでしょう。だから代わりにと思ったのよ」
「で、どうだったの」
「元気そう」
「あら、良かった」
「ボーイフレンドと、仲良くしていたわ」
「ふぅん、あの子らしい」
碧が鼻で笑った。
「気が弱いようでいて、ちゃんと世渡りはしているのよ。小動物なりに、荒野を生き抜くサバイバルのコツを身に着けてるの」
「碧は、妹さんとは、仲が良いの?」
ふ、と碧の表情が消えた。
「……可愛いわよ。すごく」
赤い口唇から笑いが漏れた。
「人を食べるようになってからね、やっと、あの子と……藍と、共有するものが出来たって思ったのよ」
「妹さんも、食べるの?」
「ええ、自分は人間だから、人なんか食べたくないって言い張ってね。無理しているけれど、馬鹿な子ね。恵理子と同じよ。あの子も『優しい』って奴」
碧の妹と、私は同じ。碧の言葉に、恵理子にわずかな苛立ちと喜びを感じた。
「私が妹なら、一緒に食べてあげるのに」
心の中で、恵理子は付け足す。あなたと共有するものなら何だって良い。
碧は、今や店のナンバーワンかツーをはる重要なキャストだ。恵理子はいまだにヘルプだが、周囲から碧の友人と見られていて、違う意味で店では重要な立場だ。
三才、碧と恵理子は年がはなれている。年下であっても、碧は恵理子にとって恩人であり、救世主だった。
そして、理想であり、女主人だった。
碧が恵理子に気付かせてくれた。人に対する優しさで、自分を守ろうとしていた過ちに。
その優しさは、盾ではなく、ただの損であり、我慢だと。
「あの子、私を捨てたのね」
碧がぽつんと呟いた。
「やっと、分かりあえるものが出来たのに」
碧の目が、赤く光るのを恵理子は見た。
「お仕置き、しようかしら」
「手伝おうか?」
何でもしてあげる。恵理子は、碧の細い肩に流れる黒い髪を、そっとすくいとった。
「貴女となら、どこまでもついていくわ」
「それ、男へ囁く愛のセリフね」
「男より、貴女のほうが良いよ。碧」
人を食べる行為は共有できないけれど。
排他性や背徳が強ければ強いほど、罪が濃いほど、共有する物の価値は重くなる。
恵理子の背中が、ざわりと快感で泡立つ。
今までは、自分が決めるのではなく、運命が自分の代わりに生活を決めてくれるのを待っていた。
しかし、これは明らかに、自分の意志でつかみ取った碧との未来。
それが闇であっても、血の海であっても、碧と共にあるのなら、恵理子にとって、それは地獄と呼ばれる楽園だった。
『速水整骨・整体院』は、土曜の昼は休診なので、助手の山田も、受付の女性もすでに帰宅していた。
定行は鍵を開けて建物に入った。
後ろに息子の由樹がついてきている。
いつもは人がひしめく待合室が、無人である風景は寒々と広い。
しかし、人に聞かれたくない話をするには、ここが一番だった。定行はジャージ姿のまま、待合室のコの字型のソファに座った。
向かいに、由樹が座った。
「ついにばあちゃんと母さんが、藍ちゃんを陣営に取り込もうとして困らせているのか?」
「あの二人は、基本タイマンだろ」
由樹が肩をすくめた。
「もっと深刻だよ……湖川の姉さんの事で」
「ああ、行方不明の」
「湖川が言うには、お姉さんが母親を殺した犯人らしい」
息子から聞いた言葉が、定行の脳内に届いて処理するまでにしばらくかかった。それを真実だと処理するには、邪魔な情報がインプットされていた。
「ああ、ちょっと待て。お前、警察の話じゃ犯人……」
「それだ。屈強な男。並外れた力がなくっちゃ、口からナイフ貫通させて、壁にぶら下げるなんて、現に俺、見てるし……。湖川の姉さんは、細身の美人。犯人像から遠いどころか、地球一周するよ」
定行は、腕を組んだ。
「信じられんな」
しかし、由樹も藍も、自分をからかったり嘘をつく理由もない。そのはずもない。
「その藍ちゃんのお姉さんは、どんな娘なんだ?」
近所の噂で飛び交っているのは、才色兼備で礼儀も正しい、非の打ちどころのない少女だ。
由樹はあの姉妹と、母校の中学は同じだ。違う側面を知っているかもしれなかった。
「中学の時は、学校一有名な美人で優等生。生徒会長より偉い副会長」
由樹は近所の噂をそっくり口にしてから、言葉を添えた。
「一年の時に、図書委員で生徒会にいたから、何度か口を利いた事あるし、話もしているんだけど、そうだな。人に対する温度が低いんだよ、何ていうか……好き嫌いっていう感情じゃなくて、もっと視線が上。気に入る、気に入らないで人を振り分けている感じ」
「お高くとまっている、か?」
「もっと冷ややか。そうだな、妹と違って、病気で死んだウサギ抱きしめて、泣きじゃくることは絶対にしないな」
「なんだそれ」
しかし、そうなると見えてくるものがある。
「あの子の、今までのお姉さんに対する態度の理由が、ふに落ちるな」
「そうなんだよ。お姉さんに対しても怖がっていて、事件に関しても、どこかこう、怒りの色が見えなかっただろ」
「警察の捜査情報とも、一致するな」
全くない不審者情報、母親の抵抗の跡が薄い事が思い出された。
「で、何でお姉さんはお母さんを殺したんだ?」
その理由を聞いて、定行はさらに首を傾げた。
「心の病、みたいなもの?」
「湖川はそこまでしか言えなかった。言った後で後悔して、もう、忘れてくれって泣かれてさ」
「ふうむ」
「どうしたら良いのか、分からないけど一応、父さんだけには話をしておこうと思ってね。湖川は多分、母さんとばあちゃんには、知られたくないだろうし」
「まあ、お前、藍ちゃんの様子には気を付けてやれ。しばらく静観して、それから話をしても良いだろう。向こうから、警察に話す気になってくれたら一番なんだが」
「こうなると、当分口説けないな。せっかく一つ屋根の下なのに」
深刻を軽口で紛らわせる由樹に合わせて、定行は軽くにらんだ。
「口説くばかりが、女を落とす手段じゃないだろう」
「それはね」
「彼女を守れ。好きな娘なんだろう」
「分かっているよ」
由樹が肩をすくめた。
次の週。
速水家に来て、すでに三ヶ月目に入ろうとしていた。
もう、この頃には生活サイクルは完全に出来上がっている。朝六時頃起床、雪代とサツキと一緒に朝食の準備するところから、藍の一日が始まる。
味噌を鍋で溶きながら、サツキが雪代に言った。
「弟の秀平から、手製の絵葉書が届きましてね。今はスペインのバルデペーなんとかという田舎で、そろそろ帰国するとか」
「バルデペー何とか? 秀平さん、今はそこで絵を描いているの?」
「そうみたいですね。あの子の手描きの絵葉書は、今は幾らくらいの値が付くでしょうね。今夜のおかず代くらいにはなるかしら」
「ひどいお姉さんね。実の弟からの通信を金に換えようっていうのかね」
「あの子が画家になりたいって、そういって親の大反対を押し切ることが出来たのは、私が弟に味方したおかげですよ。感謝してくれなきゃ」
「絵が売れるのは、秀平さんの才能でしょ」
ぽんぽんと小気味のいい応酬を飛ばしながら、味噌汁が出来上がり、おかずが出来る。
テーブルを囲んで食事をして、定行は整骨院、由樹を学校へと送り出す。
午前中は家事の手伝いをして、午後からは藍は外出する。
碧の姿を求めて、閉じられた実家へ、そして、図書館や公園……休学している聖光学園まで行くこともあった。まさかとは思うが、学校も姉の日常の一部だった。
由樹の言葉が、ずっと頭にこびりつく。
『でも、いつかはちゃんと向き合わなきゃ。それは湖川だって、分かっているよな? すごく大事なことなんだから』
姉の罪を、そして嗜癖を、このままにしておく訳にはいかなかった。
若い男のサラリーマンが、出張先で突然行方不明になる事件がニュースで流れた。最近、若い男女が突然姿を消す事件が相次いでいる。
共通項は、それぞれ違うサイトだが、出会い系を使って、家出少女に宿泊する場を提供している事。
まさかと思った。碧の顔が浮かんだ。
だが、一方で育つ想いも断ち切れない。このまま姉とは別々に、無関係に生きていきたい。姉は姉で、自分の知らない場所で幸福になって欲しい。
姉に対して薄情だと、速水家にずっといることも無理だと、藍には分かっている。
……電車の車窓、流れる風景を藍は見つめた。
速水家で穏やかな日々を過ごすうち、碧の存在が黒い染みになっている。
姉妹であることが絆ではなく、今は鎖だった。
夕方、碧の部屋を覗くと、碧は黒っぽいスーツに着替えをしていた。出勤ではない、恵理子は声をかけた。
「一緒に行こうかな」
あら、といった風に、碧はドアの前に立つ恵理子を見た。
「お仕置きに行くんでしょ」
碧の足元にある、ボストンバッグを見ながら恵理子は続けた。
「一人より女二人の方が、便利かもよ。相手を油断させる演技だって出来るし」
「じゃあ、お願い」
悪いわね、とも恐縮する風もなく、碧が屈託なく笑った。その自分の行為に対して、全く臆しないそのシンプルさ、無邪気さも碧の魅力だった。
「恵理子も、スーツ持ってる?」
「昔、昼の仕事をしていた時のが残っているわ」
着て並んでみると、何だかペアを組んで、営業回りしている女子社員のようだった。
「上手くいくかしら」
恵理子は呟いた。二、三度行ったので、道は憶えている。車を止めるのに、目立たない道も知っていた。
「目的達成が、第一目標。それさえ出来たら、後は次に考えるわ」
※
「ありがとうございました、先生」
定行の前にある診療台から、ぎっくり腰の治療を続けている患者が降りた。
「教えて頂いた体操をするようになってから、随分腰が楽になっています」
「油断して、重いものを持たないようにして下さいね」
「でもねえ、主婦って家庭の何でも屋でしょ。庭の手入れとかでも、何かしら重いものを持つのよ。主人は帰りが遅くて、何でも後回しに……」
主婦の愚痴が始まりかけた時だった。
受付の女性が顔を出した。
「先生、内線のお電話です。奥様から」
珍しい。どこか不服そうな主婦に頭を下げて、定行は受付に置いている昔ながらの黒いダイヤル電話を取った。
「何かあったか?」
『あなた、すぐに戻ってきて。あのね、お客様なの』
「俺の知り合い?」
『いいえ、藍ちゃんの。でも、その子は先に、藍ちゃんの前に、貴方に会いたいって』
サツキの声が、低くなった『藍ちゃんのお姉さんと、その付き添いの方』
「すぐ戻る」
もう一八時も過ぎた。受付時間も終わり、待合室にはあと二人ほどしか患者は残っていない。その患者は、助手の山田に任せることにした。
白衣を脱ぎ捨て、家に駆け戻った。サツキと雪代が二人そろって出迎えた。
「藍ちゃんは、まだ帰ってきていないのか?」
「ええ、さっきメールをしました。返事はないけれど」
客の二人は和室にいた。長い髪の少女と、もう一人は少し年上の若い女。
座布団の上で正座した少女が、定行に頭を下げた。
「妹の藍が、お世話になっております」
大人びた美少女。湖川碧は、由樹に聞いたイメージそのままだった。
「今まで、どちらに?」
「彼女の家にいました。父の知り合いの方です」
隣にいる女が頭を下げる。
「あんな事があって、みんなお姉さんの身の心配をしていましたが、とりあえずご無事で良かった」
この娘が母親を殺したのか。定行は碧を見つめた。心の病気とか言っていたが、今見る限りではその兆候はない。碧は、隣の女性を見やった。
「彼女に付き添ってもらって、警察に行こうと思うんです」
切り出した碧の言葉は、事件の終焉を意味していた。定行の肩が一気に軽くなった。
「その前に、藍に会いたいと思って」
「それがいい。ちゃんと全て、事件の事を話されたほうが良い。あなたのその決意こそが、お母さんへの何よりの供養と、謝罪です」
サツキがお茶を持って入って来る。
「藍ちゃんのためにも、お願いします」
定行は万感の思いを込めて、頭を下げた。これで、藍も救われる。
九月の終わりにこの家に来て、もう十二月。ほとんど笑わなかったあの子に、ようやく笑顔が戻るだろう。
よかったな。藍へ語りかけた。本当に良かった。
その時だった。
「……母への謝罪と、供養ねえ」
礼儀正しい口調が、突然嘲りに裏返る。
定行は思わず頭を上げた。
碧の長い髪が、ざわざわと逆立つように蠢いた。風が吹きぬけたのかもしれないが、碧の輪郭を中心に、蛇がのたくっているようにも見えた。
黒い目が、定行に突き刺さる。
サメの目だ。定行は直感した。黒く、感情を映さぬ無機質な洞窟。
「あの子、私が母親を殺したの、あなたにしゃべったのね」
反省するには取り返しはつかなかった。
サツキの顔が驚愕に歪む。丸い手から盆が落ちた。
ウラギッタンダ。碧が口を動かした。
その声は、呪詛だった。
……次の瞬間、何が起きたのか。
定行には分からなかった。付き添いの女が碧に手渡した牛刀の意味、次に取った碧の行動と、突然真っ赤に染まった視界。
本能で何かを叫びかけた。しかし、切り裂かれた定行の咽喉は声ではなく、空気を漏らしただけだった。
『お姉さんが家に来ています。お父さんが相手しています。すぐお帰りなさい』
メールを見た瞬間に、藍は心と身体が、暗黒の中に吸い込まれそうになった。
その時、藍は帰り道。姉が好んで来ていた美術館の常設展に来ていた。地元ゆかりの画家のコレクションを収蔵していて、姉は月に一度、必ず訪れて鑑賞していた。
大通りに出てタクシーを探した。見つからないので、駅まで道を走り抜け、電車に飛び乗った。家の最寄りの駅に着いたのは、メールが来て二〇分も経っていた。
「湖川!」
改札を出た瞬間、藍の名前を呼んだのは、学校帰りの由樹だった。
「どうした、汗びっしょりだぞ」
「速水君、お姉ちゃんが……家に……おばさん……」
心臓は、小さな爆発をくり返していた。頭が混乱し、口にする単語の順番が分からない。
それでも由樹には通じた。
「行くよ」
夜の中を走り出す。
碧の目的は、当然自分だと分かっている。恐怖が煮詰まって、ごぼごぼと音を立てて思考から流れ出していた。何故、自分の居場所が速水家だと分かったのか。そして、碧は速水家に上がり込んでいる、それが不吉だ。
大人三人もいるのだ。大丈夫、何かあると思い込むのも早計だと、藍は自分に言い聞かせる。姉への恐怖のあまり、己が作り出した不吉だと。
家に点いている明かり。
「お姉ちゃん!」
鍵がかかっている。だが、気配がない。藍は鍵を開けて玄関に飛び込んだ。
「父さん!」
由樹が続く。
静寂が耳を貫く。
和室へ続く血の匂い。
おじさん。
おばさん。
おばあちゃん。
畳は、赤かった。
定行が、テーブルの上に出来た血の池に突っ伏していた。
サツキと、雪代がお互いを庇いあうように、折り重なって倒れていた。
赤いキャンバスに描かれる、悪趣味な静物。
その中に立つ二人。一人は藍の知らない女。
「ハイ、藍、元気だった?」
向けられた姉の笑顔は、あくまでも笑顔だった。
「御馳走を作って、待っていてあげたわよ」
碧は見せつけるように、切り落とされた男の腕を噛み千切る。
咀嚼し、嚥下した。
絶望で出来た空白の中、絶叫が轟いた。
「化け物!」
由樹だった。
「速水君!」
「あら、速水君はまだ知らなかったの?」
定行の腕肉を食べながら、碧の目がわざとらしく開いた。
「お姉ちゃんがお母さんを殺したのよって、他人にバラしたのはそれだけなの? てっきり、もう全部、おしゃべりした後だと思ったのに……」
「お姉ちゃん! やめて!」
「ああら、どっちを? お姉ちゃんが彼のパパの腕を美味しく食べている事? それとも、可愛い藍ちゃんも、お姉ちゃんと好きな食べ物が同じだってことを?」
「……どういう、いみだよ」
由樹が喘いだ。
「おやじの、うでを、貴様……」
碧は歌うように晒した。
「この藍も、人を食べるって事」
由樹の顔色が変わった。
碧の言葉が、由樹の記憶の、何を喚起させたか藍は悟った。
とどめだった。全て奪われた。
「きさまぁぁっ」
由樹が咆哮した。藍の制止を振り払い、碧に飛び掛かる。
その前に飛び出した女を突き飛ばし、碧の顔に正拳突きを叩き込む。
碧が慌てて避けた。その顔に憤怒の色が浮いた。
床の間に置いてあった壺の口を掴み、軽々と持ち上げた。赤ん坊がすっぽり入れるほど大きな壺で、動かすのには男二人がかりだった壺だ。
「速水君!」
碧の怪力に、由樹が目を見張って動きを止める。藍は悲鳴を上げた。
由樹の体が、振り回された壺によって跳ね飛ばされた。壺が割れた。
由樹の体が、床の間の柱に激突し、落下する。
「他人の家の不幸を利用して、藍と同棲なんて、さすがはタラシで名高い子ね」
由樹の首を片手でつかむ。力を入れて持ち上げる。
「やめて!」
天に捧げられるように、由樹の体が宙づりになった。藍は碧の腕にしがみついた。
「やめて、お願い! やめて!」
「イヤよ」
呼吸を阻害され、弱弱しくもがく由樹の手が、碧の手にかかったが、無力でしかなかった。
「やめて、何でもするから!」
悪夢の沼から、せめて由樹だけは引き上げないとならなかった。
「お願い、何でもします、だから速水君は助けて、お願い」
「どうしようかな」
「お願い、何でも言う事聞くから」
「本当ね?」
「噓は言わない!」
「じゃあ、ついてらっしゃい」
楽し気な、冷酷無比な命令だった。しかし、藍には選択肢はない。
藍は楽園の残骸の中で立ち尽くした。亡骸をこのままにはしておけない。投げ捨てられた由樹だって、大怪我だ。
「駄目よ。すぐに来なさい」
女が、倒れている由樹の額に牛刀の切っ先を向けていた。猶予はない。
藍は、碧ともう一人に付き従い、家を出た。
速水家は、壊された。
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