第11話
もう、季節は十一月も後半に入ろうとしていた。落ち葉が道を彩り、日差しには温もりは残っているが、空気は冷たい。
この季節の変わり目は、特に腰痛の患者が増えて、整体院は忙しい。
『速水整骨・整体院』の受付は、昼は午後一時からになっている。
それまでに、院長の定行は一度家に戻って昼食を済ませ、受付や助手も昼の休憩を取った後、もう一度カルテをチェックし、待合室の整理整頓はその一五分前に終わらせている。
受付の女性が今日の午後の予約のチェックをしているなか、院長である速水定行は、待合室に置いてある客用の週刊誌を取り上げた。バックナンバーだった。
「ショック! 真夜中の高級住宅街で起きた狂気の磔殺人」
「犯人は怪力の男? 主婦を持ち上げて壁に串刺す」
「残された妹は、犯人と共に消えた姉の行方を追い求める」
センセーショナルな煽り文句は、定行の肌感覚にきつすぎた。読む気にはなれないが、かといって無視も出来ない。ページをパラパラとめくる。
「待合室の会話は、いまだそれ一色ですよ。もう二か月近く経ってますけどね、やっぱりすぐ自分たちの生活圏内で起きたっていうのは、生々しいんだろうなあ」
助手の山田が、白衣の前を止めながら定行に声をかけてきた。
「患者さん同士の話を聞いていると、亡くなった奥さんの噂とか、あの家の事情とか、この週刊誌の中身以上に濃いですよ。何かね、そこの奥さんが殺される前、随分様子がおかしかったとかね」
へえ、と声を出した横で、受付の女性が口を挟んだ。
「ゴミ出しとスーパーの話でしょ」
彼女が聞いた噂では、以前、ゴミ収集所で奇行があったという。
「よく分かんないけど、ゴミ出しに来ているくせに、一緒にゴミ出しに来ていた近所の奥さんを突き飛ばして、ゴミを収集車に入れようとした職員の手を振り払って、そのままゴミ袋を持って、町内をうろついていたらしいんですよ」
「なんだそれ」
「それから、スーパーの成城ご存知ですか? 駅からちょっと離れたところにあって、輸入品とか高級品ばっかり置いているところ。あそこで突然暴れ出したとか。しかも、殺された当日の昼ですって」
「ほお」
湖川藍の顔が浮かんだ。その母親に、一体何があったのか。
「行方不明のお姉さんは美人らしいですね。しかも姉妹揃って聖光でしょ。家は母子家庭だっていっても、元々会社の役員をしていた家で、お金あるんですね」
この整体院を手伝って一〇年になる山田が、ちらりと定行に視線を送った。
彼は、事件の通報をしたのが息子の由樹で、その事件の当事者である妹が、今湖川家に滞在しているのを知っている。
知っているので、うすうす噂が広がり始めた藍の滞在も、藍が由樹の同級生と知って、何かと聞き出そうとする無遠慮な人々を、さりげなく鎮火し、はぐらかしてくれている。
定行は息を吐いた。
客商売といえども、好奇心の渦に、この事件を燃料に投下する気は全く無い。
藍は家にいる間なら、好奇の目から守ってやれる。
母と妻のサツキに任せておけばいい。
勿論、由樹も。
毎日昼食も一緒に取っている。今日も一緒だったが、藍は好い娘だと思う。
彼女が家に来た日、息子が彼女を好きだと宣言したのには仰天したが、確かに大人し気で可愛いだけではなく、礼儀もきちんとしている。
ずっと家にいるので、二人の手伝いをよくしてくれている。家事にいい加減さが無いと、サツキと母が褒めていた。
しかし、と首をひねる。
湖川家で生活している藍の元に、何度か警察が来た。被害者への捜査の進捗状況の報告や、藍の記憶に何か手掛かりないかと、話を聞くためだった。
刑事二人を前に藍が話すのを、定行は横で付き添いとして聞いていた。
「申し訳ありません……部屋も暗くて、はっきりと憶えていないんです」
「お母さんが、なぜ姉の部屋に包丁を持って行ったのか、分かりません」
「犯人を見ていません。部屋に入ったら、すでに母は殺されていて、姉もいませんでした」
犯人が逃走している姿の目撃者はなく、不審者の情報もない。
殺し方が残忍なだけに、犯人は湖川家に深い怨恨を持つか、性格異常者である線もあるらしいが、それなら、なぜ被害者は娘ではなく、母親だけを殺したのか。
そして母親に抵抗の跡が薄いなど、矛盾する点も多いらしい。
それらしい男が、以前から湖川家を伺っていたという情報もない。
しかし、と思う。
家族を殺され、たった一人の姉が行方不明なのだ。もしかしたら、犯人に連れ去られたケースもありうる。
それなのに、事件に対する藍の表情に、犯人への『怒り』が見えないのはどうしてだろう。
あるとすれば、怒りというより「恐怖」「怯え」だった。
「早く犯人、捕まえて欲しいですよねえ。物騒ですよ。私の家、今は亭主が単身赴任中だ から、もう最近夜も怖くって」
受付の女性が嘆いた。
「全くだ」
定行は、窓の外を見た。
まだ入り口は閉まっているというのに、もう、患者が三人程集まってきていた。
『主婦串刺し殺人のスレッド』
『最近の猟奇殺人まとめ集』
ネットの巨大掲示板にはスレッドがあっても、書き込みの数も少なくなっている。
ネットのニュースからも、ついに退場した。
藍は、速水家のダイニングにしつらえていた、家族共有のパソコンの電源を落とした。
警察でも、まだ事件の手掛かりらしいものはつかめていないという。
碧も見つからない。
警察に、捜索する資料として、碧の写真を何枚か渡している。しかし、あの写真は碧であって碧ではない。
姿形は同じでも、今の碧を決定づける陰影がなかった。藍から見れば、写真の碧は姉とは別人だ。あれではきっと、分からないだろう。
湖川家は、もう土台ごと無くなった。
今、藍が立っている土台は、速水家という場所だった。不安定でも、穏やかな。
しかし、速水一家の好意という、あくまで優しい気まぐれの元にある場所だ。いつまでも甘えてはいられないと思う。
だけど、この先どうすればいいのか。
いまだに答えは見つからない。毎日毎日、起きるたびに藍の中で、カウントダウンが頭に響く。
「ただいま」
玄関で、突然由樹の声が響き渡った。
「誰かー、タオル持ってきてタオル!」
学校から帰って来たのか。しかし、やけに声が焦っている。定行は整骨院で、母親のサツキと祖母の雪代は二階にいる。
藍は急いで立ち上がった。気のせいか、由樹の声が焦っている。
出迎えた藍は仰天し、悲鳴を上げかけた。
「あー湖川、タオル持ってきてタオル」
「その腕、どうしたの!」
「ははは、ちょっとね」
玄関に、制服のブレザーを脱いだ由樹が立っていた。白いシャツの左袖がざっくりと切られ、真っ赤に染まる肘から手首に、藍は目を奪われた。
手の甲から滴り落ちる血。
血の匂いが、鼻をぶつ。
「いやー参った参った、突然だったから、ちょっと避け損なってさあ」
ぐらり、と目の前が揺れた。忘れかけていた感覚が、藍の理性を覆った。
ぽたり、と血の玉が玄関口に落ちる。
大したことないけどね。由樹の口が動く。
藍は由樹の腕を取った。真っ赤な肘。
甘い血の香り。
「……湖川?」
血の粘り、匂いが鮮烈に舌にまとわりつく。
「こがわっ」
鋭く呼ばれた名前が、藍の首を掴んで理性の側に引きずり戻した。藍は口を由樹の肘から離した。
怪我した個所を舐めるのではない、肘に流れ落ちる血を、シャツの生地の上から吸おうとしていた。
由樹の驚愕が伝わる。
藍は狼狽し、戦慄した。
血の匂いによって、自分自身が理性のコントロール下から離れたのは、明白だった。
「まーどうしたの! それ!」
悲鳴が背後から上がった。
「母さん、タオルタオル!」由樹が叫ぶ。
「何それ、刃物の傷じゃないの! あんた襲われたの? 刀傷沙汰?」
「そうだけど警察へ通報は無し! もっと厄介になるから」
「あんた、女の子がらみじゃないでしょうね!」
「いーや、男相手の喧嘩の逆恨み! いいから止血ってば!」
由樹が藍を横に置いて叫んだ。
――誰に刃物で切られたのか、由樹はひどく言いにくそうだったが、問い詰められてようやく観念した。
口を開く前、一瞬、藍と目が合った。
「名前は知らない。一回通りすがりで、喧嘩した奴。いきなり切りつけてきやがった」
小さく、藍は声を上げた。駅でからまれた不良か。
「顔は憶えているか? 警察に通報しろ!」
「あーやめてやめて、そうなると、もっとややこしくなるんだよ」
怒りで真っ赤な両親と祖母を前に、由樹はブンブンと頭を振りたくった。
「アイツ、俺を一人と勘違いして切りつけてきやがったんだけど、その時、ちょっと離れたところに、部の先輩や後輩たちがいたんだ。皆寄ってたかって、そいつを俺から引き剥がして、五人がかりでタコ殴り」
「……部って、空手部?」
はははと由樹はうつろに笑った。
「部の奴らときたら、散々その通り魔を殴りまくった後、河川敷に引きずって行って、そこで服を脱がしてパンツ一枚にして、川に放りこみやがった。あ、脱がせた服と靴も一緒。冷たい川の水で、心臓麻痺起こしてなきゃいいけど」
想像した寒さに、ぶるっと由樹は身を震わせた。
「……確かに、加害者と被害者が分からなくなってきたわね」
「だから、終わりにしようよ。うん、下手したら、集団暴行で菊高の空手部が取り潰しだ」
「でも、ブレザーとシャツが台無しよ」
「別にいいじゃん、制服の替えはあるだろ」
由樹が吐息をつく。藍が関わっていることを、最後まで言わなかった。
傷は浅い。
だが、問題はそこではない。
まだ、治っていなかった。
藍は自分自身に戦慄した。確かに、血を見た瞬間、血を求めた。自分の血を啜った藍に、由樹も気が付いた。どう思っただろうか。
厭だ。
ここにいたい。
藍は痛烈に願う。
速水家に来て、二ヶ月経った。疎外感を感じるどころか、幸せだった。いつかはここを去る。その喪失を思えば、早く手放さなければと焦るほど。
初めての夜、怖くて泣いていた。頭までかぶった藍の布団が、そっとめくられたのを思い出す。
雪代とサツキだった。川の字になって、一緒に寝てくれた。
人間でいたい。この人たちと、同じ場所にいたい。
人を欲するのが止められなくなるのなら、死んだほうが良いと思った。
事件捜査の途中経過の報告と、そして事情聴取のためにしばしば速水家の藍の元を訪れていた警察だったが、徐々に頻度が開いていった。
それでも、一週間に一度は担当の刑事、栗本と柿山という二人が訪れる。
今週は、土曜日の昼前に訪れた。
最初の方は、大人の誰かが藍の傍についていたが、今回は独り、藍は刑事と相対した。
いつもと話は同じだ。進まない捜査状況、行方の手掛かりのない姉。
「申し訳ありません。もっと良いご報告が出来れば良いのですが、我々も全力を尽くしています」
もう良いんです、と藍は毎回言いたくなる。
もう良いんです、捜査も取り止めて下さい。お母さんは仕方がなかったんです。
犯人の男なんかいません。姉にだって、もう会えなくていい。
あの、禍々しくて忌まわしい夜は、法で裁くような種類のものじゃない。もう、闇の底に沈めてください。それでいいんです。
もう、思い出させないで。
しかし、藍はいつも黙って頭を下げる。
「思い出したことがあったら、いつでもご連絡下さい」
今回も、同じ言葉で訪問は締めくくられた。家から退出する刑事二人を、藍は門の外まで見送った。
刑事二人の姿が見えなくなってから、藍は玄関に入ろうとした
その時だった。
「湖川」
由樹の顔が、ブロック塀から覗き、学生服姿が現われた。土曜日は午後の授業はないので、帰って来たらしい。
「警察の人か?」
「そう」
お互いに見た、惨劇の風景に言葉は少ない。玄関に入ろうとした藍は、そのまま立ち尽くす由樹に、足を止めて振り返った。
「速水君?」
「湖川、聞いていい?」
玄関の前で、二人はお互いを見つめ合った。
「湖川は、お姉さんと仲は良かった?」
藍は口をつぐんだ。由樹は続けた。
「いや、俺の見当違いなら謝るけど、なんか変な感じでさ。湖川ってお姉さんの事、あまり俺たちにも話さないのなって」
藍は口だけを動かしたが、言葉は見つからなかった。
「俺たちが聞かないから、話さないっていうより、話したくないって感じ。悲しいとかそんな感じじゃなくて、怖いからっていうのかな。怖いのは当然としても、お姉さんの心配くらいは口にするだろうし」
服の上からだと見えないが、まだ由樹の左腕には包帯が巻かれていた。あの血の味を思い出しそうになり、藍は思わず目を背けた。静寂が訪れた。
「速水君」
この善良な同級生へ、全て告白したい衝動が起きた。
藍は重い言葉を、由樹へと降ろした。
「お姉ちゃんのことだけど……」
その時だった。
「藍ちゃーん」
「おおい、よしきー帰って来たかー?」
同時に名前をそれぞれ呼ばれ、二人は顔を家の中に向けた。
「後にしようか」由樹が言った。
藍を呼んだのは、雪代とサツキだった。二人は、さっきまで刑事二人を通した客間の、庭に面した側に座っていた。
ガラス戸越しの日差しが、二人に注いでいる。その間には、ネックレスや指輪など、こまごまとしたアクセサリーと、その手入れ道具が並べられていた。
「今、二人でアクセサリーの手入れをしていてね」
雪代が磨き布で、銀のブローチを磨いている。
「ちょっとイイものを見つけたのよ」
サツキが小箱から指輪を取り出した。花をモチーフにした、金台の指輪だった。小さなルビーとサファイア、そしてダイヤモンドの石が付いている。
「ああら、あんたにしては随分可愛いデザインねえ。いつもならもっと図々しい大きさの石を選ぶのに」
「実は私、少女趣味なんですよ。お義母さんには、私の真実の姿が見抜けなかったようですね」
「サイズ、小さくない?」
「そうなんですよ。だからって、お義母さんに差し上げるのも口惜しいから、小指用にしようかと思っていたんですけど」
サツキが、藍の右手を取った。その薬指に、指輪がスルリと入った。
「あらま、藍ちゃんによく似合うわ。サイズもちょうどだし、グッドアイディアよ、サツキさん」
「由樹のお嫁さんになってくれるかどうかは分からないけど、うちには女の子がいませんからね」
藍は、右手を見つめた。笑えばいいのか、泣きたいのか、歓喜と悲哀がないまぜになって、胸がいっぱいになり、そして締め付ける。
有難うございます、藍は、この宝物の礼を何とか言えた。
「大事に、します」
藍の表情を満足げに見やり、二人は手入れ道具を片付けて立ち上がった。
「さて、そろそろお昼にしようか。さっき帰って来たのは由樹だろ? あの子、部活はどうしたの?」
「今日は自主練だから休むって、出かけに言いましたよ。怪我しているから練習したくないんですって。だからお昼はカレーライス」
台所の方へ歩いていく嫁と姑。その丸い背中と細い背中の対照的な二人を追いながら、藍は決意していた。
昼食の後、藍は図書館へ行くと速水家を出た。
由樹がついてきた。
私立の図書館は、歩いて二〇分の場所にあった。碧がよく使っていた場所だった。
図書館の建物を見えてくると、もしかしたらあそこに碧がいるのではと、この瞬間も藍は期待する。
……毎日のように、藍は碧の好きだった場所を巡っていた。図書館、美術館、公園。
碧に会いたかった。でも会いたくなかった。恋しいが怖い。碧に会ったその先、どうなるのかが、藍には見えない。
「毎日、ばあちゃんと母さんの間で大変だろ? 二人の毒舌漫才は終わりがないからな。ばあちゃんはボケ防止、母さんは頭の体操だって言っているけど、いい加減に我慢できなくなったら、俺か父さんに言えよ」
「そんなこと全然ない」
藍は頭を振って否定した。
「すごく、楽しい」
藍は、もらったばかりの指輪に目を落とした。小さな花が、右の薬指に咲いている。
「あの三人から、聞いているかもしれないけど、いつまでいるとか、そんな気は使わなくて良いからな。みんな、息子より娘が欲しかったって連中ばっかりだし、湖川のいる生活を楽しんでいるから」
「……ありがとう」
ありがとう、速水君。
由樹という存在が、今の藍の救いの主だった。
あなたの、この家に連れて来てくれて。
おじさんや、おばさんにおばあちゃんと、出会わせてくれて。
感謝しても、したりない。藍にとって、速水家は温かな陽だまりの中にいるようだった。
その分抱えている闇が、冷たく、色濃くなる。
人を喰う姉、自分も人を喰うかもしれないという秘密を持って、この温かな明るい楽園にいても良いのかと。
血を啜った自分がどう見えたのか、藍は由樹の表情から探ろうとしたが、その表情はのどかなだけだった。
「まあ、間違いなく母さんとばあちゃんは、毒舌漫才の新しい観客に張り切っているね」
思わず、口がほころんだ。
「二人とも、とっても仲が良いよね」
「もう少し、分かりやすい仲の良さであって欲しいけど、嫁と姑じゃ立場が違うからな。あれが限界か」
「……お姉ちゃんと私、喧嘩したことがほとんどないの」
ぽろりと、藍は口から言葉を落とした。
「出来の良しあしが違い過ぎるって、それもあるけれど、対等じゃなかったの。同じ家族で、姉妹であっても階級差があるのよ」
成績や、近所の評判だけではない、存在感や格調。
姉の碧は、家の中でも外でも別格だった。
母の佳子も、祖父母も、碧を見る目と藍を見る目の色は違っていた。
「でもね、お姉ちゃんは、私を馬鹿にするようなことも、下に見ることもなかった。すごく優しかったの」
藍も、碧にやさしくしてもらえるのが嬉しかった。
あの日、山道で事故に遭った。
あれから、碧が狂ったのだ。
「座らないか?」
空気を察した由樹が、図書館の建物の裏庭に回った。
もう、気温は完全に冬だった。休憩するのなら、図書館の中ですればいいせい。わざわざ外の冷たい椅子のベンチに座るものはいない。
「さっき、速水君が出した話。お姉ちゃんのことだけど」
横に座る由樹ではなく、乾いた青空へ顔を向けて藍は切り出した。
「単刀直入に言うね……お母さんを殺したのは、お姉ちゃん」
「………え?」
昼が暗くなった気がした。横の空気が氷結するが、藍は話を進めた。
「……だから、犯人に男なんて、いないの」
「いや、待て湖川、俺はあの時、現場をはっきり見た。あんな、人を壁に……」
由樹が顔を迫らせた。
「お姉さんが、女の子の力で、あんな事出来る筈がない。だから警察は、犯人は並外れた力の男だって、そう言っているんじゃないのか?」
「……」
「湖川!」
告白が跳ね返される。藍は顔をうつむけた。信じてもらえない悲しさより、やっぱりという虚脱感の方が大きい。
「最初、お母さんは、お姉ちゃんを殺そうとしたの」
「……それは……」
「お姉ちゃんは、病気になったの」
藍は、言葉を濁した。
「ここでは、詳しく言いたくないけど、酷い病気。お母さんは、お姉ちゃんのその病気を知って、殺そうとしたの」
「病気って……いつだったか、駅で会った時はすごく元気そうだったけど」
「……表面上は分からないけど……心の病気。夏のあの事故で、お姉ちゃんは……」
ああ駄目だ。これ以上言ったら、後戻りできない水域に入ってしまう。
呼吸が苦しくなって、藍は拳を握りしめた。
「心の病気に近いって、どんな? その言い方だと、精神病そのものじゃないんだろ? じゃあ、なんでお姉さんを医者に連れて行かなかった?」
そうだよ、お母さん。
なんで、お姉ちゃんを連れて行かなかったの?
だから、お姉ちゃんはあんなこと言ったんだ。
自分はお母さんの、世間体の広告塔だって。
目の前が、涙で白く濁った。
「湖川!」
膝に置いた手を、由樹が掴む。左の腕をみた瞬間、藍はあの赤い血を思い出す。
その途端、次の告白が出来なくなった。
言えなくなった。碧の病気、人を喰う。その意味と理由が言えない。
信じてもらえるのか? それに、それを告白するとしたら、芋づる式に自分の嗜癖だって話さないといけない。
その告白を聞いた速水家は、それでも自分を受け入れてくれるのだろうか?
不安が藍の声を奪った。
「ごめんなさい、やっぱり忘れて」
「え?」
「何でもないの、ごめんね、もうさっきの話、忘れて」
「湖川、待て、途中でそれは無いだろ?」
「忘れて、お願い!」
藍は由樹にすがりついた。声を震わせ、お願いと懇願をくり返す。
中途半端とはいえ、告白した後悔に身が染まった。命乞いに限りなく近い懇願だった。
しばらく、間が空いた。
「……分かった」
由樹の手が、藍の背中に回った。
「今は、忘れる」
「……」
「でも、いつかはちゃんと向き合わなきゃ。それは湖川だって、分かっているよな? すごく大事なことなんだから」
初めて感じる異性の胸の中だった。その真摯な声に、藍は動けない。
向き合わないといけない。それは分かっている。
そのせいで、安らぎを失うかもしれない不安が、藍を蝕んでいた。
……建物の陰で、人の影が動いた。
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