第10話
一つの死体を触媒にして、恵理子と碧の仲は変わった。
貢は、碧の自室の冷蔵庫の中にいる。
恵理子にとって、碧は一人で背負った罪を、半分引き受けてくれた共犯者だった。
碧に、何故人肉を食べるようになったのか、さすがに怖くて聞けなかったが、この店に来る気になったのかは聞くことが出来た。
「別に。住むところが欲しかっただけ」
家出少女だろうかと、それ以上聞くことは止めた。
しかし、嗜癖の割には品の良さがある娘だった。一八才というガラスの箱に、妖しい冷酷さを持っている。店の中で、碧は精彩を放っていた。
店に入って来て、一週間で客からボーイの名前を完全に憶え、また、それで音楽的な声で名前を呼ぶ。その響きの良い声に、客も、ボーイまで碧に平伏した。
入って来て一ヶ月後には、ヘルプの碧が指名にとって代わる逆転現象も、テーブルで何度か起きた。
今まで、碧への敵愾心をあからさまにしていたアキの態度が変わった。碧に馴れ馴れしくなっていった。
それでも上昇と下降で、店のキャスト同士のプライドや競争心は渦を巻いている。
事件は起きた。
アキの指名客が、フランスへ出張に行った折にアキにせがまれて、高級ブランドのバッグを土産に持って来た。
「アキちゃんの言うとおり、ネームも入れてもらったんだよ」
そして、全く同じものを碧に渡したのだ。
君達、仲良しだろう、お揃いで使いなさいと。
「使わないほうが良いわよ」
恵理子は、碧に忠告した。
「アキさんも、同じものを使っているんだもん。絶対にいい気はしていないどころか、内心煮えたぎっているわよ」
「ああら、一緒じゃないわよ。あっちはネーム入りでしょ」
「ぱっと見には、区別はつかないわよ」
女王様の機嫌を損ねたらと思うと、気が気ではない。
恵理子は今まで見てきたのだ。
過去に何度か、碧のような期待の新人はいた。しかし、女だけのこの世界は、細い平均台の上を歩いている緊張がある。
新人だからといっても例外ではない。何かのはずみで、細い平行棒から何人も落下した。
その下は、女王の取り巻きによる陰惨なイジメだった。
精神を病んで辞めた子もいる。
「だって、私、このバッグ気に入っているもの。それに、女の子同士、持っている物がお揃いなんて、女子高じゃ普通だったし」
碧はそう言って、気にも留めようとしなかったが、恵理子の予感は大当たりした。
三日後、女子トイレの便器の中に、赤いバッグが中身ごとぶち込まれていたのを、他のキャストが見つけたのだ。
赤いバッグは便器の水に浸かって赤黒くなっていた。中身には、使用済みの生理用品が詰め込まれ、トイレットペーパーが濡れて貼りついていた。
「ひっどおおおい」
アキの取り巻きが、明るく高らかに悲鳴を上げた。
「誰がやったのかしらぁ、これ」
「赤いバッグ、台無しねえ」
犯人は明白だが、そうとは言えない沈黙と怯えが、皆の間に広がっている。見せしめだ。
アキが進み出た。
「酷い事するわねえ、何か恨まれているんじゃないかしら……ねえ、ミドリちゃん?」
恵理子は碧を見た。
碧は無表情に、便器の中を眺めている、その顔がアキの声で、思いもよらず柔らかに変化した。
「全くね。犯人は誰かしら……」
クックと笑い、アキを見た。そして、その取り巻きを見回す。
女優のように、ひらりと身をひるがえして碧は自分のロッカー室へ向かい、やがて戻って来た。その手にある赤いバッグ。
「トイレに捨てられたバック、ネームみたいなものが見えたわよ」
一瞬の沈黙。それを破ったのは、アキの悲鳴だった。
取り巻きの二人が、明らかに動転し、便器の中に手を突っ込んだ。引き上げたバックに、アキのネームがあった。
悲鳴を上げ続けるアキ。何かを叫びながら、必死にバッグの中の汚物を素手で取り去る二人の取り巻き。恐らく彼女たちが実行犯だ。
「ぱっと見には区別がつかないし、バックを盗むことだけで頭は一杯。私のロッカーにあるものは、全て私のものだって思い込んでいるから、バッグのネームがあるかどうか、いちいち確認もしていないだろうし」
ロッカー室まで響いてくる、アキのヒステリックな悲鳴と怒鳴り声。
「でも、碧はアキのロッカーの鍵を、どうやって開けたの?」
アキは、恐らくボーイを使って、店で保管しているロッカーのマスターキーを無断拝借し、碧のロッカーを開けたに違いない。
碧の答えは、単純だった。
「ボーイさんにマスターキーを借りることが出来るの、あの人だけじゃないってことよ」
「……」
そして、二人分の泣き声と弁解をBGMに、碧がいたずらっぽく笑った。
「あーあ、お気の毒に。バックどころか、お財布もケータイも、その中身のポーチも化粧品も台無しよ。女の友情は、計画失敗を乗り越えられるかしら」
「友情じゃないわよ」
「あら、じゃあ何?」
「上下関係」
そして、上下関係は計画失敗を発端に、崩れ去るものだった。
アキは、完全に精彩を無くした。
碧への見せしめは、完全な失態だった。しかも滑稽すぎて、アキは店での吸引力を失った。格好のつかなくなったアキは「モデルに専念する」そう言って辞めていったが、他のキャスト達は噂し合った。
「最初からモデルに専念できるようなら、あの年までここにいないわよね」
碧が店のナンバーを張るようになった。
店長とスカウトマンの目は、正しかったわけか。
店側が、碧に新しい住まいのマンションを用意する話を持って来たが、蹴ったという。
「なぜ?」
恵理子は聞いた。今、二人で同居しているのは、お世辞にも綺麗とは言えないし、広くもないマンションだ。
貢の事は、二人の共同の秘密だ。リスクも同じ、どちらかがバラす心配もない。
「食べること以外は、欲が薄いの。私」
あなたと一緒で良いわと、碧が微笑む。
その微笑みには、猟奇と魅力が不思議に混じりあっていた。
貢の事は、これで終わったはずだった。
貢を殺したことすら、恵理子は忘れかけていた。死体という残骸が目の前から消えれば、厭な記憶もそれに連れ添って薄くなる。
真夜中、ドアが乱暴に鳴った。貢を殺して三週間経った頃だった。
「誰?」
「やだ、まさか……」
二人で一緒に、仕事から帰って来たばかりだった。恵理子は凍りついた。
誰にも見られていないはずだ。貢の持ち物も、全て処分した。
「この時間に、警察なら騒がしいことしないわ」
シャワーを先に使って、ドライヤーで髪を乾かしながら、碧は、すらりと言ってのけた。
「出たら? 近所迷惑」
ドアを開けた恵理子は、絶句した。
「あんた……だれ?」
知らない女だ。
化粧っ気もない。しかし、肌に残る匂いで恵理子は分かった。同業者だ。
「貢は、どこよ」
女がドアから身体をねじ込んだ。恵理子を押しのけて部屋に上がる。
「出しなさいよ。あんたの所に隠れているんでしょ」
「それは……」
思わず恵理子は床に置いてある黒いゴミ袋を見た。
明日、出そうとしている生ゴミだった。貢も入っている。
「あなた、誰?」
恵理子には、ある予感があった。それでも確かめずにはいられなかった。
「ちふみよ。貢から聞いていない? あんたでしょ、恵理子って」
乱暴に女は言い放つ。知らない女から名前を呼ばれる不吉さに、恵理子は体が冷えた。
「別に、貢なんかどうでも良いのよ、金さえ払ってくれればイイの。アイツからもらう慰謝料と中絶費用、あんたが払ってくれるって聞いてるのよ。それ、知らないの?」
「……ちふみって、あんたなの」
「なあんだ、知ってるじゃん。じゃあ、払ってよ。あんた、貢に惚れてるんでしょ? じゃあ惚れた男の不始末をつけるのは、あんたの役目よね」
「……」
「貢、私に土下座して言ったのよ。悪かった、恵理子に払わせる、だから勘弁してくれって。俺のためなら、アイツはいくらでも金を出す。三〇〇万くらい、何とか言い含めるから待ってくれって。あいつと結婚さえすれば、恵理子には後はソープでもなんでもさせて、金を作らせるからって」
「……そんな……勝手に……」
何で私なんだと、恵理子は沈黙の絶叫を上げた。
「確かにアイツはそう言ったんだからね。今更逃げないでよ。言っておくけどね、私はアイツにゴーカンされた可哀想な女ですからね。分かっているんでしょうね」
「関係ない」
声を震わせながら、恵理子は黒いゴミ袋を見た。
ああそうか、そこまで私を舐めていたんだ。
甦って欲しい、と痛切に貢に願った。
そうしたら、もっと残酷な方法で殺してやる。
ちふみの声が激高した。
「はぁぁぁ? いみわかんなぁい! ちょーむかつく!」
ちふみが、恵理子に掴みかかって来た。
「払えよぉっ あのバカ、あんたが払うっていってんだよっ」
髪を頭皮から引き剥がすような力に、恵理子は悲鳴を上げて転倒した。
転がる恵理子に、ちふみが馬乗りになってきた。髪を引っ張り、頬を叩く。顔面に浴びせられる。その滅茶苦茶な攻撃を防げるのは、両手しかなかった。
「やめて! やめてってばぁっ」
何でこんな目に遭うんだ。
痛みと情けなさに、恵理子の心は潰れた。
私が何をした? この女を乱暴したのは自分ではない。なのに何故、私が殴られるの?
「死ね! あんたが貢に代わって金払うんだろ! 金払えないなら死ねよ!」
死にそうなほどの屈辱感に、臓腑が焼けた時だった。
「うるさいなあ、もう」
碧の声が、滑らかに割り込んだ。
「ぎゃあっ」
ふいに、攻撃が止んだ。恵理子の体の上が軽くなった。
恵理子は、顔からそろそろと両手を離した。腹の上にちふみはいない。
ちふみは転がっていた。碧がそれを見下ろしていた。
「貢は諦めてちょうだい」
碧が仁王立ちで言い放った。
「そっちの方が、身のためよ」
「なんだよあんた、口出そうっての! 邪魔すんな、ガキ!」
ちふみの振り上げた手が、碧の頬をしたたかに殴った。恵理子は目を剥いた。
「引っ込んでろよ、このメスガ……」
碧の腕が伸びた。自分を殴ったちふみの手首をつかむ。
そして碧は、一言捨てた「最低」
その時だった。ちふみの咽喉から、怪鳥のような声がほとばしる。
「あ、ああああああ」
右手首が、あらぬ方向に曲がっていた。
「折ってやったの」
しらっと碧が言った。
手首を押さえてうずくまるちふみを、碧が蹴った。いとも簡単にちふみは転がった。
「こいつ、うるさいわね。ガムテープある?」
テープでちふみの口を塞ぐ。立ち上がろうにも、手首が使えないので転がったままだった。
碧の冷え冷えとした目が、怯えるちふみを射抜く。
「もらっていい?」
恵理子は思わず、碧を凝視した。碧の目が細くなった。
「まさか友達?」
「違うけど……」
返事が出来ない恵理子に、碧が笑いかけた。
「恵理子は、優しすぎる」
「え?」
「だって、この女、あなたを完全に馬鹿にしていたのよ。それなのに、庇ってやるの?」
碧が軽やかにちふみを蹴った。
「だって、あなたの知らないところで、貢とこの女は、あなたから金を巻き上げようって算段だったんでしょ。お互い様の不始末を、何も知らないあなたに押しつけようって、そういう話じゃないの?」
目の前が、ぐらりと揺れた。
「この二人にとって、あなたの優しさは只の餌でしかなかったのよ。違う?」
目の前にいる、碧の笑顔がぶれた。
「私ね、あなたによく似た子を知っているの」
「……それは……」
「優しいけど、無駄なのよ。ねえ、考えても見てよ。あなたは優しいわ。でも、それでいいことはあった? 何でも許してあげて、言うとおりにしてあげて、それで何か得したことあるの?」
貢が頭に浮かんだ。家事も出来ず、浪費家で怠惰な母親を思い出した。高校を中退し、男と逃げた妹。女と逃げた父。
「優しさって、我慢よね。損よ」
「……それは」
「じゃあ、何で、優しくするの?」
怖いから。
優しくすれば、自分に対する攻撃は弱まるから。
「あなたの代わりに、私がこいつを餌にしてあげるわよ」
碧の白い手が、恵理子の頬にかかる。
「大丈夫、私に任せて」
ああ、まただ。
吐息をつく。
恵理子は、床に転ぶちふみを見下ろした。真っ青な顔で何度も顔を横に振っていた。
まだ、頭の皮がひりひりする。
ぶたれた頬が、痺れている。
「……私を、馬鹿にしていたのね」
「……っ」
くぐもった命乞いの響きだった。しかし、もう届かなかった。
「二人で、それぞれ私を馬鹿にしていたのね。貢も、私の事好きでも何でもなかったんだ、汚いものを拭けばいい雑巾くらいにしか、思ってなかったんだ。それで、あんたは、私の事、貢の言いなりになる馬鹿な女だって、そう思ったから金を払えって、ここに来たんでしょ……」
「どうする?」
碧の声がした。
「喜んで、また食べてあげるわよ」
頭の中が、白く焼き付いた
泣きながら、恵理子は、床に転がるちふみにのしかかった。
「ころしてやる、ころすううう」
「……っ……っ」
血があふれそうなほど充血した目が、恵理子へ突き刺さった。悲鳴も命乞いも、ガムテ―プの奥でくぐもる。
泣きながら、恵理子はちふみを絞めた。貢を呪い、ちふみを憎んだ。二人が地獄へ行くのなら、悪魔に魂を売っても良いとすら思う。
「……いい加減、放せば?」
碧の声がした。
「もう、死んだわよ」
「……」
ちふみの首を絞めたまま、硬直した指に碧の指がかかった。
白い指が、滑らかに恵理子の指に絡んだ。そっとちふみの首から押し上げ、恵理子の指を外に向けて外していく、心地よい力。
「……また、たすけてくれるの?」
ふわりと碧が笑顔が浮かべた。
「あなたの味方よ」
恵理子の頬に流れる涙を、碧の指がそっとぬぐう。
恵理子は目を閉じて、その言葉に心をゆだねた。
ちふみは、顔から下が真っ赤に染まった人体模型になった。
その子宮には、胎児がいた。妊娠は本当だった。
「さすがに、これを食べるのは気が引けるわね」
碧が肩をすくめた。
せっせと解体をする碧の顔は、素晴らしい食材を前にしたシェフの表情だった。
作る喜び、食べる喜びをこれから享受する幸せにあふれた顔。
恵理子はふいに口にした。
「ねえ、一本もらえる?」
今まで、食べものにこんな表情を浮かべたことはない。その表情をさせる人肉とはなんのなのか。
二度目の異常な空間に慣れたのか、恵理子は初めて興味がわいた。
「良いわよ」
恵理子はちふみの指を一本もらい、その肉を噛んだ。
酸っぱい。
「ねえ、これ、美味しいの?」
眉間に皺を寄せて、恵理子は碧へちふみの中指を碧へ差し出した。
碧はそれを受け取り、爪先から第一関節までを齧りとり、マニキュアを施した爪をトイレに向かってぷっと吐いた。
「美味しいじゃない」
「分かんない。酸っぱいだけ……生の牛肉とも違うし」
「そお?」
「何で、人をたべるの?」
ぽつりと聞いた。碧が顔を上げた。
「美味しいからよ」
「だって、別に人食べなくても、色々あるじゃないの。飽食の時代って言われているし、コンビニ行けば……衣食住で、食べ物が一番安いんだよ? 気持ち悪いとか、自分が変とか、思わないの?」
「思わないわ」
碧の笑顔が、そこにある。
「だって、美味しいものを食べるってすごく幸せじゃないの。それに、どうせ人間だって牛や豚を食べているのよ。牛や豚から見れば、人間だって同じでしょ。魚を食べればいいのにって。なんでわざわざ俺たちを食べるんだってさ」
「……そうだけど」
「生きているなら、幸せを感じなきゃ損でしょ。違う?」
偽りのないその表情に、反論が出来ない。
そうだった。幸せになりたかったんだと、恵理子は思う。
自分は幸せになりたかった。
だから、対価として優しさを差し出した。でも結局は幸せにならなかった。
碧の幸福は、恵理子の枠の外にある。それでも、幸せを感じていること、自由なこと、それ自体が恵理子には眩しい。
「羨ましい」
「そお?」
「でも、やっぱり人を食べるのって、怖いわ」
「でもそのおかげで、あなたを助けることが出来た。そうでしょ?」
「……そうね」
恵理子は、真っ赤になったちふみを見やった。
胎児は海に流された。
海は、生命全ての源だから、丁度いいのではと碧が言った。
夜の海岸線を歩きながら、恵理子は碧に聞いた。
「ずっと、一緒に住んでくれるの?」
「いいわよ」
碧がさらりと言った。
ある日、碧が恵理子に切り出した。
「お願いがあるんだけど」
「なあに?」
午後一五時。出勤前だった。売れっ子の碧は、もう少し後からの出勤を許されている。
恵理子は営業メールを送信する手を止めた。
「警察に電話して欲しいのよ」
「……」
「やあね、あの二人とは別件よ。それに自首しても証拠は食べちゃって、どうせ立件できないし……ああ、女の方は少し残っているか」
「イヤな冗談ね」
顔をしかめた恵理子に、碧はプ、と笑った。そして恵理子の携帯端末を指さした。
「妹を探したいのよ」
「妹?」
「そう、現在生き別れ中のね」
当たり前だが、碧に家族がいたのか。恵理子にはピンとこないが、その家族もやはり人食なのだろうかと、ふと思った。
「私の父の関係者を装って、警察に電話して欲しいのよ。妹の藍は、今どこですかって。家にはいないと思うのよね。かといって、独りで生活しているとは限らないし、もしかしたら誰かの家に身を寄せているかもしれないし」
「警察にって……友達や、親戚の家に心当たりはないの?」
「私自身が表に出ること自体、避けたいの」
はい、と碧が恵理子に雑誌を手渡した。
「その週刊誌の犯罪ニュース、見出しを読んでちょうだい」
中途半端に古い号数のものだった。事件は九月の末に発生したものだ。
「夜中の住宅街で、猟奇殺人ね……ええと、娘二人を持つ主婦の佳子さんが……」
壁に釘付けられて殺され、一八才になる姉は行方不明。
恵理子は思わず顔を上げた。
「ね、分かってくれる?」
にっこりと碧が笑った。
恵理子は碧の言うとおり、警察に電話した。
恵理子は、姉妹の父親とアメリカでの知り合いだったという触れ込みだった。
「今、小野本さんの連絡先を、警察はご存じなのでしょうか? 私も今、知り合いを通じて彼の連絡先を探しているのですが、分かったその時に、彼に事件と娘さんの事を知らせたいんです。今、妹さんがいらっしゃるのは親戚のお宅ですか? それともお友達のお家ですか?」
――名前は言えないが、友達の家らしい。恵理子の合図に、碧が無言で指示した。
「ああ、そうですか。小学校の時からの同級生で……分かりました、こちらも小野本さんを探すのに、手を尽くしています。もしも連絡が取れたら、そのように小野本さんに伝えます。有難うございました」
通話を切ると、碧が考え込んでいた。そして顔を上げた。
「ああ、もしかして……あの子の家か」
「分かったの?」
「見当はつくわ。まさかだったけど、やるわね、あの少年」
くっくと笑う碧。
そして椅子に掛けてあった上着を取った。
「ちょっと待って。聞いていい? 何があったの?」
恵理子は週刊誌を突きつけた。深夜に殺された主婦の記事。
行方不明中の一八の姉が、碧とすれば……まさか、犯人は。
「ああ、邪魔者を処分したのよ。そしたら、妹が泡食って外に飛び出しちゃって、警察に通報されたから、雲隠れしたの。だって妹は私があの女殺すところ、見ているから、その場で何を言い出すか分からないし」
「……」
「でも、週刊誌やニュースで知る限りでは、藍は私のやったことを隠しているようね。やっぱり良い子だったわ」
「……まさか、目撃者の妹を……」
碧の目が、初めて鋭く恵理子を射抜いた。
「そんなはずないでしょ。私の妹で、しかもあの子は私と同じ身体なの」
碧は長い髪を一つにまとめ上げ、テーブルの上に置きっ放しの恵理子のサングラスをかけた。
そのまま外に出ようとする。恵理子はその後を慌てて追った。
「待って、どこへ行くの?」
「様子を見に行くだけ」
「私が車を出すわ」
滅多に車には乗らないので、運転は苦手だった。だが、そうなると碧を昼間に人目にさらすのは危険だ。
「親切ね」
恵理子は運転席から、助手席のドアを開けた。碧が乗り込むとエンジンをかけた。
碧の言う住所へ、車を走らせた。ここから三〇分かかる、隣りの市だった。
恵理子は聞いた。
「母親を、殺したの?」
「そうよ。殺さないと、私が殺されていたわ。自分の看板が大事な女だから、娘がこうなったのが許せなかったってわけ」
代わりに、刺されたのはぬいぐるみだったと。恵理子は、思わず呻いた。
「……ひどい話」
「そう。だから妹の動向が気になるの。余計なことを考えてやしないか」
「なぜ、碧は……私に、そんなこと教えてくれるの? そんな凄い秘密」
「共有する秘密は多い方が、絆も強くなるでしょ」
絆、その単語が、恵理子の心を甘やかに撫で上げる。
やがて車は、碧のいう家の住所近くに入った。
「そう、そこ曲がって……線路超えて、まっすぐ行けば『速水整骨・整体院』て看板出している建物があるわ。その建物の右の道に入ってちょうだい」
古い下町の風情が残る住宅地だった。
「ここで、ゆっくりスピード落として」
運転から目は離せないが、碧が外をじっと見つめているのが分かった。
「……止めて」
家の玄関口で、落ち葉をホウキで掃いている少女がいる。
碧の目は、車道の向こうにいる彼女をじっと見ていた。
あの子が妹? 声をかけるのをためらうほど、空気が張り詰める。
碧には全く似ていない、大人し気な娘だった。
しばらくすると、家の玄関から老婦人が出てきた。少女と一言二言交わし、枯れた手が少女の頭を撫でた。少女が恥ずかし気にうつむいた。
二人が、家に入るのを見届けて、碧はフロントガラスを見据えた。
「もういいわ。帰りましょ」
「もう良いの?」
「良いわ」
碧が出した、あるが無きかの声を恵理子は拾った。
――ムカつく
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