第9話
『倶楽部桜蘭』の鏡張りの天井に吊り下げられた、シャンデリアの光の粒がフロアに降り注ぐ。大理石の床を、高く尖ったヒールを履く女性たちが、回遊魚のようにテーブルの間を舞い歩く。
白い照明、虚無と華やぎが入り交じる空間、高い嬌声と笑い声は、かえって無音だった。
草野恵理子は、水割りを作りながら、笑顔に固定した表情と高めに設定した声で、テーブルのヘルプについていた。
客は、スヤマといった。
アキがお目当てで、大手商社の管理職で、月に三度は必ず顔を出す。
「今日は、ミドリちゃんはいないの?」
スヤマは、隣に座った自分の指名のアキを腕で抱え込みながら、周囲を見回した。
「なあにぃ、スーさん、ちゃんとアキのこと見てよお。他の女のこと考えたらだめエ」
「アキは俺にとって薔薇の花だよ。今日の赤いドレスは、正に真紅の薔薇だ。でもさあ、横にカスミソウがあったらなあって」
「えー、バラだけで良いじゃないの。男ってゼイタク」
「百花繚乱、俺は花に囲まれるのが幸せなの」
声はおどけていても、ミドリを探す目は真面目だった。恵理子は水割りを差し出しながら、口を添えた。
「ミドリちゃん、今日はお休み」
「え、そうなの。まさかデートとか」
スヤマの顔と声に、アキの顔色が完全に変化した。スヤマがそれに気が付き、慌てて打ち消した。
「ま、別に興味ないけど」
テーブルの上が、一瞬だが白けた。アキが煽るように赤ワインを喉に流し込む。
……ミドリの事を聞いた客は、これで三人目だと恵理子は思った。
今夜の恵理子のシフトは、ラストまでだった。
最後の客の見送りを終えてロッカー室に入ると、虚構の宮殿の姫君たちは、一斉にドレスを脱ぎ捨てた。
アキが、さっきまで着ていた赤いドレスを、雑巾のように踏みつけてまたいだ。
「ああもうムカつく。何よ、あのミドリって。ただのヘルプのくせに、先輩差し置いて、何客に出しゃばってんのよ」
アキは二五才になる。モデルの事務所に所属しているが、この店の客は業界人が多いという理由で、この倶楽部に入った。ハーフのような美貌で、ナンバーワンかツーの立場をキープしている。プライドは高い。
そのアキの取り巻きともいえるキャストたちが、口々にアキに同調した。
「そうよねえ、生意気」
「店長もえこひいきだし」
「でもこの店のナンバーワンは、アキちゃんよ。それは誰が見ても確かじゃん」
ドレスを脱ぎ、デニムに穿きかえながら、恵理子は思う……アキが焦っている。
モデルで、この店のナンバーに入る美貌と実力。そのアキが、三週間前に入店してきたばかりのミドリに、危機感を抱いている、
「ちょっとぉ、エリィ」
突然乱暴に名を呼ばれ、恵理子は固まった。
「あんた、あのミドリとおんなじ寮でしょ。あの子の事、何か知ってる? 何だかあの娘、得体が知れないのよねえ。何考えているか分からない、信用できないっていうか」
「……何かって、特には同じ部屋でも、仕事から帰ったら話もせずにすぐ寝ちゃうし……家の事とか、特に何も話さないし、休みの日もバラバラだし」
ふいに、ミドリの自室に置いてある冷蔵庫の事を思い浮かべた。共用の冷蔵庫がダイニングにあるというのに、わざわざ自分専用を、広くもない部屋に置いている。
しかし、別に教えるほどの無い話だ。恵理子はミドリを思い浮かべた。
黒く長い髪、白皙の顔に浮かぶ微笑は、綺麗だが、確かに温度を感じない。
しかし、彼女を連れてきたスカウトマン、そして店長はミドリを見て『これだ』と思ったらしい。
その目は正しかった。ミドリは店に出て、たった数回のヘルプで接客の要領を覚え、一度見た客の顔や名前も全て憶えた。
ミドリは、恵理子と同じマンションの部屋をあてがわれた。マンションの2LDKだ。
店のシフトが週に三回だけでも、普通はフルでないと入れないはずの寮住まいをさせる……これは特別待遇だ。たとえ、恵理子と同室であっても、
いや、自分とだから、同室にさせたのかもと、恵理子は思う。
恵理子はキャストとして目立たず、一年前に入ってからもずっとヘルプだ。でも、新人を苛めるなんて気が弱くて出来ない。
帰りの送迎の車は、倶楽部が用意してくれている。それに乗って、キャスト達は、めいめい自宅に送ってもらう。
車のおしゃべりの中でも、恵理子は黙って聞いている。聞かれたら答える。でも話しかけない。目立たない。それが自分の役回りだった。
「お疲れ様でした」
車から降りた恵理子は、築二〇年、古い七階建てマンションの四階の部屋を見上げた。時間は午前二時。電気は消えている。
一〇月もあと一週間で終わる。夜は冷え込んできた。
恵理子は、薄手のコートをかき合わせてマンションの入り口に歩き出した。電信柱の裏で、影が動いて飛び出した。
突然目の前に飛び出した人間に、恵理子の足が急停止した。
外灯に照らされる顔のシルエットを認識した途端、恵理子の心臓が跳ねた。
まさか、と思った。もう運命の糸は切れたと、自分の人生から退場した相手に。
口を動かして、名を呼んだ。いや、確認だった。
「みつぐ……」
「エリリン、久しぶり」
だぼっとしたシルエットの服装だった。高校生の頃『仁高のジャニーズ』と呼ばれていた顔立ちは、もう彩も消えて荒んでいた。
「……何しに来たの」
期待と怯えを混ぜながら、恵理子は手にしたバックを盾のように抱きしめた。
「エリリン」
突然、貢は恵理子を抱きしめた。
「助けてくれ。こんな事、エリリンにしか頼めない……」
「何を……」
まず、思ったのが『何をいまさら』だった。
去年まで同棲していた。それを突然出て行ったのだ。他の女の元へ行ったのは、明白だった。浮気も一度二度じゃなかった。入り組んだ女関係は、どれが本命で浮気が、もつれあった糸だった。
それなのに、恵理子の口は違う言葉を出していた。
「いくらなの?」
「良かった」
貢のため息は、夜の空気を全て押し流すほどだった。
「三〇〇万……」
「パチンコ? それとも競馬? ギャンブルにしては酷くない?」
「違うよ。脅迫されているんだ」
「え?」
恵理子は貢を見上げた。
「誰に?」
「ちふみって女だよ。あいつ、俺を脅迫してきたんだ。妊娠したって」
「……妊娠?」
知らない相手だ。
貢が恵理子の元を出て行った先は、確か友理奈というOLだった。
「あれから、俺、反省したんだよ。運命の女は、やっぱりエリリンだった。本当はエリリンのところに戻りたかったけど、そうもいかずに、ちふみって女と少しだけ付き合った。そしたら、ちふみにはヤクザの彼氏がいたんだよ。妊娠を彼氏に知られたら、あんたも私も殺される。堕ろすから、堕胎費用を出してくれって。それから、慰謝料寄こせって」
「慰謝料って、何で? だって、それは一応、大人同士の……」
「ちふみは、妊娠はおれのせいだっていうんだよ。危ない日だって何度も言ったのに、あんたが避妊してくれなかったから、責任とれって。でないと、彼氏に強姦されたって訴えるって。彼氏はきっと、あんたの顔をぐちゃぐちゃにするって」
「……」
「頼むよ、俺、エリリンと幸せになりたいんだ。今まで、エリリンを悲しませたりしてきたけど、もうしない。結婚しようよ。ちふみなんかと会うんじゃなかった。モーレツに後悔している。本気だよ、頼むよ、俺、そんな金ないよ。こんな事でヤクザに殺されたくないよ」
すうっと、恵理子の身体から温度が消えた。
思い切り、貢を突き飛ばした。よろけて尻餅をついた貢が、大声を出した。
「何するんだよお!」
「……っ」
声にならない声で、恵理子は呻いた。自分を待っていた貢を見た瞬間、ほんのわずかに胸に灯っていた勝利感、淡い幸福は、消え失せて、ヘドロのような感情だけがあった。
起き上がった貢が、怒りに燃えた目で腕を伸ばす。
恵理子はバッグでそれを防いだ。目の端に、転がる男の拳大の石があった。それを掴む。
振り下ろした。
貢の眉間に、石が突き刺さった。
「がっ」
貢の顔面が、一気に赤く染まる。よろける貢の頭に、恵理子は石を振り下ろした。
何度も何度も、石は貢の後頭部をえぐった。
マンションの前は、静寂に包まれた夜のままだった。
静寂の片隅で、男はついに動かなくなった。恵理子の手から、石が落ちた。
恵理子は泣いた。
「みつぐ……」
情けなかった。
もう、終わりだと思った。これで終わり。
こんな事で、終わるなんて。
貢はピクリとも動かない。死んでいるのは明白で。病院に運んでも無駄だ。
人殺し。
恵理子は立ち尽くした。その時だった。
「お帰りなさい、恵理子さん」
呼吸が止まった。
……ミドリ
口を動かした。運命は完全に、恵理子を突き放した。
もうだめだ、逃げられない。
「殺したのね」
背後から、ミドリが近づいてくる。そして恵理子の斜め背後に立った。
「どうするの、それ」
「……」
恵理子は頭を振った。罪を償う義務感、しかし、殺したのは貢。
この貢にどれだけ苦しめられたか。貢を殺したのは恵理子だが、貢は過去、恵理子の心を何度も殺した。
「じゃあ、それ、私にちょうだい」
「!」
意味を捕らえかねて、恵理子はミドリへ振り返る。
「ほらほら、誰か来たらどうするの」
ミドリは、歌うように恵理子を急かせた。
恵理子は、聞いた。
「……ちょうだいって、それはどういう意味?」
「そのままよ。どうせ死んでいるんでしょ。それに貴女にとって邪魔なんでしょ。じゃあ私にちょうだい。とってもお腹が空いているの」
空腹? しかし舌なめずりして貢を見るミドリの目には、偽りはない。
「だって、そんな……」
「じゃあ、警察に捕まって刑務所ね」
「それは……」
恵理子は、貢とミドリを交互に見た。
ミドリの目に冗談の色はない。それどころか落ち着き払っていた。
貢を眺め、そして恵理子を見る。
「助けてあげるわ」
ミドリは言った。
恵理子にとって、この場で一番欲しい言葉だった。例え魂を悪魔に売っても。
「言うとおりにして」
恵理子は頷いた。
「じゃあ、行くわよ」
ミドリは、おもむろに貢の片足首を掴んだ。
恵理子は目を疑った。ミドリは貢の足首を掴んだまま、まるで人形を引きずる子供のような所作で軽々と引きずって歩き出す。
恵理子はそれを追った。
「あ、そうだ。家に包丁ある?」
「肉切り包丁ならあるわ。ところで、空腹って何なの?」
「そのままよ。私が全部、この男を食べてあげる」
思わず、恵理子はミドリを見つめた。
恵理子の四階の部屋へ、エレベーターを使って上がった。
浴槽に貢を放り込んだ。
うめき声が上がった。まだ生きていた。
貢は髪の毛から顎の下まで、赤い血と汗で濡れ光っていた。白い唇が、まるで恵理子に救いを求めるように動いた。
「もういいじゃん、手遅れよ」
貢を見つめる恵理子へ、ミドリが冷酷に言い放った。
「今更、仏心を出したって、この男、じき仏よ」
そう言ってから、自分の冗談がいたく気に入ったらしい。クククと笑った。
「そうよね」
怒りは、諦めと虚脱で腐食していた。自分はこれからどうなるのか、ミドリの言う貢を頂戴とは何なのか、もう意味を問う気すら摩耗している。
「ねえ、本当に助けてくれるの?」
「そうよ。死体さえなくなれば、イイんでしょ」
恵理子はぼんやりとミドリを見た。確かにそうだった。殺人の立証は、死体が無くては出来ないと、いつか見たドラマの中にあった。
「……じゃあ、お願い」
恵理子は貢へ背中を向けた。
「あなた、好きにしていいよ」
「ありがとう」
にっこりとミドリは微笑み、貢を見た。
「じゃあ、頂くわ」
うう、ううと咽喉を鳴らす声が、浴室を反響する。
「……隣でDVDでも観てる」
背中から、かすれた泣き声が聞こえた気がした。
テレビのボードから、適当に録画したDVDを取り出して、ラベルも見ずに再生した。
夢を追いかけているキミがステキだとか、ありがちの甘ったるい歌詞が流れ出す。
興味はないが、客との話題のために、一応観ているドラマだった。
画面を、ただ目でなぞっていた。
彼氏と上手くいっていないヒロインに、上司がバーで説教している。有能な子はいくらでもいる。でも、キミのように人を穏やかな気持ちにする娘は滅多にいない。それは才能だ。でもその才能は、嫉妬や悲しみで枯れてしまうものなんだよ……
見る気が一瞬にして失せた。恵理子は浴室のドアを開けた。
「死んだ?」
「うん、ついさっきね。うるさいから咽喉を潰したの。結構人って死なないものね。まあ良いけど」
虚空を見つめる貢は、悪趣味な蝋人形のようだった。
「やっぱり、返してなんて言わないでよ」
ミドリが笑顔混じりに恵理子を睨んだ。
綺麗な子だ、アキが危機感を抱くのも無理はないと、恵理子はこんな時だというのに、そう思った。
ミドリは、鼻歌交じりに貢の正中線に肉切り包丁を入れた。
肉が切られ、胸骨が露出された。現実感を失った頭の中で、恵理子はいつか見たマグロの解体を思い浮かべた。
「……ふーん、この男、あなたの同級生なの」
ミドリは手をせっせと動かしている。
「初恋だったの」
泥にまみれた、淡い思い出を恵理子はもてあそんだ。
「だから、同窓会で再会して、会うようになって、一緒に住むようになって嬉しかった。でも、貢、同窓会に顔を出したのは、前の女に追い出されて、他の女を物色していたのが理由だったって聞いて」
それを聞いた時、貢の力になれると思った自分は、気が狂っていたとしか思えない。
貢が一緒の高校時代、サッカー部のレギュラーで輝いていた彼に憧れていた。
他校の女子ですら、彼の名前を知っていたくらいだった。
「私、頭悪いし、家族とも仲が悪いし、何をしても上手くいかないし……最初に就職したとこ、倒産してからずっと就職できなくて、キャバで働いてもパッとしないし。でも、昔カッコよかった貢を手に入れて、何か取り戻せた気がしたのかなあ」
恵理子は呟いた。
涙が出た。運命から痛めつけられているような気がする。
恵理子は自分がひどく、可哀想に思えた。
「貢、私を愛しているって、そういったのよ。私も……愛していたのよ」
自分の元から出て行った後も、もしかしたら戻ってきてくれるかもと期待していた。
一緒に住んでいた頃、貢の我儘や浮気も、全て許していたのだ。
「でも、こう言っちゃなんだけど、殺したの、貴方でしょ」
「だって、女妊娠させて、堕胎費用と慰謝料払ってくれなんていうんだもん。それで結婚しようだなんていうのよ? 昔はね、俺はエリリンと店を持ちたい、そして結婚したいって、純粋にそう言ってくれたのに、私との結婚が、堕胎と慰謝料の交換条件程度になっていたなんて、そんなに私、安い女になっていたんだよ」
「まあねえ、確かに馬鹿にしているというか、この男自体がナチュラルに馬鹿ね」
ふん、とミドリは鼻で笑いながら、胸骨を外した。
人体模型の中で見ることのなかった臓器が、ぬめりとした光沢を放って現れる。
「うえぇ」
恵理子は、ユニットバスのトイレへ顔を突っ込んだ。
げえげえと吐いた。
「吐くくらいなら、何で見るのよ。見なきゃいいのに」
作り物の人体模型の臓器には、着色が施されている。しかし、この臓器は赤黒い血に染まっていた。そして、黄色い脂肪があちこちに付着していた。
生臭い匂いが広がっている。恵理子は鼻を押さえた。
「まだ、脂肪は少ない方よ」
ミドリは言った。
「先日のもの凄いデブなんて、中身の半分が黄色かったわ」
「どうするの……これから……」
「まず、臓物から食べることにしているの」
ミドリは述べた。腐敗は臓物から進むという。
肉そのものは保存がもつというのだ。
「……ねえ、ホントに食べるの?」
ぬめぬめとてら光る、臓物から目をそらした。この少女にとっては、貢も牛ホルモンと同じなのか?
「美味しいわよ。味が濃くてね」
平気で人体をさばくその様子には、嘘や強がりは一片も感じない。
狂っているのかも。恵理子は戦慄した。本当に貢を食べるのだ。
だが、それなら目の前から貢は消える。恵理子は安堵した。
「肉に切れ込みを入れてね、関節と反対方向にねじ切るのよ。ほら」
男の筋肉質の肩の付け根が、ぽっきりと綺麗に折り取られた。
ミドリは、それを迷いもなく、口にぱくりと入れた。
齧り、そして食べている顔は、本当に美味しそうだった。不思議なことに貢の腕が、普通に食べ物に見えてくる。
「ところで、これはどうするの? 思い出にとっておく?」
ミドリの手が、恥じらいもなく男の器官をつついた。
「べつに、もう……」
恵理子は赤面した。
「どうだっていい」
「ああ、それからお願いがあるんだけど」
「何?」
「包丁ってね、こんな使い方だと、すぐダメになるのよ。明日にでも、あと四本くらい買って下さらない?」
「分かった」
ふいに、恵理子は思った。
「ねえ、ミドリ……あなたの名前、本当はなんて言うの」
源氏名だと思っていたが、ミドリは言った。
「ミドリは本名よ。漢字はね、碧。下に石が付く字よ……こう書くの」
『碧』
貢の血が、浴室の壁の文字になった。
長く艶やかな黒髪と、白い頬に貢の血をつけたまま、碧は恵理子へ笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます