第8話
碧は、どこにいるのか。
警察の捜査で、犯人像から外れている碧は、殺人の容疑はかけられていなくても、現場から姿を消している以上、事件に巻き込まれている、もしくはなんらかの関わりを持つ、重要参考人であることは間違いなかった。
藍は、聖光女子学園の校門前に立っている。午前中の今は、授業をしている時間帯で、マリア像の建つ噴水前にも、生徒の人影はなかった。
藍は、左右を見回した。
事件発生から、まだ四日しか経っていない。警察にマークされているかもしれない。藍は犯人ではないが、もしかしたら、重要参考人で、行方の分からない姉と接触すると思われているかもしれない。
用心しながら、校門を入った。
校門で振り返った。生徒の家柄や防犯の関係上、例え両親でもふらりと入ることは出来ないのだ。
不審人物は防犯カメラでチェックされている。例え、刑事が藍を追ってここに入ろうとしようものなら、すぐさま警備員が飛んでくる。
もしかしたら。
藍は校舎には入らず、学園の喧騒の反対側にある、敷地の奥の森へ歩く。
老朽化した礼拝堂は、ひっそりと静寂の中に佇んでいた。
「……お姉ちゃん」
礼拝堂に入った藍は、祭壇へ歩みながら声を出した。
壇上のイエスと天使は、無機質に藍を迎え入れた。
ゆっくりと周囲を見回した後、藍は地下室へ降りた。
ドアノブを回す手が震えた。
開けた。
「……」
明かり電気も何もない、真っ暗な空間。
藍は目を凝らし、足を踏み入れた。そして絶句した。
何もない。吊るされていた下級生の死骸も、捨てられていた制服も。
見つかった? 心臓を氷の刃が貫いた。しかし、校舎や敷地を見る限り、その気配はない、平穏な日常だった。
女子生徒二人が地下室で発見されていたなら、もっと慌ただしいはずだ。
「お姉ちゃん!」
叫んだ。
「どこにいるの、お姉ちゃん!」
死骸を隠したとしたら、碧以外あり得ない。
地下室に人が潜んでいる気配はない。藍は地下室を出て、駆け上がった。
礼拝堂から、外に出ようとした時だった。
「ハイ、藍」
「お姉ちゃん……」
振り返った目に飛び込む姉の姿に、藍は小さな悲鳴を上げて駆け寄った。
「ここにいたのね」
「まあね」
驚いたのは、碧がちゃんと制服を着ている事だった。
「目的はどうであれ、学校に入るんだもの。この格好の方が自然でしょ」
「お姉ちゃん、警察の人がお姉ちゃんを……」
言葉が詰まる。藍は碧をただ見つめた。
あの夜の光景がウソだと思うほど、いつもの姉だった。しかし、母殺しの背景を背負いながら、普通の表情と通常を平然とまとう姉を、藍は分からなくなった。
「言っておくけど、自首するとか反省とかいうの、ナシよ。藍」
どこからか、通り過ぎた風が碧の黒い髪をそよがせた。
「今ね、私もの凄くすっきりした気分なの。あの女に、悪いことしたとか言って、涙流した方が根性腐っているわよ。良い? あの女はね、私を殺そうとしたのよ」
それだった。藍がどうしても分からないこと。
碧と母の間に、何が起きたのか?
「お姉ちゃん、教えて。私、どうしてもわからないのよ。何でお母さんは、お姉ちゃんを殺そうとしたの? そして、何でお姉ちゃんは、そのことが分かっていたの?」
母と姉の間で、なぜ生まれるはずのない憎悪が生まれた?
姉が母親を嫌っていた事実はわかる。しかし、母には姉を憎む理由が無い。
「お母さんにとって、お姉ちゃんは自慢の娘だったのよ」
「私は、あの女の自慢の娘でしょ。だからよ」
ふいに、藍の頭に雷が走った。
母は、碧の……嗜癖を知っていたのか。
目の前が揺れた。
だから、碧を殺そうとしたのか。
「大方、私が化け物にでも見えたんじゃなあい? だから、そんなの娘じゃないってね。まあ、自慢にしていた分、落胆はどん底突き抜けて地獄ってとこかなぁ」
そういえば、藍にも分かるわよねと碧は続けた。
「ひどい……」
藍は呻いた。
母親なのに。
「酷いじゃないの……そんな、それなら、お姉ちゃんは……」
化け物でも、娘には変わりはないと、母に言うつもりはない。だが、娘が化け物と知ったのなら、何とかして娘を人間に戻そうとするのが親ではないのか。
娘の異常を知ったなら、病院へ連れて行き、カウンセリングを受けさせる。方法はいくらでもあったはずだ。
「藍、あなたセケンテイって知ってる?」
碧は唇を吊り上げた。
「あの女にとって、ダイヤモンド並みに大事だったものよ。だから、傷が一つでも入っていたら、価値は無くなっちゃうの。母である私の教育は間違っていません。私は人間として正しい。あなたのお姉ちゃんはそれを示す、生きた広告だったのよ」
自慢の娘は、母にとっては生きたアクセサリーだったのか。
「何しろ、自分の親の言いなりになって、離婚までするような女だもん。自分の親が死んだら、自分の代わりにああだこうだと考えてくれる人はいないのよ。そうなると、セケン様のお目に叶うよう、お怒りに触れぬようにしなくちゃね」
母への嘲りの裏にある響き、その碧の表情の皮の下に、藍は触れる。
姉が、可哀想じゃないか。
母親への、執拗な暴行の意味が分かった。
「お姉ちゃん、警察に行こう。自首しようよ、私、ちゃんと証言する。お母さんはお姉ちゃんを殺そうとしたんだって。こうなったのは正当防衛だって、私も言う。それから、病院へ連れて行ってもらおう。やっぱり私たち、変だよ。人間が美味しいだなんて」
碧を失いたくない。
「お姉ちゃん、一緒に行こう。今ならまだ間に合う」
「いやよ。さっき言ったでしょ、すっきりしたんだって」
すり抜けていく自分の想いに、藍は呆然となった。
「この間も、その話をしたはずよ、藍。私は人間が好きだって」
碧の桃色の舌が、ちろりと唇を舐めた。
ざわり、と藍の背中がざわめく。
「化け物だって、そういわれても、私は全然平気。むしろ理由が出来て嬉しいくらいよ」
「……」
「別に、人間でなくても良いわ。今の世界が嫌いなの、私」
「嫌いって、そんな」
広告塔だ、そうは言うが、碧の持っているものの価値が、高い事は事実なのだ。
美貌、成績優秀で、習い事は何をやらせても才能があると、講師に絶賛されていた。
書道なんて、何度展覧会に出ていくつ賞を取ったか。学校で何度表彰されたか。
「まあまず、祖父母も大嫌いだったわね。まあ仕方がないか、あの女の親だもん。それに負けて、アメリカで行方知れずの父親もね」
礼拝堂のドアに、碧はもたれて祭壇を見やった。
「この学校も、嫌いよ。何がカトリックよ。平等と博愛の精神って、学校のパンフレットの中だけじゃないの。内情を見れば、炎と硫黄の雨が降ってこないのが不思議なくらいじゃないの。藍だってそうは思わない?」
外部組、内部組という教師黙認の階級のことか。
不意に、藍は事故の後の初登校を思い出した。
教室の隅に漂っていた、悪意の種。生き残った自分に「恥知らず」と囁いた、あの娘たちは……内部組だ。
内部組の中で、特に自分を嫌っている娘たちだった。
藍自身は目立たないが、碧という外部組のスターである姉がいて、その碧が内部組のお姫様、貴代美と友人で、そのおこぼれにあずかっていると、妬まれていた。
「書道部だってそうじゃない。内部組じゃない生徒は、段を持っていないと入部が認められないとか言ってね」
あーあと、碧はわざとらしい伸びをした。
「化け物なら、いっそ、そんな奴らと一緒に生活することも、人間のルールを守らなくてもいいのね、私」
「それは……」
違う、そう言いかけた言葉は途中で折られた。
「親ってルーツも全滅したし、もう湖川って、社会的な姓は要らない。固有の記号の碧があれば、それでいいわね……藍、あなたはどうなの?」
白い手が伸びる。
「分かるでしょ、お姉ちゃんの可愛い妹だもの」
「……」
止めなきゃ。
お姉ちゃんを、止めなきゃ。
母親を殺した時以上に、取り返しのつかない事になる。
「駄目よ」
ふうん? と碧の目が細まった。
「人間として、生まれたのよ。なら、人間として生きよう……確かに、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、お母さんも、間違った部分はあったけれど、私たちが関わった人たちは、それだけじゃない」
速水家の人たちが浮かんだ。そして由樹。
一言一言に、決意と願いを込めた。お願いだから、届いて欲しい。
「友達だって、先生とか近所の人とか、でもそれだけじゃないよね。小さい時に迷子になった私を、案内所まで連れて行ってくれた知らないおじさんとか、池に落としたボールを取ってくれたお姉さんとか、小さいけど、たくさん、誰かに助けてもらったって、そんな思い出もいっぱいあるから、私は人を食べたくない。お姉ちゃんだって……」
「あーあ―もう分かったわ」
白い手が、ひらひらと二人の間を遮断した。
「藍ってば、結構あの女に似てない? 聞いていて反吐が出る」
「待って!」
踵を返した碧の背中に、藍は飛びついた。
「嫌だ、行かないで!」
振り払われた。藍は尻を地面に叩きつけられた。
下半身に響き渡った強烈な痛みに、藍は思わず呻いた。
「おねえ……」
姉の姿は、消えていた。
碧を、捜し歩いた。
学園の敷地、そして図書館や美術館。姉の行きそうな場所を一つ一つ考えて、藍は歩き回った。
碧は警察の捜索対象になっている。恐らく、自分が考え付く場所はもう手が回っているかもしれないと思うが、それでも動かずにはいられなかった。
事件は、あまりの猟奇的な犯行と、未成年の遺族が残されているという考慮から、マスコミ報道に規制がかかっている。
そして運が良いのか悪いのか、国民的にも有名で、過去にヒット曲をいくつも飛ばしたミュージシャンが、麻薬所持で逮捕され、この殺人事件の扱いは小さい。
それでも、周辺でニュースは広がっている。友人や知り合いの家に行くとは考えにくい。
「どこにいるの」
図書館の前にベンチに、藍は腰かけた。
この瞬間、数メートル先に碧とすれ違うかもと、そこにいるかもと、不安と希望と失望を繰り返しながら、歩き続けるのも限界がある。
藍は、携帯をバックから取り出して見つめた。
由樹の母のサツキが、自分はほとんど使わないからと、貸してくれた。
――家の電話も、由樹のも、お祖母ちゃんのも、お父さんの番号も入っているからね。何かあったら連絡しなさい。
母の佳子が憎いと思った。
姉に携帯を持たせていたら、これですぐに居所が、連絡がついたのに。
佳子は、娘たちに秘密の箱を持たせるのを徹底して嫌った。
母にとって、娘たちの秘密の小箱は、大人になる通過儀礼であるよりも、自分が把握できないブラックボックスだった。
――あまり、遅くなったら心配をかける。
藍は立ち上がった。
しかし駅を出ると、速水家ではなく、自宅に足を向けていた。
家の門の前で、二階を見上げた。
もしかして碧が、そう思う。
しかし、ドアの前で耳をすませても、気配は死んでいる。
ふと、視線を感じて振り返った。何気ない通行人の顔をした、刑事が歩いていた。
「ああ、そうか」
馬鹿だ、私。藍は嘆く。
正体不明の視線がもう一つ。自宅の前は、当然警察の人が貼りついているだろう。
家を離れた。
重力がないのか、重すぎるのか、自分でも分からずに歩いていると、声がした。
「湖川!」
小走りに由樹がやってくる。
「丁度いいや、一緒に……」
そのまま、由樹は口をつぐむ。肩に手が回った。
「ちょっと、寄り道して帰ろうか」
気が付くと、近所の人間が遠巻きにこちらを伺っている。同情とも好奇ともつかない視線と、藍は目が合った。
自分が泣いていることに、藍はようやく気が付いた。
駅に戻り、数日前に入ったスターバックスに二人で座っていた。
「……ごめんなさい」
藍は由樹のハンドタオルで涙を拭いた。
「まあ、ウチの親を心配させる分には構やしないけど、あの近所の奴らの噂話の提供は、ごめんだから」
はい、と由樹が押し出すココアを、藍は礼を言って持ち上げた。
――俺、この子が好きなんだ。
由樹がそう言ってくれた、藍にはその理由が分からない。小学校の頃を持ち出されても、あの頃から特別仲が良いわけじゃなかった。中学二年生の時も、話しかけられたら答える、それだけだ。
そして、今は由樹の好意に応えるだけの余裕はない。
それなのに、好意にすがっている。自分の今の状態は正しいのか。
誠意ある態度なのか。藍は自分自身へ思う。
「……まあ、あんまり深く考えなくて良いよ」
藍の表情を見つめ、由樹が言った。
「今は、湖川もそれどころじゃない事くらい、俺だって分かっているし、それに昔だって仲が良いどころか、スルー状態だったしさ。そんな相手に、いきなり好きだとか言われたって、なあ?」
「ごめんね」
言うのなら、本当は有難うだ。
なのに、由樹に踏み込めない自分が、藍には不甲斐ない。
「まあ、同居中の誓いは守るから安心してくれ」
平然と由樹は言った。
「大丈夫、もしも湖川に不埒なコトしたら、家から叩き出されるのは俺だ。母さんが親父にそう確認を取って、ばあちゃんが立会人になった」
「……」
「だから、こっちの方は安心しなよ」
由樹が笑う。
間が空いた。
口から、笑いが零れ落ちた。藍は思わず口を押え、しかし笑った。
「やっと笑った」
由樹が言った。
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